2017年8月31日木曜日

「ICS軽井沢文庫だより」第11号

「時をよく用いて」 

                                                                   宮﨑彌男

きょうは8月31日、今年の夏も、もう終わりかな。何だかさびしいような気がします。教会で食べた、冷えた黄スイカの美味しかったこと。思わず三切れも食べてしまいました。ふと立ち寄った、追分の鯛焼き屋さんで注文した抹茶ソフトの深い味わい。軽井沢では昔は聞けなかったというミンミンゼミのBGMで夏空を眺めた、布施温泉の露天風呂。その他随所に “小さい夏” を見つけて楽しみはしましたが、ギラギラ輝く太陽の下、大海原で泳ぐといった “大きな夏” を楽しむことはありませんでした。このまま秋になると、何だかさびしい気がしないでもありません。もっとも、軽井沢にも、長野県にも、海なんてないのですが…。
涸れた谷に鹿が水を求めるように
(詩編42:1)
それでも、全国的には、やっぱり“異常気象”とも言うべき集中豪雨や台風による被害が毎日のように報道されましたが、この夏は、これと言った災害のなかった軽井沢です。
 引退教師となってここ軽井沢・追分に住むようになったのは、2011年8月のことですから、もうかれこれ6年が経ちました。と言っても、この間、熊本伝道所の定住代理宣教教師として、2年3ヶ月は熊本に住んだので、これを差し引くと、3年9ヶ月の軽井沢生活を経てきたことになります。
 年齢的には、このあいだ(7月27日)の誕生日で、76歳となりました。家内もほぼ同じ年です。あと何年、軽井沢住まいが許されるのだろうか、家内と共に考えてみました。特に、私が教師引退後の中心的使命と考えている「ICS軽井沢文庫」の働きをあと何年継続できるだろうか、ということです。
 聖書に、「人の心には、多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する」(箴言19:21) とあります。本当にそのとおりです。それでも、私たちの側で計画を立てることは、いつも許されている。これも確かなことでしょう。もし計画がなければ、「主の御旨」の「実現」も期待し得ないからです。
 それで、私たち、計画を立てました。もし(仮に)あと3年、「ICS軽井沢文庫」のために「働く」ことが許されるならば、(安息日を除いて)あと 3X(365-52)日=939日「働く」こととなります。時間数にすると、(1日8時間「労働」として)939x8時間=7512時間ということになります。7512時間「働く」ことができる。これも、また何という「主の恵み」でしょうか(注1)
 このような、主の恵みによって与えられた「時をよく用いなさい」と、聖書は教えています(エフェソ5:16) 。
 わたしは、これからの3年間、939日、7512時間を「よく用いて」、「ICS軽井沢文庫」を育成し、多くの人々に役立つものとしたいのです。そして、特に願っておりますことは、この働きを受け継ぎ、担ってくださる若い方たちを得ることです。そのために祈り、励んで参ります。
聖書に導かれて学問する
(文庫内部)
ちなみに、「ICS軽井沢文庫」は、「ICS軽井沢文庫だより」1号に記しましたように、カナダ・トロント留学時代を中心に集めた、有神的世界観人生観確立のための文献や講義ノートを収納・公開するためのささやかな文庫」です。さらに、「なぜ『公開』かと言えば、私どもがここ軽井沢・追分にいる間、ぜひ皆様方にお訪ねいただいて、書物を見開き、テープを聴き、教会の現在と将来、日本の現在と将来について語り合いたいからです。軽井沢は、不思議と話の弾む所です!。新幹線で東京から1時間とちょっと、しなの鉄道・信濃追分駅から車10分の所です。わたしの夢は、この文庫が発展して、教会の内外の方々(特に、若い世代の方々)が聖書的改革主義的世界観に立って、今日の教会と社会(さらには、文化・芸術・学問etc.)に対する鋭い切り込み術を学ぶ JICSJapan Institute for Christian Studies 日本キリスト教学術研修所)となることです。このために、ぜひお祈りいただきたいと存じます」。

(注1)私は、目標時点から逆算して、時間単位でライフプランを立ててみる手法を、楠木新著『定年後―50歳からの生き方、終わり方―』(中公新書2431、2017年、特に第4章と第7章)から学びました。この本では、定年退職後の1日平均「労働」時間(自分の自由になる時間)が、60~75歳の場合、11時間;75歳を越えると、介助を受ける立場にもなるということで、半分の 5.5時間、とされている。私どもの場合は、ここ 2,3年の実績を考え、1日 8時間で算定した。介助/被介助のことも、75歳を過ぎるとだんだんと現実的な課題となってくるが、これは、「主の御旨」に属することなので、特に「計画」の中には入れていない。ただ、健康の維持については、いろいろと留意しているつもりである(毎日 30~40分散歩と、毎朝 5:37am~の NHK第一ラジオ「健康ライフ」の聴取等々)。


(JCA出席の報告)


  7月17日(月・祝)神戸・六甲の改革派神港教会で、日本カルヴィニスト協会(JCA)の講演会・総会が行われ、私も出席しました。「近代日本におけるカトリック教会と天皇制ーカルヴァン主義の視点からー」(松谷好明氏)と「改革派芸術論の一考察ーよりよき創作のためにー」(山村貴司氏)の二つの講演がなされました。いずれも、興味深いテーマでしたが、終わりに全体的な総括をされた袴田 JCA 会長としては、両テーマの統合には苦心されたようです。
 私としては、日本国憲法下で初めての天皇「生前退位」を前にして、日本のカルヴィニストとして天皇制をどのように捉え、改革すべきなのか、少々勉強もして行ったのですが(吉馴明子他編『現人神から大衆天皇制へ』等)、こういった今日的な問題について余り議論が深まらなかったことは、残念に思いました。天皇制と改革派芸術論を一度に取り上げることに、やはり無理があったのではないでしょうか。
 昼食時に、「ICS軽井沢文庫」の紹介をし、希望者に「ICS軽井沢文庫だより] 9号、10号を配布しました。当日の報告要旨:「一般啓示」において語られる神の御言葉を聞くことが、これまでにも増して重要な時代を迎えつつある。しかしながら、「一般啓示」という呼び方では、神の創造啓示(詩編19:2~7など)の豊かな多様性が輝き出ないのではないか。カイパー流の「領域主権哲学」の研鑽/普及が(特に若い方たちのために)求められている。このために「ICS軽井沢文庫」を立ち上げた旨、アピールをしました。1、2 積極的なレスポンスはありました。


(『キリスト者の世界観ー創造の回復』(改訂版)の翻訳出版について)


 来年春頃には、教文館より出版できそうです。JCAから帰ってすぐの翌週、銀座の教文館出版部を訪ね、担当の方(高木誠一氏)より出版の可能性について聞きました。主の導きを覚えたのですが、高木氏は学生時代に『キリスト者の世界観ー創造の回復』(初版)を読み、キリスト者としての生き方について、特に世界観・人生観について、大いに教えられるところがあった、と話してくださったのです。それで、教文館からこの本の改訂/増補版を出版することについて、喜んでお引き受けくださることとなりました。それで、今、版権のことで、米国のアードマン社と交渉してくださっています。これが OK ならば、ほぼ話は決まります。どうか、出版に至るまでお祈りくださいますように。


(熊本伝道所の修養会

 日本キリスト改革派熊本教会(伝道所)は、私が 1978~1996年、開拓宣教教師として、また2012~2014年、代理宣教教師として、計20年3ヶ月奉仕した教会ですが、来年1月で40周年を迎えることとなりました。それで、先日、8月26日~27日、熊本県青年会館において、「熊本教会のこれまでとこれからを考える~40周年からの私たちは~」というテーマの下、修養会を持ちました。この修養会に私は招かれ、第1日目に、「熊本伝道所の40年を振り返って」と題する講演を行いました。大人・子ども合わせて24名が参加、主の恵みを沢山いただいて、盛会の内に修養会を終えることができました。ご準備くださった西堀元牧師と伝道所委員の兄姉たち感謝します。私の講演要旨と聖書の箇所は次のとおりです。

  序 私の自己紹介。
  Ⅰ.熊本伝道の出発点/原点(詩編24編に学ぶ)。
  Ⅱ.教会形成の課題(使徒言行録20:32に学ぶ)。
  Ⅲ.熊本大地震と執事的愛の奉仕(ルカ10:25~37に学ぶ)。
  結び  「主を愛し、教会を愛しなさい」、愛は神の賜物です(Ⅰコリント12:31)。
 
 27日の主の日の礼拝では、子ども礼拝に続いて、西堀元牧師が「命を選びなさい」(申命記28:69~29:28)と題する説教をされました。(日本キリスト改革派熊本教会のHPで聴くことができます)。
 私は、この修養会の後、翌日まで熊本に滞在して、病気等のため出席できなかった兄弟姉妹方を訪問した後、軽井沢に戻ってきました。特に、月曜日には、南阿蘇村に一姉妹を訪ねましたが、昨年の大地震で崩れ落ちた阿蘇大橋に替わる仮設の橋が少し下流にようやく開通したところで、完全な復旧にはまだまだ時間がかかるようでした。

(「ICS軽井沢文庫だより」の印刷のために


「ICS軽井沢文庫」を開き、ラベル「ICS軽井沢文庫だより」第11号を選択します。次にパソコン右上のオプション設定のマーク(縦3つ)をクリック、印刷を選択する。左欄のオプションを両面印刷にし、詳細設定の中の倍率を150背景のグラフィックもオンにしてください。印刷ボタンを押すと OKです。


※この度の「ICS軽井沢文庫だより」NO.11 は、8月初めに発行(公開)予定でした が、諸般の事情により、遅くなったことをお詫びします。次号は10月初め頃の予定です。



  「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。
   時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。
   だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい」。
                (エフェソの信徒への手紙 5:15~17)




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2017年6月20日火曜日

ICS軽井沢文庫だより NO.10

        「野の木々も手をたたく」

                ―創造啓示と聖書啓示―         宮﨑彌男



近くの御影用水にて
甲信地方も梅雨入り宣言がなされたようですが、まだ、雨がしとしと降り続いて湿っぽい「梅雨」といった季節感は沸いて来ません。私は、夏の暑さに弱いので、梅雨時(つゆどき)は好きな方なのですが、…。むしろ、今は、「季節感」といえば、「初夏」というのがぴったりなのかな?
 軽井沢は、今緑が満開、それも新緑の木々が勢いよく天に向かって、“待ってました”とばかり協奏曲を奏で、創造主なる神に向かって讃美の声を歌っています。わたしも、木々の讃美の歌に合わせて、イザヤ書55章12,13節を朗唱せざるを得ません。
「あなたたちは喜び祝いながら出で立ち、平和のうちに導かれて行く。
  山と丘はあなたたちを迎え、歓声をあげて喜び歌い、
  野の木々も、手をたたく。
  茨に代わって糸杉が、おどろに代わってミルトスが生える。
  これは、主に対する記念となり、しるしとなる。
  それはとこしえに消し去られることがない」。

(ICS修士論文)
 このイザヤ書の言葉は、わたしにとって思い出深い、大切な聖句です。1975年4月、トロントのICS(キリスト教学術研修所)において、修士論文を提出したのですが、その結びに掲げた聖句が、この箇所を含むイザヤ書55章8~13節だったからです。
M.Phil.証書
(1975.4.11)
わたしの修士論文は「禅仏教の基礎構造―即非の論理―」(Basic Pattern in Zen Buddhism--the Logic of Sokuhi)というものでした。これを開所(1967年)間もないカルヴァン主義哲学研修所に提出したのです。3名の教授たち( Dr. J.H.Olthuis, Dr. A.H.DeGraaf, Dr. H.Hart,)による審査に合格し、哲学修士証書を得ました。ちなみに、これは、開所間もない時の論文であったので、カナダ国認定の正式修士号ではありませんでしたが、同等の価値を持つものとわたしは思っています(注1)
 わたしは、仏教(真宗)の家で生まれ育ち、高校時代にキリスト教(改革派)に改宗したものですが、仏教については、一度も勉強したことがありませんでした。それで、カナダ留学中のことでありましたので、とにかく、英語でも読める鈴木大拙(Daisetsu Suzuki)の本でも読んで…、と思って選んだテーマがこの「即非の論理」だったのです。 
 当然のことながら、わたしの中には、イエス・キリストの福音伝道者としての強い召命感がありましたので、日本文化に深く浸透している禅的仏教思想の基本を学ぶことを通して、日本文化への福音的改革主義的アプローチを模索したいという願いがあったのです。
 上記の論文の主旨は、禅仏教が、鈴木大拙自身繰り返し言っておりますように、「即非の論理」を特徴とする宗教である、ということです。「色即是空」。哲学的には、「多即一、一即多」です。
 論文のまとめの部分より一部翻訳したものを以下にご紹介します。
 <禅仏教の基礎構造は、般若系大乗仏教より継承された、鈴木大拙のいわゆる「即非の論理」に見出だすことができる。…この「論理」(注2)によれば、実在は一であり(一元論)、一即多、多即一である。つまるところ、実在の多様性を一性に還元するものである。この「論理」は、聖書の光に照らして見れば、万物の意味をその確証的側面(注3)に還元することにおいて、被造物に対する神の律法の豊かな多様性を正当に評価しない。この意味において、禅仏教は、確証主義である。確証的側面が他のすべての側面の規範とされる。ここにおいては、「文化」が軽んじられるのではないが、確証的側面が「文化」の唯一の真の規範とされるのである。>

(聖書の「論理」)
 これに対して、聖書の教える「論理」は、「多における一、一における多」です。聖書の提示する世界観においては、統一性における多様性、多様性における統一性が強調されています。聖書の教えるところでは、すべての事物には意味があり、その意味は御言葉において啓示されているのです。例えば、当時、ある人たちが結婚を禁じたり、ある種の食物を断つことを命じたりしたことに対して、使徒パウロは、「神がお造りになったものはすべて良いもので、感謝して受けるならば、何一つ捨てるべきものはない。神の言葉と祈りによって聖なるものとされるから」と教えています。Cf.Ⅰテモテ4:3-5。
 さらに、パウロは、Ⅰコリント10:31で、「あなたがたは食べるにも飲むにも何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」と、基本的なキリスト者の生活原理を教えています。ここには、「食べること」や「飲むこと」といった私たちの生活体験の多様性が表されていると同時に、「神の栄光を現す」という私たちの「主な」 (一つの) 目的も提示されています (ウェストミンスター小教理問答 問1参照)。
 このように、現実の私たちの生活体験は多様な側面を持っていますが、それは、神の創造の御業の多様性によるものです。神の創造の御業の多様性について、旧約の詩人は、詩編104:24で、次のように証しています。「主よ、御業はいかにおびただしいことか。あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。地はお造りになったものに満ちている」と。「主の御業」は「おびただしい」のであるが、そのすべては「知恵によって成し遂げられた」と唱っているのです。神の創造の御業の多様性と統一性を見事に証している聖句です。私たちは神の創造の御業のすべてに神の知恵を見るのです。なぜならば、それらはすべて、知恵そのものであられる神の(創造)律法によって創造されているからです。

(創造啓示と聖書啓示)
 私たちの目を開き、このことに気づかせてくれるのは、聖書の御言葉です。私たちの本日のテーマに即して言うならば、それは、聖書啓示(文書化された神の言葉による啓示)によるのです。この聖書の御言葉を聞きまた読むことによって私たちは、神の創造の御業の全体が知恵によって成し遂げられたことを確かに知ることができるのです。この意味で、神の創造の御業の多様性と統一性は、聖書によって初めて知ることができる、と言えるのですね。
 創造啓示と聖書啓示は同じ主(三位一体の神)の御言葉です。それゆえに、この両者の間には、矛盾がありません。しかし、後者が人間の言語による啓示であるのに対して、前者は「被造物において知られる」(ローマ1:19,20)啓示ですから、相違点もあります。両者の共通性と相違性について、私のトロント時代の恩師、J.H.オルシウス教授は次のように言っておられます。
 <聖書はあがないの物語、すなわち、私たちの癒やしと教えのために、人間の言葉で記された神の言葉です。聖書は、…確証的・言語的側面に焦点を絞って、あがないの目的で語られた、神の言葉の再述/再宣布です。聖書は、神が始めに語り、今も引き続き語っておられること(「創造啓示」のことー宮﨑注)を、あがないのために、人間の言葉で語っているのですから、聖書の中心的メッセージは、あらゆる時代と場所におけるあらゆる生に対して直接的な関連性を持つのです。私たちがそういった直接的な関連性を知ることができるのは、メッセージの確証的な焦点から目を反らさず、その焦点に合った問いかけをするときです。そのとき、私たちは、聖書自身約束しているように、教え、戒め、慰め、励ます上で有益な文書として、現場で助けられ、諫められるのです。>(『究極性の解釈学』46頁、注4)。
 ここで、オルシウス教授は、聖書を「神が始めに語り、今も引き続き語っておられる」創造の御言葉の「再述/再宣布」であって、それは、「確証的・言語的側面に焦点を絞って、あがないの目的で」文書化されたもの、と定義しておられます。ここから、少なくともまずはっきりと教えられますことは、創造啓示と聖書啓示の啓示者は同一の主(三位一体の神)であって、両者をを切り離して考えてはならない、ということです。両者を切り離して、聖書を、創造啓示との関わりなしに読んだり、説教したりしたならば、それは、今日における私たちの生の諸問題に対して神の御心を告げる、救いのメッセージとはならないでしょう。また、聖書を読まず、また説教を聞かずに、創造啓示を尋ね求めようとしても、そこから人生を生きる真の「知恵」(詩編104:24)を得ることはできないでしょう(注5)。
 
 冒頭で、わたしは仏教(真宗)の家で育ち、高校時代にキリスト教(改革派)に改宗した、と申しましたが、それでも、小学校の理科や工作の時間はもちろんのこと、放課後にはあちこちで遊び回っていた、そのような時から、いつもこの神様の創造律法の下にあって、導かれ、守られていたのです。また、そのことにより、わが少年の日々を楽しんでいたのです。ただ、この律法の創始者であり、啓示者である父なる神・キリスト・聖霊を知らなかっただけのことです。聖書によってこのことを知った今、何という喜びと感謝を持って、この律法に従いつつ、生きるようになったことでしょうか。
 このように、聖書によって私たちは、創造律法と聖書の御言葉が同じ三位一体の神の言葉であることを知って、驚き感謝するものです。
 ただ神様に栄光がありますように。ハレルヤ!
 
(注1)この論文は英文で書かれていますが、関心のある方にはまだ5部ばかりコピーがありますので、郵送料(400円)ご負担いただければお分かちできます。
(注2)ここで言う「論理」とは、「思惟構造」のこと。
(注3)確証的側面(certitudinal aspect)・・・信仰的側面(pistic aspect or modality)とも呼ばれることがある。主体的機能としては、その主体を超越的世界に導き入れると同時に、生に統合性(インテグリティー)を与える。
(注4)Olthuis, James H., A Hermeneutics of Ultimacy: Peril or Promise? (Lanham, Md.:University Press of America, 1987)p.46.
(注5)ちなみに、創造啓示と聖書啓示の一体性に関するこの教えは、改革派教会の「創立宣言」第一点(有神的世界観人生観の確立)と第二点(聖書的使徒的教会の樹立)の関係を考える上でも、重要な視点を提供するものです。「創立宣言」第一点と第二点の関係については、以下をご参照ください。岩崎洋司「九州開拓伝道に寄せて」(日本キリスト改革派教会・中央宣教研究所『紀要』1982年10月15日、第八号、28~36頁)、宮崎弥男「改革派創立宣言の学び―第一点と第二点の関係―」(『リフォームド九州』1992年12月13日、第17号、7~9頁)。

※この度の「ICS軽井沢文庫だより」NO.10 は、6月始めに発行(公開)予定でしたが、パソコンの不具合等のため、遅れましたことをお詫びします。次号は8月始め頃の予定です。

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」
                   (使徒言行録1章8節)


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2017年5月6日土曜日

ICS軽井沢文庫だより No.9

「軽井沢と創造啓示」 宮﨑彌男

窓からの眺め

(はじめに) 
 軽井沢は、春、夏、秋、冬、四季それぞれに素晴らしい。目に優しい緑、おいしい空気、心地よい風。散歩に出かけると、たいがい癒されます。家の中で仕事をしていても、窓から外を眺めると、樹齢何十年?に及ぶような太く、高い木がそびえていて、私どもの思いを、瞬間的にでも、天高く引き上げてくれます。
 私は、軽井沢の緑と空気と風が好きです。ここにいると、不思議に本がよく読めます。客を迎えると、話が弾みます。ここに来て(もうすぐ)6年の感想です。感謝です。
 「ICS軽井沢文庫だより」の先月号に、「注意深く御言葉に傾聴すること」について書きました。教会の礼拝・諸集会、家庭礼拝、個人のデボーションにおいて語られる神の言葉に注意深く耳を傾けることが、教会の霊的リニューアルのために必要、ということでありました。その折、もう一つ大切なこととして、神の創造啓示に耳を傾ける霊的洞察力の必要なことも書き加えておりました。今日はこのことを取り挙げます。

(神の創造啓示とは)
 神の創造啓示(creation revelation)とは、詩編19:2~5で、ダビデが、
  「天は神の栄光を物語り、
  大空は御手の業を示す。
  昼は昼に語り伝え、
  夜は夜に知識を送る。
  話すことも,語ることもなく、
  声は聞こえなくても、
  その響きは全地に、
  その言葉は世界の果てに向かう」、
と歌っていますように、
神が、創造と摂理の御業を通して私たちに語っておられる御言葉(啓示)のことです。「創造の律法(法)」(creation-law)による啓示、と言うこともできるでしょう 。
 これまで、改革派教会においては、伝統的にこの創造啓示のことを「一般啓示」と呼び、キリストによる罪からの救いを啓示する「特別啓示」と対比させてきました。しかし、残念ながら、この「一般啓示」という呼称では、創造啓示の持つ豊かさが十分に表されているとは言えません。特に、神さまの創造律法の “統一性における多様性” (diversity in unity)については、全くと言ってもよいほどに言い表してはいないのです。

(創造律法の統一性と多様性)
 創造律法の“統一性”(unity)については、神の口から出る御言葉(詩編33:4~6等)であることにおいて、例えば、十戒において要約されている道徳律法と一つです。その道徳律法の要約は「愛」でありますから(ローマ13:8~10、ウ小教理39~42)、創造律法も、「愛」において統一されています。このことについて、私は、九州伝道における先輩同労者、岩崎洋司牧師がかつて言われた「キリストの愛が宇宙を支えている」との言葉を思い巡らしています。岩崎洋司先生は、九州開拓伝道の最中で召されたのですが、先生のヴィジョンは実に宇宙大に大きく、同時にキリストの愛の細やかさをも持ち合わせておられたことを私は思い返しています(注)。神の創造律法は、キリストの愛においてすべて成就しているのです(マタイ5:17~20)。
 創造律法の“多様性”(diversity)については、オランダの神学者、アブラハム・カイパーが神さまの律法の「領域主権性」という言葉で言い表してから、改革派教会の霊的知的財産となって今日に至っています。彼は、「カルヴィニズム講義」と題する1898年のプリンストン講演において、キリスト者が世界観、宗教(教会)、政治、学問、芸術、等の諸領域において、御言葉に従って神のご要求に応えるべきことを訴えました。これに応えて、キリスト教(カルヴァン主義)哲学を展開したのが、ドーイウェールト、フォレンホーフェン等、オランダの「法理念哲学者」であり、トロントのICS(キリスト教学術研修所)です。私どもの「ICS軽井沢文庫」は、日本においてこの聖書的キリスト教哲学を研鑽、展開、普及させるために、昨年オープンしました(「ICS軽井沢文庫だより」No.1参照)。この小さな文庫の他にも、日本の各地で同じ趣旨の運動が起こされることを祈り、願っています
 神様の創造律法の “(統一性における)多様性” につき、私たちの身近なところで思い浮かべることのできるのは、
 ⑴ 結婚のための神様の創造律法
 ⑵ 子育てのための神様の創造律法
 ⑶ 学校のための神様の創造律法
 ⑷ 教会のための神様の創造律法
 ⑸ 政治のための神様の創造律法
等々です。
 神様の創造律法の対象は、その名のごとく、神様の創造の御業と同じように広いのですが、この律法に耳を傾けることは、情報化の時代と言われる今日の時代/社会において、何よりもその重要性を増しつつあると言わねばなりません。新聞、雑誌、本、ラジオ、テレビ、インターネット、正に情報の洪水です。その中で、私たちは、「すべてを吟味して、良いものを大事にする」(Ⅰテサロニケ5:21)ように求められているのです。マスコミの報道についても、私たちは真実な報道とフェイクな (でっち上げの) 報道を見分けなければなりません。その規準こそが、聖書において啓示されている神の創造律法です。

(創造啓示に与る道) 
 ちなみに、創造啓示との関わりにおける、最近の私自身の情報収集の手段は次のとおりです。(順序が大切)
  ⑴ 聞くこと。
  ⑵ 読むこと。
  ⑶ 見ること。
  ⑷ 触れること。
 については、ラジオを聞くことに最近ハマッテいます。特にNHKラジオ第1の「マイあさラジオ」(5:00~)を,インターネット・ラジオ「らじる」で聞くことは、私の毎朝の習慣になっています。年齢相応と言うべきなのでしょうか。5:37の「健康ライフ」と6:43の「社会の見方・私の視点」は、必ず(旅先でも!)聞くようにしています。この時間帯、担当者が良いからでしょうか、多くのテレビ・ニュース番組のように、政権に遠慮/忖度するようなこともなく、安心して聞いていられます。
  次に「読むこと」。新聞、雑誌、本などです。元々,私は本好きの方ですが、目が疲れ易くなってきましたので、朝方とか、ちょっと昼寝をした後で、読むことが多いです。何と言っても、キリスト教有神的 “思想” 形成のためには、それなりの読書は不可欠と認識していますので、目の健康が守られるように祈るばかりです。
春のよそおい
 ⑶ その次に「見ること」。私は、高校時代に、ある感動的な映画(その題名は思い出せないのですが)を見て、キリスト教の伝道者になりたいと思うようになったという経験がありますので、映画が人の生き方を変える力を持っていることを否定しません。にもかかわらず、聖書が御言葉を「聞くこと」を、救われる恵みの手段として第一に掲げていますので(ローマ10:17等)、「見ること」は、やはりその次です。
 テレビは、「見ること」と「聞くこと」が一緒に押し寄せて来るので、大変な情報量です。それゆえ、質の悪い番組の場合、相当にダメージを受けるので、気をつけなければなりません。反対に,真実を伝える映画やドキュメンタリーは見逃せません。 
 ⑷ そして、最後に「触れること」。同じ相撲や野球を見るのでも、テレビで見るのと、実際に、国技館(本当は、私は地方巡業にしか行ったことはないのですが)や球場に行って見るのとでは、大違いです。映像というものがいかに部分的なものに過ぎないか、行くたびに知らされます。そういう意味でも、「旅に出る」ことは、神さまの創造啓示に与る最高の時です。ただ、「何でも見てやろう」と思っても、年齢制限がありますので、「無理はしない、疲れないように」を一応のモットーとしています。歴史と地理が一体となるような旅が一番いいなと思うのですが、これも、そんなに、いつもいつもできるわけではありません。

 とにかく、これからは、私たちキリスト者が、何にもまして、神さまの創造啓示に耳を傾けるべき時代です。これは必ず教会を活性化します。ただそのためには、聖書啓示と創造啓示を一体的に捉える方法を学び取ることが大切です。次回では、そういったことを取り上げたいと思います。
 
(注)「…福岡開拓伝道が1968年9月に始まったばかりの頃だと思うが、その頃、私は神戸改革派神学校の学生であった。岩崎洋司先生は、中会等で神戸に来られた時、神学校の寄宿舎に宿泊し、夜などふらりと神学生の部屋を訪ねてお茶を飲んで行かれることがよくあった。そのような時に、『キリストの愛が宇宙を支えている』というようなお話をうかがって、この先生は大きなヴィジョンを持っておられる方だな、と思った。それから約十年後に、この先生と一緒に九州伝道にたずさわることになった。熊本へ赴任後最初に先生をお訪ねした時、週報第一号をお見せした。まだ教会には裁断機がなかったので、大きなB4版の週報であった。先生曰く「大阿蘇のような週報だな」。この一言をなぜか家内も私もよく覚えている。この大阿蘇で、その年の夏、長丘・熊本合同の第一回九州修養会を持つことになった。その時「羊児」先生が詠まれた詩(うた)の中に次の一句がある。「祈り合う小さき群、われら今、ここに、山波は雲に連なる。わが父のみもと」。ここに、洋司先生の大きなヴィジョンは天地の造り主なる父の神の偉大さに由来するものであり、同時にそれは、キリストを通して「小さき」ものに注がれる愛と無関係ではないことが示されている。…」(宮崎弥男「教会設立のお祝いの言葉」 (1994年、日本キリスト改革派長丘教会発行『丘の上の羊たち―伝道開始25周年記念ー 』37-38頁)より)




「主の御言葉は正しく,御業はすべて真実。
 主は恵みの業と裁きを愛し、地は主の慈しみに満ちている
 御言葉によって天は造られ、主の口の息吹によって天の万象は造られた。
 主は大水の水をせき止め、深淵の水を倉に納められた」。
                   (詩編33編4~7節)

 ※次号の発行&ブログの更新は6月初め頃です。



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2017年4月1日土曜日

ICS軽井沢文庫だより No.8

「注意深く御言葉に傾聴せよ」
                        宮﨑彌男       


庭の福寿草
全国的には、次々と桜の開花宣言がなされているようですが、ここ軽井沢では、標高1,000㍍という準高地のせいか、なかなか本格的な春がやって来ません。先日、3/27(月)の朝には、30㎝もの積雪があり、季節外れの雪景色となりました。待ちきれずに、3/20(月)の春分の日、私たちは二人で追分宿の方にまで、10,000万歩をあるき、早春の日差しを楽しみました。立ち寄ったカフェ・レストランの内庭に咲いていた福寿草が春の到来を告げていて、良い散歩となりました。家に戻ってくると、うちの庭にも福寿草が咲いていました(写真)。
 さて、私は、2014年6月に「ウェストミンスター大教理問答」の新訳を教文館より出版しましたが、その折に、共同研究、その他、色々の形でご協力いただいた石丸新先生 (東関東中会引退教師)とは、その後もずっと、更なる改訳を視野に入れた手紙のやりとりが続いています。「ウ基準の学びには終わりがない」とは先生のよく言われることですが、改訳に向けての学びを通して多くの新しい(フレッシュな)霊的刺激を受けることは確かです。
 1月21日付の書信で、先生は、ウェストミンスター信仰基準に計18回出てくるdiligence, diligent, diligently の訳し方について、メモ書き (内容的には「論述」に近い)を提供してくださっています。その中の一つなのですが、ウ小教理90、ウ大教理157、同160に出てくる with diligenceは、これまで、「勤勉…をもって」とか 「勤勉に」、「熱心に」 と訳されることが多かったのですが,先生は、「注意を払い」 または「注意を傾けて」と訳すべきことを主張しておられます。diligenceは、今日でこそ「勤勉」とか「熱心」という意味で用いられることが多いのですが、元々は「注意深さ」を意味する言葉であったようです(水垣渉・袴田康裕著『ウ小教理問答講解』pp.143-144を参照)。それで、私自身も、ウ大教理157では、「注意力を集中し」(て御言葉を読まなければなりません)、あるいは、同160では、「注意力」(と準備と祈りとをもってこれに傾聴すること)と訳しています。
 このように「注意を払い」と訳す方が、直前の「これに傾聴する」(attend thereuntoupon it)との繋がりも良くなります。また、証拠聖句として挙げられている箴言8:34や使徒17:11とも良くマッチします。それで、改革派教会の憲法委員会でウ小教理の改訳を出されるときには、ぜひご一考いただきたいと思っています。袴田康裕先生が最近出された新訳『ウェストミンスター小教理問答』では、この箇所については、
「勤勉…をもって」となっておりますが、私どもとしては、やはり、「注意を払って」御言葉に傾聴することを強調したい。
 私は、御言葉に注意深く聞くことこそが,今日における教会の霊的更新(リニューアル)のために基本的に重要なこと認識しています。教会の礼拝・諸集会において、信徒各自の家庭礼拝や個人的でボーションにおいて、あるいは、御言葉が語られる領域を更に広げて、神の創造啓示(「一般啓示」)に耳を傾ける霊的洞察力において、御言葉に注意深く傾聴することこそが,今日の私たち信徒に求められているのです。
 「神の創造啓示に耳を傾ける」ことについては、正に「ICS軽井沢文庫」におけるキリスト教哲学研究に関わることでありますので、改めて取り上げることにしますが、ここでは、日々の家庭礼拝において、引退教師としての私(と家内)が「注意深く」御言葉に傾聴することを心がけておりますことを、僭越ながら一つの実践例として紹介させていただきます。
 家庭(夫婦)礼拝は、毎朝朝食前の20分間、日本キリスト改革派教会教育機関誌委員会発行の「リジョイス―主にある喜びー」を用いて行っています。通常の礼拝順序は:
  □ジュネーブ詩編歌
  □聖書(&ハイデルベルク信仰問答)
  □解説と奨励(「リジョイス」の日課による)  
  □「いのちのパン」(子どものための勧め)
  □祈り(含・全国の教会/伝道所のための祈り)
 更に、家庭(夫婦)夕拝を、毎晩9時30分から約15分間、スター・ミード著、佐藤強・魚本つる子訳『主を知り,主を喜ぶ~子どもから大人まで~』(教理問答による日々のデボーション)を用いて行っています。この書物は、一昨年10月、正統長老教会(OPC)日本ミッションから発行されたものですが、日本語訳もわかりやすく、内容も充実しています。私どもは、毎晩、その日の教理問答(ウ小教理)の解説と聖書箇所を読んで、学んだことを分かち合い、その後で、祈ります。家庭夕拝にぴったりの書物で、皆様方にも心よりおすすめします。訳者の一人である佐藤強先生(TEL/FAX :0465-43-3573、e-mail:tsuyoshi-sato423@nifty.com)に連絡すれば、\2,300+税で送ってくださると思います。
 なお、ついでながら、「リジョイス」の申込先は→ 那加教会内 今井捷利さん(FAX 078-330-3371、e-mail:rcjrejoice@gmail.com)です。
 私ども夫婦にとって、これら朝夕2回の家庭(夫婦)礼拝は、軽井沢での引退教師としての毎日の生活の、なくてはならない枠組み(支柱)となっています。御言葉を注意深く聞き、語り合う,楽しく有意義なひとときとなっています。このことを感謝をもって報告し、皆様方もそれぞれの事情にあった仕方で、日々御言葉を読んで、祈るひとときを守られることをおすすめします。
 私の九州での先輩同労者、岩崎洋司先生が口癖のように言っておられた「クリスチャンであっても,毎日聖書を読んでいる人と,そうでない人とでは、数年の内に(霊性上)大きな違いが出てくる」を思い起こしています。
 今年は宗教改革500年の年です。Sola Scriptura!           
                        
<「たより」第7号へのレスポンス>安達正子さん(山梨県甲斐市、介護福祉士)

宮崎先生 
 ICS軽井沢文庫7号を読ませていただきました。いつも楽しみに読ませていただいています。有難うございました。 
 さまざまなことが起きて世界中が騒然としている今日この頃です。 
 またあの忌まわしい時代に戻ってしまうのかという漠たる不安を抱えながら過ごしている者にとって真の希望と確固たる安心感を与えてくださる文章でした。 
 頼るのはキリストにある確かな希望ですね。改めて深く心に刻みました。
 安達正子

☆☆安達さま、前月号の「希望に生きる」へのレスポンスをありがとうございました。時代がどちらの方に向かっているのかわからない、不透明な様相を呈する中で、にもかかわらず、真実な希望を説くことができるのは,御言葉の上にしっかりと立つ教会とキリスト者だけですね。信仰・希望・愛に生きたいものです。☆☆宮﨑彌男
 
『キリスト者の世界観ー創造の回復』増補版・付録の翻訳

先月は、原著140~143頁、「“霊”と霊性、「聖書物語と今日の生き方を媒介する世界観の役割」,「結び」の三つの項を訳し終え、これで「付録」部分、全訳・完了しました。今後は、増補・改訂版の出版に向けて努力します。お祈りに覚えてください。ラベル<『キリスト者の世界観―創造の回復』付録>をクリックしてごらん下さい。

☆ 宣教において遭遇する戦いにおいて忠実たらんとする教会は生きた霊性を育て培う必要があるのです」(「“霊”と霊性」)。
☆「世界観は自動車のギア装置のようなものです。ギア装置は、エンジンの力と、地に接して車を動かすゴムのタイヤの間を媒介する働きをします。聖書についての世界観的な思索は、福音の力とその影響下に置かれる人間生活との間を媒介します」(聖書物語と今日の生き方を媒介する世界観の役割)
☆「万物は神の創造によるものです。どんなものも罪の破壊力と無関係ではありません。すべてのものは“霊”により、キリストにあってなされつつある神の更新の御業に参与しています」(同上)。

※次号の発行&ブログの更新は5月初め頃です。

「ここのユダヤ人たちは,テサロニケのユダヤ人よりも素直で,非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた」。
                   (使徒言行録17章11節)


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2017年3月2日木曜日

ICS軽井沢文庫だより No.7

「希望に生きる」    宮﨑彌男

  あっという間に、2月が終わって、2017年も3月となりました。年を迎える前から今年は大変な年になりそうだと予測していましたが、この2か月だけでも、トランプ大統領の就任以来、次々と打ち出されてきた大統領令のみならず、クアラルンプールの空港で起こった暗殺事件などにより、全世界が揺さぶられているような毎日です。そのような中で、私たちは、神さまの御言葉である聖書から「希望に生きる」道をはっきりと示されたい。 
創造、堕落、希望の世界観
2月は、長野伝道所で、25日と19日の2回にわたり、新約聖書ヘブライ人への手紙の6章13節~7章19節により、キリストによる希望について説教する機会がありました。新共同訳聖書のこの箇所には、「希望」という言葉が4回出て来ます。この「希望」が、この箇所を読み解くキーワードの一つであることは間違いありません。
 シールズ流()のコール&レスポンスで言えば、「希望って何だ?」「揺るがない希望のことさ!」ということになります。聖書の語る希望(キリストによる希望)は、単なる願望ではない。必ず実現する、確かな、揺るぐことのない希望である。私たちは、そのことを日本キリスト改革派創立60周年の『終末の希望についての信仰の宣言』で明らかにしました。私たちのキリストにあって抱いている希望は揺るがない希望です。ヘブライ人への手紙 619節に「私たちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです」と書いてあるとおりです。錨は、海の底に重しを下げて船をつなぎ止め、荒波や高波が押し寄せても船が流されないようにするものです。キリストにある私たちの希望も、同じように、人生の荒波が押し寄せてきても揺らぐことのないものだと言っているのです。
 なぜか。それは、私たちが律法を完全に行うことによって得ることのできる希望ではなく、十字架の死と復活によって私たちのためにあがない(罪による負債の除去)を成し遂げてくださった(ヨハネによる福音書1930)キリストのお与え下さる希望だからです。律法による希望ならば、私たちの罪や弱さによって、神のきよさに達することができないので、希望があるのかないのかわからないでしょう。むしろ、正直言って、絶望しかない。しかし、聖書の語る希望は、私たちを愛してくださるキリストのお与えくださる希望です。この希望は、どんなことがあっても、決して揺らぐことがありません。ヘブライ人への手紙の著者は、このキリストによる希望のことを、律法による希望との対比で「もっと優れた希望」(719)と呼んでいます。ハレルヤ、主よ! この希望によって、私たちは、神に近づくことができるのです(19節後半)。
 今年、教会の内外で色々のことが起こるでしょうが、どのような場面においても、この希望によって生き、神に近づきたい。私たちにとって将来は必ず開かれるます。この希望をもって、今月も、ICS軽井沢文庫の育成のために祈り、労するものとなりたい。
(注)2015年の夏、安保法案に反対して(延べ)35万人が国会前周辺に集まりました。その原動力となったとなったシールズ(SEALDS)は、従来のシュプレッヒ・コールに替えて、コール&レスポンス(問いかけ・応える)を試み、「民主主義って何だ?」と問いかけると「民主主義ってこれさ!」と応えるようにした、とのことです(高橋源一郎/SEALDS:『民主主義ってなんだ?』60-67頁参照)。デモ形式のカテキズムですね。

(文庫の中で)
December, 1972

 2月中の主な仕事は、雑誌類の整理でした。Perspective (AACS/ICS 季刊ニュースレター、1969年~2011年)、Vanguard (月刊・改革主義ジャーナル、197011月~198112)ANAKAINOSIS (季刊・改革主義思想ジャーナル/ニュースレター、主幹:アル・ウォルタース、19789月~19866月、全17) 等を年月順に整理しました。これを適当な形にバインドし、閲覧できるようにしたいと考えています。いずれも、日本における改革主義運動展開のために貴重な資料となります。




(『キリスト者の世界観ー創造の回復』増補版・付録の翻訳)
 原著135145頁の「文脈化ー構造性と方向性をわきまえる」を訳し終え、この部分を加えて、ブログ「ICS軽井沢文庫」ics41.blogspot.jp に掲載しましたので、ラベル<『キリスト者の世界観ー創造の回復』付録>の項をクリックして、ごらん下さい。伝道における文化の問題を考える上で、正しい視点を提供していると思います。力を込めて訳しました。ぜひ、お読みください。

「たより」第6号へのレスポンス>岩間孝吉さん(日本キリスト改革派山梨栄光教会長老、元・山梨英和中学・高校校長

☆☆宮崎弥男 様
 ICS軽井沢文庫だより第6号、ありがとうございました。
 賀川豊彦の働きについての研究成果が紹介されていましたのを、
興味深く拝見しました。 
 実は、賀川豊彦は、1948年山梨県を訪ね、甲府や韮崎で
揮毫し、聖句等を額に残しております。(山梨YMCAほか保存)
小生も調査しております。
 1948(昭和23)619()、賀川豊彦一行が、山梨県
伝道のため甲府へ来ておられます。「新日本建設、キリスト教
運動、賀川班、19486月記」=賀川豊彦記念松沢資料館所蔵。
 19日~23日。20()午前9時~山梨県会議事堂にて伝道
集会、来会者1100名、テーマ「一粒の麦」、主催・山梨YMCA
 21()=甲府刑務所で集会、市川大門町で集会。
 20()9時、国立甲府病院にて「精神治療と信仰治療」講演。
2010時半=県立甲府第一高校で、学校講演「自然を通して神を見る」
聴衆1500名、決心カード133枚。
 同日午後3時、韮崎教会で「自然を通して神を見る」講演、聴衆
160名中84名決心。23日正午、松沢に帰った、とのことです。
 PS 山梨県教会一致懇談会、という超教派の活動を50年山梨では
続けています。今年の一致祈祷会の予定を参考までに添付しましたので、
ご覧ください。6日間で、県下32教会3団体から延338名出席、献金
245,134円が捧げられました。小生もその世話人の1人をさせていただ
いています。 
岩間孝吉(山梨栄光教会)☆☆

☆☆岩間さま、ありがとうございました。1948年6月19日~23日の賀川豊彦による山梨伝道の記録をお分かちくださり、感謝です。20日(日)朝の集会には、1100名も集まったのですね。週日の県立高校等での集会でも多数の「決心者」が出た、とのこと。戦後日本の歴史の貴重な1頁として、心に刻みたいものです。お世話された山梨県教会一致懇談会の集いにも多くの方が出席されたのですね。soli deo gloria! 宮﨑彌男☆☆

(前号の誤字訂正)

 前月、2月1日に「ICS軽井沢文庫だより」No.6を公開しましたが、以下の2箇所ばかり誤字がありましたので、お詫びして、訂正いたします。
 1)公開の日付、(誤)201621日→(正) 2017年21
 2)長野伝道所で、御国イザヤ著『勝利を得る日本の教会』を見付けたのは、()214日→()114日、でした。

※次号の発行&ブログ更新は4月初め頃です。


  

   「私たちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨の
   ようなものであり、また至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです」
                        
                     (ヘブライ人への手紙 619節)



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2017年2月3日金曜日

「ICS軽井沢文庫だより」NO.6

「五つの Sola でこの年を」

        ―宗教改革500周年―     宮﨑彌男


 この年の元旦の朝、わが家では、モモちゃんが亡くなりました。17才と8か月共に過ごした愛犬(柴犬雑種メス)でしたので、悲しく、与えまた取り給うた主に、涙ながらに感謝の祈りをささげました。昨年1年間は、さすがによちよち歩きとなり、最後の1ヶ月ばかりは、家内の介護も大変でしたが、不平を言うこともなく天寿を全うして召されました。感謝をもって、一言ご報告まで。

さて、1月は、教会での説教奉仕が、5回の主日の内、15日(長野伝道所)と29日(佐久伝道所)の2回だけでしたので、それだけ本を読む時間を確保することができました。先ず、引き込まれるようにして読んだのは、菅野完著『日本会議をめぐる四つの対話』(2016年、K&Kプレス)。これは、『日本会議の研究』の著者、菅野がさらに白井聡、村上正邦、魚住昭、横山孝平と対談したものを改めて本にしたものです。たまたま近くの本屋で見かけて買ったのですが、読んでみると、日本会議に関する多くの貴重な情報と洞察に充ちた、内容のある対談集でした。改憲運動を推進する勢力として日本会議が注目されていますが、それは、日本会議の力によるというよりも、対抗勢力としての「左翼」とか「リベラル」が弱くなっているからだ、との指摘は対談者に共通のものとしてあるようです。改革派教会が、戦後の日本において有神的世界観人生観と聖書的教会の建設を掲げて伝道しながら、未だに一個の政治勢力たることを得ていないことに強く反省させられます。

 もう1冊の本は、古屋安雄著『私の歩んだキリスト教~一神学者の回想』(2013年、キリスト新聞社)です。古屋先生は、プリンストン神学校でドクターを取られた後、国際基督教大学教会牧師/宗教学教授となられたのですが、私自身も、1963年~67年、学生として色々お世話になったことがありました。その後も、先生のお母様が戦前灘教会の伝道師をされたことがあったということで、神戸に来られた時などお会いしたこともありました。お父様は組合教会の牧師でしたので、「自分は、組合派と長老派の両方の血を受け継いでいるんだ」等と言っておられました。このお父様の信仰について、その朝夕の祈りが、「新しい今日も一日、神の国のために励ませてください」、「今日も一日、神の国のために働くことができて感謝です」等、「神の国」を意識した祈りであったことを、今でも覚えておられるとのこと。古屋先生は、このような「神の国」を意識した伝道/祈りが今日の教会に欠けているのではないかと主張され、この点で、伝道者としての賀川豊彦に学ぶべきと言っておられます。(日本キリスト改革派教会『大会時報』203号所収の拙文「求められる再宗教改革~古屋安雄講演<なぜ一%を超えられないのか>を聞いて」、及び阿部志郎他著『賀川豊彦を知っていますか』(2009年、教文館)所収の古屋講演「伝道者としての賀川豊彦」もご参照ください)。

 このような折に、東京基督教大学の稲垣久和先生が「ICS軽井沢文庫だより」NO.5に対するレスポンスと共に、「市民社会と賀川豊彦の友愛精神」というテーマで行われたシンポジウム(2016年10月29日、於明治学院大学白銀校舎)での御自身の発題講演「労働者は人格である」をお送り下さいました。啓発される所の多い講演ですので、先生の許可を得てこのブログ(「ICS軽井沢文庫」ics41bogspot.jp)に掲載させていただきます。

 この1月に読んだ本の極め付きは、ちょっと意外に思われるかも知れませんが、御国イザヤ著『勝利を得る日本の教会』(2016年、学校法人レムナント学園)でした。この本は、多くの教会に恵贈されたのでしょうか。私は、1月14日、大雪のために、大事を取って、土曜日の内に長野伝道所に行き、一泊したのですが、その事務室にこの本が置いてあったのです。ぱらぱらとめくっておりますと、参考文献の中に、宮﨑彌男訳『ウェストミンスター大教理問答』も挙げられていましたので、興味を惹かれて読む内に、これは、改革派に近い立場で書かれている日本伝道論だということがわかりました。それで、さっそく取り寄せて、聖句を紐解きつつ丁寧に読んでみました。そうしますと、日本伝道について、私が日頃から祈り考えていることと重なることが多く、ブログでもご紹介しようと思い至った次第です。全編に亘って大切なことが書かれていますが、特に「六、サタンとキリスト」、「一〇、キリストと神の国のことと聖霊」、「一四、次世代と信仰継承」は、熟読玩味に値します。

 今日の日本の教会に対する著者のメッセージは、詰まるところ、十字架と復活によりサタンに勝利されたキリストの三職のすべて、中でも、特にキリストの王職を語れ、ということす。そこから、「神の国のこと」(使徒1:3)を教え、学び、実践することが第一義的な重要性を帯びることとなるのです(マタイ6:33)。私たちは、長期に亘る安倍政権の下での一強他弱の政治状況、またそれに与する日本会議等の運動の背後に、憲法を壊し、日本を潰し、教会を無力化しようとするサタンの策略(エフェソ2:2、ヨハネ8:44)を見ざるを得ません。教会はこのような中で、なすすべを知らないかのようです。けれども、真の王であられるキリストはすでにその死と復活によりサタンに勝利しておられます(創世記3:15、ヨハネ19:30、Ⅰヨハネ3:8)。このキリストとその御言葉に従いゆきたい(エフェソ6:1,2)。その時、キリスト御自身が教会を建てられます(マタイ16:18)。

 この年、2017年は、マルチン・ルッターがヴィッテンベルク城教会の壁に「九五か条の提題」を張り出して、宗教改革運動が始まってから500年に当たります。私たちはこの年、宗教改革の五つのSolaを私たちのSolaとして、王なるキリストに従いゆくものとなりたい。すなわち、
 (1)恵みのみ Sola Gratia、
 (2)信仰のみ  Sola Fidei、
 (3)聖書のみ  Sola Scriptura、
 (4)キリストのみ  Solus Christus、
 (5)ただ神の栄光のために  Soli Deo Gloria です。
 アーメン。

<「たより」NO.5へのレスポンス> 東京基督教大学 稲垣久和先生

宮崎弥男先生
明けましておめでとうございます。
先生の活動も軌道に乗ってきたようで何よりです。
ブログの中にN・T・ライトのことが出てきていましたが、昨年から『新約聖書と神の民
』(新教出版社)の翻訳者の山口希夫氏らとともにライトの研究会を始めました。
近年の新約聖書学には目覚ましい発展があり、ライトやボウカムのものにはとても興味
があります。
特にライトは哲学との接点が深くあり、批判的実在論は私の書いてきた本の骨子を作っ
ているのでとても関心を持っています。オックスフォード学派の批判的実在論とアムス
テルダム学派の世界観アプローチとは極めて近いのです(拙著『宗教と公共哲学』東大
出版会、2004年)。
近年の聖書学が明らかにしているイエスの「神の国」は賀川豊彦の「神の国」概念とと
ても近く、むしろ日本のプロテスタント主流派と言われてきたグループの福音理解に問
題があることもわかってきました。カイパー的には共通恩恵論(common grace)の欠如
ということでもあるでしょう。
今年も賀川論からの市民社会形成に励みたいと思っています。これは日本で本来の「神
の国」を作っていく私なりのチャレンジです。
「み国をきたらせたまえ」という日々の祈りととともに。
稲垣久和
添付のものは昨年10月29日の第2回賀川シンポの時のプログラムです。

☆☆稲垣先生、ありがとうございました。先生の方も、御国のためのお働き、着々ですね。『宗教と公共哲学』、改めて読ませていただいています。先生の賀川研究が実り多いものとなりますように。
宮﨑彌男☆☆

(M. ゴヒーン& A. ウォルタース著『キリスト者の世界観―創造の回復』改訂版・付録の翻訳)

こちらの方は、この一月間、余り進まなかったのですが、それでも、原著133~135頁の「宣教における苦難と戦い」を訳し終え、先月までの箇所に付け加えましたので、ブログ「ICS軽井沢文庫」ics41.blogspot.jpの『キリスト者の世界観―創造の回復』付録の項をクリックしてごらん下さい。

※次号の発行&ブログ更新は3月初め頃です。   


   「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御言葉の支配下に
    移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦
    しを得ているのです」。                      (コロサイの信徒への手紙 1:13, 14)


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