2017年2月2日木曜日

シンポジウム「市民社会と賀川豊彦の友愛精神」


以下は、2016年10月29日(土)、明治学院大学白銀校舎にて開催されたシンポジウム「助け合いの心が日本社会を変える!~市民社会と賀川豊彦の友愛精神~」における稲垣久和氏(東京基督教大学大学院教授)による発題講演(「開催主旨」)です。同氏の許可を得て、ここに掲載させていただきます。

       労働者は人格である


稲垣久和(東京基督教大学大学院教授)

今日、賀川豊彦という歴史上の一人物を念頭に入れつつ、一つのシンポジウムを企画いたしました。生協、労組、農協、信用金庫、共済保険……。私たちの社会の一部となっているこれらの事業に共通するもの。それは次の二点です。
一、 助け合いのための組織であること。
二、社会事業家・賀川豊彦が大正時代から昭和初期に開拓者的にかかわった事業であること。
資本主義のもたらす格差と貧困が今以上に深刻であったこの時代、賀川は、相互扶助の伝統を社会的・組織的に促進する協同組合運動を精力的に展開しました。
それから100年たった今日、再び貧困や格差が大きな社会問題となっています。賀川の説く「友愛と連帯」によってこれら諸問題に対処しつつ、格差の是正と新たな市民社会の建設に励みたいと思います。登壇いただいた各グループの方々からまずは次のようなところに強調点を置いてご発言をいただきたいと思っています。
①各団体紹介とその賀川豊彦との関係
②具体的なテーマとして今日の格差社会の弱者、そして(賀川が関東大震災救援に直ちに取り組んだように)東日本大震災や4月の熊本地震への支援。または地域の活性化への取り組み。

以下、ご参考まで、主催者側がシンポジウムの背景の理念と考えるものを記させていただきます。
1.自由と人格
賀川豊彦は労働運動を始めたころに「労働者は人格である」という有名な言葉を残しています[1]。私は今日のシンポジウムの通奏低音としてこの言葉を響かせたいと思いました。   
「労働者は人格である」。当たり前といえば当たり前、しかしこれを前面に掲げて現代の諸問題に対処していくと、決して当たり前ではない。それは今日の日本社会での「働き方」の現実を見れば明らかです。例えば連合白書(2016年春季)にも「人を犠牲にした経済成長」[2]という現政権への評価が見られます。ではこれに対する代案をわれわれは持っているのか。もし持っていないとすればそれをどう構築すればいいのか。「人を犠牲にしない経済」とは何でしょうか。このようなややスパンの長いテーマについて、皆で考える対話の時としたいと思いました。
人が働くとはどういうことでしょう。働くことの意味、働くことの喜び、そもそも人はなぜ働くのか。もちろん、自分の生活の糧を得るためにも、他者を養うためにも、自己実現のみならす、他者支援のためにも、「働くこと」は人生と社会にとって深い意味があるでしょう。ところが、このような基本的な哲学的問いを出すいとまもなく、労働者であるわれわれは日々の生活に追われている。かつての哲学発祥の地ギリシャ、ここは紀元前の当時まだ奴隷制社会でありました。ほんの一部の自由人が「自由」「平等」「正義」「友愛」「知恵」を語り、西洋文明に物事を根底から考える分野として「哲学」というジャンルを遺してきました。当時、労働者は主として奴隷の身分でした[3]
それから2500年以上経って民主主義が達成された現代には、すべての人がグローバルスタンダードで「自由」を人権として主張できるところまできました。この歴史の歩みにわれわれは感嘆します。しかし他方で「糧を得る」ための労働すなわち経済的な社会の仕組みから見ると、どうも先進国ですら「自由人」とはとても言えない面が目立ってきました。憲法で「生存権」が保障されていても「カローシ」などという言葉を生み出し世界に輸出する日本社会、そんな極端ではなくても長時間労働を当たり前に受け入れている不思議な日本人の姿は、むしろ「奴隷」に近いものになってしまってはいないでしょうか。これは誇張でも何でもありません。労働市場に大半のエネルギーを吸収されていれば、その分、休息の時間のみならず人と対話し人と交流しながらコミュニテイを形成する時間は奪われます。これはどうみても「自由人」のあり方ではないでしょう[4]。では労働は自由の源泉であり、喜びだ、という具合に転換するにはどうすればよいのでしょうか。
 現実には市場経済が成熟した今日、労働は商品と同じように貨幣との交換になっています。つまり賃金労働にならざるを得ませんし、この現実を疑うことはほとんどありません。そして資本主義という近代的システムは、よく知られているように、すでに100年前に賀川がその欠陥を鋭く批判したものでしたが、にもかかわらずしぶとく生き残り、今日いわゆるグローバル金融資本主義にまで行きついています。端的に言って資本主義は民主主義とは両立しません。弱肉強食の競争システムが、弱者にも平等に一票を与える共生システムと両立するとは考えられないからです。いくらケインズ・ベヴァリッジ型福祉国家だ、福祉資本主義の三類型だ、いや四類型だといったところでもはや修正や微調整ではどうにもならないところに来ています。ITをはじめとするテクノロジーの日進月歩が、文明の質を変えつつあります。根本的に人類文明の近代以降のあり方を変えざるをえないところに来ています。ポスト近代の時代、人類が生き残りたいと思うなら、その方向にパラダイムを大転換するしかありません。

2.資本主義の変遷
資本ないしは金の移動はすさまじいスピードです。ナノセコンドで国境を越えて一国家予算規模の金の相対取引が行われているといった、いわば人工知能に依存した世界になってしまい、人間の居場所などもうなくなっているといった感じです。富の偏在は止めようもありません。
われわれ自身もITを駆使した日常生活の便利さにドップリ使っていて、もはや手放すことができません。他方でそれが抱える矛盾と危機も、すでに人が管理する能力をはるかに超えてしまっています。人間システムの上でリスクが管理能力を超えているだけでなく、首都圏直下型大地震、異常気象等々という自然システムの上でも、とっくにリスクは管理能力を超えています。アンダー・コントロールどころでなく、オーバー・コントロールであることが、まともな生活感覚を持った人々の日々の実感でしょう。
それでもわれわれは働くし、また働くことに人として意味があると思っています[5]30年前にオランダでワークシェアリングといった労働時間の短縮、「働き方の質」のモデルが出され、それ以来、私は自分の公共哲学の課題としてこれを考えてきました。今日の日本では、突然に「同一労働同一賃金」(均等待遇原則)という言葉がマスコミをにぎわすようになっています。これが何を意味しているかいまだはっきりしないのですが、「働き方の質」にかかわっていることだけは明らかです(賀川はすでに1919年にこの同一労働同一賃金という言葉を『労働者崇拝論』の中で使っています[6])。働き方の質、人間にとって幸福とは何か、この問いが多くの老若男女の関心の的になっています。
19世紀の英国に経済学者で功利主義陣営の哲学者ジョン・S・ミルの同時代人で、かつ批判者であった人にジョン・ラスキンがいます。彼の労働観はきわめてユニークで現時点で傾聴に値します。彼は労働を芸術作品の創作のような精神的な内容、生(life)の表出と捉えています。そして富とはGDPが大きいことだ、という先入観に毒された現代人の頭に水をかけるようなことを言っています。「生以外に富は存在しない(there is no wealth but life)。生というのは、その中に愛の力、歓喜の力、讃美の力すべてを包含するものである。最も富裕な国というのは最大多数の高潔にして幸福な人間を養う国、最も富裕な人というのは自分自身の生の機能を極限まで完成させ、その人格と所有物の両方によって、他人の生の上にも最も広く役だつ影響力をもっている人をいうのである」[7]
人間の生命こそが根本だ、賀川豊彦の「労働者は人格である」という言葉はこのラスキンの影響を受けたものです。資本主義がかつてのように先進国で拡大・成長を目指していく時代は終わり、人口減の低成長の時代を生き抜く生命力と働き方の追及、これがこれからの時代の課題でしょう。もちろん一部の人々は拡大・成長を目指し、旧態依然とした路線を捨てようとしません[8]。しかし多くの人々は生き方においてパラダイムシフトを始め、「人たるに値する仕事」(デイーセントワーク)に従事したいと思い始めています。人として生まれたからには尊厳ある「自由人」の生き方をしたいと思っています。しかし尊厳ある「自由人」の生き方をしたいならばそれなりの努力、すなわち自立して物を考える訓練をせねばなりません。
自由を達成するための参加型民主主義は、労働のあり方にも影響を与えています。労働者とは何か。労働者が「自由人」として生きるには労働のみで経営に参加しないのではなく、経営にも参加して、そして同時に経営に責任をもつという生き方を目指さねばならないでしょう。

3.近代的思考の破たん
近代哲学が行き詰まったポスト近代の時代には、あらゆる領域での二元論が崩れかけています。労働者か経営者か、といった二者択一もその一つです。われわれは主体であると同時に客体です。人間には人工知能(ロボット)に置き換えられる面もあればやはり置き換えられない面もある。喜びもあれば悲しみもある。楽しみもあれば苦しみもある。ロボットには「悲しみ」も「苦しみ」もない。ポンコツになればそれで終わり、しかし人間はこれらを克服していこうとする能力が与えられた唯一の動物です。互いに助け合って、話し合って、コミュニケーションしていこうとする意欲が人間にはある。対話して連帯して危機を回避しようとする向上心がある。人間の人間らしい面であり、ロボットにこれはない[9]。人間が「人格」である証です。人格であるとは機械のような部品(部分)ではなく全体(総体)であるということ[10]。トータル(総体)として人間であるということ、これが人格の意味です[11]
政治の世界も明らかですが、国民が主権者であるとは自主的に治める、自治する主体ということであって、統治される客体であるということではありません。だから代表者を選んで統治してもらう「客体」になることではなく、参加して自ら自治する「主体」だということです。「主体」(精神)と「客体」(物体)のデカルト的二元論はもはや成り立ちません。これが代表制民主主義だけでは不十分で、どうしても参加型民主主義にならざるをえない理由です。これは経済の世界でもそのような時代に入ったということです。われわれは人格として客体であると同時に主体です。「労働者は人格である」とは労働者であると同時に経営者だということです。そして協同組合活動をしている人々には、この内容は理解しやすいことでしょう。近代的二元論哲学の時代は終わり、われわれは人格である人間として「労働者は経営者である」。そして「生産者は消費者である」、「助ける人は助けられる人である」、「学ぶ人は教える人である」、こういう総体的なものの見方の訓練をしていく時代であります。「グローバルな時代はローカルな時代である」、「外なる環境を考慮するとは内なる環境を考慮することである」等々、あらゆる二項対立は打ち破られるべきです。
西洋的二元論哲学とは異なって、日本には江戸時代以来の相互扶助の伝統があり、また賀川豊彦を始めすぐれた先人の努力もあって、日本の協同組合運動は広範にわたって盛んです。そうであるにもかかわらず、いくつかの法的整備が十分でありません。日本人のお上(=公)意識の強さ、自治能力の欠如。これは戦後民主主義が個人主義の方向で受け取られ、「連帯」の方向への発展が十分でなかったからです。個人の尊重はいいのですがミーイズム(=私)になり、バラバラに孤立していく。一方でお上(公)依存が強く、他方で孤立化が強くなっていくという、いわば公と私の二元論が顕著でその中間が創れない。つまり公私二元論の中で振り子が極端から極端に揺れ動くだけなのです。公私二元論は西洋的二元論と同じように、いやそれ以上に危険です。そうではなく個を尊重しつつ異なる意見を持ってはいても互いに話し合う訓練、すなわち「対話」と「連帯」そしてそれを支える「友愛」これが今後のカギです。これが「公」と「私」の二元論を打破してその中間に「公共」を創るスタートです。多様な中間集団の形成[12]、協同組合運動は戦後民主主義の質の転換をもその使命としていると思います[13]

4.公共哲学の可能性
筆者はこれらテーマを公共哲学という名称で研究してきました。せっかくの日本国憲法がまだ十分に生かされていません。国民主権の意識の弱さと参加型民主主義の自覚の弱さ、総じて市民社会の弱さと関係しています。それでも阪神淡路大震災(1995年)、東日本大震災(2011年)以後には、復興の気運とともに多くの市民の新しい動きが加速しつつあり、これまでにない「新しい公共」のうねりも感じています。対話と連帯と共生、今の話の流れでは、皆が働き、皆が経営するという市民社会の参加の基本を各地でのコミュニテイ形成とともに確認することができます。賀川も労働運動に携わった初期の頃から「労働者自身の自営」[14]、「社会が自営的にやる」ことの必要性を繰り返し述べていました[15]。そういう意味で今日では、日本の市民社会と民主主義の弱点を克服するためにも、例えば戦前の産業組合法に代わる協同組合基本法[16]の制定も一つの方向です。そのために、方向性は同じだが細部で意見の異なるグループの間で粘り強い対話の継続が必要です[17]。そのようなグループ間の連帯なくしてさらに考え方の隔たるグループ間の連帯は望むべくもありません。
農協と生協と労組、特に2012年のIYC(国際協同組合年)以降、これまで以上に相互の交流が大きく前進しています。中央でよりも地方で、東京よりも他府県で地域密着型、環境と地域経済と福祉の第六次産業化の萌芽が数多く見られます[18]。社会システムと自然システムのリスクが高まる一方で、地域の生活圏においては異質なグループ同士が交流し互いが互いから学び合おうとの「新しい公共」の風潮が出てきています。今後にたいそう期待が持てます。より一層の連帯と対話が必要でしょう。グローバル資本主義はローカルな場面で人々を分断し孤立化させていく。今われわれに必要なのは分断ではなく連帯です。
人間と社会と自然環境、これらを包含するのは世界観ですが、賀川豊彦が最晩年に著した『宇宙の目的』はまさに世界と宇宙に目的を見る、という壮大なビジョンが描かれています。ベストセラー作家としての賀川豊彦の作品群としては、まだ十分に解読されていないなかなかハードな書物なのですが、さまざまな悪(宇宙悪)と不条理を克服してもなお希望のつなげる宇宙の物語を開陳しています。賀川はこれらの人生と社会の諸課題を特定の党派・イデオロギーからとらえるのでなく全人類的な課題としてわれわれに遺しました。『宇宙の目的』の最終ページで述べています。

宇宙悪よりの解脱救済の道を、昔から人間は三つの角度から考えた。第一はインドの宗教の形式、すなわち、虚無思想である。第二は西欧思想として発達した有神的救済の道である。第三は近代科学思想による宇宙悪の追放である。私は、この三つはたがいに対立するものではないと考える。これらは人間の意識の上に発生するものである[19]

インド宗教を、虚無主義と表現し否定的な評価と受け取れますが、この数年前に諸宗教について書いた『東洋思想の再吟味』では、むしろ日本仏教についての深い洞察を加えています。生の不条理と、社会的不正義、不平等に対して21世紀の宗教復権は意味がある、と筆者も考えています。
しかし、もし、宗教がテロや暴力や戦争そして国家権力や政治的イデオロギーと結びついて暴力の正当化に使われるのであれば、これは危険極まりありません。国家(政治)と市民社会(社会活動)とは区別すべきです。市民社会の中に隣人愛、慈悲の心、仁愛といった人類愛と博愛を発揮して社会実践を行うべきであり、国家が上から下へ「愛」を強調すべきではないでしょう。まさに賀川豊彦が平和と福祉の広範な領域で活動した精神的パワーとは、このような市民どうしの友愛でした。今日でもここから多くを学べるはずです。
今回のシンポジウムが、このような日本社会での「友愛と連帯」をさらに一歩進めるものになればよい、このように期待しております。








[1] 1919830日、友愛会七周年大会で会名を「大日本労働総同盟友愛会」と改称。そのときの「宣言」の一節(『勞働者新聞』19199.15)。
人間はその本然に於て自由である。故に我等勞働者は如斯宣言す、勞働者は人格である。彼はたゞ賃金相場によって賣買せらる可きものでは無いと。彼はまた組合の自由を獲得せねばならなぬ。資本が集中せられて勞働力を掠奪し、凡ての人間性を物質化せんとする時に勞働者はその團結力を以て、社會秩序の支持はたゞ黄金にあるのでは無くそは全く生産者の人間性に待つものであることを資本家に教へねばならぬ。
  殊に機械文化が謬れる方向に我等を導き去つて以来、資本主義の害毒は世界を浸潤し生産過剰と恐慌は交々至り、生産者はその工場より追はれ然らざるも彼は一個の機械の附屬品としてその生理的補給を繋ぎ得る程度の賃銀に甘んぜねばならぬこととなった。・・・
また1919820勞働者新聞』で次のように言う。
「凡て奴隷は組合を持つて居らない。組合を持つものは人格者である。我等日本の労働者は、人形よりも奴隷よりも強く生きたい。我等生産者は人格である」。「労働者崇拝論」賀川豊彦全集第10巻(キリスト新聞社、1964年)7
[2] 「連合白書」(201512月発行)9頁。また、同白書の38頁では「労働者を労働力ではなく人として尊重する社会の実現」ともいわれている。
[3] ハンナ・アレント『人間の条件』(筑摩書房、1994年)第三章参照。本稿ではアレントの区別の「労働」(labor)「仕事」(work)「活動」(action)のすべてを「働くこと」「労働」として表現する。
[4] 同書、345頁。「奴隷労働と近代の自由な労働との主要な相違は、近代の労働者が、運動の自由、経済行動の自由、人格の不可侵性など、人格上の自由をもっているという点にあるのではなくて、彼らが政治領域への参加を認められており、市民として完全に解放されているという点にある」。
[5] 経済学と倫理学・哲学との接点で書かれた近年の良書、チェコの経済学者・トーマス・セドラチェク著『善と悪の経済学』(東洋経済新報社、2015年)210頁参照。
[6] 賀川豊彦『労働者崇拝論』(1919年)20頁。「更に、我等は日本に於ける工業界の特殊現象として、工場内に於ける女子の勤労の多大なるを思ふが故に、同一労働に従事する男女労働者の同一賃金を要求し、彼等の苦悩の削減せられんことを祈る」。
[7] 拙著『実践の公共哲学』(春秋社、2013年)54頁。
[8] T・セドラチェクは古代メソポタミア文明の人類最古の文学作品ギルガメッシュ叙事詩の解読から、現代の学生たちによるウオール街占拠に至るまでの経済の歴史を『善と悪の経済学』で叙述した後に終章で次のように経済成長神話に警告を発している。「いま私たちが直面しているのは、資本主義の危機ではなく、成長資本主義の危機である。・・・・心地よいエレガントな解決は、成長である。成長はすべての問題を解決してくれるように見える。だから、『ゼロ成長』などと言われるとうろたえてしまう。だが、すでにできるだけの成長はしてしまったとしたら、どうだろう」474475頁。
[9] 同書29頁。「人間をヒト・ロボットとして支配することは、はるか古代(メソポタミア文明)から独裁者の夢だった。横暴な支配者は、効率は家族の絆や友情とは両立しないと考える。人間を単なる生産・消費単位とみなす傾向は、社会主義的ユートピア(理想郷)、いや、正しくはデストピア(暗黒郷)にも見られる。デストピアの経済は、生産・消費単位としてのヒト・ロボットしか必要としていない。このヒト・ロボットは、ホモ・エコノミクスというモデルに、的確に、しかし痛々しく表現されている」。
[10] 近代の労働は「分業」「分化」を前提にしているので、人はどうしても断片化、部品化されて全体を見失う傾向がある。
[11] 拙著『宗教と公共哲学』(東京大学出版会、2004年)111頁。
[12] 憲法では個人主権たる基本的人権は保障されているが、中間集団がもつ主権(=領域主権)は21条の「結社(association)の自由」に保障されていると考えてよい。ただし日本では中間集団の主権がこれ以上深く研究されていない。人権は明治期の自由民権論者以来「天賦人権論」と呼ばれて自然権として天から与えられた権利のように庶民に定着したが、領域主権の方も「天賦信託論」として定着させるべきもの。協同組合基本法が憲法的なレベルで意味づけられるためにも今後に議論が深められるべき分野である。
[13] 筆者はこれを国家主権ではなく領域主権に基づく「コープとコーポのダイナミズム」を通した創発民主主義の形成と呼んできた(拙著『実践の公共哲学』147頁)。
[14] 賀川豊彦『労働者崇拝論』13頁。「今日の様な危険至極な資本家が工場主で有つては、とても頭上りが無いから、今日の工場経営の『株主専制主義』を排して、被治者即ち労働者の民本主義的立憲統治を要求せねばならぬのである」。
[15] 賀川豊彦は「自由組合論」(1921年)の第6節「ギルド組合の可能性-消費者組合と生産者組合の協力-」で以下のように論じている。「暴力革命を起すまでも無く、社会が附加して居る附加価値は、社会が自営的にやるようになれば、資本家が欲しいと云つても取れ無くなるのである。此処に消費組合運動が、ロバート・オーエンのやうな社会改造家によつて叫ばれた所以である。即ち消費組合を造ることによつて、商業的資本主義は暴力革命を用いずして倒すことが出来る筈である。然しこれだけでは工業的資本主義―即ち製造業を独占して製造の上で暴利を貪り、一方では労働者を虐使して自分だけの幸福を計らんとする資本主義を倒すことが出来ないから、我等は生産者組合即ち労働組合を作つて、工業的資本主義を倒す必要がある。即ち消費者組合と生産者組合はギルド精神によつて今日の資本主義的自己中心の社会組織に変つて世を支配せねばならぬ」。「全集」第11巻、13頁。
[16] 12参照。
[17] 日本労働者協同組合連合会編「協同労働の協同組合2015Workers11頁。
[18] 2016727日、第94回国際協同組合デー記念中央集会「資料」参照。
[19] 賀川豊彦『宇宙の目的』「全集」第13巻、454

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