2018年1月20日土曜日

ウエストミンスター大教理問答における「神を見る」

ウェストミンスター大教理問答における「神を見る」

石丸 新


1.問86での「神の顔を見る」

 見えない教会の会員が死の直後に享受する、キリストとの栄光における交わりの局面の一つとして、この上もなく高い天で光と輝きのうちに神の顔を見ることが挙げられている。
 これは、ウェストミンスター信仰告白第32章1節での内容をそのままに受けたものである…the highest heavens, where they behold the face of God in light and glory, …。
下線部の翻訳は、「神の御顔を仰ぎ見る」と「神の御顔を見る」見るに分かれる。単純な「見る」では畏れ多いと考えて「仰ぎ見る」としたのか。
 大教理86の翻訳も同様に、「仰ぐ」「仰ぎ見る」「見る」に分かれる。証拠聖句Ⅰコリント13:12。 新共同訳では、顔と顔とを合わせて見ることになる。文語訳では、顔を対(あは)せて相見(あひみ)ん。「対」を「あわせる」と読ませる、すなわち合わせるに「対」の振り漢字を充てることによって、face to face(prosopon pros prosopon)の意を伝えた。対面。
 もう一つの証拠聖句Ⅰヨハネ3:2。新共同訳では、御子をありのままに見る。as he is
 ここからしても、大教理 86  behold の訳は単純な「見る」がふさわしい(岡田訳、宮﨑訳)。地上にある限りは、高く挙げられ、父の右に座しておられるキリストを仰ぎ見るが、死の直後に至高の天に受け入れられた者は、そこで神を見る。父なる神と主イエス・キリストと聖霊とを見る。垂直ではなく、水平に。(問90で後述)。

 ウ告白 32:1 の改革派訳ほかが「神の御(み)顔を見る」としたのに対し、1953年の松尾訳が「神の御顔を視る」としていたのにぜひ注目したい。「視」は旧漢字だが、常用漢字「視」の読みは「シ」に限られる。現在は「視(み)る」は表外の訓読みだが、意がよく伝わってくる。
 「見る」は、視覚で捉えることを表すのに幅広く用いられる、最も一般的な用語。(例)前を見る、外を見る、夢を見る。
 これに対して、「視る」は、視覚を注意深く働かせてつまびらかに観察する、調査する、判断することに用いる。(例)現地を視る、被害状況を視て回る。
 ウ告白32:1の松尾訳が「神の御顔を視る」としたことの意味は大きい。目(ま)のあたりに見る、注視する、凝視する が beholdの意味するところだが、熟視するも捨てがたい。

 一般的な動詞「見る」(orao)を多用するのはルカであった。注意深く読めば、救済史の要所要所での用例には「視る」の意が込められていたことに気付く。
   ルカ2:15 主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか
   ルカ2:17 その光景を見て
   ルカ2:20 見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので
   ルカ2:30※ わたしはこの目であなたの救いを見たからです
     …
   ルカ24:39 わたしの手や足を見なさい。 まさしくわたしだ。
         触ってよく見なさい
      ※岩波版 佐藤訳では、「私の両の目は、あなたの救いを拝見したから  
      です。」ここで特に「両の目」と言ったのは、28節「シメオン自らが幼子
      を両腕に受け取り」の「両腕」と対応させてのことである。
       幼な子としてこの世に降ってこられたメシア・イエスの重みを両腕にひ
      しひしと感じ、両目が幼子イエスをまざまざと見つめる。長きにわたる預言
      はここに成就し、救いが現実に来た。神の国は確かに到来した。

 ウ告白 1964年改革派委員会訳では、32:1の箇所は「神のみ顔を見る」と訳されてい
た。1963年改革派委員会訳大教理86での「神のみ顔を仰ぎ」とは一致させなかった。批判を込めたのか。
 折角の「見る」を2006年の改革派委員会改訳試案は「仰ぎ見て」とした。惜しい。  聖書の諸訳にも見られるように、日本の文化ではともすれば神に関わることについ   て、必要以上の敬意表現に傾く。

2. 問90での「神を直接に見る」
 
 問86は問90に昇りつめる。その内容が格段に高められる。 見えない教会の会員が栄光において享受する、キリストとの完全で満ち満ちた交わりが、考えも及ばない喜びを軸として展開される。
 審判の日に義人に対してなされることを列挙する問90の答で特に注目すべきことは、
「父なる神と私たちの主イエス・キリストと聖霊とをいついつまでも直接的に見て」(2014年宮﨑訳)と言われているところである。
 問86 死の直後に享受する交わりでは「神の御顔を見て」とあったところが、審判の日のことを告げる問90では、「三位一体の神を見て」と言われる。しかも、「いついつまでも直接に見て」。

 上の下線部の原文は in the immediate vision of である。カタカナ語ヴィジョンは未来像の意で身近な語だが、ここでの visionは本来の「見ること」「目撃」の意で用いられている。なおウエストミンスター信仰基準での vision の用例はここのみ。
 大教理86での beholdの証拠聖句 Ⅰヨハネ3:2 とⅠコリント13:12 は共に、大教理90での immediate vision の証拠聖句でもある。90で追加されたⅠテサロニケ4:17,18は主が来られる日に、地上に生き残っている者が空中で主と出会うために雲に包まれて引き上げられ、そこでいつまでも主と共にいることを告げている。to meet the Lord in the airと言われる meetingこそが、光と輝きの内なる immediate visionにほかならない。

 形容詞 immediate は、im/mediateに分解される。この場合 imは否定の in。mediateは media(pl.) medium(sg) から。すなわち、何の媒介もなしに、直接に、じかにの意。
雲の柱・火の柱によらず、この目でじかに、まじまじと、三位格にいます神を直視する、
凝視する、熟視する、正視する。何にも妨げられることの無い目撃こそが90問でのimmediate vision の言うところである。「顔の覆いを除かれて」(Ⅱコリント3:18)。

 上のⅠテサロニケ4:18「(そこで)いつまでも主と共にいる」に結ばれるのが、天上の礼拝を描き出すヨハネ黙示録 22:3,4 だと思う。90問の証拠聖句に欲しいほどだ。
 …and his servants shall serve him: And they shall see his face;… この see his face は、新共同訳では「御顔を仰ぎ見る」だが、文語訳では、「その御顔を見た」。今から身の引き締まるのを覚える。 岩波版 小河訳でも「彼の顔を見」。注に言う。「顔と顔を合わせて神を見る、の意味で、穢れた人間には許されず(出33:20、なお、創32:31 参照)、義人にのみ与えられた約束であった(詩17:15,42:3)。。

 日本キリスト改革派教会創立六十周年記念宣言(「週末の希望についての信仰の宣言」)二(三)「栄光の王国の先取りとしての礼拝」 に次のとおり言われている。
   地上の教会であるわたしたちは、全世界の教会と共に、また天上の群れと一
   つになって神を礼拝し、栄光の王国の礼拝を先取りして味わい、永遠の安息
   を確信し、御顔を仰ぎ見る日を待ち望みます。 (2016年刊『宣言集』117
   ページ)
 下線部には注として ウ大86,90が付されている。とすればこれまでに考察したとお
り、「御顔を見る日」とするのが良かったか。あるいは「御顔を見つめる日」。
   
 同宣言三(二)「死後の状態」に次のとおり記されている。
   天上の勝利の教会へ移された魂は、地上にあるよりもさらに豊かなキリスト
   との栄光の交わりにあずかり、先に召された聖徒たちとの愛の交わりを喜び、
   彼らと共に神の御顔を仰ぎます。(2016年刊『宣言集』121ページ)
 下線部は同様に「神の御顔を見ます」とするのが適切か。あるいは「神の御顔を見つめます」。ここの参照聖句にⅠヨハ三2が欲しいほどだーー「…なぜなら、そのとき
御子をありのままに見るからです。」

 改革派委員会訳大教理86では「神のみ顔を仰ぎ」、90では「父なる神と主イエス・キリストと聖霊を永遠に直接見て喜ぶ…」。本宣言執筆者は86での訳語にひっぱられたのであろう。
 
3.問90での「神を満ち足りるほどに喜ぶ」

 本問では、三位の神を直接に見ることと、この神を心ゆくばかりに喜ぶことが直結されている。原文では次のとおりーー
      in the immediate vision  and
                           fruition
                           of God the Father,
                           of our Lord Jesus Christ, and
                           of the Holy Spirit,
 神を見ることと神を喜ぶことが、単純な並列のことではなく、一体のことであることが構文から明らかに見てとれる。ここでの証拠聖句には挙げられていないが、詩篇17:15が注目に値する。
      I will behold thy face in righteousness:
                  I shall be satisfied, when I awake, with thy likeness.
 岩波版 松田訳では、「しかし私は、義にあってあなたの顔を視※、目が覚めたとき、あなたの姿に満ち足りよう。」
      ※神の顔を見る と諸訳の記すところを、松田は一貫して神の顔を視る と訳す
       11:7, 27:4, 63:3)。直視、正視、注視のさまを言い表す。
 関根訳では、…あなたのみ顔を見、…み姿をみてあき足りるであろう。
まさに、満ち足りるとは飽き足りるほどのことだ、と知らねばならない。なお文語訳で既に飽足(あきた)ることを得た。

 問90での fruitionは なじみの無い語だが、ウ告白7:1にも用いられている。…yet they could never have any fruition of Him…諸訳では神を喜ぶということ/神を喜び
とすること。 成果/収穫の語を充てる訳本もあるが、これは、fruitからの連想と思われる。事実、辞書を引けば、結実、成果の訳語を目にするが、辞書によっては、「結実」などの意は fruitとの誤った連想と明記して、注意を促している。(例)研究社リーダーズ英和辞典。
 OEDで fruitionを引けば、冒頭に the action of enjoyingが挙げられている。これに続くのが the pleasure arising from possessionである。そのうえで、fruitionが誤って fruitと結び付けられていることに注意を促し、このような誤用は英国の辞書でも米国のWebsterやWorcesterでも支持されていない、と注記している。先に触れたリーダース英和辞典での注記はOEDに従ってのものと思われる。
 
 fruitionは ラテン語 fruor (to enjoy)に由来し、『所有・実現』の喜びを意味する。
 ウ大教理 90での fruitionは、三位の神を我が主、我が神としていただいていることの無上の喜びを言い表している。 まさに、躍るばかりに神を喜ぶ。三位の神をいついつまでも直接に見て、この三位の神を喜ぶ。

 このように喜ぶさまを表す日本語に「法悦」がある。新明解国語辞典では、仏の道を聞き、随喜し、全身を仏にゆだね、絶対安心の境地に浸ること。肝にはまる字釈だが、キリスト教教理問答には使えない。
 「喜悦」もあるが日常語ではない。「歓喜」も考えられるが、結局のところ「喜ぶこと」に落ち着く。飽き足りるほどに喜ぶことを宮﨑訳では「満ち足りて喜ぶこと」と言い表した。

 ウ大教理第1問での「神を永遠にこの上なく喜ぶこと」は、第90問での「父なる神と私たちの主イエス・キリストと聖霊とをいついつまでも直接に見て、満ち足りて喜ぶこと」に見事に昇りつめる(いずれも宮﨑訳)。この直接に見ること (the immediate vision)
を、Vincent はウ小教理38を解説するなかで、the immediate and beatifical vision of
his faceと言っている。一般の辞書にさえ、beautific visionが採録されていて、驚くばかりである。 字釈は次のとおりー〔神学〕至福直感(天使や聖徒が天国において天主を見ること);神の栄光〔天国〕の示現。

 聖書の告げる「神を見る」ことには 神秘的な要素は全く無い。「見神」についてのこの上なく有益な論述は、アウグスティヌスの『神の国』第22巻にある「神の直視」の部分である。ウ大教理90での immediate visionの訳語としては、「直視」に勝るものは無い。…「直接に見て」、「直接に視て

 fruitionの意味する満ちあふれる喜びは 詩篇作者のしばしば歌い上げるところである。たとえば、16:11。
   in thy presence is fulness of joy
   文語訳 なんじの前(みまへ)には充足(みちたれ)るよろこびあり
   他の諸訳では、満ちあふれる喜び、満ち足り、あふれる…
   充足・充満・満足・横溢の意がさまざまに言い表されている
 次に63編を見れば、2節では神を見ること、神に目を注ぐこと、5節では神に飽き足りることが歌われて、うるわしい対を成している。
    2 To see thy power and thy glory, so as I have seen thee in the sanctuary.
     5   My soul shall be satisfied as with marrow and fatness; and my mouth shall
       praise thee with joyful lips.
  2節の I have seen thee を 文語訳は「目をなんじより離れしめざりき」と言い表した。
これは胸に迫る。注視、熟視。
 5節の be satisfiedを飽く、飽き足りとしたのは、文語訳、口語訳、関根訳。満ち足りるとしたのは、新改訳、新共同訳、松田訳、フランシスコ会訳。
 5節に marrow and fatness(髄と脂)の比喩が用いられていることからも、be
 satisfied は「満ち足りる」ではなく「飽き足りる」とするのが自然だと思う。my
 mouthが用いられていることからしても。
  ウ大教理90で「飽き足りて喜ぶこと」とするのはどうだろうか。教理問答書にそぐわないことはないような気がする。
 上の5節 文語訳が「わがたましひは髄と脂とにて饗(もてな)さるるごとく飽(あく)ことをえ」と、下線部を付して丁寧に表現したとおり、私たちは神の周到なおもてなしに飽き足りて喜ぶ。大教理90の折角の fruitionを「喜ぶ」の一語では済まされないものがある。

4. 問90での「喜び」の特質

 (1)約束実現の喜び
  p.7に記したとおり、によれば、fruition は the pleasure arising from possession
 の意である。これを受けるように、リーダーズ英和辞典は先ず達成、実現、成果の訳語
 を挙げ、次いで『所有・実現の』喜びを記す。後者が90問でのfruitionの意味するところである。
  長きにわたり地上で待ち焦がれていたものを遂に手に入れたとの躍り上がるような喜
 びが自分のものとなり、心は満たされる。
  86問 死の直後に、この上もなく高い天で神を見る
  90問 審判の日に、至高の天において父・子・聖霊なる神をいついつまでも直接に見
   て、飽き足りるまでに喜ぶ。・・・これ以上のことはない。
 福音の約束は、ここに何一つ欠けることなく成就された。地上から贖われた十四万四千人の者たちは、玉座の前で新しい歌をうたう(黙示録14:3)。とこしえまでも。

 90問では、実はfruitionに先だって、キリストの右に置かれた者が「考えも及ばない喜び
に満たされる」ことが明記されているーーwhere they shall be・・・filled with inconceivable joys,・・・ここで言う喜び(joys)の究極の姿が、joyを遙かに超えた満ち
足れる喜び(fruition)そのものである。fruitionが現代の英語話者になじみの無いことから、
これをenjoymentと言い換えた現代語訳があるが、それでは、joyとの違いがおぼろになる。
 繰り返すが、fruitionは無上の満足感を抱いて喜ぶこと、すなわち「満悦」そのものである。宮﨑訳「満ち足りて喜ぶこと」ー満悦。これこそ最高度の充実感。

 天国を目指す旅人であるわたしたちは、天国を憧れる。しかし、天国での祝福を待ち焦がれると言う方が、信仰の事態に即していると思う。キリストへと接ぎ木されて神の子とされた者は、地上でたどる旅路において、苦難に耐え、誘惑と闘う。その中で、天国でいただくこの上ない祝福を瞑想し、そのことによって、今、この地上で神の国の祝福を確かに
受け取っていることを確信する。 その確信は、天国でいただく計り知れない祝福を熱望
することへと連なる。

 「沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ」とダビデは訴えた(詩編37:7)。「沈黙して」は、信仰に基づく静けさと安らぎを言い表している。「待ち焦がれる」の語の原意は
「ねじる」で、身もだえするさま、もだえ苦しむ様子描写している。英語では`twist'。
日本語で「ツイスト」と言うとおり。信仰者の旅路には苦悶があり、極度の緊張がある。
自分の内なる罪、特に貪りの罪との闘いのただ中で神の手にすがって助けを祈る。ほえたける獅子のように向かってくる悪魔に抵抗し、信仰に踏みとどまるために、主キリストにはすがりついて力を祈り求める(Ⅰペテロ5:4ー11)。
 ひるむことなく、レスリングの激しさをもって神と取り組むばかりの燃える思いが「待ち焦がれ」の語の示すところである。終わりの日をひたすら待ち望むとは、このように闘い、このように励むことに尽きる。感傷的な憧れとは異なる。

(2)聖さと結ばれた喜び
  90問では、父・子・聖霊の神を直接に見て、満悦することにおいて、体と魂の両面で、完全にきよく幸せな者とされることが確信されている。…made perfectly holy
and happy…。
 イエスは言われたー「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」(マタイ5:8)この箇所での清さ・幸い・神を見るのトリオを大教理90でそのままに見る思いがする。
 英語でのここの`happy`を日本語で「ハッピー」と書けば、 途端に価値が下がる。
聖書の告げる happy, happiness は神との関係、人との関係、世界との関係における十全
かつ円満なあり方を指している。
 名詞 聖さと幸いの複合は、天使に対する神の摂理についても見ることができるー大教理 19答・・・神は、また、残りの天使たちを聖さと幸福のうちに揺るぎないものとし、
御心のままに、彼らすべてを、神の力と憐れみと正義の行使のために用いられます。(宮﨑訳)
 形容詞 happy が単独で用いられるのは、告白4:2である。……善悪を知る木から食べるな、という命令を受けたが、これを守っている間は、神との交わりにおいて幸せであり、…。(改革派委員会訳)
 神の恵みによって贖われた者は、地上にある限り、残る罪との闘いに従事し、聖化の道
を歩むが、時に罪に陥り、誘惑に打ち負かされる。しかし、神の不変の愛とキリストとの結合、さらにキリストの絶えざる執り成しによって、堅忍を与えられ、救いに至るまで固く守られる(大教理79問)。
   哀歌3:25-26は告げるーー
     主に望みをおき尋ね求める魂に
       主は幸いをお与えになる。
     主の救いを黙して待てば幸いを得る。

   大教理86問 見えない教会の会員のは、死の時 全く
      ↓  聖くされる。    ↓
      90問 審判の日に、義人は体と魂の両面で、完全に聖く幸せな者とされる。


 おわりに

  地上を旅するわたしたちは、自分の死を厳かに思い、終末の完成を心を躍らせて
 瞑想したい。満悦(fruition)を目指して地上の生を全うしたい。死後と終末を巡って、
 ウエストミンスター大教理問答 86問および 90問に勝る告白は他に無かったし、これからもおそらく無いであろう。この両問に深く心を沈めたい。
 地上の命を許される限り、声高らかに歌いたい。

       したしくわが主に まみえて喜ぶ
           ときはちかし。
       みもとにかえらば、つきせぬ命(いのち)を
           代々(よよ)たのしまん。
             (1954年版現行讃美歌165番4節)

                      (石丸 新)












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