2018年3月8日木曜日

ウエストミンスター大教理問答の洗礼論

ウエストミンスター大教理問答の洗礼論(石丸新)


1.キリストと接ぎ木されること
 洗礼の定義を下す165問では、水の洗いをもってキリストがしるしとなし、証印となし
てくださることが3点にわたって述べられている。
  ① ご自身へと接ぎ木してくださること
  ② ご自身の血による罪の赦しと御自身の聖霊による再生
  ③ 子とすることと永遠のいのちへの復活
 冒頭に置かれていることからも分かるとおり、キリストへと接ぎ木されることingraftingは限りなく重い。
 ② の赦し remission および再生 regeneration、③ の子とすること adoption および復活 resurrection がいずれも ーtionに終わる名詞であるのに対し、①の ingraftingが動名詞であることに注目したい。
 農業での接ぎ木を表す名詞は engraftment/ingraftmentである。
大教理165がことさらに動名詞 ingraftingをここで用いたのはなぜか。しかも177問に
再び ingraftingを重ねた意図は何であったのか。
 
 キリストとの結合(union)とは何かと問う大教理66は、答でキリストに……分離できないように結び合わされることだと言う(joined)。この結び合わされているさまが命に溢れていることを特に鮮やかに表現するのが、動名詞ingraftingだと思う。キリストが主権の
恵みをもって、この私を分離できないように、ご自身へと接ぎ木してくださる。接ぎ木されたからには決して離れることがない。引きちぎられたり引き剥がされたりすることもない。動名詞の活力を十分に読み取りたい。また、翻訳に活かしたい。
 大教理165でのingraftingをあたかもingraftmentであるかのように、ご自身への接ぎ木
とする訳が見られるが、ここはご自身へと接ぎ木してくださること(宮﨑訳)、彼に接がれたこと(岡田訳)とするのがふさわしい。
 なお、小教理94にも our ingrafting into Christ が用いられているが、ここでも、キリストへと接ぎ木され、キリストの命を受けて新しく活かされるという恵みの躍動が描き出されている。
 小教理30では、有効召命において私たちをキリストに結び合わせる聖霊の働きが言われ
ている。ここでの uniting us to Christ を、明治12年訳は「キリストに接がしむる」と言い表した。まさに、キリストへと接ぎ木してくださることに基づくキリストとの結合である。
 この意味で、ingrafting はキリストに接ぎ木されることとキリストに接ぎ木されているさまの両面を表すものと言える。

 ingrating into Christ のinto も注目に値する。このintoは、大教理165,177での証拠聖句、ガラテヤ3:27をそのままに反映している。For as many of you as have been
baptized into Christ …このinto(eis)を的確に言い表すのに、諸訳は工夫を施してきた。
 教理問答でのinto Christ を、キリストの中に、と訳したりはしない。この場合は、
キリストに接ぎ木されるよりも、キリストへと接ぎ木されるとする方が日本語らしい。intoの勢いを伝えるためにも。

 ハイデルベルク問答70では、洗礼に際し、キリストの肢(えだ)として聖別されること
が言われている。キリストの一部分(Glied)とする訳もある。 同74では、幼児もまた
洗礼によって、キリストの教会の肢とされることが言われている。キリスト教会に接ぎ木
されるとする訳もある。einverleibt…(be taken into) えだとして入れられるの訳もある。
 ウ大教理は、ずばりingrafting を用いて、事柄を明確にした。ヨハネ福音書15章にある
イエスの言明は限りなく重い。

2.子とすることのしるし
 洗礼の定義としては、ウ告白28章1節より、ウ大教理165の方が詳しい。そこでは、、水の洗いをもってキリストがしるしとなし、証印となしてくださることの一つとしてadoptionが挙げられている。しかも、キリストへと接ぎ木されることに密接に結ばれる形で子とすることが言われているのに注目したい。
 キリストへと接ぎ木されている者が、罪を赦され、再生させられた者として、神の子の身分を授けられ、地上にあって、神の子としての厚遇を受ける。ひとえに、キリストご自身
の血によること、また、キリストご自身の御霊によることである。

 ウ告白28:1で既にキリストに接ぎ木されることが挙げられていたが、子とすることへの
言及は無い。そこでは、受洗者がイエス・キリストを通して神に身をささげて新しい命の
中を歩くことが言われている。これに対応するのが大教理165での子とすることと考えることができようか。神の子の身分を授けられた者が神の子らしく「新しい命に生きる」
(証拠聖句ローマ6:4)。

 キリストへと接ぎ木されていることと、神の子とされていることの直結が、日本キリスト改革派教会創立六十周年記念「終末の希望についての信仰の宣言」に明白に述べられて
いる。
 二(三)……また主は、洗礼を通して、御自分に接ぎ木されたわたしたちが、罪に死に、
 復活の新しい命に生かされ、キリストのものとされていることを確証されます。
 二(四) わたしたちは、御霊によって、キリストにあって新しく創造され、神の子とさ
 れ御国の相続者とされています。
 なお、二(二)では既に、次のとおり言われていた。天上の復活の主キリストは、聖霊に
 よって、わたしたちを御自分へと結び合わせ、死から命へとよみがえらせ、……。
 キリストに結び合わされたこの民こそ、新しい契約の民、聖霊の神殿、来たるべき世の
力に満ちたキリストの体、キリストの花嫁である教会です。
 *上に言う「キリストに結び合わされる」ことが即ちキリストに接ぎ木されることで
  ある。

 最後の審判の日に、新しい天と地が現れ、上の国は栄光の王国として完成される。
新しいエルサレムにやって来るのは、「……栄光の神の子たち、キリストにある新しい
人類です。この神の民は、世々限りなく主と共に統治します。」(同宣言四(四)

3.洗礼の公的性格
 問165の答えに次のとおり言われる---and whereby the parties baptized are
solemnly admitted into the visible church,…
 ここのsolemnlyは従来「厳かに」、「厳粛に」と訳されてきたが、宮﨑訳では「正式に」
となった。洗礼式を支配する張りつめた厳かさ、あるいは式に漂う荘厳な空気は、事柄
にふさわしい。しかし、ここでは、洗礼による教会への入会が公式のものであることが
重要なポイントである。
 日本キリスト改革派教会『式文』洗礼式誓約に次のとおり記される。「(氏名)、あなたは、次の信仰を告白し、誓約をしなければなりません。これによって、あなたは神と
教会との厳かな契約に入れられます。」
 参考としたと思われる南長老教会版Directory for Worship では次のとおりーーー
…、 by which you enter into a solemn covenant …  ここでのsolemnは、公の、
正式の意。
 辞書によれば、solemn=宗教上の形式にのっとった〔法〕正式の
 〔例〕solemn oath 正式の誓約

 ヴォスの注意書きに注目したい…このsolemnlyは教理問答の中で「公に」とか
「公式に」という意味で使用されていることは明らかである。(ウ大教理講解〔下〕
p.82)
 問167の答に「洗礼時に行った公の誓約」(宮﨑訳)が出る。our solemn vow made
therein 諸訳では、おごそかな誓約、厳粛な誓約。この solemn vow をもって、見える
教会へと正式に(solemnly) 受け入れられる(165問)。
 洗礼の公的性格は、165答の続きから明らかに補強されているand enter into an open
and professed engagement to be wholly and only the Lord's.  openは、公の、公然
たるの意。
 professedは、誓約を伴った、誓約に基づく、誓約しての意。
 engagement は誓約、誓約に基づく関係、契約関係の意。

 問166の答……till they profess their faith in Christ and obedience to him 及び…
professing faith in Christ, and obedience to him での profess 及びprofessing は、
公に言い表す/公に言い表しているとの公的性格を描き出している。同時に165の正式に
受け入れられる、公の契約関係と響き合っている。
 辞書でprofessを引けば、「~への信仰を告白する」がもちろん出るが、それに並べて、
他動詞「教団に正式に入会させる」が記される。なお、自動詞の場合の例として「宣誓
して宗門に入る」が挙げられる。 一般の辞書から改めて教えられた。

4.洗礼を生かして用いるべき義務
 問167は次のように問う…How is our Baptism to be improved by us? 答は次のとおり始まる…The needful but much neglected duty of improving our Baptism, is…
 ここで用いられるimprove をどう記せばよいか。向上させる、改善する、改良する、
増進するが第一義だが、第二義に,、十分に[うまく]利用する、が挙げられる。すなわち、
事柄の目的にかなうように、その趣旨に合致するように、あるものを用いる、の意。
to good effect の意。望ましく、かつふさわしい用い方が、ここでは求められている。
 諸訳では、よく用いる、生かして用いる。適切に用いる、も可能か。
 同じ用法が195にも見られる。誘惑を生かして用いる、誘惑を益となるようにきよく用いる。

 洗礼は一回限りであるだけに、これを生かして用いる場が他の人の洗礼に立ち会う時であることはよく分かる。167の答が示すとおり。しかし、そこでは、他の人の洗礼への臨席に先立って、「試練の時」(誘惑)が挙げられていることに目を留めなければならない。
 試練の時にこそ、自分の受けた洗礼に立ち帰らなければならない。洗礼がすぐれて
公的なものであることに思いを致さなければならない。洗礼時に行った公の誓約を真剣に
考えなければならない。
 167の答を声に出して読むこと、事柄の重大さが身に迫ってくる。果たすべき責務の
広がりに圧倒されるばかりである。
 さらに、主の祈りの第6の祈願を扱う問195との生き生きとした関連に目と心を奪われる。そこでは、サタンの企みと魔力の現実が一枚の絵のように描き出されている。同時に、
サタンを制服する神の力と勝利とが歌い上げられている。しかも高らかに。
 167問,195問とはセットとなって、神の計らいの広がりと奥深さとを私たちに告げている。大いなる牧会書簡と言える。ウ小教理では味わえないものが、ここにある。
 167の答の証拠聖句の一つであるローマ6:3-5で、パウロはキリスト・イエスに結ばれる
ために洗礼を受けたその意義を知らないのですか、と問うている。167答原文のthe death
and resurrection of Christ into whom we are baptized のこなれた訳に到達するのは
難しい。 Rom.6:3…were beptized into Jesus Christは、さまざまな工夫を施して邦訳
されてきた。
 キリスト・イエスに合ふバプテスマ(文語訳)
     ”    あずかるバプテスマ(口語訳)
     "    結ばれる為に洗礼を受けた(新共同訳)
     ”    つくバプテスマ(新改訳)
 洗礼を受けてキリスト・イエスと一致したわたしたち(フランシスコ会訳)
 キリスト・イエスへと洗礼を受けたわたし達(塚本訳)
 キリスト・イエスと一つになるためのバプテスマ(柳生訳)
 キリスト・イエスへと洗礼を受けた私たち(青野訳)
    *「……へと」はeisをそのままに置き換えたもの。

 167答では、次のように訳されてきた。
  その御名に入れて洗礼せられたキリストの死と復活(岡田訳)
  わたしたちが洗礼によって入れられているキリストの死と復活(改革派委員会訳)
  洗礼によって結び合わされたキリストの死と復活(鈴木訳)
  洗礼によって接ぎ木されたキリストの死と復活(松谷)
  洗礼によって一体とされているキリストの死と復活(宮﨑訳)
      *上のローマ6:3諸訳に照らせば
       自分たちが洗礼によって 一つとされているキリスト
                   一つに結ばれているキリスト
                   一体とされているキリスト
       のいずれかが順当と考えられる。 松谷訳の 「接ぎ木された」
       は、一つとされているさまを巧みに描き出されている。
       165答 キリスト御自身への接ぎ木と呼応している。

 洗礼を生かして用いるべき道は多岐にわたるが、わけても、キリストに接ぎ木されて、キリストと一つにされていることに深く思いを致し、そのキリストの死と復活とから力を
引き出さなければならない。キリストに接ぎ木されているという動かし難い恵みの事実 が罪に打ち勝つ力の源である。接ぎ木に優る比喩は見当たらない(ヨハネ15章)。
 ジュネーブ問答345で既に、私たちがキリストと一つであることが明確にされていた。
(ヨハネ17:21)

5.キリストへと接ぎ木されることと キリストとの結び付き
        (ingrafting)                             (interest)
  165答では、洗礼がキリストへと接ぎ木されることのしるしであり証印であると明言
されている。
 172答では、主の晩餐に臨むにあたり、キリストとの真の結び付きを持っていることを
心に留めるべきことが求められている。
 両者は見事に響き合っていると読める。interestの上のような用法を日常目にしないこと
から、これを「関心」とする訳本もあるが、ここでのtrue interest in Christ は、「キリストに真にあずかっている」(松谷訳)、「キリストとの真の結び付き」(宮﨑訳)が意を
伝えている。
 水の洗いではキリストへの接ぎ木を証印され、主の晩餐ではキリストとの結び付きを
深く思う。

 172答でのこのinterestにかかわる証拠聖句のうち、特に詩編77:2-13は神の主権の恵み
に基づく聖徒の堅持と証言してやまない。神との結び付きを躍動感をもって告げている。
なお、欽定訳聖書には、172での意味のinterestの用例はない。
 ウ告白27:1は礼典全般の定義を記す部分であるが、そこに礼典が確証するものとして、
our interest in Him (Christ) が挙げられている。関心、権利の訳も見られるが、ここでの
interestは、関係、関わり、あずかること、結び付きがふさわしい。
 証拠聖句のうち、ガラテヤ3:17に3:27を加える版もある。3:27のみとする版もある。
3:27 新共同訳、洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからである。
 なお、ウ告白の明治13年訳では「信者ノキリストニ興ル事ヲ堅フシ」とあり、意を
伝えている。

 ジュネーブ問答で、この「結び付き」が既に明らかにされていた。358では、聖晩餐
に近付くに先立って自分を検討すべき内容として、キリストのまことの肢であるかどうかが挙げられる。 渡辺は358, 359を解説して言う…「キリストの真の肢であるかどうか、すなわち、キリストと真実に結び付いているかどうか。キリストと結び付いていないにもかかわらず、聖晩餐の印を受けるのは相応しくない。…相応しくあるとは、受ける側が条件付けられることを意味するのでなくキリストと結び付いている必要があることを言う(p.271)。
 *下線部は、ウ大教理 172での true interest in Christ を思わせる。
  ジュネーブ→ウエストミンスターの流れは随所で認められる。
                                (以上)
                                       
                    

                          


 
  
 





 


 
 
、水  







 
 






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