2018年11月27日火曜日

「希望に生きる」

「希望に生きる」―前にあるものに向かって全身を―

C・バーソロミュー & M・ゴヒーン、宮﨑彌男訳『ドラマとして読む聖書物語』p.206

 聖書によって私たちは、「すべての者がひざをかがめ、…すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえる」日が来ることを知らされています(フィリピ2:10-11)。私たちは、また、被造世界の全体が回復する日が来ることも知らされています。それで、私たちは希望を持ってその日を待ち望むのです。私たちの人生を福音の土台の上に深く据え、今日の時代においても、自分たちの置かれている場所で神のご支配を証しようと努めるのです。私たちは、前にあるものに向かって全身を伸ばすのです(3:13-14)。
 希望はなくてならないものです。それは、今日における私たちの宣教的使命を形成すべき信仰の生命的部分です。「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る」(Ⅰコリント13:13)とパウロは言っています。信仰とは、イエス・キリストによって成し遂げられた救いを、自分自身のものとする手段です。は、その信仰を外に向かって表現します。愛は、信仰共同体の生命そのものです。そして、希望は、神の国が将来必ず実現する、との確かな期待です。それは、将来への揺るぐことのない確信であって、今の生活に意味と形を与えるものです(注70)。私たちは、このことを日常生活の多くのことにおいても知ることができます。例えば、将来医師になりたいとの希望を持って大学に入ったならば、その希望は、あなたの生き方を決めることとなります。コースの選択だけではなく、学びに必要な時間と努力(とお金)を決定づけることともなります。このように、将来に対する希望の故に、あなたの生き方の全体が新しい形を帯び、、新しい焦点を持つようになるのです。
 神の御国の現れについてのキリスト者の究極の希望についても、スケールははるかに大きいのですが、同じことが言えます。レスリー・ニュービギンの言葉で言えば、「歴史的に意味のある行動は、将来の目標について何らかのヴィジョンがある時にのみ可能なのです」(注71)。歴史はどこに向かっているのか、についてあなたと私がどう信じているのか、それが今日の私たちの生活に特別な意義と形を与えるのです。もし私たちが、来たるべき神の国がどのようなものであるかを今の世に証しするように召されていると知るのであれば、そのような御国の到来についての希望は、私たちが今ここで言うことなすことの一切を決めることとなります。もし私たちが、自分たちの宣教の働きの中で、イエスの伝道生涯の言葉と働きに見る刺激と前身運動によって、前に向かって押し出されるのであれば、私たちは、また、やがて来たるべき御国がイエス再臨時に現される!その望みに満ちた期待へと、前に向かって引っ張られるのです。
このように、私たちが、特に何を待ち望んでいるのかは非常に重要なことなのです。にもかかわらず、私たちはしばしば、キリスト者として持っている希望の内容、すなわち、歴史はどこに向かっているということについて、はっきりとした関心を示そうとしないところがあります。私たちの希望がどのようなものか、について常に注意深く吟味することがないので、その内容は常に全く聖書的とは言えないこととなってしまうのです。―これは、重大な影響を及ぼします。なぜなら、(これまで見たように)私たちが将来に何を望むかは、今日における宣教に形を与えるからです。聖書は、歴史の終り、すなわち、宇宙的ドラマの結末についてどう教えているのでしょうか(72)。このような問題について、私たちは、続く最終章において、検討を加えることにします。

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