希望に生きる私たち
―動物たちと共にー
宮﨑彌男
| 16才頃のモモ |
今の時代、私たちの多くにとって、ペットはなくてはならない存在になりつつあるようです。犬や猫も、今は長生きするようになっていて、15年も20年も一緒に過ごしていると、家族の一員のようになると言っても過言ではありません。
これは、犬や猫だけの話ではありませんが、エデンの園の昔から、動物たちは、私たち人間のコンパニオンでした(旧約聖書・創世記2:18-20)。しかし、初めの人アダムにとっては、「ふさわしい助け手」(新改訳聖書、創世記2:18)とはならなかったので、主は、エバをお与えになったとのことです。
以上は、創世記1,2章の教える動物の創造物語ですが、その後、3章まで読み進みますと、アダムとエバ夫妻が蛇(サタン)の唆しに負けて罪を犯したため、その結果が動植物を含む被造物の全体に及んだことが記されています。アダムの罪のために「土はのろわれたものとなった」(3:17)のです。この場合の「土」は、直接的には、人の食べ物となる「野の草」を生じさせる土壌を指している(13節参照)のでしょうけれども、さらに広く、被造物の全体が、アダムの罪の故に「のろわれたものとなった」と読むことができるのではないか。使徒パウロの言葉を用いて言えば、アダムの罪の結果、「被造物は虚無に服し」、「うめき苦しむ」ようになったのです(新約聖書・ローマの信徒への手紙8:20,22)。しかし、このことは、「自分の意志によるものではなく」、人の罪によるものでありますので、被造物には、「いつか滅びへの隷属から解放されて,神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれる」との「希望」がある、とも同じ所でパウロは言っています(20,21)。
この「希望」の実現する終わりの日の情景について、イザヤ書11章(クリスマス前のアドベントの季節に教会でよく読まれる旧約聖書の預言)では、次のように描写しています。
「狼は小羊と共に共に宿り、
豹は子山羊と共に伏す。
子牛は若獅子と共に育ち、
小さい子どもがそれらを導く。
牛も熊も共に草をはみ
その子等は共に伏し、
獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
乳飲み子は毒蛇の幼子は穴に戯れ、
幼子は蝮の巣に手を入れる。
わたしの聖なる山においては、
何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。
水が海を覆っているように、
大地は主を知る知識で満たされる」。
何と平和な情景でしょうか。人と動物は主の恵みの内に,共に仲良く生きているのです。
このような、人と動物との間の平和な関係は、聖書によれば、大洪水の後、主がノアと結ばれた契約(「ノア契約」)に基づいているのです。このノア契約については、創世記6~9章を参照。人が余りにも悪くなってしまったので、主は地上に人を造ったことを悔い、全地を覆う大洪水を起こして、地とその中にあるすべてのものを滅ぼそうとされます。しかし、義人ノアとその家族だけは救われました。大きな箱舟を造らせ、その中に入らせて、お救いになります。また。そこには、雌雄一つがいずつの動物も入らせて、絶滅を逃れさせられます。
ノアとその家族、並びに箱舟に入って救われた動物たちを除くすべての生き物は、この洪水によって滅びたのですが、箱舟から出たノアが神を礼拝し、「焼き尽くす献げ物」を献げたとき、その香ばしい香りをかいでこう言われた、と聖書は記しています。
「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いとき
から悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、
二度とすまい。
地の続く限り、種まきも刈り入れも、
寒さも暑さも,夏も冬も,
昼も夜も、やむことはない」(創世記8:21~22)
このように、神は「二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない」(同9:11)と誓われ、そのしるしとして「雲の中にわたしの虹を置かれた」(同9:12~17)とのことです。(注1)
この「ノア契約」は、今日に到るまで有効な神の「永遠の契約」です。このことについて、私たちの先輩・改革派神学者、A・ カイパーの次の言葉に耳を傾け、しっかりと心に留めたい。「神がノアおよびその子孫等に対して立てられた契約は,あなたと私に対しても立てられており、さらには、今いのちの息を持つすべてのものに対してもうち立てられているということ、そして、それゆえに、ノアの時代に現実となった状況は、今の私たちの生活においても現実を支配しているということである」(注2)
このように思いを馳せるとき、ノア契約は、最初に述べたモモちゃんやベルちゃんの生死と決して無関係ではなく、私たちに深い慰めを与える神の永遠の契約であることを知るのです。彼らの生涯と死は,私たちに喜びと悲しみ/暖かさと淋しさを与えるものですが、そのすべては、神の恵みのご支配の下に置かれていたことを覚えたいです。
動物たちは、人間の罪故に、今も確かにうめき苦しんでいます。私たちは、災害時に置き去りにされる家畜やペット、さまざまな形で行われている虐待の現実など、見聞きする度に心を痛めます(注3)。そのような中で、私たちは、始祖アダムにおいて犯した人類の罪を取り除くために十字架にかかられたキリストのあがないの御血潮を思わざるを得ないのです。彼ら、動物たちもこのキリストの故に「希望」を持っているのです。私たちも日々この希望に生きる者となりたい。ハレルヤ!
(注1)私たちの先輩・オランダの神学者、アブラハム・カイパーは、その『共通恩恵論~堕落した世界への神の贈り物~』(1902年、『一般恩恵論』と訳されることもある)をノア契約の解説から始めていますが、その冒頭において,次のように述べています。
「敬虔な神の子等も含め、多くの人は虹を見ても,感嘆はしても、そこに表されている神の契約を知ることがない。しかし、実は、この契約にこそ彼らは聞くべきなのである。だから、私たちはもう一度、ノア契約の大きな意義をもっと明確に理解することから始めなければならない。この契約は,今一度私たちのために息を吹き返して、語りかけ、私たちを支える神の恵みの重要な構成要素とならねばならない。
その場合に、先ず第一に知らなければならないことは、神がノアと立てられたこの契約は、聖書において、決して補助的な事柄として扱われてはおらず、また、単に二次的な重要性を持つものでもない、ということである。むしろ、ノア契約の締結は,楽園での契約やアブラハム契約の締結と比べ、より厳粛、より包括的、より詳細に陳べられている。この契約の締結については、間接的に陳べられているのではなく、契約の締結そのものが歴史的な出来事として、物語の中に含まれているのである。主なる神が語り、誓われたことが詳細に語られている。そして、雲の中に現れるしるしをもって締めくくられるのであるが、この聖なる契約のしるしこそ、世々に亘って、ノア契約の信頼性と真実性を証することになる。
このように、主なる神が聖書を教会にお与えになったとき、このノア契約を覚えることをすべての時代の教会に求められたことは明らかである。神はご自身の教会のためにこの出来事を細部に至るまで厳かに認知された。また、同時に、世々の教会がこの契約の重要で豊かな内容をしっかりと心に留めるよう求められた。われらの『ハイデルベルグ信仰問答も』もこのことをよく理解しており、神の摂理について「木の葉も草も、雨もひでりも…すべてが偶然によることなく、父親らしい御手によってわたしたちにもたらされるのです」(27問の答)と語るとき、おそらく、この言い回しは「地の続く限り、種まきも刈り入れも、寒さも暑さも、夏も冬も、昼も夜も、やむことはない」との創世記8:22の御言葉から採られたのであろう」。(『共通恩恵論』Ⅰ、p.11、宮崎訳)
(注2)『共通恩恵論』Ⅰ、p.39。
(注3)『週刊金曜日』2018年8月24日、1197号、特集「動物愛護管理法を考える」等、参照。
9月9日(日) 長野佐久教会(佐久会堂)にて説教奉仕(ヘブライ11:20~22)。
10月2-4日(火-木) 「恵みシャレー軽井沢」で行われた JCC (現TCU)の同期会(家内が世話役)に、1日だけ出席、良い交わりをいただいた。特に、旧知の高山清彦師(片倉キリスト教会)と同部屋で、夜遅くまで語り合った。この方は、JCC在学中に,渡辺公平先生から弁証学やキリスト教哲学を学ばれたとのこと。また、団らん時には、ウォルタースの『キリスト者の世界観』(増補改訂版)の意義について話すことができた。
10月8-10日(月-水) 横浜関内で開催された日本キリスト改革派教会定期大会に一部出席、会議を傍聴した。『キリスト者の世界観』(増補改訂版)の販売が一つの目的であったが、今回は、14冊が売れただけだった。しかし、二日間、議事の合間に多くの若い先生方や長老方と再会を喜び、交わりを深めることができた。新議長には、草加松原の川杉安美先生が選ばれた。
10月14日(日) 上諏訪湖畔教会にて説教奉仕(ヘブライ11:8-12)。篠ノ井で特急しなのに乗り換え、中央線で上諏訪へ。初めての礼拝奉仕である。翌週の10月21日には創立70周年記念礼拝を守られるとのことだったので、70年に亘る伝道の労苦を感謝の内に覚えつつ、アブラハムの信仰に学んだ。
10月23日(日) 甲信地区教師会、於・佐久会堂。昨年から、甲信地区の引退教師も,この教師会に参加させていただいている。今回は,わたしが「“生涯現役”~教師・長老・信徒として~」と題して、発題した。名著『政治規準の学び』 p.65において、宮田計先生は,「教師終身制」について論じ、ヨハネ21:15~17、Ⅰコリント9:16,17、使徒15:26等々を引きながら、それが聖書的な教えであるとしておられる。
※本「ICS軽井沢文庫だより」第19号は、筆者の日程上の都合等により、1ヶ月遅れとなりました。お詫びします。おゆるしください。―宮﨑彌男―
【連絡先】
これは、犬や猫だけの話ではありませんが、エデンの園の昔から、動物たちは、私たち人間のコンパニオンでした(旧約聖書・創世記2:18-20)。しかし、初めの人アダムにとっては、「ふさわしい助け手」(新改訳聖書、創世記2:18)とはならなかったので、主は、エバをお与えになったとのことです。
以上は、創世記1,2章の教える動物の創造物語ですが、その後、3章まで読み進みますと、アダムとエバ夫妻が蛇(サタン)の唆しに負けて罪を犯したため、その結果が動植物を含む被造物の全体に及んだことが記されています。アダムの罪のために「土はのろわれたものとなった」(3:17)のです。この場合の「土」は、直接的には、人の食べ物となる「野の草」を生じさせる土壌を指している(13節参照)のでしょうけれども、さらに広く、被造物の全体が、アダムの罪の故に「のろわれたものとなった」と読むことができるのではないか。使徒パウロの言葉を用いて言えば、アダムの罪の結果、「被造物は虚無に服し」、「うめき苦しむ」ようになったのです(新約聖書・ローマの信徒への手紙8:20,22)。しかし、このことは、「自分の意志によるものではなく」、人の罪によるものでありますので、被造物には、「いつか滅びへの隷属から解放されて,神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれる」との「希望」がある、とも同じ所でパウロは言っています(20,21)。
この「希望」の実現する終わりの日の情景について、イザヤ書11章(クリスマス前のアドベントの季節に教会でよく読まれる旧約聖書の預言)では、次のように描写しています。
「狼は小羊と共に共に宿り、
豹は子山羊と共に伏す。
子牛は若獅子と共に育ち、
小さい子どもがそれらを導く。
牛も熊も共に草をはみ
その子等は共に伏し、
獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
乳飲み子は毒蛇の幼子は穴に戯れ、
幼子は蝮の巣に手を入れる。
わたしの聖なる山においては、
何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。
水が海を覆っているように、
大地は主を知る知識で満たされる」。
何と平和な情景でしょうか。人と動物は主の恵みの内に,共に仲良く生きているのです。
| 「箱舟に乗り込む」(金斗絃作) |
このような、人と動物との間の平和な関係は、聖書によれば、大洪水の後、主がノアと結ばれた契約(「ノア契約」)に基づいているのです。このノア契約については、創世記6~9章を参照。人が余りにも悪くなってしまったので、主は地上に人を造ったことを悔い、全地を覆う大洪水を起こして、地とその中にあるすべてのものを滅ぼそうとされます。しかし、義人ノアとその家族だけは救われました。大きな箱舟を造らせ、その中に入らせて、お救いになります。また。そこには、雌雄一つがいずつの動物も入らせて、絶滅を逃れさせられます。
ノアとその家族、並びに箱舟に入って救われた動物たちを除くすべての生き物は、この洪水によって滅びたのですが、箱舟から出たノアが神を礼拝し、「焼き尽くす献げ物」を献げたとき、その香ばしい香りをかいでこう言われた、と聖書は記しています。
「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いとき
から悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、
二度とすまい。
地の続く限り、種まきも刈り入れも、
寒さも暑さも,夏も冬も,
昼も夜も、やむことはない」(創世記8:21~22)
このように、神は「二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない」(同9:11)と誓われ、そのしるしとして「雲の中にわたしの虹を置かれた」(同9:12~17)とのことです。(注1)
この「ノア契約」は、今日に到るまで有効な神の「永遠の契約」です。このことについて、私たちの先輩・改革派神学者、A・ カイパーの次の言葉に耳を傾け、しっかりと心に留めたい。「神がノアおよびその子孫等に対して立てられた契約は,あなたと私に対しても立てられており、さらには、今いのちの息を持つすべてのものに対してもうち立てられているということ、そして、それゆえに、ノアの時代に現実となった状況は、今の私たちの生活においても現実を支配しているということである」(注2)
このように思いを馳せるとき、ノア契約は、最初に述べたモモちゃんやベルちゃんの生死と決して無関係ではなく、私たちに深い慰めを与える神の永遠の契約であることを知るのです。彼らの生涯と死は,私たちに喜びと悲しみ/暖かさと淋しさを与えるものですが、そのすべては、神の恵みのご支配の下に置かれていたことを覚えたいです。
動物たちは、人間の罪故に、今も確かにうめき苦しんでいます。私たちは、災害時に置き去りにされる家畜やペット、さまざまな形で行われている虐待の現実など、見聞きする度に心を痛めます(注3)。そのような中で、私たちは、始祖アダムにおいて犯した人類の罪を取り除くために十字架にかかられたキリストのあがないの御血潮を思わざるを得ないのです。彼ら、動物たちもこのキリストの故に「希望」を持っているのです。私たちも日々この希望に生きる者となりたい。ハレルヤ!
(注1)私たちの先輩・オランダの神学者、アブラハム・カイパーは、その『共通恩恵論~堕落した世界への神の贈り物~』(1902年、『一般恩恵論』と訳されることもある)をノア契約の解説から始めていますが、その冒頭において,次のように述べています。
「敬虔な神の子等も含め、多くの人は虹を見ても,感嘆はしても、そこに表されている神の契約を知ることがない。しかし、実は、この契約にこそ彼らは聞くべきなのである。だから、私たちはもう一度、ノア契約の大きな意義をもっと明確に理解することから始めなければならない。この契約は,今一度私たちのために息を吹き返して、語りかけ、私たちを支える神の恵みの重要な構成要素とならねばならない。
その場合に、先ず第一に知らなければならないことは、神がノアと立てられたこの契約は、聖書において、決して補助的な事柄として扱われてはおらず、また、単に二次的な重要性を持つものでもない、ということである。むしろ、ノア契約の締結は,楽園での契約やアブラハム契約の締結と比べ、より厳粛、より包括的、より詳細に陳べられている。この契約の締結については、間接的に陳べられているのではなく、契約の締結そのものが歴史的な出来事として、物語の中に含まれているのである。主なる神が語り、誓われたことが詳細に語られている。そして、雲の中に現れるしるしをもって締めくくられるのであるが、この聖なる契約のしるしこそ、世々に亘って、ノア契約の信頼性と真実性を証することになる。
このように、主なる神が聖書を教会にお与えになったとき、このノア契約を覚えることをすべての時代の教会に求められたことは明らかである。神はご自身の教会のためにこの出来事を細部に至るまで厳かに認知された。また、同時に、世々の教会がこの契約の重要で豊かな内容をしっかりと心に留めるよう求められた。われらの『ハイデルベルグ信仰問答も』もこのことをよく理解しており、神の摂理について「木の葉も草も、雨もひでりも…すべてが偶然によることなく、父親らしい御手によってわたしたちにもたらされるのです」(27問の答)と語るとき、おそらく、この言い回しは「地の続く限り、種まきも刈り入れも、寒さも暑さも、夏も冬も、昼も夜も、やむことはない」との創世記8:22の御言葉から採られたのであろう」。(『共通恩恵論』Ⅰ、p.11、宮崎訳)
(注2)『共通恩恵論』Ⅰ、p.39。
(注3)『週刊金曜日』2018年8月24日、1197号、特集「動物愛護管理法を考える」等、参照。
【9,10月の活動報告】
9月9日(日) 長野佐久教会(佐久会堂)にて説教奉仕(ヘブライ11:20~22)。
9月26日(水) 信州神学研究会、 於・ICS軽井沢文庫・会議室。上田市在住の引退教師、長田秀夫先生が「異教徒の中でのキリスト教葬儀」と題して発表された。これからの日本伝道において、キリスト教葬儀の持つ重要性について認識させられた。次回のテーマは、「カルヴィニズムとユダヤ教」(発表:牧野信成師)で、11月30日(金)午前10時~12時、開催、於・佐久会堂。
10月2-4日(火-木) 「恵みシャレー軽井沢」で行われた JCC (現TCU)の同期会(家内が世話役)に、1日だけ出席、良い交わりをいただいた。特に、旧知の高山清彦師(片倉キリスト教会)と同部屋で、夜遅くまで語り合った。この方は、JCC在学中に,渡辺公平先生から弁証学やキリスト教哲学を学ばれたとのこと。また、団らん時には、ウォルタースの『キリスト者の世界観』(増補改訂版)の意義について話すことができた。
10月8-10日(月-水) 横浜関内で開催された日本キリスト改革派教会定期大会に一部出席、会議を傍聴した。『キリスト者の世界観』(増補改訂版)の販売が一つの目的であったが、今回は、14冊が売れただけだった。しかし、二日間、議事の合間に多くの若い先生方や長老方と再会を喜び、交わりを深めることができた。新議長には、草加松原の川杉安美先生が選ばれた。
10月14日(日) 上諏訪湖畔教会にて説教奉仕(ヘブライ11:8-12)。篠ノ井で特急しなのに乗り換え、中央線で上諏訪へ。初めての礼拝奉仕である。翌週の10月21日には創立70周年記念礼拝を守られるとのことだったので、70年に亘る伝道の労苦を感謝の内に覚えつつ、アブラハムの信仰に学んだ。
10月23日(日) 甲信地区教師会、於・佐久会堂。昨年から、甲信地区の引退教師も,この教師会に参加させていただいている。今回は,わたしが「“生涯現役”~教師・長老・信徒として~」と題して、発題した。名著『政治規準の学び』 p.65において、宮田計先生は,「教師終身制」について論じ、ヨハネ21:15~17、Ⅰコリント9:16,17、使徒15:26等々を引きながら、それが聖書的な教えであるとしておられる。
※本「ICS軽井沢文庫だより」第19号は、筆者の日程上の都合等により、1ヶ月遅れとなりました。お詫びします。おゆるしください。―宮﨑彌男―
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