2017年2月3日金曜日

「ICS軽井沢文庫だより」NO.6

「五つの Sola でこの年を」

        ―宗教改革500周年―     宮﨑彌男


 この年の元旦の朝、わが家では、モモちゃんが亡くなりました。17才と8か月共に過ごした愛犬(柴犬雑種メス)でしたので、悲しく、与えまた取り給うた主に、涙ながらに感謝の祈りをささげました。昨年1年間は、さすがによちよち歩きとなり、最後の1ヶ月ばかりは、家内の介護も大変でしたが、不平を言うこともなく天寿を全うして召されました。感謝をもって、一言ご報告まで。

さて、1月は、教会での説教奉仕が、5回の主日の内、15日(長野伝道所)と29日(佐久伝道所)の2回だけでしたので、それだけ本を読む時間を確保することができました。先ず、引き込まれるようにして読んだのは、菅野完著『日本会議をめぐる四つの対話』(2016年、K&Kプレス)。これは、『日本会議の研究』の著者、菅野がさらに白井聡、村上正邦、魚住昭、横山孝平と対談したものを改めて本にしたものです。たまたま近くの本屋で見かけて買ったのですが、読んでみると、日本会議に関する多くの貴重な情報と洞察に充ちた、内容のある対談集でした。改憲運動を推進する勢力として日本会議が注目されていますが、それは、日本会議の力によるというよりも、対抗勢力としての「左翼」とか「リベラル」が弱くなっているからだ、との指摘は対談者に共通のものとしてあるようです。改革派教会が、戦後の日本において有神的世界観人生観と聖書的教会の建設を掲げて伝道しながら、未だに一個の政治勢力たることを得ていないことに強く反省させられます。

 もう1冊の本は、古屋安雄著『私の歩んだキリスト教~一神学者の回想』(2013年、キリスト新聞社)です。古屋先生は、プリンストン神学校でドクターを取られた後、国際基督教大学教会牧師/宗教学教授となられたのですが、私自身も、1963年~67年、学生として色々お世話になったことがありました。その後も、先生のお母様が戦前灘教会の伝道師をされたことがあったということで、神戸に来られた時などお会いしたこともありました。お父様は組合教会の牧師でしたので、「自分は、組合派と長老派の両方の血を受け継いでいるんだ」等と言っておられました。このお父様の信仰について、その朝夕の祈りが、「新しい今日も一日、神の国のために励ませてください」、「今日も一日、神の国のために働くことができて感謝です」等、「神の国」を意識した祈りであったことを、今でも覚えておられるとのこと。古屋先生は、このような「神の国」を意識した伝道/祈りが今日の教会に欠けているのではないかと主張され、この点で、伝道者としての賀川豊彦に学ぶべきと言っておられます。(日本キリスト改革派教会『大会時報』203号所収の拙文「求められる再宗教改革~古屋安雄講演<なぜ一%を超えられないのか>を聞いて」、及び阿部志郎他著『賀川豊彦を知っていますか』(2009年、教文館)所収の古屋講演「伝道者としての賀川豊彦」もご参照ください)。

 このような折に、東京基督教大学の稲垣久和先生が「ICS軽井沢文庫だより」NO.5に対するレスポンスと共に、「市民社会と賀川豊彦の友愛精神」というテーマで行われたシンポジウム(2016年10月29日、於明治学院大学白銀校舎)での御自身の発題講演「労働者は人格である」をお送り下さいました。啓発される所の多い講演ですので、先生の許可を得てこのブログ(「ICS軽井沢文庫」ics41bogspot.jp)に掲載させていただきます。

 この1月に読んだ本の極め付きは、ちょっと意外に思われるかも知れませんが、御国イザヤ著『勝利を得る日本の教会』(2016年、学校法人レムナント学園)でした。この本は、多くの教会に恵贈されたのでしょうか。私は、1月14日、大雪のために、大事を取って、土曜日の内に長野伝道所に行き、一泊したのですが、その事務室にこの本が置いてあったのです。ぱらぱらとめくっておりますと、参考文献の中に、宮﨑彌男訳『ウェストミンスター大教理問答』も挙げられていましたので、興味を惹かれて読む内に、これは、改革派に近い立場で書かれている日本伝道論だということがわかりました。それで、さっそく取り寄せて、聖句を紐解きつつ丁寧に読んでみました。そうしますと、日本伝道について、私が日頃から祈り考えていることと重なることが多く、ブログでもご紹介しようと思い至った次第です。全編に亘って大切なことが書かれていますが、特に「六、サタンとキリスト」、「一〇、キリストと神の国のことと聖霊」、「一四、次世代と信仰継承」は、熟読玩味に値します。

 今日の日本の教会に対する著者のメッセージは、詰まるところ、十字架と復活によりサタンに勝利されたキリストの三職のすべて、中でも、特にキリストの王職を語れ、ということす。そこから、「神の国のこと」(使徒1:3)を教え、学び、実践することが第一義的な重要性を帯びることとなるのです(マタイ6:33)。私たちは、長期に亘る安倍政権の下での一強他弱の政治状況、またそれに与する日本会議等の運動の背後に、憲法を壊し、日本を潰し、教会を無力化しようとするサタンの策略(エフェソ2:2、ヨハネ8:44)を見ざるを得ません。教会はこのような中で、なすすべを知らないかのようです。けれども、真の王であられるキリストはすでにその死と復活によりサタンに勝利しておられます(創世記3:15、ヨハネ19:30、Ⅰヨハネ3:8)。このキリストとその御言葉に従いゆきたい(エフェソ6:1,2)。その時、キリスト御自身が教会を建てられます(マタイ16:18)。

 この年、2017年は、マルチン・ルッターがヴィッテンベルク城教会の壁に「九五か条の提題」を張り出して、宗教改革運動が始まってから500年に当たります。私たちはこの年、宗教改革の五つのSolaを私たちのSolaとして、王なるキリストに従いゆくものとなりたい。すなわち、
 (1)恵みのみ Sola Gratia、
 (2)信仰のみ  Sola Fidei、
 (3)聖書のみ  Sola Scriptura、
 (4)キリストのみ  Solus Christus、
 (5)ただ神の栄光のために  Soli Deo Gloria です。
 アーメン。

<「たより」NO.5へのレスポンス> 東京基督教大学 稲垣久和先生

宮崎弥男先生
明けましておめでとうございます。
先生の活動も軌道に乗ってきたようで何よりです。
ブログの中にN・T・ライトのことが出てきていましたが、昨年から『新約聖書と神の民
』(新教出版社)の翻訳者の山口希夫氏らとともにライトの研究会を始めました。
近年の新約聖書学には目覚ましい発展があり、ライトやボウカムのものにはとても興味
があります。
特にライトは哲学との接点が深くあり、批判的実在論は私の書いてきた本の骨子を作っ
ているのでとても関心を持っています。オックスフォード学派の批判的実在論とアムス
テルダム学派の世界観アプローチとは極めて近いのです(拙著『宗教と公共哲学』東大
出版会、2004年)。
近年の聖書学が明らかにしているイエスの「神の国」は賀川豊彦の「神の国」概念とと
ても近く、むしろ日本のプロテスタント主流派と言われてきたグループの福音理解に問
題があることもわかってきました。カイパー的には共通恩恵論(common grace)の欠如
ということでもあるでしょう。
今年も賀川論からの市民社会形成に励みたいと思っています。これは日本で本来の「神
の国」を作っていく私なりのチャレンジです。
「み国をきたらせたまえ」という日々の祈りととともに。
稲垣久和
添付のものは昨年10月29日の第2回賀川シンポの時のプログラムです。

☆☆稲垣先生、ありがとうございました。先生の方も、御国のためのお働き、着々ですね。『宗教と公共哲学』、改めて読ませていただいています。先生の賀川研究が実り多いものとなりますように。
宮﨑彌男☆☆

(M. ゴヒーン& A. ウォルタース著『キリスト者の世界観―創造の回復』改訂版・付録の翻訳)

こちらの方は、この一月間、余り進まなかったのですが、それでも、原著133~135頁の「宣教における苦難と戦い」を訳し終え、先月までの箇所に付け加えましたので、ブログ「ICS軽井沢文庫」ics41.blogspot.jpの『キリスト者の世界観―創造の回復』付録の項をクリックしてごらん下さい。

※次号の発行&ブログ更新は3月初め頃です。   


   「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御言葉の支配下に
    移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦
    しを得ているのです」。                      (コロサイの信徒への手紙 1:13, 14)


【連絡先】
〒389-0115長野県北佐久郡軽井沢町追分36-23 宮﨑彌男・淳子
Tel/Fax 0267-31-6303、(携帯) 080-3608-3769
Eメール<mmiyazk41@gmail.com>
   ブログ「ICS軽井沢文庫」<ics41.blogspot.jp>


2017年2月2日木曜日

シンポジウム「市民社会と賀川豊彦の友愛精神」


以下は、2016年10月29日(土)、明治学院大学白銀校舎にて開催されたシンポジウム「助け合いの心が日本社会を変える!~市民社会と賀川豊彦の友愛精神~」における稲垣久和氏(東京基督教大学大学院教授)による発題講演(「開催主旨」)です。同氏の許可を得て、ここに掲載させていただきます。

       労働者は人格である


稲垣久和(東京基督教大学大学院教授)

今日、賀川豊彦という歴史上の一人物を念頭に入れつつ、一つのシンポジウムを企画いたしました。生協、労組、農協、信用金庫、共済保険……。私たちの社会の一部となっているこれらの事業に共通するもの。それは次の二点です。
一、 助け合いのための組織であること。
二、社会事業家・賀川豊彦が大正時代から昭和初期に開拓者的にかかわった事業であること。
資本主義のもたらす格差と貧困が今以上に深刻であったこの時代、賀川は、相互扶助の伝統を社会的・組織的に促進する協同組合運動を精力的に展開しました。
それから100年たった今日、再び貧困や格差が大きな社会問題となっています。賀川の説く「友愛と連帯」によってこれら諸問題に対処しつつ、格差の是正と新たな市民社会の建設に励みたいと思います。登壇いただいた各グループの方々からまずは次のようなところに強調点を置いてご発言をいただきたいと思っています。
①各団体紹介とその賀川豊彦との関係
②具体的なテーマとして今日の格差社会の弱者、そして(賀川が関東大震災救援に直ちに取り組んだように)東日本大震災や4月の熊本地震への支援。または地域の活性化への取り組み。

以下、ご参考まで、主催者側がシンポジウムの背景の理念と考えるものを記させていただきます。
1.自由と人格
賀川豊彦は労働運動を始めたころに「労働者は人格である」という有名な言葉を残しています[1]。私は今日のシンポジウムの通奏低音としてこの言葉を響かせたいと思いました。   
「労働者は人格である」。当たり前といえば当たり前、しかしこれを前面に掲げて現代の諸問題に対処していくと、決して当たり前ではない。それは今日の日本社会での「働き方」の現実を見れば明らかです。例えば連合白書(2016年春季)にも「人を犠牲にした経済成長」[2]という現政権への評価が見られます。ではこれに対する代案をわれわれは持っているのか。もし持っていないとすればそれをどう構築すればいいのか。「人を犠牲にしない経済」とは何でしょうか。このようなややスパンの長いテーマについて、皆で考える対話の時としたいと思いました。
人が働くとはどういうことでしょう。働くことの意味、働くことの喜び、そもそも人はなぜ働くのか。もちろん、自分の生活の糧を得るためにも、他者を養うためにも、自己実現のみならす、他者支援のためにも、「働くこと」は人生と社会にとって深い意味があるでしょう。ところが、このような基本的な哲学的問いを出すいとまもなく、労働者であるわれわれは日々の生活に追われている。かつての哲学発祥の地ギリシャ、ここは紀元前の当時まだ奴隷制社会でありました。ほんの一部の自由人が「自由」「平等」「正義」「友愛」「知恵」を語り、西洋文明に物事を根底から考える分野として「哲学」というジャンルを遺してきました。当時、労働者は主として奴隷の身分でした[3]。
それから2500年以上経って民主主義が達成された現代には、すべての人がグローバルスタンダードで「自由」を人権として主張できるところまできました。この歴史の歩みにわれわれは感嘆します。しかし他方で「糧を得る」ための労働すなわち経済的な社会の仕組みから見ると、どうも先進国ですら「自由人」とはとても言えない面が目立ってきました。憲法で「生存権」が保障されていても「カローシ」などという言葉を生み出し世界に輸出する日本社会、そんな極端ではなくても長時間労働を当たり前に受け入れている不思議な日本人の姿は、むしろ「奴隷」に近いものになってしまってはいないでしょうか。これは誇張でも何でもありません。労働市場に大半のエネルギーを吸収されていれば、その分、休息の時間のみならず人と対話し人と交流しながらコミュニテイを形成する時間は奪われます。これはどうみても「自由人」のあり方ではないでしょう[4]。では労働は自由の源泉であり、喜びだ、という具合に転換するにはどうすればよいのでしょうか。
 現実には市場経済が成熟した今日、労働は商品と同じように貨幣との交換になっています。つまり賃金労働にならざるを得ませんし、この現実を疑うことはほとんどありません。そして資本主義という近代的システムは、よく知られているように、すでに100年前に賀川がその欠陥を鋭く批判したものでしたが、にもかかわらずしぶとく生き残り、今日いわゆるグローバル金融資本主義にまで行きついています。端的に言って資本主義は民主主義とは両立しません。弱肉強食の競争システムが、弱者にも平等に一票を与える共生システムと両立するとは考えられないからです。いくらケインズ・ベヴァリッジ型福祉国家だ、福祉資本主義の三類型だ、いや四類型だといったところでもはや修正や微調整ではどうにもならないところに来ています。ITをはじめとするテクノロジーの日進月歩が、文明の質を変えつつあります。根本的に人類文明の近代以降のあり方を変えざるをえないところに来ています。ポスト近代の時代、人類が生き残りたいと思うなら、その方向にパラダイムを大転換するしかありません。

2.資本主義の変遷
資本ないしは金の移動はすさまじいスピードです。ナノセコンドで国境を越えて一国家予算規模の金の相対取引が行われているといった、いわば人工知能に依存した世界になってしまい、人間の居場所などもうなくなっているといった感じです。富の偏在は止めようもありません。
われわれ自身もITを駆使した日常生活の便利さにドップリ使っていて、もはや手放すことができません。他方でそれが抱える矛盾と危機も、すでに人が管理する能力をはるかに超えてしまっています。人間システムの上でリスクが管理能力を超えているだけでなく、首都圏直下型大地震、異常気象等々という自然システムの上でも、とっくにリスクは管理能力を超えています。アンダー・コントロールどころでなく、オーバー・コントロールであることが、まともな生活感覚を持った人々の日々の実感でしょう。
それでもわれわれは働くし、また働くことに人として意味があると思っています[5]。30年前にオランダでワークシェアリングといった労働時間の短縮、「働き方の質」のモデルが出され、それ以来、私は自分の公共哲学の課題としてこれを考えてきました。今日の日本では、突然に「同一労働同一賃金」(均等待遇原則)という言葉がマスコミをにぎわすようになっています。これが何を意味しているかいまだはっきりしないのですが、「働き方の質」にかかわっていることだけは明らかです(賀川はすでに1919年にこの同一労働同一賃金という言葉を『労働者崇拝論』の中で使っています[6])。働き方の質、人間にとって幸福とは何か、この問いが多くの老若男女の関心の的になっています。
19世紀の英国に経済学者で功利主義陣営の哲学者ジョン・S・ミルの同時代人で、かつ批判者であった人にジョン・ラスキンがいます。彼の労働観はきわめてユニークで現時点で傾聴に値します。彼は労働を芸術作品の創作のような精神的な内容、生(life)の表出と捉えています。そして富とはGDPが大きいことだ、という先入観に毒された現代人の頭に水をかけるようなことを言っています。「生以外に富は存在しない(there is no wealth but life)。生というのは、その中に愛の力、歓喜の力、讃美の力すべてを包含するものである。最も富裕な国というのは最大多数の高潔にして幸福な人間を養う国、最も富裕な人というのは自分自身の生の機能を極限まで完成させ、その人格と所有物の両方によって、他人の生の上にも最も広く役だつ影響力をもっている人をいうのである」[7]。
人間の生命こそが根本だ、賀川豊彦の「労働者は人格である」という言葉はこのラスキンの影響を受けたものです。資本主義がかつてのように先進国で拡大・成長を目指していく時代は終わり、人口減の低成長の時代を生き抜く生命力と働き方の追及、これがこれからの時代の課題でしょう。もちろん一部の人々は拡大・成長を目指し、旧態依然とした路線を捨てようとしません[8]。しかし多くの人々は生き方においてパラダイムシフトを始め、「人たるに値する仕事」(デイーセントワーク)に従事したいと思い始めています。人として生まれたからには尊厳ある「自由人」の生き方をしたいと思っています。しかし尊厳ある「自由人」の生き方をしたいならばそれなりの努力、すなわち自立して物を考える訓練をせねばなりません。
自由を達成するための参加型民主主義は、労働のあり方にも影響を与えています。労働者とは何か。労働者が「自由人」として生きるには労働のみで経営に参加しないのではなく、経営にも参加して、そして同時に経営に責任をもつという生き方を目指さねばならないでしょう。

3.近代的思考の破たん
近代哲学が行き詰まったポスト近代の時代には、あらゆる領域での二元論が崩れかけています。労働者か経営者か、といった二者択一もその一つです。われわれは主体であると同時に客体です。人間には人工知能(ロボット)に置き換えられる面もあればやはり置き換えられない面もある。喜びもあれば悲しみもある。楽しみもあれば苦しみもある。ロボットには「悲しみ」も「苦しみ」もない。ポンコツになればそれで終わり、しかし人間はこれらを克服していこうとする能力が与えられた唯一の動物です。互いに助け合って、話し合って、コミュニケーションしていこうとする意欲が人間にはある。対話して連帯して危機を回避しようとする向上心がある。人間の人間らしい面であり、ロボットにこれはない[9]。人間が「人格」である証です。人格であるとは機械のような部品(部分)ではなく全体(総体)であるということ[10]。トータル(総体)として人間であるということ、これが人格の意味です[11]。
政治の世界も明らかですが、国民が主権者であるとは自主的に治める、自治する主体ということであって、統治される客体であるということではありません。だから代表者を選んで統治してもらう「客体」になることではなく、参加して自ら自治する「主体」だということです。「主体」(精神)と「客体」(物体)のデカルト的二元論はもはや成り立ちません。これが代表制民主主義だけでは不十分で、どうしても参加型民主主義にならざるをえない理由です。これは経済の世界でもそのような時代に入ったということです。われわれは人格として客体であると同時に主体です。「労働者は人格である」とは労働者であると同時に経営者だということです。そして協同組合活動をしている人々には、この内容は理解しやすいことでしょう。近代的二元論哲学の時代は終わり、われわれは人格である人間として「労働者は経営者である」。そして「生産者は消費者である」、「助ける人は助けられる人である」、「学ぶ人は教える人である」、こういう総体的なものの見方の訓練をしていく時代であります。「グローバルな時代はローカルな時代である」、「外なる環境を考慮するとは内なる環境を考慮することである」等々、あらゆる二項対立は打ち破られるべきです。
西洋的二元論哲学とは異なって、日本には江戸時代以来の相互扶助の伝統があり、また賀川豊彦を始めすぐれた先人の努力もあって、日本の協同組合運動は広範にわたって盛んです。そうであるにもかかわらず、いくつかの法的整備が十分でありません。日本人のお上(=公)意識の強さ、自治能力の欠如。これは戦後民主主義が個人主義の方向で受け取られ、「連帯」の方向への発展が十分でなかったからです。個人の尊重はいいのですがミーイズム(=私)になり、バラバラに孤立していく。一方でお上(公)依存が強く、他方で孤立化が強くなっていくという、いわば公と私の二元論が顕著でその中間が創れない。つまり公私二元論の中で振り子が極端から極端に揺れ動くだけなのです。公私二元論は西洋的二元論と同じように、いやそれ以上に危険です。そうではなく個を尊重しつつ異なる意見を持ってはいても互いに話し合う訓練、すなわち「対話」と「連帯」そしてそれを支える「友愛」これが今後のカギです。これが「公」と「私」の二元論を打破してその中間に「公共」を創るスタートです。多様な中間集団の形成[12]、協同組合運動は戦後民主主義の質の転換をもその使命としていると思います[13]。

4.公共哲学の可能性
筆者はこれらテーマを公共哲学という名称で研究してきました。せっかくの日本国憲法がまだ十分に生かされていません。国民主権の意識の弱さと参加型民主主義の自覚の弱さ、総じて市民社会の弱さと関係しています。それでも阪神淡路大震災(1995年)、東日本大震災(2011年)以後には、復興の気運とともに多くの市民の新しい動きが加速しつつあり、これまでにない「新しい公共」のうねりも感じています。対話と連帯と共生、今の話の流れでは、皆が働き、皆が経営するという市民社会の参加の基本を各地でのコミュニテイ形成とともに確認することができます。賀川も労働運動に携わった初期の頃から「労働者自身の自営」[14]、「社会が自営的にやる」ことの必要性を繰り返し述べていました[15]。そういう意味で今日では、日本の市民社会と民主主義の弱点を克服するためにも、例えば戦前の産業組合法に代わる協同組合基本法[16]の制定も一つの方向です。そのために、方向性は同じだが細部で意見の異なるグループの間で粘り強い対話の継続が必要です[17]。そのようなグループ間の連帯なくしてさらに考え方の隔たるグループ間の連帯は望むべくもありません。
農協と生協と労組、特に2012年のIYC(国際協同組合年)以降、これまで以上に相互の交流が大きく前進しています。中央でよりも地方で、東京よりも他府県で地域密着型、環境と地域経済と福祉の第六次産業化の萌芽が数多く見られます[18]。社会システムと自然システムのリスクが高まる一方で、地域の生活圏においては異質なグループ同士が交流し互いが互いから学び合おうとの「新しい公共」の風潮が出てきています。今後にたいそう期待が持てます。より一層の連帯と対話が必要でしょう。グローバル資本主義はローカルな場面で人々を分断し孤立化させていく。今われわれに必要なのは分断ではなく連帯です。
人間と社会と自然環境、これらを包含するのは世界観ですが、賀川豊彦が最晩年に著した『宇宙の目的』はまさに世界と宇宙に目的を見る、という壮大なビジョンが描かれています。ベストセラー作家としての賀川豊彦の作品群としては、まだ十分に解読されていないなかなかハードな書物なのですが、さまざまな悪(宇宙悪)と不条理を克服してもなお希望のつなげる宇宙の物語を開陳しています。賀川はこれらの人生と社会の諸課題を特定の党派・イデオロギーからとらえるのでなく全人類的な課題としてわれわれに遺しました。『宇宙の目的』の最終ページで述べています。

宇宙悪よりの解脱救済の道を、昔から人間は三つの角度から考えた。第一はインドの宗教の形式、すなわち、虚無思想である。第二は西欧思想として発達した有神的救済の道である。第三は近代科学思想による宇宙悪の追放である。私は、この三つはたがいに対立するものではないと考える。これらは人間の意識の上に発生するものである[19]。

インド宗教を、虚無主義と表現し否定的な評価と受け取れますが、この数年前に諸宗教について書いた『東洋思想の再吟味』では、むしろ日本仏教についての深い洞察を加えています。生の不条理と、社会的不正義、不平等に対して21世紀の宗教復権は意味がある、と筆者も考えています。
しかし、もし、宗教がテロや暴力や戦争そして国家権力や政治的イデオロギーと結びついて暴力の正当化に使われるのであれば、これは危険極まりありません。国家(政治)と市民社会(社会活動)とは区別すべきです。市民社会の中に隣人愛、慈悲の心、仁愛といった人類愛と博愛を発揮して社会実践を行うべきであり、国家が上から下へ「愛」を強調すべきではないでしょう。まさに賀川豊彦が平和と福祉の広範な領域で活動した精神的パワーとは、このような市民どうしの友愛でした。今日でもここから多くを学べるはずです。
今回のシンポジウムが、このような日本社会での「友愛と連帯」をさらに一歩進めるものになればよい、このように期待しております。








[1] 1919年8月30日、友愛会七周年大会で会名を「大日本労働総同盟友愛会」と改称。そのときの「宣言」の一節(『勞働者新聞』1919.9.15)。
人間はその本然に於て自由である。故に我等勞働者は如斯宣言す、勞働者は人格である。彼はたゞ賃金相場によって賣買せらる可きものでは無いと。彼はまた組合の自由を獲得せねばならなぬ。資本が集中せられて勞働力を掠奪し、凡ての人間性を物質化せんとする時に勞働者はその團結力を以て、社會秩序の支持はたゞ黄金にあるのでは無くそは全く生産者の人間性に待つものであることを資本家に教へねばならぬ。
  殊に機械文化が謬れる方向に我等を導き去つて以来、資本主義の害毒は世界を浸潤し生産過剰と恐慌は交々至り、生産者はその工場より追はれ然らざるも彼は一個の機械の附屬品としてその生理的補給を繋ぎ得る程度の賃銀に甘んぜねばならぬこととなった。・・・
また1919年8月20日『勞働者新聞』で次のように言う。
「凡て奴隷は組合を持つて居らない。組合を持つものは人格者である。我等日本の労働者は、人形よりも奴隷よりも強く生きたい。我等生産者は人格である」。「労働者崇拝論」賀川豊彦全集第10巻(キリスト新聞社、1964年)7頁
[2] 「連合白書」(2015年12月発行)9頁。また、同白書の38頁では「労働者を労働力ではなく人として尊重する社会の実現」ともいわれている。
[3] ハンナ・アレント『人間の条件』(筑摩書房、1994年)第三章参照。本稿ではアレントの区別の「労働」(labor)「仕事」(work)「活動」(action)のすべてを「働くこと」「労働」として表現する。
[4] 同書、345頁。「奴隷労働と近代の自由な労働との主要な相違は、近代の労働者が、運動の自由、経済行動の自由、人格の不可侵性など、人格上の自由をもっているという点にあるのではなくて、彼らが政治領域への参加を認められており、市民として完全に解放されているという点にある」。
[5] 経済学と倫理学・哲学との接点で書かれた近年の良書、チェコの経済学者・トーマス・セドラチェク著『善と悪の経済学』(東洋経済新報社、2015年)210頁参照。
[6] 賀川豊彦『労働者崇拝論』(1919年)20頁。「更に、我等は日本に於ける工業界の特殊現象として、工場内に於ける女子の勤労の多大なるを思ふが故に、同一労働に従事する男女労働者の同一賃金を要求し、彼等の苦悩の削減せられんことを祈る」。
[7] 拙著『実践の公共哲学』(春秋社、2013年)54頁。
[8] T・セドラチェクは古代メソポタミア文明の人類最古の文学作品ギルガメッシュ叙事詩の解読から、現代の学生たちによるウオール街占拠に至るまでの経済の歴史を『善と悪の経済学』で叙述した後に終章で次のように経済成長神話に警告を発している。「いま私たちが直面しているのは、資本主義の危機ではなく、成長資本主義の危機である。・・・・心地よいエレガントな解決は、成長である。成長はすべての問題を解決してくれるように見える。だから、『ゼロ成長』などと言われるとうろたえてしまう。だが、すでにできるだけの成長はしてしまったとしたら、どうだろう」474-475頁。
[9] 同書29頁。「人間をヒト・ロボットとして支配することは、はるか古代(メソポタミア文明)から独裁者の夢だった。横暴な支配者は、効率は家族の絆や友情とは両立しないと考える。人間を単なる生産・消費単位とみなす傾向は、社会主義的ユートピア(理想郷)、いや、正しくはデイストピア(暗黒郷)にも見られる。デイストピアの経済は、生産・消費単位としてのヒト・ロボットしか必要としていない。このヒト・ロボットは、ホモ・エコノミクスというモデルに、的確に、しかし痛々しく表現されている」。
[10] 近代の労働は「分業」「分化」を前提にしているので、人はどうしても断片化、部品化されて全体を見失う傾向がある。
[11] 拙著『宗教と公共哲学』(東京大学出版会、2004年)111頁。
[12] 憲法では個人主権たる基本的人権は保障されているが、中間集団がもつ主権(=領域主権)は21条の「結社(association)の自由」に保障されていると考えてよい。ただし日本では中間集団の主権がこれ以上深く研究されていない。人権は明治期の自由民権論者以来「天賦人権論」と呼ばれて自然権として天から与えられた権利のように庶民に定着したが、領域主権の方も「天賦信託論」として定着させるべきもの。協同組合基本法が憲法的なレベルで意味づけられるためにも今後に議論が深められるべき分野である。
[13] 筆者はこれを国家主権ではなく領域主権に基づく「コープとコーポのダイナミズム」を通した創発民主主義の形成と呼んできた(拙著『実践の公共哲学』147頁)。
[14] 賀川豊彦『労働者崇拝論』13頁。「今日の様な危険至極な資本家が工場主で有つては、とても頭上りが無いから、今日の工場経営の『株主専制主義』を排して、被治者即ち労働者の民本主義的立憲統治を要求せねばならぬのである」。
[15] 賀川豊彦は「自由組合論」(1921年)の第6節「ギルド組合の可能性-消費者組合と生産者組合の協力-」で以下のように論じている。「暴力革命を起すまでも無く、社会が附加して居る附加価値は、社会が自営的にやるようになれば、資本家が欲しいと云つても取れ無くなるのである。此処に消費組合運動が、ロバート・オーエンのやうな社会改造家によつて叫ばれた所以である。即ち消費組合を造ることによつて、商業的資本主義は暴力革命を用いずして倒すことが出来る筈である。然しこれだけでは工業的資本主義―即ち製造業を独占して製造の上で暴利を貪り、一方では労働者を虐使して自分だけの幸福を計らんとする資本主義を倒すことが出来ないから、我等は生産者組合即ち労働組合を作つて、工業的資本主義を倒す必要がある。即ち消費者組合と生産者組合はギルド精神によつて今日の資本主義的自己中心の社会組織に変つて世を支配せねばならぬ」。「全集」第11巻、13頁。
[16] 注12参照。
[17] 日本労働者協同組合連合会編「協同労働の協同組合2015・Workers」11頁。
[18] 2016年7月27日、第94回国際協同組合デー記念中央集会「資料」参照。
[19] 賀川豊彦『宇宙の目的』「全集」第13巻、454頁

2016年11月23日水曜日

「ICS軽井沢文庫だより」NO.5




「ICS軽井沢文庫だより」 NO.5
 2016年12月31日

「待ちつつ働き、働きつつ待つ」宮﨑彌男
-2017年に向けて-
新潟伝道所クリスマス

 「ICS軽井沢文庫だより」第5号をお届けします。
 今年は、何だか、あっという間に年末となったという思いはあるものの、今年のアドベント/クリスマスは、私にとって、例年にも増して恵まれた時となりました。それというのも、11月27日より4回のアドベント主日、そして12月25日のクリスマス礼拝と、毎週のように近隣諸教会で説教奉仕を依頼されたからです。それが一番の恵みであったと思っています。新潟で11/27,12/4,12/25の3回、佐久で12/11、長野で12/18に、それぞれ御言葉の奉仕をさせていただきました。
 その中で、何度か、アドベントの意義に触れる機会があったのですが、「アドベント」とは、ラテン語の[ad+venire]に由来する教会歴の呼称で、その意味は「来臨に備える」ということです。主の来臨には、聖書のメッセージからすれば、「初臨」(First Coming,降誕)と「再臨」(Second Coming)があるので、この期間、私たちは、主の再臨を待ち望む終末信仰を持って、クリスマスの準備をするのです。特に、再臨を待ち望む終末信仰については、いつ主が来られても喜び迎えることができるように、目を覚まして祈ることが大切であることをおすすめしました。

(恵みの回顧)

 12月29日の「リジョイス-主にある喜び-」に奨励者は、一年間に受けた恵みを回顧することの意義につき、次のように書いておられました。「一日の恵みを思うことは、この1年の恵みを振り返ることに重なる。何と多くの恵みと幸いによってこの年も生かされて来たことだろうか。そして、一年を思うことは、自分の来し方行く末を思うことへとつながる。その生涯にどれだけの恵みを見出すことができるだろうか。恵みは溢れて、現に受けているのに、どれほど受け止めて感謝しているだろうか」と。この「便り」の前号に、近くに熊の目撃情報があってから夜の散歩を控えている旨書きましたが、そのため、30分~1時間を文庫小屋(私にとっての「祈祷院」)で過ごすようになっています。この間、祈りの中で、その日に受けた恵みを数え上げて主に感謝する、それが私の日課となり、生活の力となっているのです。
 同じように、この年を回顧して、主から受けた多くの恵みを、五つばかり記しておきます(順は不同)。
 
 ☆4月 法理念哲学関係の友人、ハリー・シャット氏夫妻をハワイ島ヒロ市近郊に訪ねる。高齢で弱っておられたが、法理念哲学関連の多くの貴重な書物を文庫のためにいただいた。家内も同行。(ホームセンター「コメリ」のくじが当たり、旅費半額免除)
 ☆6月 大地震(4/14,15)に見舞われた熊本教会を家内と共に問安。6/26礼拝説教奉仕、旧知の兄姉・求道者を訪問。
 ☆6月 「まじわり」6月号に、恩師矢内昭二牧師(3月16日召天)の追悼文を書く。12月、家内と共に、「武蔵野シャローム墓苑」(所沢市)を訪ねた。改革派創立宣言に基づく教会の形成という先生の遺志をを継ぎたい
 ☆7月 日本カルヴィニスト教会総会・講演会に出席(於・神港教会)。『キリスト者の世界観』増補版の翻訳に向けて励ましを受ける。
 ☆11月 東関東中会設立10周年記念信徒大会に出席(於・東京基督教大学)。筑波みことば教会の兄姉と久方ぶりに再会。

(主の2017年の展望)

 明日からは、いよいよ2017年、宗教改革500年記念の年です。
 カルヴァンは、『ジュネーブ教会信仰問答』「主の祈り」第3祈願の項で、次のように問答するように求めています。
 
問269 「どうして、このみ国を、来たらせ給えとあなたは祈るのですか」。
答 「それは主が1日1日と信徒の数を増し加えてくださるように、また彼らの上にその恵みを日毎に増大させて充ち満つるまでにしてくださるように、また神の真理をますます明らかに示してくださるように、神の義をあらわしその義によって、サタンとその国のもろもろのくらやみが砕かれ、また一切の不義が打ち倒され取り除かれるようにということであります」。

 この答の中で、「一日一日と」「日毎に」「ますます」といった言葉に注目してください。カルヴァンが御国の進展を生き生きと捉え、それが「毎日」のことであることを強調していることがわかります。1年には365日あります。この1日1日に私たちは沢山の恵みをいただきます。それならば、来年1年間に神様からいただく恵みはどれほどでありましょうか。私たちは、日毎に恵みを数え上げ、主を讃美しつつ1年を過ごしたいものです。

 今はなき岡田稔先生(神戸改革派神学校初代校長)が、私の青年時代、西部中会の連合青年会で、「終末信仰に生きるキリスト者は、待ちつつ働き、働きつつ待つんだ」といわれたことを覚えています。再臨を待つだけではない、将来の展望(希望)もなしにただ働くだけでもない。待ちつつ働き、働きつつ待つのだ」。この「待ちつつ働き、働きつつ待つ」(ルカ12:35~37)を、来年度「ICS軽井沢文庫」の標語としたい。

(「ICS軽井沢文庫」の活動)

 「ICS軽井沢文庫」の当面の活動は、①改革主義的文書の翻訳、②「ICS軽井沢文庫だより」の発行です。
 ①については、この1か月、アル・ウォルタース&マイケル・ゴヒーン著『キリスト者の世界観』増補版、〈付録・あとがき〉「物語と宣教を媒介する世界観」の中の一項「聖書物語と教会の宣教的使命における私たちの役割」全体を訳したものを付け加えて掲載していますので、ご一読ください。内容はとても良いです。
 ②について。次号の発行は2月初め頃です。 



「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸を開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」
           (ルカによる福音書12:35~37)

【連絡先】
〒389-0115長野県北佐久郡軽井沢町追分36-23 宮﨑彌男・淳子
Tel/Fax 0267-31-6303、(携帯) 080-3608-3769
            Eメール<mmiyazk41@gmail.com>
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「ICS軽井沢文庫だより」 NO.4 2016年11月23日

「アドベントに入る」 宮﨑彌男
 
 秋から冬へと移りゆく季節となりました。もう来週の主の日からアドベント(待降節)入りです。秋の軽井沢は、本当に紅葉が美しく、良い写真を撮って「たより」に掲載しようと、近くを見渡したのですが、残念ながら、もう見頃を過ぎてしまっているようなの
で、また来年度のお楽しみ、ということにさせていただきます。代わりに左に掲げたのは、「初冠雪の浅間」 (11月3日、信濃追分駅ホームより眺む) です。
 さて、私の最近の日課ですが、午後、1時間くらい自宅付近を散策します。一人で、祈りつつ瞑想しつつ歩くこともありますが、家内と連れだって散歩することもあります。このような時に、説教のアウトラインや適用が思い浮かぶことも多くあり、また、神の国に関わるヴィジョンや計画が示されることもありますので感謝です。ただ、去る10月30日の早朝、散歩中に熊を見かけた、という近隣の目撃情報もありましたので、要注意です。このため、しばらくは、暗くなってからの散歩は御法度。それで、夕食後は、文庫の小屋に灯りをともして、祈ったり本を漁ったりすることが多くなっています。小さな石油ストーブを入れているので、ちょっとした 「祈祷院」となっています。

(10月、11月の主な出来事)
10月2日㈰、23日㈰ 新潟伝道所・説教、ウ大教理問答学習会。
10月 9日㈰ 佐久伝道所・ウ大教理問答学習会。
10月11,18,25日(火) スマホ・タブレット講習会、於・軽井沢中央公民館(注☆)。
10月 16日㈰ 長野伝道所・説教奉仕。
10月25~27日 日本クリスチャン・カレッジ(現・東京基督教大学)1965年卒同期会、於「軽井沢ゆするの家」(注☆☆)。
11月3日(木・祝) 日本キリスト改革派東関東中会設立10周年記念信徒大会、於・千葉県印西市・東京基督教大学キャンパス(注☆☆☆)。
11月6日㈰、27日㈰ 新潟伝道所・説教、ウ大教理問答学習会。
11月8,15,22日(火) スマホ・タブレット講習会、於・軽井沢中央公民館。
11月13日㈰ 佐久伝道所・ウ大教理問答学習会。
11月20日㈰ 長野伝道所・説教奉仕。
(注☆)長野駅前「平安堂」の古書コーナーで見つけた野口悠紀著『超「超」整理法』に触発されて、9月より出るようになりました(講師:赤井信夫さん)。やはり、パソコンやスマホ等には、われわれ高齢者!も、ある程度の習熟が求められているようです。
(注 ☆☆)
これは、私が出席したというのではなく、家内が幹事 (世話役?) をつとめたので、私が若干準備に係わったということです。出席者、各地より9名。26日(水)には、追分の拙宅&ICS軽井沢文庫にお招きし、文庫の意義等についてお話ししました。この中の幾人か (特に、平林英也さん、高山清彦さん) は、同校在学中に、渡辺公平先生(故人)の謦咳に接し、キリスト教弁証学・哲学に関する講義を受けられたということで、キリスト教世界観に深い理解と関心を示され、話が弾みました。この渡辺公平先生は、改革派教会の創立メンバーの一人で、JCCに移られる前、神戸改革派神学校でも弁証学教授を務められた方です。1965年頃、国際キリスト教大学で安達昌一兄(後に改革派甲府塩部教会牧師、1996年召天)等と共にICU・KGKを立ち上げたとき、2,3度お招きし、講義していただいたことがあります。この方面での先生の著作や論文は、今でも貴重なものです。
(注 ☆☆☆)私は、2003年12月~2011年7月、茨城県つくば市にある筑波みことば伝道所宣教教師を務めましたが、その間、2006年7月に東関東中会が設立され、その創立メンバーとなりました。以来5年間この新中会に属し、中会的交わりの中で色々お世話になりました。そのような経緯がありお招きいただいたので、出席しました。久方ぶりでつくばの兄弟姉妹たちや、中会の先生方、親しい役員、信徒の方々にお会いし、主にある旧交を温めることができました。挨拶された石丸引退教師の「後期(=光輝!)高齢者」への励ましの言葉は印象的、「私たちの礼拝が主への讃美と信仰告白によって光り輝く」(イザヤ書60:1~3)とのメッセージをいただきました(写真)。

(『キリスト者の世界観―創造の回復』(改訂版)付録翻訳の進捗状況)
 前号で予告しておりました、アルバート・ウォルタース著『キリスト者の世界観―創造の回復』(改訂版)付録「物語と宣教を媒介する世界観」の翻訳は順調に進んでおり、原著119~127頁の訳を、引き続き、「ICS軽井沢文庫」のブログ<ics41.blogspot.jp>に掲載しておりますので、御覧ください。同「改訂版」の、アル・ウォルタース及びマイク・ゴヒーンによる「まえがき」の訳も追加・掲載しましたので、合わせてごらん下さい。「改訂版」の主旨が明確に述べられています。
 この他、ブログには、神戸改革派神学校在学時よりの畏友、藤本千春牧師(現在、東北中会引退教師として青森県八戸市在住)が寄せてくださった「たより」第3号への感想文も、許可を得て掲載させていただいています。

 (メールアドレス変更のご通知)
この度、私のメールアドレスを、(旧)mmiyazk@a011.broada.jpより、(新)mmiyazk41@gmail.comに変更しました。今後は、新メールアドレスにてお便りくださいますよう、よろしくお願いいたします。なお、旧アドレスも、年内はご使用いただけます。

シャーローム。

「…これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、
 高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座し
 ている者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」
           (ルカによる福音書1:78,79)

【連絡先】
〒389-0115長野県北佐久郡軽井沢町追分36-23 宮﨑彌男・淳子
Tel/Fax 0267-31-6303、(携帯) 080-3608-3769

e-mail<mmiyazk41@gmail.com>



<「たより」第3号へのレスポンス>  青森県八戸市 藤本千春

宮崎弥男先生
主の御名を崇めます。お元気でご活躍のこと、すばらしいです。神によって与えられた時間ですので、存分に力を発揮してご活躍下さい。
創立宣言のとおり、真に神を崇める社会を祈り求めていくことは、「主の祈り」の第二の、神の国のための祈りと同じですね。そして、神が創造された秩序としてのこの世界、社会、人間、そして教会の本質を知ることは、本当に福音宣教に不可欠の理解ですね。どうぞ、それらを主の聖なるご意志の明確化として体系化してくださることを希望しています。
私の方は、教会のための奉仕で精一杯で、何も他のことは出来ません。神を信じない社会、そしてその中のカインの文化、それらを神は忍耐して許しています。そして、神を信じる回復された民の集まりは、信仰と礼拝と宣教のために賜物を分かち合っていますが、この世の中に(その民の中に)住んでいるので、その中の制約を受けますし、また、それらを神にある社会秩序に変えていかねばなりません。しかし、その中での正しい国家、国際的関係など、教会員の信仰と神学と力は本当に乏しいものです。しかし、教会と信仰は時代を変革しなければならないでしょう。先生の研究とその実りを祈っています。
毎週のお働き、大変だと思いますが、主がみたまにあって共におられ、力をゆたかに注いでくださいますよう、祈ります。
              遠く青森の地より
                藤本千春
                10月26日 '16

☆☆―大変励まされるお便りをありがとうございました。宮﨑彌男―☆☆