2017年4月1日土曜日

ICS軽井沢文庫だより No.8

「注意深く御言葉に傾聴せよ」
                        宮﨑彌男       


庭の福寿草
全国的には、次々と桜の開花宣言がなされているようですが、ここ軽井沢では、標高1,000㍍という準高地のせいか、なかなか本格的な春がやって来ません。先日、3/27(月)の朝には、30㎝もの積雪があり、季節外れの雪景色となりました。待ちきれずに、3/20(月)の春分の日、私たちは二人で追分宿の方にまで、10,000万歩をあるき、早春の日差しを楽しみました。立ち寄ったカフェ・レストランの内庭に咲いていた福寿草が春の到来を告げていて、良い散歩となりました。家に戻ってくると、うちの庭にも福寿草が咲いていました(写真)。
 さて、私は、2014年6月に「ウェストミンスター大教理問答」の新訳を教文館より出版しましたが、その折に、共同研究、その他、色々の形でご協力いただいた石丸新先生 (東関東中会引退教師)とは、その後もずっと、更なる改訳を視野に入れた手紙のやりとりが続いています。「ウ基準の学びには終わりがない」とは先生のよく言われることですが、改訳に向けての学びを通して多くの新しい(フレッシュな)霊的刺激を受けることは確かです。
 1月21日付の書信で、先生は、ウェストミンスター信仰基準に計18回出てくるdiligence, diligent, diligently の訳し方について、メモ書き (内容的には「論述」に近い)を提供してくださっています。その中の一つなのですが、ウ小教理90、ウ大教理157、同160に出てくる with diligenceは、これまで、「勤勉…をもって」とか 「勤勉に」、「熱心に」 と訳されることが多かったのですが,先生は、「注意を払い」 または「注意を傾けて」と訳すべきことを主張しておられます。diligenceは、今日でこそ「勤勉」とか「熱心」という意味で用いられることが多いのですが、元々は「注意深さ」を意味する言葉であったようです(水垣渉・袴田康裕著『ウ小教理問答講解』pp.143-144を参照)。それで、私自身も、ウ大教理157では、「注意力を集中し」(て御言葉を読まなければなりません)、あるいは、同160では、「注意力」(と準備と祈りとをもってこれに傾聴すること)と訳しています。
 このように「注意を払い」と訳す方が、直前の「これに傾聴する」(attend thereunto/upon it)との繋がりも良くなります。また、証拠聖句として挙げられている箴言8:34や使徒17:11とも良くマッチします。それで、改革派教会の憲法委員会でウ小教理の改訳を出されるときには、ぜひご一考いただきたいと思っています。袴田康裕先生が最近出された新訳『ウェストミンスター小教理問答』では、この箇所については、
「勤勉…をもって」となっておりますが、私どもとしては、やはり、「注意を払って」御言葉に傾聴することを強調したい。
 私は、御言葉に注意深く聞くことこそが,今日における教会の霊的更新(リニューアル)のために基本的に重要なこと認識しています。教会の礼拝・諸集会において、信徒各自の家庭礼拝や個人的でボーションにおいて、あるいは、御言葉が語られる領域を更に広げて、神の創造啓示(「一般啓示」)に耳を傾ける霊的洞察力において、御言葉に注意深く傾聴することこそが,今日の私たち信徒に求められているのです。
 「神の創造啓示に耳を傾ける」ことについては、正に「ICS軽井沢文庫」におけるキリスト教哲学研究に関わることでありますので、改めて取り上げることにしますが、ここでは、日々の家庭礼拝において、引退教師としての私(と家内)が「注意深く」御言葉に傾聴することを心がけておりますことを、僭越ながら一つの実践例として紹介させていただきます。
 家庭(夫婦)礼拝は、毎朝朝食前の20分間、日本キリスト改革派教会教育機関誌委員会発行の「リジョイス―主にある喜びー」を用いて行っています。通常の礼拝順序は:
  □ジュネーブ詩編歌
  □聖書(&ハイデルベルク信仰問答)
  □解説と奨励(「リジョイス」の日課による)  
  □「いのちのパン」(子どものための勧め)
  □祈り(含・全国の教会/伝道所のための祈り)
 更に、家庭(夫婦)夕拝を、毎晩9時30分から約15分間、スター・ミード著、佐藤強・魚本つる子訳『主を知り,主を喜ぶ~子どもから大人まで~』(教理問答による日々のデボーション)を用いて行っています。この書物は、一昨年10月、正統長老教会(OPC)日本ミッションから発行されたものですが、日本語訳もわかりやすく、内容も充実しています。私どもは、毎晩、その日の教理問答(ウ小教理)の解説と聖書箇所を読んで、学んだことを分かち合い、その後で、祈ります。家庭夕拝にぴったりの書物で、皆様方にも心よりおすすめします。訳者の一人である佐藤強先生(TEL/FAX :0465-43-3573、e-mail:tsuyoshi-sato423@nifty.com)に連絡すれば、\2,300+税で送ってくださると思います。
 なお、ついでながら、「リジョイス」の申込先は→ 那加教会内 今井捷利さん(FAX 078-330-3371、e-mail:rcjrejoice@gmail.com)です。
 私ども夫婦にとって、これら朝夕2回の家庭(夫婦)礼拝は、軽井沢での引退教師としての毎日の生活の、なくてはならない枠組み(支柱)となっています。御言葉を注意深く聞き、語り合う,楽しく有意義なひとときとなっています。このことを感謝をもって報告し、皆様方もそれぞれの事情にあった仕方で、日々御言葉を読んで、祈るひとときを守られることをおすすめします。
 私の九州での先輩同労者、岩崎洋司先生が口癖のように言っておられた「クリスチャンであっても,毎日聖書を読んでいる人と,そうでない人とでは、数年の内に(霊性上)大きな違いが出てくる」を思い起こしています。
 今年は宗教改革500年の年です。Sola Scriptura!           
                        
<「たより」第7号へのレスポンス>安達正子さん(山梨県甲斐市、介護福祉士)

宮崎先生 
 ICS軽井沢文庫7号を読ませていただきました。いつも楽しみに読ませていただいています。有難うございました。 
 さまざまなことが起きて世界中が騒然としている今日この頃です。 
 またあの忌まわしい時代に戻ってしまうのかという漠たる不安を抱えながら過ごしている者にとって真の希望と確固たる安心感を与えてくださる文章でした。 
 頼るのはキリストにある確かな希望ですね。改めて深く心に刻みました。
 安達正子

☆☆安達さま、前月号の「希望に生きる」へのレスポンスをありがとうございました。時代がどちらの方に向かっているのかわからない、不透明な様相を呈する中で、にもかかわらず、真実な希望を説くことができるのは,御言葉の上にしっかりと立つ教会とキリスト者だけですね。信仰・希望・愛に生きたいものです。☆☆宮﨑彌男
 
(『キリスト者の世界観ー創造の回復』増補版・付録の翻訳)

先月は、原著140~143頁、「“霊”と霊性」、「聖書物語と今日の生き方を媒介する世界観の役割」,「結び」の三つの項を訳し終え、これで「付録」部分、全訳・完了しました。今後は、増補・改訂版の出版に向けて努力します。お祈りに覚えてください。ラベル<『キリスト者の世界観―創造の回復』付録>をクリックしてごらん下さい。

☆ 「宣教において遭遇する戦いにおいて忠実たらんとする教会は生きた霊性を育て培う必要があるのです」(「“霊”と霊性」)。
☆「世界観は自動車のギア装置のようなものです。ギア装置は、エンジンの力と、地に接して車を動かすゴムのタイヤの間を媒介する働きをします。聖書についての世界観的な思索は、福音の力とその影響下に置かれる人間生活との間を媒介します」(「聖書物語と今日の生き方を媒介する世界観の役割」)
☆「万物は神の創造によるものです。どんなものも罪の破壊力と無関係ではありません。すべてのものは“霊”により、キリストにあってなされつつある神の更新の御業に参与しています」(同上)。

※次号の発行&ブログの更新は5月初め頃です。

「ここのユダヤ人たちは,テサロニケのユダヤ人よりも素直で,非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた」。
                   (使徒言行録17章11節)


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2017年3月2日木曜日

ICS軽井沢文庫だより No.7

「希望に生きる」    宮﨑彌男

  あっという間に、2月が終わって、2017年も3月となりました。年を迎える前から今年は大変な年になりそうだと予測していましたが、この2か月だけでも、トランプ大統領の就任以来、次々と打ち出されてきた大統領令のみならず、クアラルンプールの空港で起こった暗殺事件などにより、全世界が揺さぶられているような毎日です。そのような中で、私たちは、神さまの御言葉である聖書から「希望に生きる」道をはっきりと示されたい。 
創造、堕落、希望の世界観
2月は、長野伝道所で、2月5日と19日の2回にわたり、新約聖書ヘブライ人への手紙の6章13節~7章19節により、キリストによる希望について説教する機会がありました。新共同訳聖書のこの箇所には、「希望」という言葉が4回出て来ます。この「希望」が、この箇所を読み解くキーワードの一つであることは間違いありません。
 シールズ流(注)のコール&レスポンスで言えば、「希望って何だ?」「揺るがない希望のことさ!」ということになります。聖書の語る希望(キリストによる希望)は、単なる願望ではない。必ず実現する、確かな、揺るぐことのない希望である。私たちは、そのことを日本キリスト改革派創立60周年の『終末の希望についての信仰の宣言』で明らかにしました。私たちのキリストにあって抱いている希望は揺るがない希望です。ヘブライ人への手紙 6章19節に「私たちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです」と書いてあるとおりです。錨は、海の底に重しを下げて船をつなぎ止め、荒波や高波が押し寄せても船が流されないようにするものです。キリストにある私たちの希望も、同じように、人生の荒波が押し寄せてきても揺らぐことのないものだと言っているのです。
 なぜか。それは、私たちが律法を完全に行うことによって得ることのできる希望ではなく、十字架の死と復活によって私たちのためにあがない(罪による負債の除去)を成し遂げてくださった(ヨハネによる福音書19章30節)キリストのお与え下さる希望だからです。律法による希望ならば、私たちの罪や弱さによって、神のきよさに達することができないので、希望があるのかないのかわからないでしょう。むしろ、正直言って、絶望しかない。しかし、聖書の語る希望は、私たちを愛してくださるキリストのお与えくださる希望です。この希望は、どんなことがあっても、決して揺らぐことがありません。ヘブライ人への手紙の著者は、このキリストによる希望のことを、律法による希望との対比で「もっと優れた希望」(7章19節)と呼んでいます。ハレルヤ、主よ! この希望によって、私たちは、神に近づくことができるのです(19節後半)。
 今年、教会の内外で色々のことが起こるでしょうが、どのような場面においても、この希望によって生き、神に近づきたい。私たちにとって将来は必ず開かれるます。この希望をもって、今月も、ICS軽井沢文庫の育成のために祈り、労するものとなりたい。
(注)2015年の夏、安保法案に反対して(延べ)35万人が国会前周辺に集まりました。その原動力となったとなったシールズ(SEALDS)は、従来のシュプレッヒ・コールに替えて、コール&レスポンス(問いかけ・応える)を試み、「民主主義って何だ?」と問いかけると「民主主義ってこれさ!」と応えるようにした、とのことです(高橋源一郎/SEALDS:『民主主義ってなんだ?』60-67頁参照)。デモ形式のカテキズムですね。

(文庫の中で)
December, 1972

 2月中の主な仕事は、雑誌類の整理でした。Perspective (AACS/ICSの 季刊ニュースレター、1969年~2011年)、Vanguard (月刊・改革主義ジャーナル、1970年11月~1981年12月)、ANAKAINOSIS (季刊・改革主義思想ジャーナル/ニュースレター、主幹:アル・ウォルタース、1978年9月~1986年6月、全17冊) 等を年月順に整理しました。これを適当な形にバインドし、閲覧できるようにしたいと考えています。いずれも、日本における改革主義運動展開のために貴重な資料となります。




(『キリスト者の世界観ー創造の回復』増補版・付録の翻訳)
 原著135~145頁の「文脈化ー構造性と方向性をわきまえる」を訳し終え、この部分を加えて、ブログ「ICS軽井沢文庫」ics41.blogspot.jp に掲載しましたので、ラベル<『キリスト者の世界観ー創造の回復』付録>の項をクリックして、ごらん下さい。伝道における文化の問題を考える上で、正しい視点を提供していると思います。力を込めて訳しました。ぜひ、お読みください。

<「たより」第6号へのレスポンス>岩間孝吉さん(日本キリスト改革派山梨栄光教会長老、元・山梨英和中学・高校校長

☆☆宮崎弥男 様
 ICS軽井沢文庫だより第6号、ありがとうございました。
 賀川豊彦の働きについての研究成果が紹介されていましたのを、
興味深く拝見しました。 
 実は、賀川豊彦は、1948年山梨県を訪ね、甲府や韮崎で
揮毫し、聖句等を額に残しております。(山梨YMCAほか保存)
小生も調査しております。
 1948年(昭和23年)6月19日(土)、賀川豊彦一行が、山梨県
伝道のため甲府へ来ておられます。「新日本建設、キリスト教
運動、賀川班、1948年6月記」=賀川豊彦記念松沢資料館所蔵。
 19日~23日。20日(日)午前9時~山梨県会議事堂にて伝道
集会、来会者1100名、テーマ「一粒の麦」、主催・山梨YMCA。
 21日(月)=甲府刑務所で集会、市川大門町で集会。
 20日(火)=9時、国立甲府病院にて「精神治療と信仰治療」講演。
20日10時半=県立甲府第一高校で、学校講演「自然を通して神を見る」
聴衆1500名、決心カード133枚。
 同日午後3時、韮崎教会で「自然を通して神を見る」講演、聴衆
160名中84名決心。23日正午、松沢に帰った、とのことです。
 PS 山梨県教会一致懇談会、という超教派の活動を50年山梨では
続けています。今年の一致祈祷会の予定を参考までに添付しましたので、
ご覧ください。6日間で、県下32教会3団体から延338名出席、献金
245,134円が捧げられました。小生もその世話人の1人をさせていただ
いています。 
岩間孝吉(山梨栄光教会)☆☆

☆☆岩間さま、ありがとうございました。1948年6月19日~23日の賀川豊彦による山梨伝道の記録をお分かちくださり、感謝です。20日(日)朝の集会には、1100名も集まったのですね。週日の県立高校等での集会でも多数の「決心者」が出た、とのこと。戦後日本の歴史の貴重な1頁として、心に刻みたいものです。お世話された山梨県教会一致懇談会の集いにも多くの方が出席されたのですね。soli deo gloria! 宮﨑彌男☆☆

(前号の誤字訂正)

 前月、2月1日に「ICS軽井沢文庫だより」No.6を公開しましたが、以下の2箇所ばかり誤字がありましたので、お詫びして、訂正いたします。
 1)公開の日付、(誤)2016年2月1日→(正) 2017年2月1日
 2)長野伝道所で、御国イザヤ著『勝利を得る日本の教会』を見付けたのは、(誤)2月14日→(正)1月14日、でした。

※次号の発行&ブログ更新は4月初め頃です。


  

   「私たちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨の
   ようなものであり、また至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです」
                        
                     (ヘブライ人への手紙 6章19節)



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2017年2月3日金曜日

「ICS軽井沢文庫だより」NO.6

「五つの Sola でこの年を」

        ―宗教改革500周年―     宮﨑彌男


 この年の元旦の朝、わが家では、モモちゃんが亡くなりました。17才と8か月共に過ごした愛犬(柴犬雑種メス)でしたので、悲しく、与えまた取り給うた主に、涙ながらに感謝の祈りをささげました。昨年1年間は、さすがによちよち歩きとなり、最後の1ヶ月ばかりは、家内の介護も大変でしたが、不平を言うこともなく天寿を全うして召されました。感謝をもって、一言ご報告まで。

さて、1月は、教会での説教奉仕が、5回の主日の内、15日(長野伝道所)と29日(佐久伝道所)の2回だけでしたので、それだけ本を読む時間を確保することができました。先ず、引き込まれるようにして読んだのは、菅野完著『日本会議をめぐる四つの対話』(2016年、K&Kプレス)。これは、『日本会議の研究』の著者、菅野がさらに白井聡、村上正邦、魚住昭、横山孝平と対談したものを改めて本にしたものです。たまたま近くの本屋で見かけて買ったのですが、読んでみると、日本会議に関する多くの貴重な情報と洞察に充ちた、内容のある対談集でした。改憲運動を推進する勢力として日本会議が注目されていますが、それは、日本会議の力によるというよりも、対抗勢力としての「左翼」とか「リベラル」が弱くなっているからだ、との指摘は対談者に共通のものとしてあるようです。改革派教会が、戦後の日本において有神的世界観人生観と聖書的教会の建設を掲げて伝道しながら、未だに一個の政治勢力たることを得ていないことに強く反省させられます。

 もう1冊の本は、古屋安雄著『私の歩んだキリスト教~一神学者の回想』(2013年、キリスト新聞社)です。古屋先生は、プリンストン神学校でドクターを取られた後、国際基督教大学教会牧師/宗教学教授となられたのですが、私自身も、1963年~67年、学生として色々お世話になったことがありました。その後も、先生のお母様が戦前灘教会の伝道師をされたことがあったということで、神戸に来られた時などお会いしたこともありました。お父様は組合教会の牧師でしたので、「自分は、組合派と長老派の両方の血を受け継いでいるんだ」等と言っておられました。このお父様の信仰について、その朝夕の祈りが、「新しい今日も一日、神の国のために励ませてください」、「今日も一日、神の国のために働くことができて感謝です」等、「神の国」を意識した祈りであったことを、今でも覚えておられるとのこと。古屋先生は、このような「神の国」を意識した伝道/祈りが今日の教会に欠けているのではないかと主張され、この点で、伝道者としての賀川豊彦に学ぶべきと言っておられます。(日本キリスト改革派教会『大会時報』203号所収の拙文「求められる再宗教改革~古屋安雄講演<なぜ一%を超えられないのか>を聞いて」、及び阿部志郎他著『賀川豊彦を知っていますか』(2009年、教文館)所収の古屋講演「伝道者としての賀川豊彦」もご参照ください)。

 このような折に、東京基督教大学の稲垣久和先生が「ICS軽井沢文庫だより」NO.5に対するレスポンスと共に、「市民社会と賀川豊彦の友愛精神」というテーマで行われたシンポジウム(2016年10月29日、於明治学院大学白銀校舎)での御自身の発題講演「労働者は人格である」をお送り下さいました。啓発される所の多い講演ですので、先生の許可を得てこのブログ(「ICS軽井沢文庫」ics41bogspot.jp)に掲載させていただきます。

 この1月に読んだ本の極め付きは、ちょっと意外に思われるかも知れませんが、御国イザヤ著『勝利を得る日本の教会』(2016年、学校法人レムナント学園)でした。この本は、多くの教会に恵贈されたのでしょうか。私は、1月14日、大雪のために、大事を取って、土曜日の内に長野伝道所に行き、一泊したのですが、その事務室にこの本が置いてあったのです。ぱらぱらとめくっておりますと、参考文献の中に、宮﨑彌男訳『ウェストミンスター大教理問答』も挙げられていましたので、興味を惹かれて読む内に、これは、改革派に近い立場で書かれている日本伝道論だということがわかりました。それで、さっそく取り寄せて、聖句を紐解きつつ丁寧に読んでみました。そうしますと、日本伝道について、私が日頃から祈り考えていることと重なることが多く、ブログでもご紹介しようと思い至った次第です。全編に亘って大切なことが書かれていますが、特に「六、サタンとキリスト」、「一〇、キリストと神の国のことと聖霊」、「一四、次世代と信仰継承」は、熟読玩味に値します。

 今日の日本の教会に対する著者のメッセージは、詰まるところ、十字架と復活によりサタンに勝利されたキリストの三職のすべて、中でも、特にキリストの王職を語れ、ということす。そこから、「神の国のこと」(使徒1:3)を教え、学び、実践することが第一義的な重要性を帯びることとなるのです(マタイ6:33)。私たちは、長期に亘る安倍政権の下での一強他弱の政治状況、またそれに与する日本会議等の運動の背後に、憲法を壊し、日本を潰し、教会を無力化しようとするサタンの策略(エフェソ2:2、ヨハネ8:44)を見ざるを得ません。教会はこのような中で、なすすべを知らないかのようです。けれども、真の王であられるキリストはすでにその死と復活によりサタンに勝利しておられます(創世記3:15、ヨハネ19:30、Ⅰヨハネ3:8)。このキリストとその御言葉に従いゆきたい(エフェソ6:1,2)。その時、キリスト御自身が教会を建てられます(マタイ16:18)。

 この年、2017年は、マルチン・ルッターがヴィッテンベルク城教会の壁に「九五か条の提題」を張り出して、宗教改革運動が始まってから500年に当たります。私たちはこの年、宗教改革の五つのSolaを私たちのSolaとして、王なるキリストに従いゆくものとなりたい。すなわち、
 (1)恵みのみ Sola Gratia、
 (2)信仰のみ  Sola Fidei、
 (3)聖書のみ  Sola Scriptura、
 (4)キリストのみ  Solus Christus、
 (5)ただ神の栄光のために  Soli Deo Gloria です。
 アーメン。

<「たより」NO.5へのレスポンス> 東京基督教大学 稲垣久和先生

宮崎弥男先生
明けましておめでとうございます。
先生の活動も軌道に乗ってきたようで何よりです。
ブログの中にN・T・ライトのことが出てきていましたが、昨年から『新約聖書と神の民
』(新教出版社)の翻訳者の山口希夫氏らとともにライトの研究会を始めました。
近年の新約聖書学には目覚ましい発展があり、ライトやボウカムのものにはとても興味
があります。
特にライトは哲学との接点が深くあり、批判的実在論は私の書いてきた本の骨子を作っ
ているのでとても関心を持っています。オックスフォード学派の批判的実在論とアムス
テルダム学派の世界観アプローチとは極めて近いのです(拙著『宗教と公共哲学』東大
出版会、2004年)。
近年の聖書学が明らかにしているイエスの「神の国」は賀川豊彦の「神の国」概念とと
ても近く、むしろ日本のプロテスタント主流派と言われてきたグループの福音理解に問
題があることもわかってきました。カイパー的には共通恩恵論(common grace)の欠如
ということでもあるでしょう。
今年も賀川論からの市民社会形成に励みたいと思っています。これは日本で本来の「神
の国」を作っていく私なりのチャレンジです。
「み国をきたらせたまえ」という日々の祈りととともに。
稲垣久和
添付のものは昨年10月29日の第2回賀川シンポの時のプログラムです。

☆☆稲垣先生、ありがとうございました。先生の方も、御国のためのお働き、着々ですね。『宗教と公共哲学』、改めて読ませていただいています。先生の賀川研究が実り多いものとなりますように。
宮﨑彌男☆☆

(M. ゴヒーン& A. ウォルタース著『キリスト者の世界観―創造の回復』改訂版・付録の翻訳)

こちらの方は、この一月間、余り進まなかったのですが、それでも、原著133~135頁の「宣教における苦難と戦い」を訳し終え、先月までの箇所に付け加えましたので、ブログ「ICS軽井沢文庫」ics41.blogspot.jpの『キリスト者の世界観―創造の回復』付録の項をクリックしてごらん下さい。

※次号の発行&ブログ更新は3月初め頃です。   


   「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御言葉の支配下に
    移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦
    しを得ているのです」。                      (コロサイの信徒への手紙 1:13, 14)


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2017年2月2日木曜日

シンポジウム「市民社会と賀川豊彦の友愛精神」


以下は、2016年10月29日(土)、明治学院大学白銀校舎にて開催されたシンポジウム「助け合いの心が日本社会を変える!~市民社会と賀川豊彦の友愛精神~」における稲垣久和氏(東京基督教大学大学院教授)による発題講演(「開催主旨」)です。同氏の許可を得て、ここに掲載させていただきます。

       労働者は人格である


稲垣久和(東京基督教大学大学院教授)

今日、賀川豊彦という歴史上の一人物を念頭に入れつつ、一つのシンポジウムを企画いたしました。生協、労組、農協、信用金庫、共済保険……。私たちの社会の一部となっているこれらの事業に共通するもの。それは次の二点です。
一、 助け合いのための組織であること。
二、社会事業家・賀川豊彦が大正時代から昭和初期に開拓者的にかかわった事業であること。
資本主義のもたらす格差と貧困が今以上に深刻であったこの時代、賀川は、相互扶助の伝統を社会的・組織的に促進する協同組合運動を精力的に展開しました。
それから100年たった今日、再び貧困や格差が大きな社会問題となっています。賀川の説く「友愛と連帯」によってこれら諸問題に対処しつつ、格差の是正と新たな市民社会の建設に励みたいと思います。登壇いただいた各グループの方々からまずは次のようなところに強調点を置いてご発言をいただきたいと思っています。
①各団体紹介とその賀川豊彦との関係
②具体的なテーマとして今日の格差社会の弱者、そして(賀川が関東大震災救援に直ちに取り組んだように)東日本大震災や4月の熊本地震への支援。または地域の活性化への取り組み。

以下、ご参考まで、主催者側がシンポジウムの背景の理念と考えるものを記させていただきます。
1.自由と人格
賀川豊彦は労働運動を始めたころに「労働者は人格である」という有名な言葉を残しています[1]。私は今日のシンポジウムの通奏低音としてこの言葉を響かせたいと思いました。   
「労働者は人格である」。当たり前といえば当たり前、しかしこれを前面に掲げて現代の諸問題に対処していくと、決して当たり前ではない。それは今日の日本社会での「働き方」の現実を見れば明らかです。例えば連合白書(2016年春季)にも「人を犠牲にした経済成長」[2]という現政権への評価が見られます。ではこれに対する代案をわれわれは持っているのか。もし持っていないとすればそれをどう構築すればいいのか。「人を犠牲にしない経済」とは何でしょうか。このようなややスパンの長いテーマについて、皆で考える対話の時としたいと思いました。
人が働くとはどういうことでしょう。働くことの意味、働くことの喜び、そもそも人はなぜ働くのか。もちろん、自分の生活の糧を得るためにも、他者を養うためにも、自己実現のみならす、他者支援のためにも、「働くこと」は人生と社会にとって深い意味があるでしょう。ところが、このような基本的な哲学的問いを出すいとまもなく、労働者であるわれわれは日々の生活に追われている。かつての哲学発祥の地ギリシャ、ここは紀元前の当時まだ奴隷制社会でありました。ほんの一部の自由人が「自由」「平等」「正義」「友愛」「知恵」を語り、西洋文明に物事を根底から考える分野として「哲学」というジャンルを遺してきました。当時、労働者は主として奴隷の身分でした[3]。
それから2500年以上経って民主主義が達成された現代には、すべての人がグローバルスタンダードで「自由」を人権として主張できるところまできました。この歴史の歩みにわれわれは感嘆します。しかし他方で「糧を得る」ための労働すなわち経済的な社会の仕組みから見ると、どうも先進国ですら「自由人」とはとても言えない面が目立ってきました。憲法で「生存権」が保障されていても「カローシ」などという言葉を生み出し世界に輸出する日本社会、そんな極端ではなくても長時間労働を当たり前に受け入れている不思議な日本人の姿は、むしろ「奴隷」に近いものになってしまってはいないでしょうか。これは誇張でも何でもありません。労働市場に大半のエネルギーを吸収されていれば、その分、休息の時間のみならず人と対話し人と交流しながらコミュニテイを形成する時間は奪われます。これはどうみても「自由人」のあり方ではないでしょう[4]。では労働は自由の源泉であり、喜びだ、という具合に転換するにはどうすればよいのでしょうか。
 現実には市場経済が成熟した今日、労働は商品と同じように貨幣との交換になっています。つまり賃金労働にならざるを得ませんし、この現実を疑うことはほとんどありません。そして資本主義という近代的システムは、よく知られているように、すでに100年前に賀川がその欠陥を鋭く批判したものでしたが、にもかかわらずしぶとく生き残り、今日いわゆるグローバル金融資本主義にまで行きついています。端的に言って資本主義は民主主義とは両立しません。弱肉強食の競争システムが、弱者にも平等に一票を与える共生システムと両立するとは考えられないからです。いくらケインズ・ベヴァリッジ型福祉国家だ、福祉資本主義の三類型だ、いや四類型だといったところでもはや修正や微調整ではどうにもならないところに来ています。ITをはじめとするテクノロジーの日進月歩が、文明の質を変えつつあります。根本的に人類文明の近代以降のあり方を変えざるをえないところに来ています。ポスト近代の時代、人類が生き残りたいと思うなら、その方向にパラダイムを大転換するしかありません。

2.資本主義の変遷
資本ないしは金の移動はすさまじいスピードです。ナノセコンドで国境を越えて一国家予算規模の金の相対取引が行われているといった、いわば人工知能に依存した世界になってしまい、人間の居場所などもうなくなっているといった感じです。富の偏在は止めようもありません。
われわれ自身もITを駆使した日常生活の便利さにドップリ使っていて、もはや手放すことができません。他方でそれが抱える矛盾と危機も、すでに人が管理する能力をはるかに超えてしまっています。人間システムの上でリスクが管理能力を超えているだけでなく、首都圏直下型大地震、異常気象等々という自然システムの上でも、とっくにリスクは管理能力を超えています。アンダー・コントロールどころでなく、オーバー・コントロールであることが、まともな生活感覚を持った人々の日々の実感でしょう。
それでもわれわれは働くし、また働くことに人として意味があると思っています[5]。30年前にオランダでワークシェアリングといった労働時間の短縮、「働き方の質」のモデルが出され、それ以来、私は自分の公共哲学の課題としてこれを考えてきました。今日の日本では、突然に「同一労働同一賃金」(均等待遇原則)という言葉がマスコミをにぎわすようになっています。これが何を意味しているかいまだはっきりしないのですが、「働き方の質」にかかわっていることだけは明らかです(賀川はすでに1919年にこの同一労働同一賃金という言葉を『労働者崇拝論』の中で使っています[6])。働き方の質、人間にとって幸福とは何か、この問いが多くの老若男女の関心の的になっています。
19世紀の英国に経済学者で功利主義陣営の哲学者ジョン・S・ミルの同時代人で、かつ批判者であった人にジョン・ラスキンがいます。彼の労働観はきわめてユニークで現時点で傾聴に値します。彼は労働を芸術作品の創作のような精神的な内容、生(life)の表出と捉えています。そして富とはGDPが大きいことだ、という先入観に毒された現代人の頭に水をかけるようなことを言っています。「生以外に富は存在しない(there is no wealth but life)。生というのは、その中に愛の力、歓喜の力、讃美の力すべてを包含するものである。最も富裕な国というのは最大多数の高潔にして幸福な人間を養う国、最も富裕な人というのは自分自身の生の機能を極限まで完成させ、その人格と所有物の両方によって、他人の生の上にも最も広く役だつ影響力をもっている人をいうのである」[7]。
人間の生命こそが根本だ、賀川豊彦の「労働者は人格である」という言葉はこのラスキンの影響を受けたものです。資本主義がかつてのように先進国で拡大・成長を目指していく時代は終わり、人口減の低成長の時代を生き抜く生命力と働き方の追及、これがこれからの時代の課題でしょう。もちろん一部の人々は拡大・成長を目指し、旧態依然とした路線を捨てようとしません[8]。しかし多くの人々は生き方においてパラダイムシフトを始め、「人たるに値する仕事」(デイーセントワーク)に従事したいと思い始めています。人として生まれたからには尊厳ある「自由人」の生き方をしたいと思っています。しかし尊厳ある「自由人」の生き方をしたいならばそれなりの努力、すなわち自立して物を考える訓練をせねばなりません。
自由を達成するための参加型民主主義は、労働のあり方にも影響を与えています。労働者とは何か。労働者が「自由人」として生きるには労働のみで経営に参加しないのではなく、経営にも参加して、そして同時に経営に責任をもつという生き方を目指さねばならないでしょう。

3.近代的思考の破たん
近代哲学が行き詰まったポスト近代の時代には、あらゆる領域での二元論が崩れかけています。労働者か経営者か、といった二者択一もその一つです。われわれは主体であると同時に客体です。人間には人工知能(ロボット)に置き換えられる面もあればやはり置き換えられない面もある。喜びもあれば悲しみもある。楽しみもあれば苦しみもある。ロボットには「悲しみ」も「苦しみ」もない。ポンコツになればそれで終わり、しかし人間はこれらを克服していこうとする能力が与えられた唯一の動物です。互いに助け合って、話し合って、コミュニケーションしていこうとする意欲が人間にはある。対話して連帯して危機を回避しようとする向上心がある。人間の人間らしい面であり、ロボットにこれはない[9]。人間が「人格」である証です。人格であるとは機械のような部品(部分)ではなく全体(総体)であるということ[10]。トータル(総体)として人間であるということ、これが人格の意味です[11]。
政治の世界も明らかですが、国民が主権者であるとは自主的に治める、自治する主体ということであって、統治される客体であるということではありません。だから代表者を選んで統治してもらう「客体」になることではなく、参加して自ら自治する「主体」だということです。「主体」(精神)と「客体」(物体)のデカルト的二元論はもはや成り立ちません。これが代表制民主主義だけでは不十分で、どうしても参加型民主主義にならざるをえない理由です。これは経済の世界でもそのような時代に入ったということです。われわれは人格として客体であると同時に主体です。「労働者は人格である」とは労働者であると同時に経営者だということです。そして協同組合活動をしている人々には、この内容は理解しやすいことでしょう。近代的二元論哲学の時代は終わり、われわれは人格である人間として「労働者は経営者である」。そして「生産者は消費者である」、「助ける人は助けられる人である」、「学ぶ人は教える人である」、こういう総体的なものの見方の訓練をしていく時代であります。「グローバルな時代はローカルな時代である」、「外なる環境を考慮するとは内なる環境を考慮することである」等々、あらゆる二項対立は打ち破られるべきです。
西洋的二元論哲学とは異なって、日本には江戸時代以来の相互扶助の伝統があり、また賀川豊彦を始めすぐれた先人の努力もあって、日本の協同組合運動は広範にわたって盛んです。そうであるにもかかわらず、いくつかの法的整備が十分でありません。日本人のお上(=公)意識の強さ、自治能力の欠如。これは戦後民主主義が個人主義の方向で受け取られ、「連帯」の方向への発展が十分でなかったからです。個人の尊重はいいのですがミーイズム(=私)になり、バラバラに孤立していく。一方でお上(公)依存が強く、他方で孤立化が強くなっていくという、いわば公と私の二元論が顕著でその中間が創れない。つまり公私二元論の中で振り子が極端から極端に揺れ動くだけなのです。公私二元論は西洋的二元論と同じように、いやそれ以上に危険です。そうではなく個を尊重しつつ異なる意見を持ってはいても互いに話し合う訓練、すなわち「対話」と「連帯」そしてそれを支える「友愛」これが今後のカギです。これが「公」と「私」の二元論を打破してその中間に「公共」を創るスタートです。多様な中間集団の形成[12]、協同組合運動は戦後民主主義の質の転換をもその使命としていると思います[13]。

4.公共哲学の可能性
筆者はこれらテーマを公共哲学という名称で研究してきました。せっかくの日本国憲法がまだ十分に生かされていません。国民主権の意識の弱さと参加型民主主義の自覚の弱さ、総じて市民社会の弱さと関係しています。それでも阪神淡路大震災(1995年)、東日本大震災(2011年)以後には、復興の気運とともに多くの市民の新しい動きが加速しつつあり、これまでにない「新しい公共」のうねりも感じています。対話と連帯と共生、今の話の流れでは、皆が働き、皆が経営するという市民社会の参加の基本を各地でのコミュニテイ形成とともに確認することができます。賀川も労働運動に携わった初期の頃から「労働者自身の自営」[14]、「社会が自営的にやる」ことの必要性を繰り返し述べていました[15]。そういう意味で今日では、日本の市民社会と民主主義の弱点を克服するためにも、例えば戦前の産業組合法に代わる協同組合基本法[16]の制定も一つの方向です。そのために、方向性は同じだが細部で意見の異なるグループの間で粘り強い対話の継続が必要です[17]。そのようなグループ間の連帯なくしてさらに考え方の隔たるグループ間の連帯は望むべくもありません。
農協と生協と労組、特に2012年のIYC(国際協同組合年)以降、これまで以上に相互の交流が大きく前進しています。中央でよりも地方で、東京よりも他府県で地域密着型、環境と地域経済と福祉の第六次産業化の萌芽が数多く見られます[18]。社会システムと自然システムのリスクが高まる一方で、地域の生活圏においては異質なグループ同士が交流し互いが互いから学び合おうとの「新しい公共」の風潮が出てきています。今後にたいそう期待が持てます。より一層の連帯と対話が必要でしょう。グローバル資本主義はローカルな場面で人々を分断し孤立化させていく。今われわれに必要なのは分断ではなく連帯です。
人間と社会と自然環境、これらを包含するのは世界観ですが、賀川豊彦が最晩年に著した『宇宙の目的』はまさに世界と宇宙に目的を見る、という壮大なビジョンが描かれています。ベストセラー作家としての賀川豊彦の作品群としては、まだ十分に解読されていないなかなかハードな書物なのですが、さまざまな悪(宇宙悪)と不条理を克服してもなお希望のつなげる宇宙の物語を開陳しています。賀川はこれらの人生と社会の諸課題を特定の党派・イデオロギーからとらえるのでなく全人類的な課題としてわれわれに遺しました。『宇宙の目的』の最終ページで述べています。

宇宙悪よりの解脱救済の道を、昔から人間は三つの角度から考えた。第一はインドの宗教の形式、すなわち、虚無思想である。第二は西欧思想として発達した有神的救済の道である。第三は近代科学思想による宇宙悪の追放である。私は、この三つはたがいに対立するものではないと考える。これらは人間の意識の上に発生するものである[19]。

インド宗教を、虚無主義と表現し否定的な評価と受け取れますが、この数年前に諸宗教について書いた『東洋思想の再吟味』では、むしろ日本仏教についての深い洞察を加えています。生の不条理と、社会的不正義、不平等に対して21世紀の宗教復権は意味がある、と筆者も考えています。
しかし、もし、宗教がテロや暴力や戦争そして国家権力や政治的イデオロギーと結びついて暴力の正当化に使われるのであれば、これは危険極まりありません。国家(政治)と市民社会(社会活動)とは区別すべきです。市民社会の中に隣人愛、慈悲の心、仁愛といった人類愛と博愛を発揮して社会実践を行うべきであり、国家が上から下へ「愛」を強調すべきではないでしょう。まさに賀川豊彦が平和と福祉の広範な領域で活動した精神的パワーとは、このような市民どうしの友愛でした。今日でもここから多くを学べるはずです。
今回のシンポジウムが、このような日本社会での「友愛と連帯」をさらに一歩進めるものになればよい、このように期待しております。








[1] 1919年8月30日、友愛会七周年大会で会名を「大日本労働総同盟友愛会」と改称。そのときの「宣言」の一節(『勞働者新聞』1919.9.15)。
人間はその本然に於て自由である。故に我等勞働者は如斯宣言す、勞働者は人格である。彼はたゞ賃金相場によって賣買せらる可きものでは無いと。彼はまた組合の自由を獲得せねばならなぬ。資本が集中せられて勞働力を掠奪し、凡ての人間性を物質化せんとする時に勞働者はその團結力を以て、社會秩序の支持はたゞ黄金にあるのでは無くそは全く生産者の人間性に待つものであることを資本家に教へねばならぬ。
  殊に機械文化が謬れる方向に我等を導き去つて以来、資本主義の害毒は世界を浸潤し生産過剰と恐慌は交々至り、生産者はその工場より追はれ然らざるも彼は一個の機械の附屬品としてその生理的補給を繋ぎ得る程度の賃銀に甘んぜねばならぬこととなった。・・・
また1919年8月20日『勞働者新聞』で次のように言う。
「凡て奴隷は組合を持つて居らない。組合を持つものは人格者である。我等日本の労働者は、人形よりも奴隷よりも強く生きたい。我等生産者は人格である」。「労働者崇拝論」賀川豊彦全集第10巻(キリスト新聞社、1964年)7頁
[2] 「連合白書」(2015年12月発行)9頁。また、同白書の38頁では「労働者を労働力ではなく人として尊重する社会の実現」ともいわれている。
[3] ハンナ・アレント『人間の条件』(筑摩書房、1994年)第三章参照。本稿ではアレントの区別の「労働」(labor)「仕事」(work)「活動」(action)のすべてを「働くこと」「労働」として表現する。
[4] 同書、345頁。「奴隷労働と近代の自由な労働との主要な相違は、近代の労働者が、運動の自由、経済行動の自由、人格の不可侵性など、人格上の自由をもっているという点にあるのではなくて、彼らが政治領域への参加を認められており、市民として完全に解放されているという点にある」。
[5] 経済学と倫理学・哲学との接点で書かれた近年の良書、チェコの経済学者・トーマス・セドラチェク著『善と悪の経済学』(東洋経済新報社、2015年)210頁参照。
[6] 賀川豊彦『労働者崇拝論』(1919年)20頁。「更に、我等は日本に於ける工業界の特殊現象として、工場内に於ける女子の勤労の多大なるを思ふが故に、同一労働に従事する男女労働者の同一賃金を要求し、彼等の苦悩の削減せられんことを祈る」。
[7] 拙著『実践の公共哲学』(春秋社、2013年)54頁。
[8] T・セドラチェクは古代メソポタミア文明の人類最古の文学作品ギルガメッシュ叙事詩の解読から、現代の学生たちによるウオール街占拠に至るまでの経済の歴史を『善と悪の経済学』で叙述した後に終章で次のように経済成長神話に警告を発している。「いま私たちが直面しているのは、資本主義の危機ではなく、成長資本主義の危機である。・・・・心地よいエレガントな解決は、成長である。成長はすべての問題を解決してくれるように見える。だから、『ゼロ成長』などと言われるとうろたえてしまう。だが、すでにできるだけの成長はしてしまったとしたら、どうだろう」474-475頁。
[9] 同書29頁。「人間をヒト・ロボットとして支配することは、はるか古代(メソポタミア文明)から独裁者の夢だった。横暴な支配者は、効率は家族の絆や友情とは両立しないと考える。人間を単なる生産・消費単位とみなす傾向は、社会主義的ユートピア(理想郷)、いや、正しくはデイストピア(暗黒郷)にも見られる。デイストピアの経済は、生産・消費単位としてのヒト・ロボットしか必要としていない。このヒト・ロボットは、ホモ・エコノミクスというモデルに、的確に、しかし痛々しく表現されている」。
[10] 近代の労働は「分業」「分化」を前提にしているので、人はどうしても断片化、部品化されて全体を見失う傾向がある。
[11] 拙著『宗教と公共哲学』(東京大学出版会、2004年)111頁。
[12] 憲法では個人主権たる基本的人権は保障されているが、中間集団がもつ主権(=領域主権)は21条の「結社(association)の自由」に保障されていると考えてよい。ただし日本では中間集団の主権がこれ以上深く研究されていない。人権は明治期の自由民権論者以来「天賦人権論」と呼ばれて自然権として天から与えられた権利のように庶民に定着したが、領域主権の方も「天賦信託論」として定着させるべきもの。協同組合基本法が憲法的なレベルで意味づけられるためにも今後に議論が深められるべき分野である。
[13] 筆者はこれを国家主権ではなく領域主権に基づく「コープとコーポのダイナミズム」を通した創発民主主義の形成と呼んできた(拙著『実践の公共哲学』147頁)。
[14] 賀川豊彦『労働者崇拝論』13頁。「今日の様な危険至極な資本家が工場主で有つては、とても頭上りが無いから、今日の工場経営の『株主専制主義』を排して、被治者即ち労働者の民本主義的立憲統治を要求せねばならぬのである」。
[15] 賀川豊彦は「自由組合論」(1921年)の第6節「ギルド組合の可能性-消費者組合と生産者組合の協力-」で以下のように論じている。「暴力革命を起すまでも無く、社会が附加して居る附加価値は、社会が自営的にやるようになれば、資本家が欲しいと云つても取れ無くなるのである。此処に消費組合運動が、ロバート・オーエンのやうな社会改造家によつて叫ばれた所以である。即ち消費組合を造ることによつて、商業的資本主義は暴力革命を用いずして倒すことが出来る筈である。然しこれだけでは工業的資本主義―即ち製造業を独占して製造の上で暴利を貪り、一方では労働者を虐使して自分だけの幸福を計らんとする資本主義を倒すことが出来ないから、我等は生産者組合即ち労働組合を作つて、工業的資本主義を倒す必要がある。即ち消費者組合と生産者組合はギルド精神によつて今日の資本主義的自己中心の社会組織に変つて世を支配せねばならぬ」。「全集」第11巻、13頁。
[16] 注12参照。
[17] 日本労働者協同組合連合会編「協同労働の協同組合2015・Workers」11頁。
[18] 2016年7月27日、第94回国際協同組合デー記念中央集会「資料」参照。
[19] 賀川豊彦『宇宙の目的』「全集」第13巻、454頁