2018年1月20日土曜日

ウエストミンスター大教理問答における「神を見る」

ウェストミンスター大教理問答における「神を見る」

石丸 新


1.問86での「神の顔を見る」

 見えない教会の会員が死の直後に享受する、キリストとの栄光における交わりの局面の一つとして、この上もなく高い天で光と輝きのうちに神の顔を見ることが挙げられている。
 これは、ウェストミンスター信仰告白第32章1節での内容をそのままに受けたものである…the highest heavens, where they behold the face of God in light and glory, …。
下線部の翻訳は、「神の御顔を仰ぎ見る」と「神の御顔を見る」見るに分かれる。単純な「見る」では畏れ多いと考えて「仰ぎ見る」としたのか。
 大教理86の翻訳も同様に、「仰ぐ」「仰ぎ見る」「見る」に分かれる。証拠聖句Ⅰコリント13:12。 新共同訳では、顔と顔とを合わせて見ることになる。文語訳では、顔を対(あは)せて相見(あひみ)ん。「対」を「あわせる」と読ませる、すなわち合わせるに「対」の振り漢字を充てることによって、face to face(prosopon pros prosopon)の意を伝えた。対面。
 もう一つの証拠聖句Ⅰヨハネ3:2。新共同訳では、御子をありのままに見る。as he is
 ここからしても、大教理 86  behold の訳は単純な「見る」がふさわしい(岡田訳、宮﨑訳)。地上にある限りは、高く挙げられ、父の右に座しておられるキリストを仰ぎ見るが、死の直後に至高の天に受け入れられた者は、そこで神を見る。父なる神と主イエス・キリストと聖霊とを見る。垂直ではなく、水平に。(問90で後述)。

 ウ告白 32:1 の改革派訳ほかが「神の御(み)顔を見る」としたのに対し、1953年の松尾訳が「神の御顔を視る」としていたのにぜひ注目したい。「視」は旧漢字だが、常用漢字「視」の読みは「シ」に限られる。現在は「視(み)る」は表外の訓読みだが、意がよく伝わってくる。
 「見る」は、視覚で捉えることを表すのに幅広く用いられる、最も一般的な用語。(例)前を見る、外を見る、夢を見る。
 これに対して、「視る」は、視覚を注意深く働かせてつまびらかに観察する、調査する、判断することに用いる。(例)現地を視る、被害状況を視て回る。
 ウ告白32:1の松尾訳が「神の御顔を視る」としたことの意味は大きい。目(ま)のあたりに見る、注視する、凝視する が beholdの意味するところだが、熟視するも捨てがたい。

 一般的な動詞「見る」(orao)を多用するのはルカであった。注意深く読めば、救済史の要所要所での用例には「視る」の意が込められていたことに気付く。
   ルカ2:15 主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか
   ルカ2:17 その光景を見て
   ルカ2:20 見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので
   ルカ2:30※ わたしはこの目であなたの救いを見たからです
     …
   ルカ24:39 わたしの手や足を見なさい。 まさしくわたしだ。
         触ってよく見なさい
      ※岩波版 佐藤訳では、「私の両の目は、あなたの救いを拝見したから  
      です。」ここで特に「両の目」と言ったのは、28節「シメオン自らが幼子
      を両腕に受け取り」の「両腕」と対応させてのことである。
       幼な子としてこの世に降ってこられたメシア・イエスの重みを両腕にひ
      しひしと感じ、両目が幼子イエスをまざまざと見つめる。長きにわたる預言
      はここに成就し、救いが現実に来た。神の国は確かに到来した。

 ウ告白 1964年改革派委員会訳では、32:1の箇所は「神のみ顔を見る」と訳されてい
た。1963年改革派委員会訳大教理86での「神のみ顔を仰ぎ」とは一致させなかった。批判を込めたのか。
 折角の「見る」を2006年の改革派委員会改訳試案は「仰ぎ見て」とした。惜しい。  聖書の諸訳にも見られるように、日本の文化ではともすれば神に関わることについ   て、必要以上の敬意表現に傾く。

2. 問90での「神を直接に見る」
 
 問86は問90に昇りつめる。その内容が格段に高められる。 見えない教会の会員が栄光において享受する、キリストとの完全で満ち満ちた交わりが、考えも及ばない喜びを軸として展開される。
 審判の日に義人に対してなされることを列挙する問90の答で特に注目すべきことは、
「父なる神と私たちの主イエス・キリストと聖霊とをいついつまでも直接的に見て」(2014年宮﨑訳)と言われているところである。
 問86 死の直後に享受する交わりでは「神の御顔を見て」とあったところが、審判の日のことを告げる問90では、「三位一体の神を見て」と言われる。しかも、「いついつまでも直接に見て」。

 上の下線部の原文は in the immediate vision of である。カタカナ語ヴィジョンは未来像の意で身近な語だが、ここでの visionは本来の「見ること」「目撃」の意で用いられている。なおウエストミンスター信仰基準での vision の用例はここのみ。
 大教理86での beholdの証拠聖句 Ⅰヨハネ3:2 とⅠコリント13:12 は共に、大教理90での immediate vision の証拠聖句でもある。90で追加されたⅠテサロニケ4:17,18は主が来られる日に、地上に生き残っている者が空中で主と出会うために雲に包まれて引き上げられ、そこでいつまでも主と共にいることを告げている。to meet the Lord in the airと言われる meetingこそが、光と輝きの内なる immediate visionにほかならない。

 形容詞 immediate は、im/mediateに分解される。この場合 imは否定の in。mediateは media(pl.) medium(sg) から。すなわち、何の媒介もなしに、直接に、じかにの意。
雲の柱・火の柱によらず、この目でじかに、まじまじと、三位格にいます神を直視する、
凝視する、熟視する、正視する。何にも妨げられることの無い目撃こそが90問でのimmediate vision の言うところである。「顔の覆いを除かれて」(Ⅱコリント3:18)。

 上のⅠテサロニケ4:18「(そこで)いつまでも主と共にいる」に結ばれるのが、天上の礼拝を描き出すヨハネ黙示録 22:3,4 だと思う。90問の証拠聖句に欲しいほどだ。
 …and his servants shall serve him: And they shall see his face;… この see his face は、新共同訳では「御顔を仰ぎ見る」だが、文語訳では、「その御顔を見た」。今から身の引き締まるのを覚える。 岩波版 小河訳でも「彼の顔を見」。注に言う。「顔と顔を合わせて神を見る、の意味で、穢れた人間には許されず(出33:20、なお、創32:31 参照)、義人にのみ与えられた約束であった(詩17:15,42:3)。。

 日本キリスト改革派教会創立六十周年記念宣言(「週末の希望についての信仰の宣言」)二(三)「栄光の王国の先取りとしての礼拝」 に次のとおり言われている。
   地上の教会であるわたしたちは、全世界の教会と共に、また天上の群れと一
   つになって神を礼拝し、栄光の王国の礼拝を先取りして味わい、永遠の安息
   を確信し、御顔を仰ぎ見る日を待ち望みます。 (2016年刊『宣言集』117
   ページ)
 下線部には注として ウ大86,90が付されている。とすればこれまでに考察したとお
り、「御顔を見る日」とするのが良かったか。あるいは「御顔を見つめる日」。
   
 同宣言三(二)「死後の状態」に次のとおり記されている。
   天上の勝利の教会へ移された魂は、地上にあるよりもさらに豊かなキリスト
   との栄光の交わりにあずかり、先に召された聖徒たちとの愛の交わりを喜び、
   彼らと共に神の御顔を仰ぎます。(2016年刊『宣言集』121ページ)
 下線部は同様に「神の御顔を見ます」とするのが適切か。あるいは「神の御顔を見つめます」。ここの参照聖句にⅠヨハ三2が欲しいほどだーー「…なぜなら、そのとき
御子をありのままに見るからです。」

 改革派委員会訳大教理86では「神のみ顔を仰ぎ」、90では「父なる神と主イエス・キリストと聖霊を永遠に直接見て喜ぶ…」。本宣言執筆者は86での訳語にひっぱられたのであろう。
 
3.問90での「神を満ち足りるほどに喜ぶ」

 本問では、三位の神を直接に見ることと、この神を心ゆくばかりに喜ぶことが直結されている。原文では次のとおりーー
      in the immediate vision  and
                           fruition
                           of God the Father,
                           of our Lord Jesus Christ, and
                           of the Holy Spirit,
 神を見ることと神を喜ぶことが、単純な並列のことではなく、一体のことであることが構文から明らかに見てとれる。ここでの証拠聖句には挙げられていないが、詩篇17:15が注目に値する。
      I will behold thy face in righteousness:
                  I shall be satisfied, when I awake, with thy likeness.
 岩波版 松田訳では、「しかし私は、義にあってあなたの顔を視※、目が覚めたとき、あなたの姿に満ち足りよう。」
      ※神の顔を見る と諸訳の記すところを、松田は一貫して神の顔を視る と訳す
       11:7, 27:4, 63:3)。直視、正視、注視のさまを言い表す。
 関根訳では、…あなたのみ顔を見、…み姿をみてあき足りるであろう。
まさに、満ち足りるとは飽き足りるほどのことだ、と知らねばならない。なお文語訳で既に飽足(あきた)ることを得た。

 問90での fruitionは なじみの無い語だが、ウ告白7:1にも用いられている。…yet they could never have any fruition of Him…諸訳では神を喜ぶということ/神を喜び
とすること。 成果/収穫の語を充てる訳本もあるが、これは、fruitからの連想と思われる。事実、辞書を引けば、結実、成果の訳語を目にするが、辞書によっては、「結実」などの意は fruitとの誤った連想と明記して、注意を促している。(例)研究社リーダーズ英和辞典。
 OEDで fruitionを引けば、冒頭に the action of enjoyingが挙げられている。これに続くのが the pleasure arising from possessionである。そのうえで、fruitionが誤って fruitと結び付けられていることに注意を促し、このような誤用は英国の辞書でも米国のWebsterやWorcesterでも支持されていない、と注記している。先に触れたリーダース英和辞典での注記はOEDに従ってのものと思われる。
 
 fruitionは ラテン語 fruor (to enjoy)に由来し、『所有・実現』の喜びを意味する。
 ウ大教理 90での fruitionは、三位の神を我が主、我が神としていただいていることの無上の喜びを言い表している。 まさに、躍るばかりに神を喜ぶ。三位の神をいついつまでも直接に見て、この三位の神を喜ぶ。

 このように喜ぶさまを表す日本語に「法悦」がある。新明解国語辞典では、仏の道を聞き、随喜し、全身を仏にゆだね、絶対安心の境地に浸ること。肝にはまる字釈だが、キリスト教教理問答には使えない。
 「喜悦」もあるが日常語ではない。「歓喜」も考えられるが、結局のところ「喜ぶこと」に落ち着く。飽き足りるほどに喜ぶことを宮﨑訳では「満ち足りて喜ぶこと」と言い表した。

 ウ大教理第1問での「神を永遠にこの上なく喜ぶこと」は、第90問での「父なる神と私たちの主イエス・キリストと聖霊とをいついつまでも直接に見て、満ち足りて喜ぶこと」に見事に昇りつめる(いずれも宮﨑訳)。この直接に見ること (the immediate vision)
を、Vincent はウ小教理38を解説するなかで、the immediate and beatifical vision of
his faceと言っている。一般の辞書にさえ、beautific visionが採録されていて、驚くばかりである。 字釈は次のとおりー〔神学〕至福直感(天使や聖徒が天国において天主を見ること);神の栄光〔天国〕の示現。

 聖書の告げる「神を見る」ことには 神秘的な要素は全く無い。「見神」についてのこの上なく有益な論述は、アウグスティヌスの『神の国』第22巻にある「神の直視」の部分である。ウ大教理90での immediate visionの訳語としては、「直視」に勝るものは無い。…「直接に見て」、「直接に視て

 fruitionの意味する満ちあふれる喜びは 詩篇作者のしばしば歌い上げるところである。たとえば、16:11。
   in thy presence is fulness of joy
   文語訳 なんじの前(みまへ)には充足(みちたれ)るよろこびあり
   他の諸訳では、満ちあふれる喜び、満ち足り、あふれる…
   充足・充満・満足・横溢の意がさまざまに言い表されている
 次に63編を見れば、2節では神を見ること、神に目を注ぐこと、5節では神に飽き足りることが歌われて、うるわしい対を成している。
    2 To see thy power and thy glory, so as I have seen thee in the sanctuary.
     5   My soul shall be satisfied as with marrow and fatness; and my mouth shall
       praise thee with joyful lips.
  2節の I have seen thee を 文語訳は「目をなんじより離れしめざりき」と言い表した。
これは胸に迫る。注視、熟視。
 5節の be satisfiedを飽く、飽き足りとしたのは、文語訳、口語訳、関根訳。満ち足りるとしたのは、新改訳、新共同訳、松田訳、フランシスコ会訳。
 5節に marrow and fatness(髄と脂)の比喩が用いられていることからも、be
 satisfied は「満ち足りる」ではなく「飽き足りる」とするのが自然だと思う。my
 mouthが用いられていることからしても。
  ウ大教理90で「飽き足りて喜ぶこと」とするのはどうだろうか。教理問答書にそぐわないことはないような気がする。
 上の5節 文語訳が「わがたましひは髄と脂とにて饗(もてな)さるるごとく飽(あく)ことをえ」と、下線部を付して丁寧に表現したとおり、私たちは神の周到なおもてなしに飽き足りて喜ぶ。大教理90の折角の fruitionを「喜ぶ」の一語では済まされないものがある。

4. 問90での「喜び」の特質

 (1)約束実現の喜び
  p.7に記したとおり、によれば、fruition は the pleasure arising from possession
 の意である。これを受けるように、リーダーズ英和辞典は先ず達成、実現、成果の訳語
 を挙げ、次いで『所有・実現の』喜びを記す。後者が90問でのfruitionの意味するところである。
  長きにわたり地上で待ち焦がれていたものを遂に手に入れたとの躍り上がるような喜
 びが自分のものとなり、心は満たされる。
  86問 死の直後に、この上もなく高い天で神を見る
  90問 審判の日に、至高の天において父・子・聖霊なる神をいついつまでも直接に見
   て、飽き足りるまでに喜ぶ。・・・これ以上のことはない。
 福音の約束は、ここに何一つ欠けることなく成就された。地上から贖われた十四万四千人の者たちは、玉座の前で新しい歌をうたう(黙示録14:3)。とこしえまでも。

 90問では、実はfruitionに先だって、キリストの右に置かれた者が「考えも及ばない喜び
に満たされる」ことが明記されているーーwhere they shall be・・・filled with inconceivable joys,・・・ここで言う喜び(joys)の究極の姿が、joyを遙かに超えた満ち
足れる喜び(fruition)そのものである。fruitionが現代の英語話者になじみの無いことから、
これをenjoymentと言い換えた現代語訳があるが、それでは、joyとの違いがおぼろになる。
 繰り返すが、fruitionは無上の満足感を抱いて喜ぶこと、すなわち「満悦」そのものである。宮﨑訳「満ち足りて喜ぶこと」ー満悦。これこそ最高度の充実感。

 天国を目指す旅人であるわたしたちは、天国を憧れる。しかし、天国での祝福を待ち焦がれると言う方が、信仰の事態に即していると思う。キリストへと接ぎ木されて神の子とされた者は、地上でたどる旅路において、苦難に耐え、誘惑と闘う。その中で、天国でいただくこの上ない祝福を瞑想し、そのことによって、今、この地上で神の国の祝福を確かに
受け取っていることを確信する。 その確信は、天国でいただく計り知れない祝福を熱望
することへと連なる。

 「沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ」とダビデは訴えた(詩編37:7)。「沈黙して」は、信仰に基づく静けさと安らぎを言い表している。「待ち焦がれる」の語の原意は
「ねじる」で、身もだえするさま、もだえ苦しむ様子描写している。英語では`twist'。
日本語で「ツイスト」と言うとおり。信仰者の旅路には苦悶があり、極度の緊張がある。
自分の内なる罪、特に貪りの罪との闘いのただ中で神の手にすがって助けを祈る。ほえたける獅子のように向かってくる悪魔に抵抗し、信仰に踏みとどまるために、主キリストにはすがりついて力を祈り求める(Ⅰペテロ5:4ー11)。
 ひるむことなく、レスリングの激しさをもって神と取り組むばかりの燃える思いが「待ち焦がれ」の語の示すところである。終わりの日をひたすら待ち望むとは、このように闘い、このように励むことに尽きる。感傷的な憧れとは異なる。

(2)聖さと結ばれた喜び
  90問では、父・子・聖霊の神を直接に見て、満悦することにおいて、体と魂の両面で、完全にきよく幸せな者とされることが確信されている。…made perfectly holy
and happy…。
 イエスは言われたー「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」(マタイ5:8)この箇所での清さ・幸い・神を見るのトリオを大教理90でそのままに見る思いがする。
 英語でのここの`happy`を日本語で「ハッピー」と書けば、 途端に価値が下がる。
聖書の告げる happy, happiness は神との関係、人との関係、世界との関係における十全
かつ円満なあり方を指している。
 名詞 聖さと幸いの複合は、天使に対する神の摂理についても見ることができるー大教理 19答・・・神は、また、残りの天使たちを聖さと幸福のうちに揺るぎないものとし、
御心のままに、彼らすべてを、神の力と憐れみと正義の行使のために用いられます。(宮﨑訳)
 形容詞 happy が単独で用いられるのは、告白4:2である。……善悪を知る木から食べるな、という命令を受けたが、これを守っている間は、神との交わりにおいて幸せであり、…。(改革派委員会訳)
 神の恵みによって贖われた者は、地上にある限り、残る罪との闘いに従事し、聖化の道
を歩むが、時に罪に陥り、誘惑に打ち負かされる。しかし、神の不変の愛とキリストとの結合、さらにキリストの絶えざる執り成しによって、堅忍を与えられ、救いに至るまで固く守られる(大教理79問)。
   哀歌3:25-26は告げるーー
     主に望みをおき尋ね求める魂に
       主は幸いをお与えになる。
     主の救いを黙して待てば幸いを得る。

   大教理86問 見えない教会の会員のは、死の時 全く
      ↓  聖くされる。    ↓
      90問 審判の日に、義人は体と魂の両面で、完全に聖く幸せな者とされる。


 おわりに

  地上を旅するわたしたちは、自分の死を厳かに思い、終末の完成を心を躍らせて
 瞑想したい。満悦(fruition)を目指して地上の生を全うしたい。死後と終末を巡って、
 ウエストミンスター大教理問答 86問および 90問に勝る告白は他に無かったし、これからもおそらく無いであろう。この両問に深く心を沈めたい。
 地上の命を許される限り、声高らかに歌いたい。

       したしくわが主に まみえて喜ぶ
           ときはちかし。
       みもとにかえらば、つきせぬ命(いのち)を
           代々(よよ)たのしまん。
             (1954年版現行讃美歌165番4節)

                      (石丸 新)












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2018年1月18日木曜日

「熊本伝道所の40年を振り返って」(2017.8.26)

熊本伝道所の40年を振り返って
2017826()
宮﨑彌男      
(東部中会引退教師) 
序 私の自己紹介
・①19781月~19963(18年間)、熊本伝道所宣教教師、②20124月~20146(23ヶ月)、同定住代理宣教教師。計20年と3ヶ月(熊本伝道所40年の歴史のちょうど半分を小生が牧師として担わせていただいた。本当に光栄なことであった、と主と皆様方に感謝している。特に70才を越えてから,再び呼んでいただいて、引退教師として奉仕させていただいた②は、私と家内にとっては、幸いな時であった。と感謝している。
Ⅰ.熊本伝道の出発点(原点)
・日本キリスト改革派教会による熊本伝道は、日本キリスト改革派長丘教会(伝道所)の熊本集会から始まる。19741213日~197743日、毎月1回、常葉謙二長老ご夫妻宅で家庭集会。長丘教会の岩崎洋司牧師が出張奉仕。これが契機となって,日本キリスト改革派教会による熊本伝道が197811日の主の日に,正式に始められ、私が宣教教師として遣わされた。
・岩崎洋司先生の九州伝道のヴィジョン…有神的人生観世界観の確立と改革派教会の形成。これが改革派教会による九州伝道/熊本伝道の出発点/原点である。Cf. 岩崎洋司「九州の開拓伝道に寄せて」(中央宣教研究所『紀要』第8号、10,28-29)、「創立二十周年記念宣言」「回顧」の項。(資料1)
・聖書における有神的世界観と教会の使命…詩編24編に学ぶ。
1節]私たちが住んでいるこの「世界」とはどんな所か。主が「ご自身のもの」として、ご支配なさっている所なのだ。
2節]…基礎工事は、主がなさった。それ故に,堅固な土台は据えられている。「潮の流れ」もこの土台を壊すことはない。
3-6節]…しかし、その上に築かれる人間の歴史/文化/生活はアダムにおける罪の故に、揺らいだり壊されたりすることがある。それ故に十字架の死と復活によって罪と死の力に打ち勝たれたキリストによる救いが必要である(創世記3:15)。キリストは贖いを成し遂げ、これを土台として教会を建てられた(マタイ16:18)。
7-10節]…教会の形成と完成のために主は力強く働き給う。
この詩編24編が証しているように、有神的人生観世界観の確立とそのための教会の樹立を、私たちは二つの別個の使命としてではなく、一つの目的として、その実現のために祈り励む。
.教会形成の課題
・教会役員の育成と伝道の課題…伝道の進展と教会形成において一番重要なことは、教会役員(教師/長老/執事)の育成である(使徒20:,31,32、『熊本伝道所十五年の歩み(19781993)』25(資料2。熊本伝道所40年の歴史の中で、未だに教師と2名以上の長老から成る小会(長老会)を設置できないでいることは、私自身の率直な反省事項であると共に、地方伝道の難しさでもある。
・教師と教会役員
 教師…自ら伝道すると共に,役員を育成しなければならない(二重の使命、Ⅰテモテ517)。
教会役員(長老、執事)…「世の働き」(職業)に従事しつつ、教会で牧会/奉仕する(二重の使命、教会員の祈りによって支えられなければならない)。
・使徒20:32に学ぶ。
御言葉には,教会を建てあげ、教会員に嗣業(クレイロノミア)を受け継がせる力がある。「教会は、壊さない限り、建つ」(榊原康夫)。Cf. 長田秀夫「地方伝道で学んだこと」(『成長する教会』1989年度東北中会修養会記録)(資料3
.熊本大地震と執事的愛の奉仕
・「ゆるっとセンター」、asobeba、「あみあみの会」等、新しいプログラムが始められたことの意義…地域のニードに応えるキリストの教会。
・ルカ10:2537(「善いサマリア人」のたとえ)に学ぶ。
「隣人を自分のように愛せよ」についてのイエスの教え…イエスの目線はもっぱら「追い剥ぎに襲われた人」に注がれている。主エスにとっての一番の関心は、この人が何を必要としていたか、にあった。サマリア人(当時のユダヤ人にとっては異端者)は、この人を見て「憐れに思い」彼を「助けた」。イエスは、私たちに対して言われる。「行って、あなたも同じようにしなさい」と。これが、隣人愛であり、永遠のいのちである。Cf.吉田隆「“執事的宣教”とは何か―その重要性と課題」(『紀要:ミッション』第10号、2015331)(資料4
結び 
・「主を愛し、教会を愛しなさい」…この「愛の律法」は、私たちに対する十字架の主の「命令」であると同時に、また「賜物」(Ⅰコリント12:31)であることを覚えよう。

(資料14

(資料1)  岩崎洋司「九州の開拓伝道に寄せて」(中央宣教研究所『紀要』第8号、10,28-29)
(開拓の理念) 九州開拓伝道の開始は689月でしたが、その精神的基点は664月の二十周年記念大会にあったと言えます。この大会では、記念宣言と共に説教と三つの記念講演がありました。あの二十周年宣言は創立宣言をふまえ更にこれを教会論として徹底した改革派の教会理念の白眉また結晶と言うべき歴史的宣言でありましたし、また説教と三つの講演もそれぞれ、改革派教会の現状と将来を踏まえて躍進する教会の原理とそのヴィジョンとをうたった素晴らしいものでした。これらを含めて、二十周年記念大会の理念こそ、九州開拓の基本理念であったと言うことができます。…ここに示されている二点は、余りにも有名な創立宣言で示された改革派教会の主張の二点です。即ち,第一点は、有神的人生観乃至世界観の確立と第二点は聖書的使徒的教会の樹立,以上の二点です。さて,私は最初、この創立宣言を読みこの二点を知ったとき、余りの素晴らしさに目を見張ったことを想い出します。特に第一点は,戦前の教会では、全く聞かれなかったことです。九州伝道においても,この二点を生かそうと思ったことは当然です。それで、看板にも改革派の時を大きく書きました」。
「創立二十周年記念宣言」「回顧」の項
「思えば、昭和21428日、荒廃焦土の祖国に、神のみ旨にかなう国家と教会の建設を願うわが日本基督改革派教会が創立されたことは、神の深きみ旨によるところである。まことに、キリスト教有神論こそ新日本建設の唯一の基礎であるとして、信条的にも教会政治的にも宗教改革の正統を継ぐ教会を樹立しようとする改革派教会が日本人のみの手によって誕生したことは、わが国キリスト教史を飾る画期的事件であった」。

(資料2) 熊本伝道所十五年の歩み(19781993)』(別途配布済み)。

(資料3) 長田秀夫「地方伝道で学んだこと」(『成長する教会』1989年度東北中会修養会記録)(別途配布済み)

(資料4)  吉田隆「“執事的宣教”とは何か―その重要性と課題」(『紀要:ミッション』第10号、2015331)

[そして、この度の震災を通して、私が何べんも何べんも思い巡らされました御言葉が、あの『善きサマリア人』の譬えであります。あの『善きサマリア人』の譬えというのは、サマリア人というユダヤ人が毛嫌いしておりました異端者でありますね。その異端者が親切にしてあげた、隣人になったという物語として痛烈なユダヤ人批判と言いましょうか、非常に衝撃的な教えになっているわけであります。今回この御言葉を、様々巡らせる中で、一つたいへん深く教えられましたのは、あの譬え話の中でですね、イエス様の視点がどこにあるかということです。イエス様の視点が、実は倒れている人のところにあるのではないかというふうに気付かされました。倒れている人にとってですね、そこに祭司が通ろうが、レビ人が通ろうが、関係ないんです。タイトルは関係ないんです。倒れている人にとっては、助けてくれる人が全てなんです。助けてくれる人が善い人なんです。その倒れている人の視線にイエス様が寄りそっておられる。その人が何を信じていようが、どういう宗教であろうが、どういう社会的な地位を持っていようが関係ない。倒れている人にとっては、助けてくれる人が善い人である。その倒れている人の視点でイエス様が見ておられる。正に、イエス様が倒れてらっしゃる。そのことを改めて教えられました。私たちの神さまはこういう方です。決して天高くから見ているわけではない。神さまの視点はそういう所にはありません。倒れている人から見ています。お腹を空かせている人から見ています。抑圧されている人から神様は見ていらっしゃる。この世界を。そして私たちキリスト者を。そのことに気付かされました。」

2017年11月30日木曜日

「ICS軽井沢文庫だより」NO.13

「キリストの王権にひれ伏して」

宮﨑彌男

 薄化粧
(はじめに)
 11月21日(火)の早朝、起き出して窓の外を見ると、夜の間に雪が降ったのでしょうか、文庫の屋根は真っ白、辺りの木木も薄化粧をまとっていました。早いなぁ!まだ11月もやっと終盤というのに、もう雪ですか。
 今年は、全国的にカメムシが多く、カメムシが多く出る年は大雪となるという地方の言い伝えもあると、ラジオで言っていましたが、実は、この秋、我が家でも、カメムシくん、例年になく賑やかだったのです。この分で行くと、この冬は雪が多くなりそうです。“楽しみ”というか、“うんざり”というか?!皆さんはどうですか。そこで、思い出したのは、ドイツ生まれの讃美 “Shonster Herr Jesu”(「イエスきみはいとうるわし」)です。熊本伝道の折り、県立劇場で聞いたウィーン少年合唱団によるこの歌の素晴らしさが未だに忘れられません。
 初雪のあった晩秋にふさわしい歌と思いますので、日本語訳讃美歌(166番)全文を巻頭に掲げます。
 
 イエスきみは いとうるわし、あめつちの主なる
   神の御子、人の子を、なににかはたとえん。
 春のあさ 露ににおう 花よりうつくし、
   秋のよる 空に澄む 月よりさやけし。
 夏のゆう 青葉わたる 風よりかぐわし、
   冬の日に ふりつもる 雪よりきよけし。
 イエスきみは いとうるわし、あめつちの主こそ
   わがさかえ、わがかむり、わがよろこびなれ。

 11月11日(土)には、トロント近郊のオークヴィル市で、ICS開学50周年の式典・祝賀会が行われました。と言っても、私が出席できたわけではなく、祝文のメールを送っただけなので、残念ながら何も報告できないのですが、私なりに、50周年を記念して、ICSの依って立つ「基本信条」(通常、「教育信条」と呼ばれています)の日本語訳を思い立ち、ここに掲載することにしました。

(そのまえに) 

 よく、ICSって何ですか、と訊かれますので、今一度、一言だけご紹介しておきます。
 ICS(Institute for Christian Studie)は、北米大陸にカイパー流のキリスト教総合大学(注1)を設立することを目的として、ちょうど50年前の1967年10月に、カナダのトロントで始められた大学院レベルの研究・教育機関です。この50年間に多くの研究者を、哲学、神学、政治学、教育学、美学、心理学、歴史学等の諸分野において集め(注2)、「聖書に導かれた学問」Scripturally-directed learning の研鑽・展開・普及に従事してきました。現在、ここで学んだ者は、Master of Arts(MA)、Master of Worldview Studies(MWS)の学位を得ることができ、2005年以降は、PhDも取得可能となりました。卒業生は、キリスト者でありつつ、大学教授、教師、牧師、政治・社会活動家、カウンセラー、美術・音楽家等々として、社会の諸分野において活躍しています(詳しくは、www.icscanada.edu/をクリック)。私自身も、1972-75年、日本キリスト改革派教会の教師としてICSで学ぶ機会が与えられ、M.Phil.の証書certificateを得て帰国、以来40数年、伝道・牧会に従事して来ました。引退教師となった今も、ICS軽井沢文庫」ics41.blogspot.jpを立ち上げ、改革主義哲学・神学の研鑽と普及に努めています。改革主義哲学 Reformational Philosophy(「法理念哲学」Philosophy of Law-idea とも呼ばれます)の文献については、www.allofliferedeemed.co.ukを、ぜひ検索(クリック)してみてください。

(ICSの基準および教育信条)

前文
ご自身の栄光のために万物を創造し、人がその法に背いた後には、御子イエス・キリストを遣わすことにおいて完全に示された赦しの愛を宣言された三位一体の神に依り頼むへりくだった思いをもって、私たちは、私たちにふさわしくないご好意への感謝から、私たち自身とすべてのものを献げよとのご命令に服しつつ、ここに示す原理と規定に従って、聖書に導かれた学問推進のための協会を設置する。この目的のため私たちは願い求める。神が恵みにより、今も将来も、私たちの使命遂行のため、心と知性の特別な賜物と、この働きをなすための手段とを有する男女を備え、常に御自身の栄光と神の民、とりわけカナダとアメリカ合衆国の神の民の救いのために、私たちの協会を祝福してくださるように。そして、またそのことによって彼らが両国とその全ての住民にとっての祝福となるように。

目的
この協会の目的は、聖書に導かれた学問の進展に寄与すると思われるすべての活動を行い推進すること、とりわけ、キリスト教主義大学を設置し、運営し、発展させること、また、これらの諸活動により、神の言葉がその全き力をもって生の全体に亘って意味あるものとなるように、男女を整えることにある。

基準
この協会の至高の規準は、私たちがプロテスタント宗教改革の歴史的諸信条の意味において神の言葉と告白する旧新両約聖書である。

教育信条
聖書は、教育にとって非常に重要ないくつかの基本的原理を教えていると信じるがゆえに、私たちは告白する。
生…人間の生は、その全体において宗教である。それ故に、学的研究は唯一の真の神への奉仕か、さもなくば、偶像への奉仕かどちらかである。
聖書…記された神の言葉である聖書は、神と私たち自身と創造の構造を教えることにおいて、完全で活きた神の言葉また力である。この御言葉により、御霊を通して神は私たちを真理へと結びつけ、真理の内に照らし出す。この真理とはキリストである。
キリスト…受肉した神の言葉である聖書のキリストは、私たちの生全体の、また、それ故に、私たちの理論的思惟の全体をも含む、贖い主・更新者である。
実在…神の創造による全実在の本質また核心は、キリストにある神と人との契約による交わりである。
知識…真の知識は真の宗教によって可能となり、神の言葉を通して、聖霊により照明された人間の心の認識活動によって起こる。それ故、私たちの日常的経験および学的な課題を理解する上で、決定的な役割を果たすのは宗教である。
学問…(a)研究者共同体において絶えざる研鑽に励むことは、文化命令に対する神の民の従順で感謝に満ちた応答として本質的な重要性を持つ。研究者の使命は、創造の構造を学的に究明し、それによって共同体全体の日常的経験により有効な指針を提供することである。(b)堕落後の世界に対する神の保持恩寵の故に、神の言葉を生の指針原理として受け入れない者たちも、共通の実在構造に対して多くの価値ある洞察を与えてくれる。にもかかわらず、生における中心的宗教的反定立はなお残っている。それ故に、私たちは、聖書に導かれた思想と他のどのような思想体系との折衷の可能性を認めない。
学問の自由…学問は、人間生活を支配する神の言葉と神の諸法に対する、神与の、完全かつ自発的な服従においてなされなければならない。研究者の責任ある自由は、教会・国家・企業その他のいかなる社会組織によるどのような抑制や支配からも、保護されなければならない。
まとめ…神のご命令に対する信仰の従順を持ってなされるすべての学問は、神の言葉の規範的指針に聴従し、全被造物がその全領域において服している神の法を認識し、すべての学問的な働きに対するキリストの王権にひれ伏す。

(解説)
 上記、トロントICSの「基準および教育信条」は、私どもが主にあって設立を願っているJICS(日本キリスト教学術研修所)の基本信条をやがて考える時の参考、むしろモデルとなります。特に、三つの点にご注意ください。
 (1) 生の全体が宗教
 この教育信条の「生」の項に、「人間の生は、その全体において宗教である」(That human life in its entirety is religion.) と告白されています。これは、ICS設立の背後にあって最も大きな力となったカルヴィン大学の哲学教授、Dr.  H. Evan Runner 先生の言葉ですが、神戸改革派神学校の前身、神戸神学校の S. P. フルトン校長の有名な言葉、「私にとっては、神学とは私の宗教である」を思い起こさせます。学問も含めて、人生とは「神の前に」(Coram Deo)に生きること、とする敬虔において共通していますが、この教育信条においては、「まとめ」の項で、「… 全被造物がその全領域において服している神の法を認識し、…」と言っているように、神と被造物の間に定められている創造の「法」を認識することの重要性を告白しているところに特色があります。この創造の法は、「聖書」と「学問」の項では、「創造の構造」と言い替えられています。(A・ウォルタース著、拙訳『キリスト者の世界観―創造の回復』特に、第二章「創造」と第五章「構造性と方向性をわきまえる」 を参照)。
 (2) 保持恩寵と反定立
 「学問」の項( b)に、「保持恩寵」(preserving grace)と「反定立」(antithesis)のことが出てきます。前者は、「一般恩恵」(common grace)とも呼ばれる聖書的教理(マタイ5:45、使徒14:17等参照)で、神が民族や宗教を越えて、すべての人とその文化に恵みの支配を及ぼしておられる、と告白するものです。この信仰告白に立てば、キリスト教伝来以前の日本の歴史も、聖書啓示の光の下で調べることができます。
 他方、「反定立」とは、カイパーの好んで用いた用語で、真の神とその御言葉の規範性を受け入れる者と、そうでない者の間には、生き方の霊的方向性に違いがあるので、折衷なしには共同の営みができない、とするものです。この両者の関係をどのように考えて行くかが私たちの課題です。 
 (3) キリストの王権にひれふす
 「教育信条」は、「…すべての学問的な働きに対するキリストの王権にひれ伏す」という言葉で結ばれています。私たちの生き方の基本姿勢は、神の子キリストにひれ伏すか、神ならぬ偶像にひれ伏すか、いずれかです(「十戒」の第一戒、ウ小教理45-48参照)。学問的な働きにおいて、私たちは、「理性」こそが絶対規準であると思っているかも知れませんが、その前に私たちはキリストの王権にこそひれ伏して、その御言葉である聖書に導かれつつ、神の法(構造)を探索すべきなのです。
 来たるべきクリスマス、私たちは王としてお生まれになったキリストにひれ伏す所から、生きる姿勢を正し、キリストによる大いなる希望を持って新年を迎えたいものです。

(注1)20世紀初頭、オランダの首相を務めたアブラハム・カイパーが1880年に設立したアムステルダム自由大学が、キリスト教哲学を基本に据えた総合大学の一つのモデルとなっている。
(注2)私の存じ上げている教授たちは、今は殆どが引退されたり召天されたりしているが、その著書によって知ることができる。H. Hart(哲学)、 Bernard Zylstra(政治学)、 J. H. Olthuis(神学、倫理学)、 A. H. DeGraaf(教育学、心理学)、 Calvin Seerveld(美学)、 A. M Wolters(哲学史)、  H. Evan Runner(哲学入門)等です。

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」        (マタイによる福音書2章2節)


[『キリスト者の世界観―創造の回復』(改訂増補版)の出版について]


先日受けた、教文館出版部からの連絡によれば、米国アードマン社から版権の許可が下りたので、これから出版の準備に入り、来年の3月末までには出版したいとのことでした。どうか、お祈りに覚えてください。

[石丸新先生の「ウエストミンスター大教理問答の聖餐論」について]


 石丸新先生の研究メモ「ウエストミンスター大教理問答の聖餐論」を先月号から掲載していますが、ワープロ入力が終わりましたので、ほぼ完全な形で読んでいただけます。但し、巻末の【付】礼典用語一覧は手書きの表をデジタル化できませんでしたの、割愛させていただきました。ご了解ください。ラベル「ウエストミンスター大教理問答の聖餐論」を選択して、お読みください。なお、同じく石丸先生の「ウエストミンスター大教理問答における『神を見る』」も入力が終わりましたので、読んでいただくことができます。


「ICS軽井沢文庫だより」の印刷のために


「ICS軽井沢文庫」を開き、ラベル「ICS軽井沢文庫だより」第13号を選択します。次にパソコン右上のオプション設定のマーク(縦3つ)をクリック、印刷を選択する。左欄のオプションを両面印刷にし、詳細設定の中の倍率を150背景のグラフィックもオンにしてください。印刷ボタンを押すと OKです。同様に、他のすべてのラベルも、選択して、印刷することができます。


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389-0115長野県北佐久郡軽井沢町追分36-23 宮﨑彌男・淳子

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Eメールmmiyazk41@gmail.com   ブログ「ICS軽井沢文庫」<ics41.blogspot.jp> 


ウエストミンスター大教理問答の聖餐論

ウエストミンスター大教理問答の聖餐論(石丸新)


1.  主の晩餐を強調するウ大教理
 
 GreenのHarmony, p.217に見るとおり、大教理は、告白、小教理に優って、主の晩餐を詳説している。力説もしている。主の晩餐に充てる分量が物語るとおり。
 本文の字数からすれば、大教理の叙述は告白の2.2倍にあたる。大教理を14%に縮約したのが小教理である(僅かに2問)。
 大教理は問168から問177までの10問を主の晩餐に費やし、具体化な側面を採り上げて丁寧に述べている。
 Greenは随所で、大教理が告白と小教理に比べて、ないがしろにされている事実を嘆いているが、主の晩餐の箇所でも、同じ憂いを吐露している。
 主の晩餐においてキリストを受けるマナーが告白29:7に述べられているが、大教理170問の言うところは一層の現実味を伴って迫って来る。同様に、告白29:8は弁えに欠けた悪しき者がこの礼典の品を受けることによって自分に裁きを招くことを確言しているのに対し、大教理171-175は、そのような裁きを招くことがないようにいかに処すべきかを、積極的かつ具体的に述べている。包括的、印象的な叙述と言える。
 上のことを指摘するに当たり、Greenは、171問から175問までを、問の部分を外して一気に読み通すことを勧めている。まるでコロンビア神学校の教室に座っているような気にさせられる。

2. キリストの体と血とを「食する」

 168答に 'feed upon his body and blood' とあるところを、1963年改革派委員会訳は「キリストの体と血によって養われ」とした。続く諸訳もこれに倣った。しかし、半世紀を経て、2014年の宮﨑訳では「キリストの体と血とを食し」となった。画期的と言える。
 「食する」は「食う」の意で、硬い文章に用いる。[例] 米を食する文化。感情をこめずに客観的な調子で記述する場合に用いる。実は身近な広告でも目にする。[例] 大トロを食す歓び。生のまま食してほしい「オリーブオイル」ができました。
 
 告白29:7に ’receive and feed upon, Christ crucified,…’ と言われるところを、明治13年(1880)邦訳は、既に「之ヲ食シ」と表現しているのを知って驚いた。昭和15年(1940)の堀内訳でも、「それらを食するのである」。戦後の諸訳では、なぜか一律に「養われる」。
 コリント前書11:24、明治13年新約全書では「…取(とり)て食(しょく)せよ」。コリント前書分冊はヘボン訳で明治11年に出版されていたので、明治13年の告白、本邦初訳が「食する」とした事情はよく分かる。

 大教理170の問と答にも 'feed upon the body and blood of Christ’ が用いられる。ここも「キリストの体と血とを食する」と訳すのが順当である(=宮﨑訳)。他の訳では「養われる」。

 ちなみに、マタイ26:26 KJV:Take, eatの明治13年訳では、「取(とり)て食(くらへ)」。今では、「食らう」は「食う」よりぞんざいな言い方とされるが、明治期の語感は違っていたのであろう。その点、「食する」は昔も今もやや格式ばった言い回しだと思う。 カッチリと引き締まった文体を求められる信条文書に適している。

 174答にも feeding on him (Christ) by faith が現れる。
ここも、「信仰によってキリストに養われ」ではなく、「信仰によってキリストを食し」と訳すのが当たっている。主の晩餐は確かに信仰者の霊的養いと成長のためのものである。(告白29:l, 大教理168, 小教理96)その目的を指してキリストを「食す」。それが
主の晩餐の礼典である。
 大教理171との関連で小教理97答を見ればーof their faith to feed upon him (Lord)…とある。

  主の晩餐に臨むにあたってなすべき備えを詳しく述べるなかで、大教理171は「信仰」を
挙げる。 このfaithを、小教理97は膨らませて、their faith to feed upon himとした。
 この場合のfeed upon は、主の晩餐にあずかる場でキリストの体と血とを食すること(大教理170)を指してはいない。むしろ、日頃の信仰のあり方を自己吟味すべき、と告げている。この信仰を諸訳は「キリストを糧とする自分の信仰」としてきた。

 feed on (upon)は、…を常食にする、…で生きている、…に育まれるの意であるので「主を糧とする信仰」は、すんなりと分かる。しかし、feed on には、…にすがって生きる、…を心の支えとして生きているの意もある.。[例] feed on hope 希望にすがって生きる
 とすれば、「主を頼りとする自らの信仰」と訳すことも可能ではないだろうか。十字架と復活の主への不動の信頼こそ、信仰の神髄である。この信仰を小教理86答は「キリストにのみより頼む」信仰と言っている。

3.キリストの体と血とを「想起する」
 
 169答に、陪餐者の心得が示され、自分たちのために感謝のうちに想起し、パンを取って食べ、ぶどう酒を飲むべきことが求められている。
 'in thankful remembrance' は これまで「感謝のうちに覚えつつ」と訳されてきた。証拠聖句 Ⅰコリ11:23,24 this do in remembrance of me は、文語訳以来「わたしの記念として」「わたしを記念するために」と訳されてきた。聖餐式で、「記念」が耳に残って今に至る。
 ところが、新改訳では、「わたしを覚えるために」。 泉田訳も同じ。永井訳では「我のを憶ひ出づるために」、柳生訳では「これからもわたしを思い出すために」、青野訳では
「私を思い起こすために」。
 遡れば、明治13年新約全書では「爾曹(なんじら)も 如此(かくのごとく)おこなひて我(われ)を憶(おぼえ)よ」となっていた。折角の「憶よ」を文語訳(大正6年)が「記念として」に改変したのは、いかにも惜しい。
 eis ten emen anamnesineisは「として」ではなく、目的を表す「ために」。
 rememberと聞けば、学校で習った記憶している、憶えているの訳語を思い浮かべるが、どの辞書でも第一義は思い起こす、思い出すであることに注目したい。キリストの体が裂かれ、血が流されたさまをありありと思い起こす行動が、ここでは強調されている。
 in memory ではなく、in remembrance であることを丁寧に説明すれば、中学3年生にも分かってもらえると思う。
 記念植樹といえば、卒業の記念に思い出として残しておく樹が挙げられるが、あくまでも過去を懐かしく思い浮かべる手段である。一方、大学の創立記念日の場合には、過去の出来事への記憶を新たにする面が確かにある。しかし、どうしても追想、追憶といった感傷面が伴う。
 主の晩餐の礼典では、キリストの体と血とを、ありありと、まざまざと、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」の叫びを耳にこだまさせながら、想起する。目で読む教理問答書では「想起」を超える訳語は無い。聖餐式で「ソーキ」を耳にして,漢字を思い浮かべて欲しい。

 169答 最終部を次のように訳すのが適切と考える。
 …陪餐者は、自分たちのためにキリストの体が裂かれて与えられたこと、またキリストの血が流されたことを感謝のうちに想起して、パンを取って食べ、ぶどう酒を飲まなければなりません。

 ウ大教理169が下敷きとしたのは、ハイデルベルク75であった。そこでは、十字架におけるキリストの犠牲とその恵みにあずかっていることを、聖なる晩餐において想起させられ、確信させられる道筋が述べられている。この問75と対を成すのが、洗礼について述べる問69である。そこでは、十字架におけるキリストの犠牲が自分の益になることを、聖なる洗礼において想起させられ、確信させられる道筋が明らかにされている。「想起」の語は重い。
 ハイデルベルク問答での想起はカルヴァンに遡る。『綱要』Ⅳ.17.44 は聖晩餐について言うーー「これはキリスト者たちの間で頻繁に行われて、キリストの御苦しみをしばしば記憶に呼び起こすため、また、これを思い起こすことによって、かれらの信仰を支え強くし、また、これを思い起こすことによって、かれらの信仰を支え、強くし、また、神に対して賛美の告白を歌い、そのいつくしみを宣べ伝えるべく励ますため、……ために制定されたのである。」

 キリストの贖いを主の晩餐の礼典のたびごとに想起すべきことが告白29:1に言われている。…for the perpetual  remembrance of the sacrifice of Himself in his death, …
既訳では、perpetual の訳語は二つに分かれる。
 ①永続的、永遠に、いつまでも
 ②常に, 断えず、不断に
 ここでは②が適切と思う。 「常ニ、思ハシメ」は、実は明治13年訳。「いつまでも」
ではなく、「いつも」。その都度、そのたびに。
 Ⅰコリ 11:25,26の諸訳が参考になる。明治13年訳では「飲むごとに」。以後、たびに、たびごとに、いつでも。即ち、受領のたびごとに、キリストご自身の犠牲をありありと想起する行為が言われている。
 なお「いつまでも」の側面は、おなじ 29:1の「世の終わりまで」(unto the end of the
world)で言い表されている。                        

4.キリストを「自分のものとする」
 
 170答に次のとおり言われるーーwhile by faith they receive and apply unto
themselves Christ crucified, and all the benefits of his death. ここでのapplyをどう理解すべきか。「適用する」、「当てはめる」の訳語が既訳に用いられているが、宮﨑訳では「自分自身のものとする」となった。実は、1950年の岡田訳で既に「自身のものとする」と言い表されていた。
 改革派信徒にとって最も身近なウ小教理29では、キリストによって買い取られた贖いが、キリストの聖霊により、わたしたちに有効に適用されることが明言されている。「適用」は、もはや動かすことのできない神学用語として定着し、今に至る。
 しかし 大教理170では、主の晩餐の礼典でキリストを食する者は、即ち キリストとその死の益を、信仰によって受け取って、自分自身のものとするのだ、と言われている。畏れ多い限りである。
 ここでのapplyは即ちmake one's own である。信仰により、自分の身に引きつけて食べ、飲まなければ、パンとぶどう酒は物質にとどまる。

 ジュネーブ問答342で既に次のとおり言われていたーー「主のもろもろのよきものは、まず主がご自身をわれわれにお与えにならない限り、われわれのものとはならないからであります。」(外山訳)
 同355でもーー「私たちはこれらのしるしの表す実体を我がものとするため、精神を天に向けて高めなければなりません。」(渡辺訳)

 applyは、主の晩餐における陪餐者の積極的な態度を言い表している。それが、霊的に
食することにほかならない。十字架につけられたキリストとその死の益を信仰によって受け取って、自分自身のものとするという能動的な行為が本問では強調されている。

 上の意味でのapplyが大教理73で義認に関して既に用いられていた。…but only as it is an instrument by which he receiveth and applieth Christ and his righteousness.
ここでの主語は罪人である。動詞applyは従来「適応される」「適用される」「適用する」
「自分に当てはめる」と訳されてきたが、宮﨑訳は「自分のものとする」として、文章を明確にした。
 72答に「福音において提供されているキリストとその義を受け入れ、依り頼むのです」
とあるのはよく分かる。その上、73は「キリストとその義とを受け取って、自分のものとする」と断言する。receiveとapplyの複文は重い。

 receive +applyのパターンはウエストミンスターに先立って、ハイデルベルク61に現れていたーーわたしは、ただ信仰による以外に、それを受け取ることも自分のものにすることもできないからです。
 同じパターンはジュネーブ問答に遡る。119答「私たちが心からの固い信頼をもって福音の約束を受け入れる時、私の言ったような、この義の所有を、或る意味で獲得するからであります。」ここで言う義の所有の獲得が、ウ大教理のapplyが意味するものと読める
 ジュネーブ問答でのパターンは更にカルヴァンにまで遡る。綱要Ⅲ. 2. 16「信仰とは、主が憐れみの約束を差し出したもうことを我々の外で真実だと判定するだけで無く、我々自身の内には何も捉えていないというようなことでもなく、むしろ、それを内面に把握して我がものとすることである。」(渡辺改訳版)なお、渡辺旧版では、最終部はつぎのとおり。「むしろわれわれはそれを内に抱擁することによってわがものとしてしまうのである。」Allenの英訳では、"…but rather make them our own, by emblacing them in our hearts."

神が福音において差し出してくださるものを、わたしが信仰をもって受け取る。
神がわたしに転嫁してくださるものを、ありがたく自分のものとする。

5.キリストとの「結び付き」を意識する

 ウ告白27:1が礼典の目的の一つとして挙げるのが、to confirm our interest in Him(Christ)である。このinterestは、明治期以来さまざまに訳されてきた。
 関心、関係、権利、関わり、あずかること等だが、ひときわ目を引くのが、明治13年訳の
「キリストに与ること」である。

 キリストとの結合(union)、キリストとの交わり(communion)に並んでキリストとのinterestが言われていることに注目したい。
 ウ大教理での用例は次のとおり。
 ① 32 第二の契約において表されている神の恵み
  …requiring faith as the condition to interest them in him
                                   この方に結び付ける/あずからせる
 ② 83 この世での栄光における交わり
  …in him are interested  この方に結ばれている/あずかっている
 ③ 172 主の晩餐に臨むにあたって
  …may have true interest in Christ
                キリストとの真の結び付き
 ④ 189 主の祈りの序言 fatherly goodness について
  …our interest therein
        その慈しみに結ばれていること/あずかっていること
 ※unionに結合の訳語を忘れているので、interestに機械的に「結び付き」の訳語を充てるのはどうかと思うが、難しい。
 Bower のGlossaryによれば、Interest:To share in a right, title, or privilege(Q.32)と
ある。rightが挙げられていることから、このinterestは、恵みによって賦与される権益/
特権を意味するものと解し得る。
 OEDでは、’To invest (a person)with a share in or title to something, esp.
  a spiritual privilege とある。最初の用例は1610年。神が主権の恵みによって罪ある者
神の子として受け入れ、もろもろの特権を与えてくださる。そのような命の関わりが、
interest(v.,n.)の意味するところではないのか。キリストとの結合の目に見える姿と言い
得ようか。とは言え、このinterestをキリストとの関わりと訳すのはためらわれる。せいぜい、キリストにあずかっていることか。 キリストとの結び付きか。関与は別の意味となる。こちらから、ある事柄にかかわりをもつこと。
 告白と大教理で用いられるinterestが一般には難しいと考えたのか、小教理には一度も
出ない。
 大教理172は、主の晩餐に臨むにあたっての自己吟味を教えている。自分がキリストに
あること(his being in Christ)について、あるいは、主の晩餐の礼典のために自分のなす
べき備えについて不安を抱いている者であっても、キリストとの真のinterestを持って
いるのかもしれない。そのinterestのないことを懸念して誠実に悩むほどの者であるなら
そのinterestを持っているのだから、主の晩餐に臨むべきだ、と励ますのが本問である。
 上では、being in Christとtrue interest in Christとがほぼ同義であると読める。キリストにあることは即ちキリストに結ばれて権益を授けられていることにほかならない。Ⅰコリ6:17「主に結びつく者は主と一つの霊となるのです」。
 この意識を生き生きとした形で新たにするのが主の晩餐の礼典である。受領のたびご
とにこの意識は深められていく。

  ハイデルベルク問答76では、キリストの体を食べ、その流された血を飲むとは、……
その祝福された御体といよいよ一つにされてゆくことだと告白されている。
 同80では、わたしたちが聖霊によってキリストに接ぎ木されていることを主の晩餐
が証ししていると言う。
 遡れば、ジュネーブ問答358は、聖礼典を正しく受けるための自己検討課題として、
「キリストのまことの肢であるかどうか」を挙げている。
 渡辺講解によれば、キリストの真の肢であるかどうか、はすなわち、キリストと真実に
結び付いているかどうか、である。キリストと結び付いているかどうかは霊的な事柄であ
るから、見た目には分からないが、印によって分かる。印としては、①悔い改めと信仰、
②隣人への愛、③魂の純潔の三つがある。(359)
 宮﨑訳大教理172ほかで、interestに「結び付き」の訳語を充てているのは、上の
ジュネーブ358の趣旨を反映してのことと読める。
 Torranceのジュネーブ英訳358での true member of Jesus Christ は、ウエストミンスター大教理172でのtrue interest in Christ と響き合っていることに気付いた。

6.陪餐前の備え

 171答は多岐にわたる。主の晩餐の礼典を受けようとしてそれに臨むにあたり、自らを
備えなければならないことが求められる。その備えの内容を分解すればーー
  ① 自分自身を吟味すること。
   1) 自分がキリストにあることについて…172にも出る
   2) 自分の罪と欠けていることについて
   3)自分の知識・信仰・悔い改め・神と兄弟に対する愛・すべての人への思いやり
     ・自分に悪を行った者への赦しの真実さと度合いについて
   4)キリストを慕い求める思いと新しい服従について
  ② 真剣な瞑想と祈りとをもって、これらの恵みを常に新たに働かせること。

  ① 4) their desires after Christ 改革派委員会訳では「キリストにならおうとする
   自分の願い」だが、岡田訳が既に「キリストへの渇望」としていたとおり、「キリ
   ストを慕い求める願い/思い」とするのが当たっている(鈴木訳、松谷訳、宮﨑訳)
    171のdesiresを読み解くには、174から遡るに限る。
   主の晩餐の礼典執行中の心 得を告げる174に挙げられる項目のうちで、171の
   desiresに対応するのは、earnest hungering and thirsting after Christである。
   「切にキリストに飢え、キリストに渇き」(宮﨑訳)。互いに照らし合う171と
   174たちが聖礼典を重視した思いをくみ取ることができる。
    171 desires after Christの証拠聖句ヨハネ7:37「渇いている人はだれでも、
   わたしのところに来て飲みなさい」は、desires の何たるかを明らかに告げている。
   もう一つの証拠聖句イザヤ55:1 が、これを補強している。「渇きを覚えている者
   は皆、水のところに来るがよい。」両聖句での「渇」に注目すれば、岡田訳の「
   渇望」が胸にすとんと落ちる。その意味では、desires after Christ を「キリスト
   を渇き求める思い」と訳しても悪くはない。

7.晩餐中の心得

  主の晩餐の執行中に、これを受ける者に求められることを、174答は丹念に描き出
 している。後半部分のinに始まる前置詞句が何を修飾しているかについては、訳者
 の判断が分かれていて,決め難い。南長老教会版および現在のアメリカ合衆国長老
 教会版(PCUSA)では、パンクチュエーションからして、前半部分全体を修飾すると
 解しているものと読める。 それに倣えば、次の構文理解が成立する。
   求められているのは次のことーー
  ① 神を待ち望むこと
  ② 礼典の品と動作に目を注ぐこと
  ③ 主の体をわきまえ、主の死と苦しみとを瞑想し、恵みの実践へと我が身をかき立て
   ること
  以上①②③を実行する道は次のとおりーー
  1)我が身を裁いて罪を悲しむこと
  2)切にキリストに飢え渇き、キリストを食し、キリストの豊かさより受け、
    キリストの功績により頼み、キリストの愛を喜び、キリストの恵みに感謝をささ
    げること
  3)神との契約と聖徒たちへの愛を新たにすること
      ※上の①②③1)2)3)は、何と途中でピリオドなしのワンセンテンス。
  求められていることを言い表す動詞に、副詞あるいは前置詞句が付されて、その様態
 が厳密に規定されているのが、本問の特徴である。
  ① with all holy reverence and attention →wait upon God
      ② diligently →observe the sacramental objects and actions
  ③ heedfully →discern the Lord's body
            affectionately →medidate  on his death and suffering's
            空白 (thereby)→stir up themselves to a vigorous
                                            exercises fo their graces
        ※上の①②③abcの分類を、①②③ab④           
                  とするのが松谷訳の解釈であり、
    大いにうなずかされる。①神を待ち望み、②礼典の品と動作を見つめ、③
    主の体をわきまえ、主の死と苦しみを瞑想する。その上でかくしてthereby
            ④恵みの賜物を働かせることに心をかき立てる。
    ①②③+④の理解は、執行前の備えを記す171の分類をそのままに映し出す
    ものと言える。ー、-、-、-、について自分自身を吟味すること+恵み
    の賜物を働かせること。この照応を大切にすべきと思う。
 執行中の作法の中で特に目を引くのが、diligently observe the sacramental objects
and actions である。注意を傾けて見る、即ち注視することが求められている。
 礼典の品、即ちパンとぶどう酒=キリストの体と血とが私たちの贖いと救いとのために
差し出されている。ただ、恵みによって差し出されている物を、私たちが信仰の手を伸ばして受け取る。配餐者の手にするパンと杯が自分に近付いてくるのを我が目で見つめる。
「キリストの愛我に迫れり」と告白する。
 手に取ったパンをさらに見つめる。直視する。ぶどう酒の赤さを凝視する。更にパンの
味と香り、ぶどう酒の刺激を味得する。そうすることによって、差し出されている神の恵みを体得する。それを自分のものとする(apply)。物体的なしるしが霊的な実質そのものであることを、この礼典において確信する。次なる聖餐式を期待する。
 カルヴァンが『綱要』Ⅳ.17で用いる用語の数々から教えられることは大きい。「ジュネーブ問答」についても同様である。そこでは、「主がご自身をわれわれにお与えになるー
われわれがその主をいただく」の図式が一貫して示されている。

 ウ大教理174が「注視すべきこと」を特に挙げているのは著しいことである。このような具体的な指示は、ジュネーブ、ハイデルベルク両問答には見られないことであった。

8.陪餐後の義務

 英語を習い始めた当初より、successを「成功」と覚えて今に至ることから、本問での用法を正確に掴み損ねてきた。その結果、従来の訳では、どんなによくやれたか、どこまでうまくできたか、どの程度よくできたか、どれほどよくできたか、とよくできた度合いを
問題とする言い回しに終始したきた。
 辞書では、success の第一義は「成功」だが、第二義として「結果」が挙げられているのを見落としてはならない。その用例 として、good success 上でき、上首尾
                      ill(bad) success 不でき、不成功、不首尾が挙げられる。
なお、動詞succeedには〔廃〕…な結果になるの訳語が示されている。〔例〕succeed badly ひどい結果に終わる
   ぶざまな~
 上のsuccess 理解は、証拠聖句の表現によって裏付けられる。
●詩28:7 わたしの心は喜び躍ります。 歌をささげて感謝いたします。
     (good success)
●詩85:9 主は平和を宣言されます/御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に
     (good success)

     同  彼らが愚かなふるまいに戻らないように。
     (ill success)
●Ⅰコリント11:17 あなたがたの集まりが、
         良い結果よりは         the better (good success)
                           むしろ悪い結果を招いているからです。the worse (ill success)
●  同  11:30 弱い者や病人がたくさん降り、多くの者が死んだのです。
                 (ill success の事実)
●  同  11:31 私たちは、自分をわきまえていれば、裁かれはしません。
           (ill success への警告)---(good success の勧め)
  *Ⅰコリント11:17 文語訳では、益を受けずして損を招けばなり。これは、上首尾
   ーー不首尾の対比を明らかに言い表している。               
この対比を頭に置いて175問の答えを分析すれば次のようになる。
  good success =力づけと慰めを見いだすならば
  ill success=何の益も見いださないならば
  good success=自分を正しいとすることができるのであれば
           if they can approve themselves
  ill success=落ち度のあったことに気付いたならば
           if they have failed
  *approve oneself とfail とが対比successがプラスとマイナスの両面に用いられてい
   ることが判然としている。

カルヴァンの『綱要』Ⅳ.17.40では、この食物を味わってキリストこそ我がいのちでいますことを 得し、感謝を献げ、互いの愛を進める者がいる反面、この食物によって信仰を
養われも固められもせず、讃美と愛に駆り立てられもしない者のいることが言われている。
後者にとって、この食物はその魂を大きい破滅に突き落とす、とも断言する。 まさに
good success  ill success である。

 ウ大教理175は、ill success の者を全面的に切り捨てはしない。むしろ、執行前の準備の仕方と執行中のあり方を一層厳密に検証することの必要性を訴えてやまない。落ち度のあったことに気付いたならば謙虚になって、一層の注意と熱心を傾けて、この礼典に臨むように、と励ましている。極めて牧会的な表現に終始している。カルヴァンの筆致を思わせる。

9.「引き続き」キリストの内にとどまるために

 洗礼と主の晩餐の異なる点を述べる177問では、洗礼が一度だけであるのに対し、主の
晩餐はしばしば執行されなければならないと言われている。その目的は、私たちがキリストの内に引き続きとどまって成長することを確かにすることである。

 「確かにする」(confirm)の主語は陪餐者ではなく、主の晩餐であることが、大教理
168問との照応から分かる。
  168…have their union and communion with him confirmed
       文法上の主語はふさわしい陪餐者だが、事柄の上での主語は主の晩餐。
  168…his body and blood to their spiritual nourishment and
                                                                  growth
                                                                      in grace
      177…Christ as spiritual nourishment to the soul, and
         to confirm our continuance and growth in him                                             
       168177は共に、主の晩餐の目的と効果とを、同じようなフレーズを重ねて語って
  いる。
  聖礼典の執行をとおして、神が福音の約束を封印なさることがハイデルベルク問答
  66で既に言われていた。「確証する」との訳語も用いられている。明治17年の訳文
  は次のとおりであった。
    此聖禮典を用いて神様が福音の約束を我 (わたしども)に愈(いよいよ)
  能く理解せ(わから)御調印(ごちゃういん)なされて御確保(おうけあい)なさる
  為で御座ります
   英訳からの重訳だがsealに二つの  「ちゃういんする」と「うけあふ」を充てる
  ことにより、意を十二分に伝えるものとなっている。「うけあひなさる」は抜群と言
  うべき。
   大教理177で神が確証していてくださるのは、私たちがキリストの内に引き続き
  とどまること(continuance)と、キリストにあって成長することの(growth)の
  二つである。両者は実は一つのことである。その基盤にはキリストへと接ぎ木さ
  れていることがある(165)。神の子とされていることがこれに重なる(同)。
  キリストとの結び付きを持っているという恵みの事実が不動のものとしてある
  (172 interest)。

  主の晩餐を受けるにあたっては、「自分がキリストにあること」(being in Christ)
      の意識が不可欠である(171, 172)。キリストにあることは、「キリストの内にあり
  続ける」ことにほかならない(177 松谷訳)。
  変わることなく、引き続きとどまるために、主の晩餐はしばしば執行される。
  その都度、キリストとの真の結び付きの意識は燃え立つ。

   177では、主の晩餐の目的が二点に絞って述べられている。
  ①魂にとっての霊的栄養であるキリストを表すこと(represent), また与えること
   (exhibit)。
  ②キリストの内にとどまり続けて成長することを確証すること(confirm)。
   ①のexhibitは典型的な礼典用語の一つである。162にも見える。諸訳では、
  表す、示すの語が充てられると共に、提供する、与えるの語も用いられている。
  ずばり「与える」が、その意味するところである。
  27:3、28:6に用いられる。諸訳では、表示される、あらわされる、提供される、
  差し出される。 この場合も「与えられる」が適訳だと思う。
  差し出されて→じっさいに与えられるがその意味するところである。これは、
  28:6でreally exhibited and conferred と言われていることから分かる。
  conferredは、授けられる。
   中期英語(1150-1500)での医学用語の一つがexhibitで、医療を施す、投薬
  する、食餌療法を施すことに用いられた。
  語源は<ラ>exhibereで、他人に物を呈するの意(hold forth)。ここから、
  じっさいに授けるの意で用いられるようになった。
  礼典用語exhibitとapplyは同義と考えてよい。

  【付】礼典用語一覧 (省略)

2017年10月7日土曜日

「ICS 軽井沢文庫だより」第12号

「木の成長に学ぶ」

宮﨑彌男

 
 「ICS軽井沢文庫」は、たった3畳のログ風ハウスですが、木の香りの芳しい文庫と祈りのスペースです。ここに、私がトロント留学時代に訳した、「木」という題の一篇の詩が掲げてあります(前号写真参照)。この色紙の原本は、当時私を祈りをもってトロントへ送り出したくれた日本キリスト改革派東京教会の牧師夫人、矢内正子姉にプレゼントしましたので、ここに掲げられているのは、そのレプリカです。
 原本の色紙には、「とうきょうのやどやのおかみさまへ」と書かれています。学生時代、仲間の青年たちと、よく食事のお世話になったり、泊めてもらったりしたからです。ちなみに、矢内正子姉は、牧師夫人であると共に、オルガニスト、詩人でもありました。先生を天に送り、今は一人となられた姉妹の老境に主の祝福がありますように。 
 同姉の了解を得て、少し訳文に手を加えたものを以下にご紹介します。

Mat Cupido画
「木」(フレデリック・ W・タミンガ、
     宮﨑彌男訳)

   木は生活のシンポル。
   その枝を張ったからだのゆえに
   木は家族だ。
   多くの実を結ぶゆえに
   木はいのちだ。
   天にむかってのびるようにつくられている。

だから 根は地中深くしっかりと張り巡らされ
その美しい葉脈はいのちの水を追う。
だから その冠は光を求めて身をのばし
天と地を結ぶ絆(きずな)のイメージとなる。
     
     木はわれわれの冒険のシンボル。
     もろもろの活力がその波打つ枝に
     あふれている。
     高く上げられたその腕で豊かな実を
     結ぶために、すべての力をかりいれる。
     一つ一つの小枝は手だ。たくみな道具だ。
     一つ一つの葉は呼吸する口だ。
   
   木はすまいのシンポル。
   何のわけへだてもなく、よくいらっしゃいましたと歓迎する。
   鳥はよく知っていて
   陽の当たる木の葉に心地よさそうにうずくまる。
    くもはそこに巣をめぐらし
    人はそこに風をさけて
    雨やどりの場所を見出し
    日中(ひなか)の暑さから身を守る。

もろもろの霊は思いのままに吹き
幹の腋下(わきした)にやどる。
嵐が来るたびに木はその身を曲げる。
それでも、くずおれてはしまわない。
   
   木は多様な生活のシンボル。
   日中(にっちゅう)の夢と
   夜の守りのシンボルだ。

   だれでも
   意味なく
   木を倒す者は
   いのちそのものを倒す。
   そのような人は
   汚れた者
   畏怖(いふ)の念を持たぬ者
   不信者
   殺す者
   とみなされる。
   そのような人のために
   赦しを祈り求めよう。

   なぜなら、かれらは
   何を壊してしまったかを
   知らないからだ。

 この詩の作者、フレデリック・タミンガは、オランダ系カナダ人で、この詩を書いたときには、バンクーバー近郊の広大な地に、奥さんと6人の子供たち共に住んでいると紹介されていました。野性的なクリスチャン詩人と言うべき方です。この詩は、Mat Cupido編の詩集、Bunk Among Dragons に収録されていたのですが、この題名はどう訳したら良いのか、今の私にはわからないので、原題だけ記しておきます。この詩集には、詩編147編やⅠコリント13章のタミンガ訳も収録されており、励まされる詩集です。
 上掲の「木」では、木が「天と地を結ぶ絆(きずな)のイメージ」として詠まれている所に、私は、特に心惹かれました。「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇(のぼ)り降(くだ)りするのを、あなたがたは見ることになる」と言われた主イエスの御言葉(ヨハネによる福音書1:21)を思い起こさざるを得なかったのです。
 ちなみに、私たちは、この詩全体の中に、木もまた万物の造り主なるキリストの愛の内に生かされている、との作者の素朴な信仰が脈打っているのを感知しないでしょうか。たとえば、次の箇所など。「木はすまいのシンポル。何のわけへだてもなく、よくいらっしゃいましたと歓迎する。…」
 軽井沢の木々もまた「天と地を結ぶいのちの絆」です。私たちの思いを、主のおられる天に向けてくれます。タミンガの「木」は、追分の散歩道の両側に並ぶ、生きた木々でもあるのです。それで、私は「ICS軽井沢文庫」の片隅にこの詩を掲げることにしたのです。
 今月の軽井沢新聞(2017年9月号)に、次のような全面意見広告が出ていました。「土地を売るため、建設のための、皆伐(かいばつ)に反対します。すべての樹木を切らなくても土地の販売はできます。全ての樹木を切らなくても建設はできます。美しい緑は軽井沢の財産です。樹木があるから、リスや野鳥は暮らすことができ、爽やかな空気が保たれます…」(軽井沢自然景観会議、会長/羽仁進、理事長/鈴木美津子)。アーメンです。
さらに、木について思いを巡らして見ましょう。文庫周辺の木は、高さ20メートルくらいの木が多いです。樹齢は、よく調べていないのでわかりませんが、40年くらいでしょうか。もう少し年が行っているかも知れません。樹齢40年の木であれば、毎年50センチずつ伸びてきたわけです。正に創造主なる神のいのちの恵みです。
 私たちも、日々に同じ創造主のいのちの恵みをいただいているのではないでしょうか。そうです、3年ならば、1,095日、神のいのちの恵みをいただいてきました。これからもいただくことができるでしょう。3年ならば、1,095日、いのちの恵みをいただくことができます。この間、1年に50センチ、1日に1.37ミリ、成長することができるのです。天に向かって伸びる木に学ぶ教訓です。
ICS軽井沢文庫にて
これからの軽井沢/追分での3年間、わたしは、知恵と力を尽くして「ICS軽井沢文庫」の育成につとめたいと、先月号に書きました。毎日、一歩一歩前進できればと願っています。カタツムリのような前進か、新幹線のような前進か、それは日によって違うでしょうけれども、前進してゆきたいと願っています。
 目標とするところは、共同体としての JICS(Japan Institute for Christian Studies、日本キリスト教学術研修所)を立ち上げることです。より具体的には、基本信条・会則の決定、所員、主事、賛助会員の募集、等々です。3年後に、どこまで進んでいるか。それは、主の御旨によることで、私たちには定かではありません。しかし、この3年間、カタツムリのような前進であっても、新幹線のような前進であっても、御言葉と“霊”の導きににしたがって前進したいのです。どこまで前進できるかに拘わらず、「愛に根ざして真理を語る」ことに専心したいものです(エフェソ4:15、Ⅰコリント13章)。

  更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の  子の上に昇(のぼ)り降(くだ)りするのを、あなたがたは見ることになる」。           (ヨハネによる福音書1:51)


(「長野佐久教会」のホームページで、「ICS軽井沢文庫だより」をごらんいただけるようになりました)

 
 私どもが毎週の礼拝に出席し、会員になっています (旧)佐久伝道所は、去る9月18日に、(旧)長野伝道所と合併し、日本キリスト改革派長野佐久伝道所として、牧野信成牧師を迎え、新たな歩みを始めることとなりました。9月18日には、佐久交流センターに94名の来会者を得て、長野佐久伝道所設立式(合併式)と牧野信成教師・宣教教師就職式が行われました。台風も逸れた秋空の下、恵みあふれる一日でした。
 このように、牧野先生が長野佐久伝道所で牧会を始められてから数週間が経ちましたが、早速の所、「長野佐久教会」のホームページを立ち上げ、その「地域と交流」リンクの一つとして「ICS軽井沢文庫」を加えてくださいました。
 まず、「長野佐久教会」のホームページをごらんください。「地域と交流」リンクの「佐久市」をクリックすると「ICS軽井沢文庫」のブログが出てきます。ここで最新の「ICS軽井沢文庫だより」をチェックすることができます。


(石丸 新先生による「ウェストミンスター大教理問答研究ノートを掲載します)

 
 今月号より、このブログに、石丸新先生の「ウェストミンスター大教理問答研究ノート」の一部を掲載させていただくことになりました。先生の許可もいただいています。ラベル 「ウ大教理の聖餐論(1)」 をクリックしていただくと、読んでいただくことができます。
 石丸先生は、ここ20年来、絶えず、私の「ウェストミンスター大教理問答」の訳業を励まし、応援してきてくださった大先輩の先生です。「ウェストミンスター信仰基準」、とりわけ、「ウ大教理問答」の研究と翻訳には、並々ならぬ関心と情熱をお持ちの先生です。
 私が 2014年6月に教文館より『ウェストミンスター大教理問答』を出版しました前後の数年間、毎月のように「研究ノート」を私宛送ってきてくださいました。その中には、大変貴重なものも多くあり、何とか多くの方に読んでいただきたいと思ったこともしばしばでした。この度、「ウェストミンスター大教理問答の聖餐論」、「ウェストミンスター大教理問答の洗礼論」、「ウェストミンスター大教理問答における『神を見る』」など、先生が特に深い関心を持ち、情熱を注いで来られたテーマについての研鑽を先生がまとめられたものをお送りくださいましたので、お許しを得て、まずは「ICS軽井沢文庫」のブログに順次掲載させていただくことになりました。今回では、まず手始めに「ウェストミンスター大教理問答の聖餐論」の1~3章を掲載します。石丸先生による手書きのノートを宮﨑淳子姉がパソコンに打ち込んでくださいました。その労を主にあって感謝します。
 なお、石丸新先生は、現在、日本キリスト改革派東関東中会の引退教師ですが、86才となられた今もお元気で、主の日には、諸教会で礼拝奉仕などにご活躍です。読んでくださればおわかりと思いますが、先生は信条文書にふさわしい適切な日本語を絶えず求める一方で、老若男女の教会員と共に生きる現代的な感性も今なお持ち合わせておられます。


(「ICS軽井沢文庫だより」の印刷・保存のために


「ICS軽井沢文庫」を開き、右欄のラベル「ICS軽井沢文庫だより第12号を選択します。次にパソコン右上のオプション設定のマーク(縦に3つの点)をクリック、「印刷」を選択します。左欄のオプションを「両面印刷」にし、「詳細設定」の中の「倍率」を150、「背景のグラフィック」もオンにしてください。「印刷」ボタンを押すとOKです。

※次号は11月初めに出す予定ですが、それまでにも、思いつくままに、直したり、付け加えたりすることがありますので、時々チェックしていただければ、ありがたいです。






【連絡先】

389-0115長野県北佐久郡軽井沢町追分36-23 宮﨑彌男・淳子

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