2018年8月31日金曜日

2018年「8・15平和祈祷会説教」

2018年 8・15 平和祈祷会説教 

「神の国の子どもたち」

牧野信成牧師(長野佐久教会)


ルカによる福音書18章9~17節
神の国の子どもたち

 今、私たちが直面している破れ口は、旧約聖書のモーセや預言者エゼキエルが立たされたイスラエル社会の破れ目と少しも変わらないものではないかと思われます。法があっても尊ばれず、貧しい者が見捨てられ、力ある者が富と権力をほしいままにして、社会が破滅に向かう状況です。神に召された僕たちはその破れ口に立ち、人々の立ち返りを求めて神の裁きを告げて、神と人との間を執り成そうとしました。
 私たちの時代を広く覆っている一つの価値観は「新自由主義」と呼ばれます。そこでは努力した者だけが報われるべきだとし、競争を肯定的に捉えて、個人の能力による公平で自由な評価を基準に分配を行います。人間観もそこでは市場原理に侵食されます。つまり、役に立たない人間には価値がないわけです。文系科目は価値のないものとされて、学校でも会社でもいかに役に立つ人間になるかが目標になる。
 そういうところで、一昨年、相模原市で障害者施設でのテロ事件が起こったのは実に象徴的です。これが単に一人の狂人による偶然の出来事として捨て置けないのは、犯人を英雄視する声がネットやツイッターに寄せられたことです。自分にもそういう思いが僅かながらあるのに気づいた、という一般の反応もありました。役に立たない者は抹殺すべきであるとの信念に基づいてこれを実行したのは、第二次大戦中のナチス・ドイツによる「T4計画」でした。新自由主義による伝統や共同体の解体は全体主義に近づく、と論じる方がありますが、それが今、私たちの時代にもたらされた「破れ口」ではないかと思わされます。聖書の教えに照らして言うならば、私たちは「この世の栄光」を目指す世界に今閉じ込められようとしています。そうして神の言葉を締め出すことで、罪の裁きを招こうとしている。
イエスのたとえ
 主イエスは、「自分は正しい人間だと自惚れて、他人を見下している人々に対して」語ります。格差のあるところで教えておられます。「格差」の問題は単に収入にばらつきがあることではなくて、まさにここで描かれるような心の問題ではないかと思われます。一人は豊かで潤っている。一人は貧しくて生活に苦しんでいる。一人は誇りをもって社会に立場を得ている。一人は誇りも持てずに人前に出ることも憚られる。ここに格差があって、驕りと卑屈と差別とを生じさせています。
 譬えに登場するのはファリサイ派と徴税人です。この両者の間を隔てているのは経済的な差ではなくて、宗教的なそれです。ファリサイ派には自分が正統的な信仰の継承者だとの自負があります。加えて、その伝統に則って自分は正しくふるまっているとの誇りと自覚があります。具体的には「自分は奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではない」こと、つまり十戒をもれなく守っているということ、さらに、「週に二度断食し、全収入の十分の一をささげている」という積極的な礼拝の実践が伴っています。あなたの信仰は立派だと、あなたこそ価値のある人だと、皆が認めてくれます。
 他方は徴税人です。皆がそうだと認めていた罪人です。「奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者」たちの仲間です。まともに礼拝に出ることもできず、皆からいなくなってくれた方がありがたいと思われているような価値のない人間です。そこで、ファリサイ派の立派な人は、彼を見て、自分と比べて、こう祈っています。「自分はこのような者たちでないことを感謝します」。これが「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人」の例だとイエスは言います。
 「ヘイト・スピーチ」が未だに燻っています。目に見える場所で事が起こっていなくても、在特会の前会長である櫻井誠氏が東京都知事選挙に立候補すれば10万票を超える票を得たりします。「ヘイト」の特徴は、偏見や誤った知識に基づく正義感をその感情の根にもっていることです。まさにそれは「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」の実例です。若者がこういう運動の中心にいると考えるのは誤りで、中には若い人もいるとは思いますが、多くは40代以上の立派な社会人だと言われます。古い生活規範などは失われつつある今日ですから、この人たちの「正しさ」が一体どこに基盤を持つのか不思議ですけれども、おそらく会社で言われた事はちゃんとやっている。世の中で人から後ろ指をさされるようなことはしていない、というような「感覚」なのでしょう。本当に自己が確立していて豊かな人生を送っている人は、他人を見下したりはしないはずです。けれども、その正しさを確保するためにしのぎを削るような生活をしている人は、上司や親や友人からかつて責められて傷ついた劣等感が常に疼いて、隣人に対する厳しい言葉を抑えきれないのでしょう。譬えが描く「ファリサイ派」の姿勢は、ローマの支配の下で傷ついた民族意識をかかえて伝統遵守に汲汲としていたユダヤ人の様子を戯画的に暴露したものです。戦後、アメリカの支配から片時も逃れる事が出来ずに歪んだ自尊心を育んできた日本人と相通じるものがあるように思います。
 このイエスの譬えは、人間による人間の評価ではなく、神がどのような評価を人間に与えるかを教えています。この譬えの驚きは、徴税人がファリサイ派に勝るとして、社会通念を転覆させたところにあります。ファリサイ派に対する「当てつけ」ですけれども、そこにこそ人が気づかなければならない事があるわけです。徴税人は、もちろん常日頃の振る舞いが評価されたわけではありません。彼は自他共に認める通りの罪人です。けれども、彼は正しく自分を知っています。自分のありのままを見つめて、自分は救い難い罪人だということに心を痛めています。この徴税人のへりくだる様子が丁寧に描かれているのは、それを私たちがじっくりとなぞるようにして心に留めるために違いありません。彼は「遠くに立って、目を天にあげようともせず、胸を打ちながら」こう言いました。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」。自分が救い難い罪人であると知っているとは、こういうことだと描いて見せています。「僕は罪人、あなたも罪人、人間は皆罪人」という罪についての表面的な知識ではないわけです。そこには自分が罪人であることの恥と痛みと恐れが息づいていて、それでも神に向かわざるを得ないから、「憐れんでください」との最小限の言葉が絞り出されます。
 ここから、人の死も生も司っておられる真の神に対して、真実なささげものをしているのはどちらか、ということが明らかです。譬えが描くのは、一方ではファリサイ派のささげものの偽りです。彼が気にしているのは神ではなく他人の目です。そして、自分を見つめる自分の目をも欺いています。彼は生きておられる神を知りません。彼はこの世の栄光の中に自分の居場所を定めています。方や徴税人は、ひたすら神に赦しを乞います。そうするしか生きて行くすべがないからです。そして、真実なささげものをしているのはこの徴税人の方です。なぜなら、彼はありのままの自分を知って、神に心を明け渡しているからです。心の伴わない形ばかりの知識や礼拝は神に向かうどころか、そこで対面しておられる神を愚弄しています。
 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。(14節)。
神が人に求めているのは真実に悔い改める心です。だから、むしろ「罪人」であることを知っている徴税人が神に評価されて、価値ある人間だと言われます。
  だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
子どもたちの国
 神を見失った世界が押し付けてくる虚しい価値観に対抗して、キリストがおられる神の国の価値観を私たちは聖書から学びます。罪人こそが神に報いていただけるとはどういうことか。罪人だから憐れんでもらえる、ということです。神は人間が罪に汚れているのをご覧になって憐れんでおられる、ということです。そこで、自分は大丈夫だ、正しく生きているんだ、と勝手に自覚している立派な人には、その憐れみが届きません。神に憐れんでもらう必要なんかない、と思っているからです。私も何度も知人からそう言われた経験があります。「憐れむ」なんて勘弁してくれ、と。日本語のニュアンスがいけないのかも知れませんね。「愛する」の方がよく伝わるかも知れません。けれども、「罪」のことを考えるときに、やはり「憐れむ」でないと正確ではありません。神は私たちが罪によって滅びてしまうのを忍びなく思って、私たちの罪を赦して受け入れ、新しい命に生かしてくださるお方です。
 その事を明らかにするために、先の譬えには一つの小さなエピソードが続きます。イエスのもとに親たちが幼子たちを連れてきた。ちょっとでも良いからイエスに触れて欲しい。素朴で健気な信仰です。ローマ法王がやってくるとどの町もそんな風景になりますが。もちろん法王はキリストではありませんけれども。そういう親たちの素朴で健気な信仰をイエスは決して退けませんでした。そして、ここにも立派な大人が介入してきます。今度はイエスの弟子たちです。「赤ん坊はうるさいからあっちへ行きなさい」とでも言ったのでしょう。イエスの説教を聞く資格など子どもたちにはない、との誤った見積もりがそこにあります。あるいは大人の驕りです。けれどもイエスははっきりこう仰いました。
 子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。(16、17節)
神の国は子どもたちのものである。子どものように、まっすぐ神の国を受け入れなければ、人はそこに入ることができない。「徴税人」と「子ども」では種類が違うように思われるかも知れません。けれども、どちらも世の中では価値がなかったり、未熟だったり、と見做される小さな人であることには変わりがありません。子どもは案外エゴイストですけれども、イエスに触っていただくことを特別に嫌がる理由ももちません。親に連れてこられるがまま、イエスを通して神に祝福されるがままです。うぬぼれるでもなく、他人を見下すでもなく、神に受け入れていただくままに、自分を明け渡す人が、神の国の住人です。
 教会に集う私たちは、そうやって受け入れていただいたはずです。キリストが私の立派さに目を留めて、真の神に引きあわせてくださったのではありません。神は自由に、御子キリストのもとに人を集めて教会をお建てになります。ここに集う人は皆が徴税人であり幼子です。ですから、教会にはいろいろな人生経験をして来た人が集います。教会は直接的に神の国ではありませんが、終末の神の国へ至る道筋がここに備えられています。教会にはおかしな人ばかりが集まる、との愚痴を何度か聞いたことがあります。そこには、もっと立派な人が加わって教会を立派に建て上げたいという人の思いも見受けられます。けれども、そこには大きな罠があります。もしも教会が立派な人ばかりの集まりでしたら、かつてはそのように側から見られていたようですけれども、それはキリストの教会では無くなっているかも知れません。フリーメーソンのような結社であったり、会員制のクラブであったりして、何にせよそれはこの世の栄光を求める場所です。教会はそうではなくて、神に憐れんでいただいた人が、この世に対する神の国の証としてここに集められているわけです。人の目からすると価値のない命の集いになってしまうかも知れません。しかし、神の目からしてそこには尊い命だけが集まっています。そういう証をキリスト教会は世に対してなすために存在する、とも言えましょう。
平和の基である教会
 どんな平和を私たちは願うでしょうか。戦争が無いこと-それは確かに喫緊の課題です。今、日本は戦争をしようと準備しているからです。国際情勢がそれを要請している、と言いますが、簡単に乗るわけには行きません。情報統制が進んでいて報道では実情が分かりづらくなっています。ナショナリズムの復興は政治から見れば都合のいい道具立に過ぎません。憲法を改正して戦争のできる国にしたい人々の理由は、国際情勢を利用して収益を上げる仕組みの中へ積極的に参与したいだけのことです。日本も世界も、イエス・キリストを信じて政治を行っているわけではありません。ですから、教会がいくら信仰に基づいて発言してもそれが具体的な影響を及ぼす見込みはありません。政治はいつも現実的な方向へ流れていきます。けれども、神が御言葉を通して私たちに新しい命をくださったことが真実であり、キリストが世の終わりまで歴史を導いて行かれることが本当であるならば、私たちは「現実的」という言葉に惑わされないで、キリストが実現する平和のために働くより他はありません。歴史家たちが、キリスト教会は必ずしも戦争に反対してこなかった、と書物に記します。それは事実だとしても、それはキリストが戦争に反対しなかったこととは違います。すでに軍隊が力をもってしまっている国々にあって、現実的なこととして戦争を論じざるを得なかった。そして、教会も戦争に加担してきた。だから、我々もそうするということにはなりません。なぜなら、私たちは歴史に従うのではなく、歴史に学びながら聖書に従うからです。聖書から語りかける、生けるキリストに従うのが教会だからです。
 戦争に向かう時代の流れの中では、弱者の切り捨てが顕著になります。役に立たない者は戦場に送り込め。戦争の役にも立たない者は処分してしまえ、と人々が皮膚感覚で感じるようになる前に、私たちにはまだできることがあるのではないでしょうか。個人の自由を最大限に拡大すれば人間の生活はより豊かになり発展する、と信じた新自由主義の時代は、自分の価値を自分で謳歌する人々の競技場へと世界を変えました。キリスト教会もまたその波に飲まれて、心砕かれた人の祈りの家から、スピリチャルな市場へと変わってしまう危険があります。けれども、私たちは時代を越えて、神の恵みに生かされているキリストの体です。神がキリストの十字架と復活によって打ち立てた、平和の証と礎がここにあります。私たちは内に対しても外に対しても、また、個人においても教会にあっても、神の国の子どもたちとして、平和の使者であることへと召されています。命の価値は神がキリストにあって定めておられます。障害があっても、辛い過去があっても、今逃れられないしがらみがあって自分で自分を評価できなくても、神の憐れみはそうした皆を神の国に受け入れてくれます。そこで生きる真実の命があります。世界のキリスト教会が祈りを合わせ、力を合わせて平和に向かうならば、主がそれを成し遂げてくださることを信じたいと願います。また、教会は破れ口に立って執り成す務めをもいただいています。世の終わりには裁きが待っていることは知らされています。けれども、私たちは神の怒りが解かれるように心を合わせて祈ります。政治においても、社会においても、教育においても、芸術文化においても、あらゆる分野で私たちはキリストの平和を求めます。けれども、何より私たちに求められているのは執り成しの祈りでしょう。悔い改める人の心を聖霊が導いてくださるように。この日本でも福音の力がもっと輝きを増してゆくように、各々の献身の思いに合わせて共に祈りましょう。
祈り
御子キリストの十字架と復活によって、世界と和解してくださった天の父なる御神、人間があなたの主権を顧みずに自由を謳歌して、どこまでも思い上がった結果、この世界は弱い者が軽んじられるばかりか、人間の命に価値があることさえ忘れつつあります。私たちはただ、徴税人のようにあなたの憐れみにすがります。幼子のように神の国を受け入れ、主の祝福に与ります。どうか、私たちだけでなく、私たちを通して、人が生きる希望であるキリストの福音を伝えさせてください。そして、主にある罪の赦しをさらに実現させてください。人々の心にある平和への願いをあなたが支えてくださって、人の命が尊ばれる社会を、世界に、また日本にもつくることができるよう導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

2018年8月25日土曜日

ウェストミンスター大教理問答研究(石丸新)

ウェストミンスター大教理問答におけるサタン

石丸 新

 私が初めてサタンに出会ったのは、物心ついて聖書カルタを手にしたときだった。取り札に描かれたサタンは全身が骸骨で、眼だけが異様に大きく、鎌と刀を手にして、敵を足で踏みにじっていた。地面に血が流れていた。幼い私にとっては、この取り札自体がサタンそのものだった。読み札は記憶に無い。サタンの実在を信じたのはそのときだった。今も変わることがない。サタンに人格のあることを強調して、「ミスター・サタン」と
呼んだ人がある。ある人は言ったー「サタンには手も足もある」。

●大教理問答での用例は次のとおり。
  21 サタンの誘惑による始祖の違反
  27 人類の悲惨の様相
  48 キリストの謙卑のさま
 121 安息日を毀(こぼ)たんとするたくらみ
 191(x2)主の祈りの第二祷
   195(x3)主の祈りの第六祷

●小教理問答での用例は1回のみ:102 主の祈りの第二祷

●信仰告白での用例は7回:1:1、5:6、6:1、17:3、20:1、21:1、25:5、

1.大教理21
 答 私たちの始祖は、自分自身の意志の自由に任されていたところ、サタンの誘惑によ
   り、禁じられていた木の実を食べて神の戒めに違反しました。そのことによって
   彼らは、創造された時の無罪状態から堕落しました。(宮﨑訳)
 証拠聖句のうち、Ⅱコリント11:3が告げるところに注目したい。「エバが蛇の悪だくみで欺かれたように・・・・。」サタンは巧妙な手口を駆使して神に背かせる。人を神から引き離す力をサタンは行使する。
 創世記3章の堕落物語には「力」の語こそ用いられないが、蛇に宿るサタンの力は際限なく強い。

2.大教理27
 答 堕落は、人類に神との交わりの喪失、および神の不興と呪いをもたらしました。
   そのため、私たちは生まれながらにして怒りの子、サタンの奴隷であり、この世に
   おいても、来たるべき世においても、あらゆる刑罰を受けて当然の者です。(宮崎訳)
 下線部の証拠聖句Ⅱテモテ2:26は極めて絵画的である。新共同訳では「こうして彼らは
悪魔に生け捕りにされてその意のままになっていても、・・・・。」
 下線部の原文 eis to ekeinou thelema の eis は、悪魔の意志のただ中へと丸め込まれているさまを描き出す。この意をくんで、岩隈は「その意志に屈服させられている」と訳した。  
 アダムにおいて堕落した私たちは、神の目からすれば怒りの子であり、実態はと言え ばサタンの奴隷である。サタンの意志に屈服させられ、サタンに隷属している存在であ
る。
 パウロはⅠテモテ3:7で「悪魔の罠」と言っている。同6:9では「誘惑、罠」とも。
 隷属は、家来となって主君の支配力の下に身を置くさまを言う。サタンへの隷属は
サタンのとりことされ、その力の下でがんじがらめにされているさまを指す。

 クリスマスの讃美歌《もろびとこぞりて》の2節は、現行112番では〈悪魔のひと
やをうちくだきて、捕虜(とりこ)をはなつと主はきませり〉であるが、讃美歌21
の261番では〈悪魔の力をうちくだきて〉となった。
 ハイデルベルク信仰問答問1の答に次のとおり言われる。「この方[イエス・キリスト]は御自分の尊い血をもってわたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました。」(吉田訳)
 登家訳では「・・・・まったく悪魔の権力のもとにあったわたしを解放してください ました。」

3.大教理48
 本問の答では、サタンの誘惑と戦うことにおいてキリストが自らを低くされたことが
言われている。戦いの相手は他にも挙げられている。
 48問の趣旨は、46問で明白に述べられていた。キリストがご自分の栄光を空しくし、
自らにしもべのかたちをとられたことの目に見えるさまの一つがサタンの誘惑との戦い
であった。

4.大教理 121
 第四の戒めの冒頭に「心に留めよ」との言葉がおかれているのはなぜか、と本問は
問う。
 答を大別すれば、①安息日を覚えることは大きな益だから。
 ②私たちが安息日をすぐに忘れがちだから。
 ②に三つの細目がある。その第三は「サタンがその手下どもを用いて、安息日の栄光、
そしてその記憶をすら消し去って,不信仰と不敬虔が全面的に支配する世の中にしようと
大いに骨折っているからです。」(宮﨑訳)
 下線部は、原文では Satan with his instruments much labour である。主語が三人称
単数で現在のことを言うのに、なぜ labours としないのか、ネイティブでない身には分からない。ここは、Ward の現代英語版では、Satan with his agents seeks by all means
となっている。

 ここでの instruments を「手先」とする訳本もあるが、鈴木訳の「さまざまな手練
手管」には、思わず目を見張った。人をだましたり操ったりする腕前のこと。なお、
much labour も、鈴木訳では「躍起になる」で、翻訳の極意を垣間見る思いがした。
 サタンは狡猾で、あらゆる手を用いる。先ずは人を迷わせ、その隙をついて自分の言う
ことを信じさせる。そうして神から引き離そうとする。常に虎視眈々とうかがっている。
複数形の agents は、ありとあらゆる手段、やり口を言い表している。証拠聖句の
ネヘミヤ13:15-23は、安息の戒めをおろそかにさせようとするサタンの手口が、あらゆる
商品の売買に及んでいるさまを描き出しているーー穀物、ぶどう酒、ぶどうの実、いちじく、食品、魚。
 サタンは安息日遵守をおろそかにさせるという蟻の穴を手始めとして、信仰者の週日、
そして全生涯を破滅に陥れようとして、日夜働いている。今、この時もうごめいている。
サタンは細部に宿る。

5.大教理 191
 (1)主の祈りの第二の祈願をささげるにあたり認めることとして、「自分自身、さら
  には全人類が生まれながら罪とサタンの支配下にあること」が挙げられている
  (宮﨑訳)。
   原文の under the dominion of を「支配下」と訳した。罪が力を振るい、サタン
  が力を総動員する、そのような状況下に全人類は置かれている。ここでの支配下は、
  罪とサタンの権力下にほかならない。

 (2)第二祷で祈るべきことの冒頭に置かれるのが、「罪とサタンの支配が打ち滅ぼさ
  れ」である(宮﨑訳)。原文では、the Kingdom of sin and Satan may be
      destroyedであるので、「罪とサタンの王国」とする訳本もある。

 (3)第二祷で祈るべきことの最後に置かれるのが、「キリストが全世界において御力
  の支配を行き届かせることを喜んでしてくださるように、とのこと」である(宮﨑
  訳)。原文では、that he would be pleased so to exercise the kingdom of his
      power in all the world である。
   古語 kingdom は王位、王権の意で用いられるので、ここを「王権」とする訳も
  ある(松谷訳)。一方、一般の辞書でも説明されているとおり、kingdom は神
  [キリスト]の霊的支配を意味する。私は、「支配」に傾く。 改革派委員会訳では支
  配、鈴木訳では支配力。
   罪とサタンとが実効支配している現実にキリストが主権をもって斬り込んで、ご自
  身の力の支配を世界の隅々にまで打ち立ててくださる。その意味で、「支配力」の
  訳語は意を伝えている。
   直ぐに頭に浮かぶのがパウロの言明であるー「御父は、わたしたちを闇の力か
  から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました」(コロサイ
  1:13)。下線部を保坂は「御子の王国的支配の下へと」と訳した。ここでは、
  「○○から」と「△△への」の対比が著しい。絵画的でもある。
   罪とサタンは常に変わることなく、聖なる神への抵抗勢力である。
   告白20:1では、キリスト者が、今のこの悪しき世と、サタンへの隷属と、罪の
  支配とから救い出されていることが明言されている。この箇所の証拠聖句の一つが
  コロサイ1:13である。

   大教理191と並行する小教理102には、次のトリオが整然と現れる。
    that Satan's kingdom may be destroyed
            that the kingdom of grace may be advanced
            that the kingdom of glory may be hastened
   明治13年(1880)発行『新約全書』馬太(マタイ)伝第六章の「主の祈り」を、
  日本の教会は140年近くの長きにわたって用いてきた。表記に多少の変更が加えられ
  てはきたが。明治13年版では、thy Kingdom に爾国(みくに)の訳語が当てられて
  いた。爾は汝(なんじ)のこと。後に御国(みくに)となる。
   ウエストミンスター小教理問答の日本語訳を一覧すれば、明治9年以来、表記の
  異同はあるものの、ほぼ、サタンの国、恵みの国、栄光の国と訳されてきた。
   これを、サタンの王国、恵の王国、栄光の王国としたのは、1978年の榊原訳が
  最初である。1963年改革派委員会訳大教理191「罪とサタンの王国」に倣ってか。
   1997年の鈴木訳は、サタンの支配、恵みの支配、栄光の国とした。
   2002年松谷訳、2009年春名訳、2015年袴田訳はいずれも、サタンの王国、恵み
  の王国、栄光の王国。
   王国とは、王が自らの権力で支配する国であることから、そこで自明なのは、
  他の原理をくまなく排除する支配力そのものである。

6.大教理195
 (1)主の祈りの第六祷をなすにあたり認めるべきことが三つ挙げられるが、その
       第二点は次のとおりーーー「サタンと世と肉とが,強引に自分の方へと私たちを
   引き寄せて、罠にかけようと身構えていること」(宮﨑訳)。
    サタン・世・肉のトリオに注目したい。告白1:1に早くも姿を現す-「肉の
   腐敗とサタンとこの世の敵意」。
    同じく告白5:6では「肉」の語こそ用いられないものの「自分自身の欲望と
   世の誘惑とサタンの力に引き渡される」。
    同17:3では「サタンとこの世との誘惑や、自らの内に残っている腐敗」。
    上に見るとおり、肉は罪の腐敗面を言い表している。神に対しては背反、自分
   に対しては腐敗。

    大教理191ではサタンの支配力が前面に出ていた。195でも変わることがないが、
   195では、このサタンに肉の欲、肉の腐れが直結されていることを注視しなければ
   ならない。世も同様に,自分の欲の欲するままに行動する姿を映し出している。心に
   入り込んでいる欲望が問題なのだ。証拠聖句のルカ21:34とマルコ4:19の
   告げるとおりである。

    サタンと世と肉とが、強引に自分の方へと私たちを引き寄せようと身構えてい
   る。下線部の動詞 drawが大教理155に用いられているのに気付いた。神の御霊が、
   御言葉の朗読、特に御言葉の説教を有効な手段としてお用いになる目的の一つと
   して挙げられているのが、「罪人を自分自身から引き離してキリストへと引き寄せ
   る」ことである。エチオピアの高官の例を証拠聖句として挙げるとおり、罪人で
   ある自分は、先ずは自分本位の勝手気ままな聖書の読み方、また聖書解釈をしよう
   とする、そのような自分から解放されなければならない。その解放は御霊の業に
   ほかならない。それが、罪人を「自分自身から引き離し」との句で明らかにされて
   いる。下線部の動詞はdrive。
    原文では、driving them out of themselvesと
         drawing them unto Christ の対比が著しい。
    「罪人を自分自身から引き離し」を「罪人を自分自身からひき剥がし」とすれ
   ば、実感がこもる。

    サタンは常に、世と肉とを仲間に引き込み、手を組んで巧妙に動き回る。

   (2)主の祈りの第六祷で祈るべきことの前段に、「神が…、肉を従わせ、
     サタンを抑制し」とある。(1)のサタン・世・肉が(2)では肉・サタン
     となった。
     「肉」は神に背いて堕落した人間の罪の姿、特に汚れを言い表す。罪に
     汚れた人間の腐敗そのものが肉である。サタンはこの肉を狙って攻撃を
     仕掛けてくる。よって、神が肉を従わせてくださるように、と祈り求める。
      証拠聖句の詩編119:133「どのような悪もわたしを支配しませんように」
     を唱えて、神の聖なる支配を願い求める。
      次いで、神がサタンを抑制してくださるように、と祈る。サタンは肉と
     世とを家来にして働くが、それはすべて神の許しの範囲内でのことである。
     したがって、神がサタンの活動を抑制して、サタンの目的のすべてを達成
     させないでください、と祈るのである。
      神が肉を従わせ、サタンを抑制してくださるようにとの祈りの直前に
     置かれるのが、神が世界とその中にあるすべてのものを支配してくださるよう
     にとの祈りである。直後に置かれるのは、万事を統御してくださるようにとの
     祈りである。神の主権を告白する祈りといえる。

      神の全能の働きに信頼を傾けてなす祈りは、神が備えてくださっている恵み
     の手段を目を覚まして用いることに直結されている。大教理154問では恵み
     の外的手段は何かが示された。195問のこの箇所では,この手段を最大限の
     注意を払って自覚的に用いることが求められている.牧会的な勧めといえる。
    
    (3)主の祈りの第六祷で祈るべきことの後段に、「サタンが私たちの足の下に
      踏みにじられ」が挙げられる。この後段は終末の完成を確かに見通しての
      祈りである。
      (2)では「サタンを抑制し」と言われたが、(3)では「サタンが踏みに
      じられ」となった。終末における決定的壊滅を指してのことである。
      証拠聖句ローマ16:30「……神は間もなく、サタンをあなたがたの足の
      下で打ち砕かれるでしょう。」
      下線部は諸訳での「速やかに」に傾く.遅れることなくの意。

       大教理89問に目を配れば、審判の日に、悪しき者は「……地獄に投げ
      入れられ、悪魔とその使いたちと共に、体と魂の両面にわたり、言い尽くす
      ことのできない苦悶をもって、永遠に罰せられます。」この箇所の証拠聖句
      Ⅱテサロニケ1:8,9に見える「神を認めない者や、わたしたちの主イエス
      の福音に聞き従わない者」が、本問での「悪しき者」の定義だと思う。
       終わりの日に,悪しき者は悪魔と共に,永遠に罰せられる。
      悪魔の決定的な敗北は、義人すなわち聖徒たちの不動の勝利と対比されて
                  いる。

       大教理195答「サタンが踏みにじられ」の別の証拠聖句ゼカリヤ3:2に
      注目したい。「主の御使いはサタンに言った。『サタンよ、主はおまえを
      責められる。……』」なお続く3:3は「また、御使いはヨシュアに言った。
      『わたしはお前の罪を取り去った。晴れ着を着せて貰いなさい。』」
      何たる対比であろうか。

       悪魔/サタンの客観的実在と人格性とを信じる者にして初めて,霊の戦い
      に勝利することができる。この勝利は活けるキリストの力による。

     【付】ウエストミンスター信条での悪魔
       ウエストミンスター信条で devil が用いられるのは、3例のみ。
      いずれの例でも「悪魔」と訳される。
      ●大教理89 審判の日に悪魔は永遠に罰せられる。上記6.(3)で触れた
       とおり。
      ●大教理105 第一戒で禁じられていることの一つとして「すべて悪魔と
       同盟したり、相談したり、その提言に耳を貸したりすること」が挙げられ
       る。(宮﨑訳)「耳を貸したり」の証拠聖句 使徒5:3では、「サタン
       に心を奪われ」。
      ●大教理192 主の祈りの第三祷にあたり認めるべきことの一つに挙げられ
       るのが「肉の欲すること,悪魔の意図することを行う方向性に完全に
       染まっている者であること」(宮﨑訳)である。
        悪魔の意図することは、すなわち私たちを神から引き剥がし,完全に
       引き離して自分の支配下に引きずり込もうとするたくらみにほかならない
       い。
        ここでも、「肉の欲すること」と「悪魔の意図すること」が単なる
       並列の域を超えて,合体していることに注目したい。
        大教理195では、サタンと世と肉の一体を見た。同じ195で、肉と
       サタンが一息で言われていることを目にした。
        192と195を併せて読めば、サタンと悪魔が瓦換可能であることが
       見えてくる。ちなみに、告白1:1で諸訳が「肉の腐敗とサタンとこの世
       の敵意」とするところを、改革派委員会訳は「肉の腐敗と悪魔や世の
       敵意」と言い表している。「悪魔」とする訳本は他にもある。

        1954年版『讃美歌』を一覧すれば、驚くことに「サタン」の用例
       は無かった。頻出するのは「悪魔」「あくま」である。
         27, 112, 150, 158, 198, 255, 267, 281, 382, 387, 397,
                           408, 528
                        日曜学校で歌ったものに「わたしはちいさいひ」がある。
        (1965年初版『ふくいん子どもさんびか』86番)その3節は、
          あくまがふいても ひかりましょう
          あくまがふいても ひかりましょう
          ひかれ ひかれ ひかれ
        日本の教会は、新約聖書で一貫して用いられている「悪魔」を、
       讃美歌でももっぱら使ったようだ。もっとも、明治21年の
       『新撰讃美歌』では、全274曲中、70, 79, 133の3曲に「サタン」の
       用例が見られる。



       

       
             




   

   

   
   





  

  



稲

2018年7月30日月曜日

「ICS軽井沢文庫だより」第17号

『ICS軽井沢文庫だより』創刊2周年

宮﨑彌男

 

近くで咲いたあじさい
先日(7月8日)、長野佐久教会(佐久会堂)で、説教奉仕を依頼され、「信仰によるアブラハムの生涯」と題して、新約聖書のヘブライ人への手紙11:8~12からお話をしました。その時に教えられたことなのですが、アブラハムは75才の時に,「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて,私が示す地に行きなさい」という神の(召しの)声を聞き、「主の御言葉に従って」カナンの地へと「行き先も知らずに出て行きました」(創世記12:1~4、ヘブライ人への手紙11:8)。これが信仰によるアブラハムの生涯の出発点となりました。75才の時です。このことを知ったとき、私は、「えっ!」と叫びそうになりました。私も、2年前の6月14日、75才の時に「ICS軽井沢文庫だより」第1号を出し、当日付で「ICS軽井沢文庫」をオープンさせたからです。このことにつきましては、ぜひこのブログのラベル欄「ICS軽井沢文庫だより」第一号をクリックして、ごらん下さい。そこに、この文庫の開設に到る経緯と、この文庫の趣旨等が記されています。
ICS軽井沢文庫
「信仰者の父」と呼ばれるアブラハムと、一介の小さなキリストの僕にしか過ぎない私とを比べるのは、おこがましいことかも知れませんが、私も、2年前、75才の時に、「行き先も知らずに」信仰によって文庫を始めたことは確かなのです。ハレルヤ!
 この第1号で私は、「この『たより』はこれからも、当面月1回を目処に出したいと願っています」と記しています。2年ばかり経った今、17号まで出すことができたのですから、まあまあの実績ではないでしょうか。皆様方の祈りとご協力のおかげと感謝しています。
 しかし、そうは言うものの、今年に入ってからは、1/22(14号)、3/9(15号)、5/24(16号)、8/1(17号)の4号のみで、ほぼ2か月に1度のペースになってしまっています。「文庫だより」にしては、いささか高度な?内容にこだわり過ぎたのかも知れません。そこで、今後は、初めに戻って、「『文庫』に関する情報のみならず、私や家内の身辺の出来事なども適宜報告させていただきますので、気軽にお読み下さい」(第1号)。神学的/哲学的エッセイ風のもの、翻訳、書評等を含めることを願っていますが、報告だけでも、月初めには、ブログ更新を行うようにしたいと思っています。
 それで、ちょっとしたルール作りなのですが、
 ①原則として、メールによる更新通知は行わず、毎月1日付けで更新します。
 ②お申し込み下さった方には、“メール会員”登録をし、メールによる更新通知をするか、(メールアドレスのない方には)「文庫だより」を毎月郵送します。
 ③私の一存で、メールによる更新通知を差し上げることがありますが、その場合は、“メール会員”登録はしません。(但し、不要の場合はお知らせ下さい)。
 ④郵送料等のため、有志による献金を受け付けます。
 以上。
 このような形で、文庫活動が一歩前進することを願っています。Soli Deo Gloria!

「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源ととなるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、わなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る』。アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった」(創世記12:1~4)。

【6~7月の活動報告】


マタイ6:29-30
6月6日(水) 信州神学研究会、於・ICS軽井沢文庫・会議室。出席者:長田秀夫、牧野信成、中山仰、宮﨑彌男。昼食後、宮﨑が「共通恩恵の実践的意義」と題して、発題。
6月10日(日) 長野佐久教会(佐久会堂)にて説教奉仕(ヘブライ11:4~7)。
6月12日(火)~13日(水)  日本キリスト改革派教会大会役員修養会に部分出席。於・豊橋市・ホテルシーパレス。会場で『キリスト者の世界観』を販売。30冊完売。
6月17日(日) 山梨栄光教会にて説教奉仕(ヘブライ11:1~4)。
7月8日(日) 長野佐久教会(佐久会堂)にて説教奉仕(ヘブライ11:8~12)。
7月16日(月・祝) 日本カルヴィニスト協会年次総会/講演会にて講演奉仕。「ウォルタース『キリスト者の世界観』(増補改訂版)の魅力」。於・神戸市・神港教会。『キリスト者の世界観』(総計)33冊を販売。以下に、当日の講演レジメ(改訂版)を掲載します。



【講演レジメ】「ウォルタース『キリスト者の世界観』の魅力」
(2018年7月16日、日本カルヴィニスト協会)
                            
序
・本書の三つのキーワード(基本テーマ)を解説することを通して、この本の魅力を伝えたい。更に,今回の「増補改訂版」において、ウォルタース&ゴヒーンの共著として付け加えられた「あとがき」によって、世界観と伝道の関係を探りたい。

Ⅰ創造の回復としてのあがない。
・本書の構成との関連で。一般の読者には、4章「あがない」から読むことを勧めている。しかし、この本の真の価値は、創造論から説き起こし、創造の回復として救い(あがない)を語っている点にある。「救い、あるいは贖いを創造論的に理解している」(『カルヴァンとカルヴィニズム』p.111)。
・「恩寵は自然を廃棄せず、完成する」(トマス)→「恩寵は自然を回復する」(H.バフィンク)。これこそが改革主義的思想の真骨頂。Cf. G.スパイクマン『改革主義神学―教義学のための新しいパラダイム』「プロレゴメナ(最初に言われるべきこと)は創造と共に与えられた神の世界に向けての“原初の言葉”に根ざすものでなければならない。…このような神の創造の定め(creation order)についての聖書の教えを土台とするのでなければ,改革派神学はその根元から崩れてしまう」(p.40)。それほどに、改革派神学/哲学において創造論は重要だとの主張。
・ウォルタースは、この“創造の回復としての救い”を終末論的にも展開し、今の時代の文化的業績/遺産をも視野におく積極的な終末論を志向する(『キリスト者の世界観』pp.79-81,Cf. RCJ「終末の希望についての信仰の宣言」四の(四))。この点は、本日のメインテーマ「現代と終末論」との関わりにおいても重要と思われる。

Ⅱ構造性と方向性 
・構造性と方向性は、カルヴァンの言う二つの秩序(「創造の秩序」と「罪とあがないの秩序」)に対応している。
・構造性(structure)とは、…「すべての事物の創造に基づく恒常的な構成、あるいは、あるものを本当にそのものたらしめる本性」で、「創造の法、すなわち、多種多様な被造物の性質を成り立たせる神の創造の定めに根ざすものである」(p.95)。
・方向性(direction)とは…「神に従うか、神に逆らうか,の二つの傾向性」であって、「一方では、堕落による被造世界のゆがみやひずみ、他方では、キリストにある被造物のあがないと回復を指している」(同頁)
・ウォルタースは、第五章「構造性と方向性をわきまえる」において、改革、社会的更新、攻撃性、霊の賜物、性、ダンス等、今日のキリスト者が直面する具体的な問題を取り上げ、構造性と方向性の両面から考えることによって、聖書的・世界観的に健全な取り組みが可能になることを例証している。例えば、攻撃性(aggression)は、構造的には、「神の創造による人間性の一部」であって、「良いディスカッション、健全な競り合いやゲーム、積極的なリーダーシップの発揮、恋人の追求、さらには、愛の交わりにおいてすら攻撃性の要素は本来的に必要なものだ」が、方向性において、「憎しみを伴う攻撃性は、創造者によって与えられた良い賜物の歪曲」となる、とのクリスチャン心理学者(H.ヴァン・ベルレ)の所説を紹介している」(pp.155-156)。

Ⅲ聖俗二元論の克服
・聖俗二元論…聖書における「世」=「まだあがなわれていない生の全体のことであって、それはキリストの外にあって,罪に支配されている」(リダボス)。Cf.ヤコブ4:4。多くのキリスト者が、「世」を被造世界のある限定された領域のみを指すものと理解してきた。すなわち、通常「世俗的」「セキュラー」と呼ばれる領域―芸術、政治、学問(但し,神学は除く)、ジャーナリズム、スポーツ、ビジネス等の分野。これに対して「聖」なる領域…基本的には、教会と、個人的な信仰生活、「聖神学」より成る領域(p.103)。
・ウォルタースは、キリスト者の陥りやすい聖俗二元論を、古代教会のグノーシス主義と同根の「非常に大きな間違い」と述べている(同頁)。
・図A-C(pp.125-126)…私たちが生かされている世界を領域的に図示。
図B…聖俗二元論的な世界観。聖と俗を上下の縦方向に区別する。聖…上から教会、聖神学etc.。その下に分岐線が入る。線の下が俗…世界、社会、哲学etc.。
図C…改革主義的キリスト者の世界観。横方向に聖と俗を位置づける。間に亀裂のギザギザ線。左側のすべてが主のもの。主の世界。ここにおいても、先導的機能(leading function)と基礎的機能(foundational function)の順位的区別はある。上にあるものを求めると同時に、地にあるものへの責任(down-to-earth responsibility)も求められる。

Ⅳ世界観と伝道
・世界観の役割…「福音の力を今日における教会の生活に媒介する働き」。自動車のギア装置(エンジンの回転力→ギア→車を動かす)、あるいは、水道管(水源地→水道→各家庭の生活用水)のようなもの(p.209)。
・聖書物語(福音)→世界観→伝道…「教会が宣教の使命を果たすために、福音についての思索が必要なことは常に自覚されてきました。福音に対して忠実であることは,単に聖書の言葉を繰り返し唱えることに尽きるものではありません…このように、現代という時代の要請に応えるために、創造・堕落・あがないの基本的カテゴリにおいて福音を考えることは、教会の恒常的な使命に属することなのです」(pp.208-209)

結語


  私たちは,聖書と伝道(教会形成)を媒介するものとして、信条とカテキズムの重要性を認識してきた。このことに変わりはないが、今後は,これに加え、現代という時代の要請に応えるために,“世界観教育”(ワールドビュウ・カテキズム) が必要である。本書の注意深い学びは、間違いなくそのための第一歩となり、聖霊の主権的なお働きと相俟って、今日の教会に霊的更新をもたらす。

※なお、東京キリスト教学園理事長、廣瀬薫氏による本書の書評が『本のひろば』2018年8月号に掲載されました。好意的かつ適切な書評を公にしてくださり、感謝しています。ぜひご参照ください。



【「ICS軽井沢文庫だより」の印刷のために】「ICS軽井沢文庫」を開き、ラベル「ICS軽井沢文庫だより」第17号を選択します。次にパソコン右上のオプション設定のマーク(縦3つ)をクリック、印刷を選択する。左欄のオプションを両面印刷にし、詳細設定の中の倍率を150、背景のグラフィックもオンにしてください。印刷ボタンを押すと OKです。同様に、他のすべてのラベルも、選択して、印刷することができます。


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2018年5月24日木曜日

「ICS軽井沢文庫だより」NO.16

“二刀流”の伝道者(3)

宮﨑彌男


 前回、「ICS軽井沢文庫だより」(第15号)を公開したのは、3月9日でしたので、それから、2ヶ月以上も経ちました。待っていて下さった方には(そういう人がおられればの話ですが)、どうしているのだろうかと思われたかも知れません。言い訳になるかもしれませんが、4月10日にA・ウォルタース著『キリスト者の世界観―創造の回復』(増補改訂版/拙訳)がいよいよ出版の運びとなり、すでに書店に出回っているのですが、300冊を訳者である私が窓口となって売りさばくことになったものですから、そのことで、結構走り回っていた?のです。おかげさまで、もうすでに、100冊ばかりは、買っていただいたり、予約していただいたりしました。ちなみに、このルートで購入されますと、(割引価格) 税込み 1700円で購入できますので、私の方にお申し込み下さい。すぐにお送りします。

(A・ウォルタース著『キリスト者の世界観―創造の回復』[増補改訂版])
 
『キリスト者の世界観』
(増補改訂版)
初めから宣伝のような話になってしまいましたが、実は、この訳書の出版は、私の「“二刀流”伝道者」と決して無関係ではないのです。このことは、すでに「ICS軽井沢文庫だより」第14号「“二刀流”の伝道者」で、この本の初版の出版の意義について、次のように記していることからもおわかりいただけると思います。「…ただ、そのような中で、熊本伝道所時代に、九州連合青年会を指導する中で、A.ウォルタースの名著『キリスト者の世界観―創造の回復―』を翻訳・出版できたことは感謝でした。この書物は好評で、第二刷まで売り切れ、現在第二版(増補改訂版)の出版を準備中です。この訳書を読んだ人の多くが、キリスト教信仰による人生観・世界観が飛躍的に広げられ深められた、と喜んでおられます。」
 ここに記した最後の文章は本当です。この書は、キリスト者の「ものの見方」(世界観)を変える不思議な力を持っています。多くの読者から、私はこのことを聞きました。もちろん、私自身もそのひとりです。自分の訳した本を、出版後、改めて読み返してみて、神の創造とあがないの広さ深さに感動の涙を禁じ得なかったことを思い出します(特に第4章など)。
 私たちは、ふつう、教会で聖書のお話を聞いたり、キリスト教教理の勉強をしたりします。しかし、私たちにとって “毎日が日曜日” なわけではありません。教会で聞いたり教えられたりした(インプットされた)「神の言葉」を「行う」(アウトプットする)生活現場は、教会だけではなく、家庭であり、職場であり、学校であり、諸々の社会生活であるはずです。そのような生活の現場で、どのように神の言葉に従い、シャローム(平和)を実現しようとするのか、この本は、私たちの、そういったニードに応えるべく、懇切丁寧に、聖書に従って、案内役をつとめてくれます。そういう意味では、この本は、正に、“二刀流”伝道の指南書ともいうべき、神からの贈り物です。この本を、個人として、教会として、また、色々のグループ等で読んで下さればいいなと思っています。私が家内と共に通っている長野佐久教会(佐久会堂)でも、牧野信成牧師の発意で、毎週水曜朝の祈祷会で学んでいます。https://rcjnaganosaku.jimdo.com

(私にとっての「有神的人生観世界観」ー実践的時間論ー)

 さて、“二刀流”伝道の指南書としてのA・ウォルタース著『キリスト者の世界観―創造の回復』の紹介をしましたが、この辺で、前回からの宿題になっていました、第一刀「有神的(神が共におられる)人生観世界観」を私がどのように用いているかをご紹介します。
 正直言って、これなしには、私の毎日の生活はあり得ません。「有神的人生観世界観」という刀、これなしには、私は一日たりとも生活できない。これは、私の実感です。こういう風に言いますと、私の、日頃のぐうたらな生活ぶりを知っている人たちは、「おいおい、無理しなくてもいいよ」と言われそうです。でも、私は、何も気負ってこう言っているのではありません。「有神的人生観世界観」というこの一刀なしには、私は、一瞬たりとも生きられないのです。キリストにあがなわれたクリスチャンならば、皆同じように言うはずです。
 なぜかと言えば、クリスチャンは、毎日与えられている時間を神の恵みの「時」として捉えているからです。有神的人生観世界観で「時間」をどのように考えているかについて、「ICS軽井沢文庫だより」の11号でも少し触れたことはあるのですが、改めてこのたび、G. スパイクマンの『改革主義神学ー教義学のための新しいパラダイム』を読み直して見て、時間と創造/摂理の関係について、かなり説得的な議論がなされていることを知りました。まとまった紹介はまたの機会に譲るとして、スパイクマンは、時間が「神の創造によるもの」であり、それ故に、「神のしもべ」である、とはっきりと語っています(注1)。もし、神の創造と摂理の御業の全体も神の恵みの御業と考えるならば、(私は最近、共通恩恵論を学ぶ中でそのように考えるようになってきていますが)、時間も神の恵みによって私たちに与えられたものであるに違いありません。
御影用水
また、私がトロントで師事した、H. ハート先生からは、「時間とは、被造物が神の宇宙的法(Cosmic Law)に応答する継続的関係性」である(旧約聖書コヘレトの言葉12:13、イザヤ書55:12等参照) と教えられ、これは、日本伝道に益する、得がたい洞察だと深く心に留めました。また、東京基督教大学でキリスト教哲学を教えておられる稲垣久和先生は、ここで言う「宇宙的法」を「宇宙論的(コスモロジカル)な法構造」と呼び、「宗教的根源に接した自我」と共に、その「超越論的解釈学」の二本柱(「超越論的ア・プリオリ」)の一つとしておられます(注2)。
 ここで、神の律法について、「宇宙的法」(Cosmic Law)とか「宇宙論的(コスモロジカル)な法構造」と言い表されているところに注意を向けてください。この場合の「宇宙」(cosmos)とは、宇宙工学等で言う「宇宙」のことではなく(もちろんそれも含まれますが)、聖書の言葉で言えば、「天地万物」(創世記2:1)、「世界とその中の万物」(使徒言行録17:24)で、そこには、神に造られた「見えるもの、見えないもの」の一切が含まれています(コロサイ1:16)。『キリスト者の世界観―創造の回復』の「あとがき」では、「全包括的」と言い換えています。「…福音はその拡がりにおいて全包括的です。イエスの宣べ伝えた福音はイエスの宇宙的王権の福音です」(180頁)。
 きょう届いた JAF Mate 6月号の表紙に、“地球のこと、考えてみない?”とありました。何だかわくわくするようなキャッチフレーズではありませんか。ましてや、“宇宙のこと、考えてみませんか?”と、イエス様から誘われたら、わくわくしませんか。
 私たちは、神の律法の支配領域を、ともすれば、狭く考えがちです。けれども、神によって造られた世界の全体が全包括的な「神の法」に服しており、それは、原子の構造や太陽系の運行、植物の生活周期、ビーバーの建築本能といった自然科学の対象となるような事柄だけではなく、社会学、美学、政治学、経済学といった人文・社会科学関係の分野にも生きた「規範」として関わりを持っているのです。「神の定めはさまざまな社会組織、芸術の世界、ビジネスや商業にも及んでおり…結婚や国家についても聖書の教えがあり…教育や育児の分野においても…さらには、人間の情緒や性も規範を欠くものではありません。また、議論する場合には、思考の法則があり、話をする場合には言語上の原理に従っており、すべては神のお与え下さった法に服しているのです」(上掲『キリスト者の世界観』46~50頁)。
 このような、全包括的な神の律法を信じ、これに従って生きようとするならば、神の恵みとしての時間は、一日、一週間、一ヶ月、一ヶ年に亘る私たちの生活時間の全体と重なるものとなります。私たちは、かくして、全時間、全日を神の恵みの時間として、神に生かされ、神と人に仕えつつ生きることとなるのです。
 スパイクマンは、上記の書物で、時間を神の主権的な創造による「神のしもべ」と主張していますが、創世記1,2章の記述に従って、「創造時間」 creating time と「被造時間」created time とに区別しています。前者は、創世記第1章の、「六日間」に亘る神の創造時間であって、私たち人間が関与することのできないものです。それに対して、2:1に記されている「第七の日」以降、終末に至るまでの後者、すなわち「被造時間」は、言わば歴史的な時間で、私たち人間にも主体的な関わりが求められている時間です。従って、前者については、「一日」が、今日のカレンダー的な数え方でどのくらいの時間なのかは分からないのですが、後者の「被造時間」については、(第六の日が終わってから)今日まで続いているのですから、私たちが今日のカレンダー的な「年月日」を用いて管理することが、許されているどころか、求められてさえいるのです(注3)。

(有神的人生観世界観に基づくライフプラン)

 
庭の九輪草
もしそうであるならば、「ICS軽井沢文庫だより」11号で示した有神的人生観世界観に基づく私のライフプランは、基本的に、聖書の教えに適っていると言えるのかも知れません。大変勇気づけられます。
 昨年7月で私は76才になり、一般的に言うならば、「後期高齢者」の仲間入りです。私は、信仰的な観点から、家内と共にライフプランを考えました。私としては、「ICS軽井沢文庫」の育成を引退教師としての主たる仕事にしたいとの召命感に基づいて、向こう3年間の計画を立てたわけです。今一度、第11号の「時を生かして」をご参照いただければ幸いです。
 3年の時間をそのために主からいただいている。感謝である。。日数としては、(安息日を除いて)939日、時間数としては、1日8時間労働で、7512時間。これを「生かして用いるならば」3年がかりで一つの仕事が出来るのではないか。このような、一個のライフプランを作ったのです。今ベストセラーとなっている楠木新著『定年後ー50歳からの生き方、終わり方』(中公新書)に触発されて、自分の生き方、時間の用い方を考えてのことでした。
 それから10ヶ月が経った今、振り返って検証してみますと、総じて、このようなライフプランを立てて励んできたことは良かった、と思っています(箴言21:5)。どれだけの「成果」を上げ得たかとなれば、「遅々として進まず」で、心許ないのですが、それでも、率直に言って、このようなライフプランなしには、一瞬たりともここで生きることができなかったのではないか、と思っているのです(注4)。そういう意味では、神の恵みによって与えられた時間をこそわが人生とする、このようなライフプランは、私にとってなくてはならないものでありました。前回記した近隣諸教会での説教奉仕と共に、これからも、間違いなく、“二刀流”伝道の尊い一刀であり続けることでしょう。
 
(注1)「空間や他のすべての神に造られた実在と同様、時間や歴史も、その本質的なところにおいては、神の創造によるものである。(そして)それ故、神の言葉によって存在を許され、継続的に保持されているという意味においては、神のしもべなのである」(Reformational Theology--A New Paradigm for Doing Dogmatics、p. 268)。

(注2) 『哲学的神学と現代』(1997年、ヨルダン社)39頁、『知と信の構造ー科学と宗教のコスモロジー』(1993年、同社)298頁。

(注3) 歴史の終局(終末の日)がいつ来るのかは、私たちに知らされてはいません(マルコ13:32等)。しかし、イエス様は、終末における御自身の再臨に備え、目を覚まして仕事をしている家令のことを「忠実で賢い管理人」と呼んでおられます(ルカ12:35-48)。

(注4) 言うまでもなく、このような有神的なライフプランによる「仕事」は成果主義ではありません。私たちは、「仕事」の時間を、上記のように、神の恵みの賜物として捉えていますので(ヤコブ4:13-15)、この3年間でどのくらい目標を達成できるかは、主に委ねるほかありません。

「時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです」
  (エフェソ信徒への手紙5章17節)
「ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう」
  (ガラテアの信徒への手紙6章10節)

【「ICS軽井沢文庫だより」の印刷のために】

「ICS軽井沢文庫」を開き、ラベル「ICS軽井沢文庫だより」第16号を選択します。次にパソコン右上のオプション設定のマーク(縦3つ)をクリック、印刷を選択する。左欄のオプションを両面印刷にし、詳細設定の中の倍率を150、背景のグラフィックもオンにしてください。印刷ボタンを押すと OKです。同様に、他のすべてのラベルも、選択して、印刷することができます。


【連絡先】

〒389-0115長野県北佐久郡軽井沢町追分36-23 宮﨑彌男・淳子

Tel/Fax 0267-31-6303、(携帯) 080-3608-3769

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2018年3月9日金曜日

「ICS軽井沢文庫だより」NO.15

“二刀流”の伝道者(2)

宮﨑彌男


 前回の「ICS軽井沢文庫だより」では、「“二刀流”の伝道」について書きました。「“二刀流”の伝道」とは、日本キリスト改革派教会が、その創立宣言(1946年)において掲げた(1)有神的人生観世界観の確立と、(2)信仰告白・教会政治・善い生活において一つである聖書的教会の樹立、を目的とする福音伝道です。
 現役時代、両刀をかざしながらも、その「調和」を体得できず、十分な力を発揮できなかったのではないだろうかと、その反省も記しました。また、引退後、定住代理宣教教師として奉仕した、“第二次”熊本伝道(2012年4月~2014年6月)で、初めて、“二刀流”伝道の「こつ」がわかり始めてきたということも、最後に記しました。
 軽井沢に引き上げてきましてから、すでに3年半になります。その間、引退教師としてではあるけれども、“二刀流”の技をどのように磨いてきたのか、今日は、前回の続きとして、先ずは、両刀の内、上記(2)の一刀をどのように用いているのか、振り返って見たいと思います。

(引退教師としての説教奉仕)
 幸いなことに、ここ3年ばかりの間、平均月2回ばかり、新潟、宇都宮、長野、佐久等、近隣の改革派諸教会で説教奉仕を依頼され、出張伝道する機会が与えられました。これは、引退教師にとっては、老化防止のためにも、大変ありがたいことです。また、教会の側でも、特に定住の牧師を欠く“無牧”の教会にとっては、嬉しいことなのだと思います。そんなわけで、私も、月1,2回、力を込めて講壇の奉仕をさせていただいているところです。
 心がけていることは、次の三つです。 
 1)神の言葉を取り次ぐこと。
 そのために、聖書のテキストに密着した話しの構成と語り口を心がけています。もちろん、説教は、神の言葉(Ⅰテサロニケ2:13、第二スイス信仰告白第1章)であると同時に、人の言葉でなされるのですから、説教者の好みや経験、思想的傾向が反映されないわけではありません。しかし、人を救うのは、人間の知恵や知識ではなく、天より啓示された神の言葉ですから、神の霊感を受けた聖書のテキストに密着しつつ語ることが大切と考えています。ですから、聞く側としても、説教を聞いた後で、自分でその聖書箇所を再読し、説教で聞いたことが聖書の教えと合致していることを確かめるようしていただければ、最高ですね(使徒17:11参照)。 
 2)説教者と会衆(礼拝参加者)ー主にある交わりの中でー
 説教者から会衆へという一方通行ではなく、礼拝に集ってこられた方々と対話するような姿勢で御言葉の説き明かしができるようにと心がけています。キリスト教会の良い伝統の一つに、礼拝の中で説教者と会衆が交わす相互祝福の挨拶があります。説教者(または司式者)が「主があなたがたと共にいてくださいますように」と呼びかけますと、会衆は声を合わせて「主があなたを祝福してくださいますように」と応えるのです(ルツ記2:4参照)。こういった主にある交わりの中で御言葉が説き明かされるときに、御言葉はふさわしい実を結ぶのです。
 それで、「ウェストミンスター大教理問答」でも、説教に召された者のための指針(問159)と共に、説教を聞く者のための指針(問160)を書き加えているのです(注)。 
 3)公同の礼拝にふさわしく。
佐久会堂
教会や学校、家庭等においてささげられている幾多の礼拝の中で、日曜日(主の日)に教会でささげられる礼拝は、特に「公同礼拝」と呼ばれています。これは、英語で言えば、Public Worship Serviceで、「すべての人に開かれた礼拝」を意味しています。ですから、この公同礼拝でなされる説教は、全世界に向かって語られる「公の性格」を持っているということになります。この点において、公同礼拝における教会の説教は、上記(1)の「有神的人生観世界観の確立」という改革派教会の目的と合致しているのです。
 ただ、説教には、もう一方で、「その地方の、その教会に対する説教」というローカルな面もあります。説教者は、自分が奉仕するその教会の礼拝に集ってくる一人一人を心に思い浮かべながら、そのニードに応える説教を準備します。それ以外ではありません。上記「ウェストミンスター大教理問答」問159でも、説教者がいつも「聞く者の身になって、その必要としていることと理解力とに気を配り、知恵を働かせて」神の言葉を語らなければならない、と教えています。
 このように、公同礼拝での説教には、「全世界に向かって」という面と、「この礼拝に集まって来られた人々のために」という両面があるのです。そして、幸いなことに、この両者は決して矛盾せず、一つの説教の二つの面なのです。今はやりの言葉で言えば「グローカル」な性格を持っているのが私たちの礼拝説教なのです。グローバルとローカル、正に“二刀流”の説教です。

(「ウェストミンスター大教理問答」による学習会) 
 イエス・キリストの伝道方法は、「教え」と「説教」と「癒し」の三本立てでした(マタイ4:23、9:35)。とても現実的な伝道方法です。一方的に「説教する」だけでは、教会は建たない。神様の御言葉という権威をもって「宣べ伝える」、と同時に、膝と膝をつき合わせて「教える」教会教育がなければなりません。また、どの町にも教会にも、病気等で苦しんでいる人がいます。福音と「癒し」は決して別ものではありません。
 それで、どこの教会にも、礼拝と教会学校があるのですが、多くの場合、教会学校は子供たちのためだけのプログラムとなっています。すべての年代層に対する教会教育が必要です。私は、熊本“第二次”伝道では、礼拝後の “ティータイム” を「教理セッション」と名付けて、教理問答の学びをするようにしました。今でも、熊本では、後任の先生に引き継がれているようで、感謝しています。テレビやインターネットで情報を得ている今の時代の人々が、教会では、「教理の学び」に少しでも楽しんで欲しいと、名称など工夫を凝らしたつもりですが、果たしてどうでしょうか。
 新潟伝道所では、説教に行く度に、昼食後1時間半の学習会で、「ウェストミンスター大教理問答」を学びました。キリスト教の信仰や生活のことについて共に語り合い分かち合う、良い交わりの時ともなりました。また、佐久の教会では、毎月第3主日の午後、やはり「ウェストミンスター大教理問答」の学習会を担当させていただきました。今は、新しく赴任された牧野信成牧師による学習会と婦人会/男子会における『信徒の手引き』の輪読会に引き継がれています。
 なぜ説教と共に教理の学びが必要なのでしょうか。宗教改革以来、プロテスタント教会で重んじられてきた原理に、「聖書のみ」(Sola Scriptura)と、「聖書のすべて」(Scriptura tota)があります。説教では、人の言葉や思想ではなく、神の言葉を取り次ぐということで、「聖書のみ」が強調されるのに対して、教理の学びにおいては、聖書啓示の全体を視野に入れて、神、聖定(永遠のご計画)、創造、摂理、人間の罪、恵みの契約、キリスト、聖霊、教会、救いの恵み、死と復活、審判、神の律法、恵みの手段(御言葉、礼典、祈り)など、私たちの信仰と生活に関わる大切な教えを学びますので、「聖書のすべて」が強調されるのです。このように申しますと、教理の学びは難しいことのように思われるかも知れませんが、一言で言えば、「イエス・キリストは主である」という、初代教会以来の信仰告白を今の時代の私たちが聖書全体から読み取る以外のことではないのです。そういう意味では、心躍る福音の学びです。
 
 以上は、“二刀流”伝道者として今用いている”第二刀”(「信仰告白・教会政治・善い生活において一つである聖書的教会の樹立」)に関わることです。次号では、引退教師としての私が左手に握った”第一刀”(「有神的人生観世界観の確立」)を、どのように錬磨し使用しつつあるのか、お分かちできればと願っています。

(注)
「ウエストミンスター大教理問答」
 問159 神の言葉は、その職務に召された者によって、どのように説教されなければ なりませんか。
 答 御言葉の宣教に努めるように召された者は、次のようにして健全な教えを説教しなければなりません。 折が良くても悪くても、熱心に。人を惹きつけようとする人間の知恵の言葉によらず、御霊と力との立証によって、はっきりと。神の御計画を余すところなく告げて、忠実に。聞く者の身になって、その必要としていることと理解力とに気を配り、知恵を働かせて。神と神の民の魂への燃えるような愛をもって、ひたむきに。神の栄光ならびに神の民の回心と育成と救いとを目指し、心を打ち込んで。
  
  問160 説教される御言葉を聞く者には、何が求められていますか。
  答  説教される御言葉を聞く者には、次のことが求められています。すなわち、注意力と準備と祈りとをもってこれに傾聴すること。聞くことを聖書によって確かめること。信仰・愛・素直さ・気構えをもって真理を神の言葉として受け入れること。説教される御言葉を瞑想し、それをめぐって語り合うこと。説教される御言葉を心に蓄え、自分の生活の中で実を結ばせること。

「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。」(テサロニケの信徒への手紙一2章13節)


【ラベル「平昌オリンピックに見る“二刀流”の勝利」もごらん下さい】

【A・ウォルタース著、宮﨑彌男訳『キリスト者の世界観―創造の回復』(増補改訂版)の出版について】
教文館出版部から、4月初めに発行予定です。ご期待下さい。この度の増補改訂版では、初版の訳文を、より正確で読み易く改訳すると共に、「物語と宣教を媒介する世界観」と題してゴヒーン&ウォルタースが新たに執筆した「あとがき」(原著で24頁)を加え、「増補改訂版」として出版するものです。単なる再版ではなく、新しい本として出版しますので、既に、初版を読んだ方も、ぜひもう一度購入して、読み直していただければ幸いです。

【「思想とキリスト教研究会」の講演会に出席】

 2月26日(月)午後、東京恩寵教会で開催された「思想とキリスト教研究会」の講演会に出席する機会を得ました。講師は、東京基督教大学准教授の加藤喜之氏で、「改革派と初期啓蒙思想:スピノザという問題」という題で、興味深い講演をしてくださいました。加藤先生は日本長老教会の会員ですが、音楽と哲学を専攻された学生時代(テキサス大学)よりスピノザとその時代の神学/哲学について学んで来られた方です。講演の中で印象に残っていますのは、神学がわかっていないと、かの時代の哲学思想は正しく理解できないのではないか、と言われたことです。キリスト教学(神学、哲学、諸学)の重要性について、改めて覚えさせられたひとときでした。

【石丸新先生による研究ノート「ウ大教理問答の洗礼論」】
右欄のラベル「ウ大教理問答の洗礼論」を選択してお読み下さい。ウ大教理問答165、ウ小教理94、ウ信仰告白第28章において、洗礼の中心的な意義として、「キリストと接ぎ木されること」が教えられていますが、そこでは、名詞「接ぎ木」(ingraftment)ではなく、動名詞「接ぎ木されること」(ingrafting)が用いられています。石丸先生はこのことに注目し、「ここでも、キリストへと接ぎ木され、キリストの命を受けて新しく活かされるという恵みの躍動が描き出されている」とコメントしておられます。洗礼を受けたものは、このような生命的な絆でキリストと結び合わされているのですね。ハレルヤ!

【『ホ・ロゴス』Vol.20.No.4】
 この度、「それでは如何に生きるべき会」(ロゴス会)の機関誌『ホ・ロゴス』の最新号に、私の「キリストの王権にひれ伏すーICS50周年に当たって」が掲載されました。この機関誌を発行している「それでは如何に生きるべき会」(ロゴス会)は、「キリスト教世界観を日本に確立し、人類の全領域にそれを適応するための学びと交わりを深める」ことを主な目的としている会です。問い合わせは、ロゴス会事務局(〒206-0025 多摩市永山5-34-15-2 山川暁方)まで。

【「ICS軽井沢文庫だより」の印刷のために】

「ICS軽井沢文庫」を開き、ラベル「ICS軽井沢文庫だより」第15号を選択します。次にパソコン右上のオプション設定のマーク(縦3つ)をクリック、印刷を選択する。左欄のオプションを両面印刷にし、詳細設定の中の倍率を150、背景のグラフィックもオンにしてください。印刷ボタンを押すと OKです。同様に、他のすべてのラベルも、選択して、印刷することができます。


【連絡先】

〒389-0115長野県北佐久郡軽井沢町追分36-23 宮﨑彌男・淳子

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「平昌オリンピックに見る“二刀流”の勝利」

【平昌オリンピックに見る”二刀流”の勝利】’宮﨑彌男

平昌冬季オリンピックが閉幕しましたが、日本選手団は金4、銀5、銅4、計13のメダルを授与され、意気揚々と故郷に凱旋してきました。今回の冬季オリンピック、いつになく、日本選手のここ一番に力を発揮する「精神力」に感動させられたのではないでしょうか。でも、それだけではなかったのです。
 私は、家内が関西の方に行っていた留守中、一人で食事をしながら見ることが多かったのですが、特に、男子フィギュアの羽生結弦と女子スピードスケートの小平奈緒が優勝したときには、ヤッタと思いました。羽生は、怪我がまだ治りきらない「満身創痍」の状態で、4回転ジャンプを何度も決めて、金メダルに輝きました。長野県出身の小平も「選手団の主将を務めると金は取れない」と言われているジンクスを気にしながらも、オリンピックのプレッシャーに打ち勝って、優勝しました。他方、両者共に、4年間の努力が本当に報いられたと喜んでいました。
 彼らは、”真摯”(小平の言葉)な練習の積み重ねによって身につけた実力と、プレッシャーをも「味方に付けてしまう」(羽生の言葉)精神力=人間力という“二刀流”で勝利をものにしたと言うことができます。実力と精神力(=人間力)の両刀でもって初めてオリンピックという晴れの舞台で勝利することができたのです。おそらく、どちらか一刀だけで戦っていたならば、金メダルはなかったのではないでしょうか。
 私たちの生活や伝道も、普段の修練とここ一番という勝負どころ、この両刀使いで初めて勝利できるのですね。

2018年3月8日木曜日

ウエストミンスター大教理問答の洗礼論

ウエストミンスター大教理問答の洗礼論(石丸新)


1.キリストと接ぎ木されること
 洗礼の定義を下す165問では、水の洗いをもってキリストがしるしとなし、証印となし
てくださることが3点にわたって述べられている。
  ① ご自身へと接ぎ木してくださること
  ② ご自身の血による罪の赦しと御自身の聖霊による再生
  ③ 子とすることと永遠のいのちへの復活
 冒頭に置かれていることからも分かるとおり、キリストへと接ぎ木されることingraftingは限りなく重い。
 ② の赦し remission および再生 regeneration、③ の子とすること adoption および復活 resurrection がいずれも ーtionに終わる名詞であるのに対し、①の ingraftingが動名詞であることに注目したい。
 農業での接ぎ木を表す名詞は engraftment/ingraftmentである。
大教理165がことさらに動名詞 ingraftingをここで用いたのはなぜか。しかも177問に
再び ingraftingを重ねた意図は何であったのか。
 
 キリストとの結合(union)とは何かと問う大教理66は、答でキリストに……分離できないように結び合わされることだと言う(joined)。この結び合わされているさまが命に溢れていることを特に鮮やかに表現するのが、動名詞ingraftingだと思う。キリストが主権の
恵みをもって、この私を分離できないように、ご自身へと接ぎ木してくださる。接ぎ木されたからには決して離れることがない。引きちぎられたり引き剥がされたりすることもない。動名詞の活力を十分に読み取りたい。また、翻訳に活かしたい。
 大教理165でのingraftingをあたかもingraftmentであるかのように、ご自身への接ぎ木
とする訳が見られるが、ここはご自身へと接ぎ木してくださること(宮﨑訳)、彼に接がれたこと(岡田訳)とするのがふさわしい。
 なお、小教理94にも our ingrafting into Christ が用いられているが、ここでも、キリストへと接ぎ木され、キリストの命を受けて新しく活かされるという恵みの躍動が描き出されている。
 小教理30では、有効召命において私たちをキリストに結び合わせる聖霊の働きが言われ
ている。ここでの uniting us to Christ を、明治12年訳は「キリストに接がしむる」と言い表した。まさに、キリストへと接ぎ木してくださることに基づくキリストとの結合である。
 この意味で、ingrafting はキリストに接ぎ木されることとキリストに接ぎ木されているさまの両面を表すものと言える。

 ingrating into Christ のinto も注目に値する。このintoは、大教理165,177での証拠聖句、ガラテヤ3:27をそのままに反映している。For as many of you as have been
baptized into Christ …このinto(eis)を的確に言い表すのに、諸訳は工夫を施してきた。
 教理問答でのinto Christ を、キリストの中に、と訳したりはしない。この場合は、
キリストに接ぎ木されるよりも、キリストへと接ぎ木されるとする方が日本語らしい。intoの勢いを伝えるためにも。

 ハイデルベルク問答70では、洗礼に際し、キリストの肢(えだ)として聖別されること
が言われている。キリストの一部分(Glied)とする訳もある。 同74では、幼児もまた
洗礼によって、キリストの教会の肢とされることが言われている。キリスト教会に接ぎ木
されるとする訳もある。einverleibt…(be taken into) えだとして入れられるの訳もある。
 ウ大教理は、ずばりingrafting を用いて、事柄を明確にした。ヨハネ福音書15章にある
イエスの言明は限りなく重い。

2.子とすることのしるし
 洗礼の定義としては、ウ告白28章1節より、ウ大教理165の方が詳しい。そこでは、、水の洗いをもってキリストがしるしとなし、証印となしてくださることの一つとしてadoptionが挙げられている。しかも、キリストへと接ぎ木されることに密接に結ばれる形で子とすることが言われているのに注目したい。
 キリストへと接ぎ木されている者が、罪を赦され、再生させられた者として、神の子の身分を授けられ、地上にあって、神の子としての厚遇を受ける。ひとえに、キリストご自身
の血によること、また、キリストご自身の御霊によることである。

 ウ告白28:1で既にキリストに接ぎ木されることが挙げられていたが、子とすることへの
言及は無い。そこでは、受洗者がイエス・キリストを通して神に身をささげて新しい命の
中を歩くことが言われている。これに対応するのが大教理165での子とすることと考えることができようか。神の子の身分を授けられた者が神の子らしく「新しい命に生きる」
(証拠聖句ローマ6:4)。

 キリストへと接ぎ木されていることと、神の子とされていることの直結が、日本キリスト改革派教会創立六十周年記念「終末の希望についての信仰の宣言」に明白に述べられて
いる。
 二(三)……また主は、洗礼を通して、御自分に接ぎ木されたわたしたちが、罪に死に、
 復活の新しい命に生かされ、キリストのものとされていることを確証されます。
 二(四) わたしたちは、御霊によって、キリストにあって新しく創造され、神の子とさ
 れ御国の相続者とされています。
 なお、二(二)では既に、次のとおり言われていた。天上の復活の主キリストは、聖霊に
 よって、わたしたちを御自分へと結び合わせ、死から命へとよみがえらせ、……。
 キリストに結び合わされたこの民こそ、新しい契約の民、聖霊の神殿、来たるべき世の
力に満ちたキリストの体、キリストの花嫁である教会です。
 *上に言う「キリストに結び合わされる」ことが即ちキリストに接ぎ木されることで
  ある。

 最後の審判の日に、新しい天と地が現れ、上の国は栄光の王国として完成される。
新しいエルサレムにやって来るのは、「……栄光の神の子たち、キリストにある新しい
人類です。この神の民は、世々限りなく主と共に統治します。」(同宣言四(四)

3.洗礼の公的性格
 問165の答えに次のとおり言われる---and whereby the parties baptized are
solemnly admitted into the visible church,…
 ここのsolemnlyは従来「厳かに」、「厳粛に」と訳されてきたが、宮﨑訳では「正式に」
となった。洗礼式を支配する張りつめた厳かさ、あるいは式に漂う荘厳な空気は、事柄
にふさわしい。しかし、ここでは、洗礼による教会への入会が公式のものであることが
重要なポイントである。
 日本キリスト改革派教会『式文』洗礼式誓約に次のとおり記される。「(氏名)、あなたは、次の信仰を告白し、誓約をしなければなりません。これによって、あなたは神と
教会との厳かな契約に入れられます。」
 参考としたと思われる南長老教会版Directory for Worship では次のとおりーーー
…、 by which you enter into a solemn covenant …  ここでのsolemnは、公の、
正式の意。
 辞書によれば、solemn=宗教上の形式にのっとった〔法〕正式の
 〔例〕solemn oath 正式の誓約

 ヴォスの注意書きに注目したい…このsolemnlyは教理問答の中で「公に」とか
「公式に」という意味で使用されていることは明らかである。(ウ大教理講解〔下〕
p.82)
 問167の答に「洗礼時に行った公の誓約」(宮﨑訳)が出る。our solemn vow made
therein 諸訳では、おごそかな誓約、厳粛な誓約。この solemn vow をもって、見える
教会へと正式に(solemnly) 受け入れられる(165問)。
 洗礼の公的性格は、165答の続きから明らかに補強されているand enter into an open
and professed engagement to be wholly and only the Lord's.  openは、公の、公然
たるの意。
 professedは、誓約を伴った、誓約に基づく、誓約しての意。
 engagement は誓約、誓約に基づく関係、契約関係の意。

 問166の答……till they profess their faith in Christ and obedience to him 及び…
professing faith in Christ, and obedience to him での profess 及びprofessing は、
公に言い表す/公に言い表しているとの公的性格を描き出している。同時に165の正式に
受け入れられる、公の契約関係と響き合っている。
 辞書でprofessを引けば、「~への信仰を告白する」がもちろん出るが、それに並べて、
他動詞「教団に正式に入会させる」が記される。なお、自動詞の場合の例として「宣誓
して宗門に入る」が挙げられる。 一般の辞書から改めて教えられた。

4.洗礼を生かして用いるべき義務
 問167は次のように問う…How is our Baptism to be improved by us? 答は次のとおり始まる…The needful but much neglected duty of improving our Baptism, is…
 ここで用いられるimprove をどう記せばよいか。向上させる、改善する、改良する、
増進するが第一義だが、第二義に,、十分に[うまく]利用する、が挙げられる。すなわち、
事柄の目的にかなうように、その趣旨に合致するように、あるものを用いる、の意。
to good effect の意。望ましく、かつふさわしい用い方が、ここでは求められている。
 諸訳では、よく用いる、生かして用いる。適切に用いる、も可能か。
 同じ用法が195にも見られる。誘惑を生かして用いる、誘惑を益となるようにきよく用いる。

 洗礼は一回限りであるだけに、これを生かして用いる場が他の人の洗礼に立ち会う時であることはよく分かる。167の答が示すとおり。しかし、そこでは、他の人の洗礼への臨席に先立って、「試練の時」(誘惑)が挙げられていることに目を留めなければならない。
 試練の時にこそ、自分の受けた洗礼に立ち帰らなければならない。洗礼がすぐれて
公的なものであることに思いを致さなければならない。洗礼時に行った公の誓約を真剣に
考えなければならない。
 167の答を声に出して読むこと、事柄の重大さが身に迫ってくる。果たすべき責務の
広がりに圧倒されるばかりである。
 さらに、主の祈りの第6の祈願を扱う問195との生き生きとした関連に目と心を奪われる。そこでは、サタンの企みと魔力の現実が一枚の絵のように描き出されている。同時に、
サタンを制服する神の力と勝利とが歌い上げられている。しかも高らかに。
 167問,195問とはセットとなって、神の計らいの広がりと奥深さとを私たちに告げている。大いなる牧会書簡と言える。ウ小教理では味わえないものが、ここにある。
 167の答の証拠聖句の一つであるローマ6:3-5で、パウロはキリスト・イエスに結ばれる
ために洗礼を受けたその意義を知らないのですか、と問うている。167答原文のthe death
and resurrection of Christ into whom we are baptized のこなれた訳に到達するのは
難しい。 Rom.6:3…were beptized into Jesus Christは、さまざまな工夫を施して邦訳
されてきた。
 キリスト・イエスに合ふバプテスマ(文語訳)
     ”    あずかるバプテスマ(口語訳)
     "    結ばれる為に洗礼を受けた(新共同訳)
     ”    つくバプテスマ(新改訳)
 洗礼を受けてキリスト・イエスと一致したわたしたち(フランシスコ会訳)
 キリスト・イエスへと洗礼を受けたわたし達(塚本訳)
 キリスト・イエスと一つになるためのバプテスマ(柳生訳)
 キリスト・イエスへと洗礼を受けた私たち(青野訳)
    *「……へと」はeisをそのままに置き換えたもの。

 167答では、次のように訳されてきた。
  その御名に入れて洗礼せられたキリストの死と復活(岡田訳)
  わたしたちが洗礼によって入れられているキリストの死と復活(改革派委員会訳)
  洗礼によって結び合わされたキリストの死と復活(鈴木訳)
  洗礼によって接ぎ木されたキリストの死と復活(松谷)
  洗礼によって一体とされているキリストの死と復活(宮﨑訳)
      *上のローマ6:3諸訳に照らせば
       自分たちが洗礼によって 一つとされているキリスト
                   一つに結ばれているキリスト
                   一体とされているキリスト
       のいずれかが順当と考えられる。 松谷訳の 「接ぎ木された」
       は、一つとされているさまを巧みに描き出されている。
       165答 キリスト御自身への接ぎ木と呼応している。

 洗礼を生かして用いるべき道は多岐にわたるが、わけても、キリストに接ぎ木されて、キリストと一つにされていることに深く思いを致し、そのキリストの死と復活とから力を
引き出さなければならない。キリストに接ぎ木されているという動かし難い恵みの事実 が罪に打ち勝つ力の源である。接ぎ木に優る比喩は見当たらない(ヨハネ15章)。
 ジュネーブ問答345で既に、私たちがキリストと一つであることが明確にされていた。
(ヨハネ17:21)

5.キリストへと接ぎ木されることと キリストとの結び付き
        (ingrafting)                             (interest)
  165答では、洗礼がキリストへと接ぎ木されることのしるしであり証印であると明言
されている。
 172答では、主の晩餐に臨むにあたり、キリストとの真の結び付きを持っていることを
心に留めるべきことが求められている。
 両者は見事に響き合っていると読める。interestの上のような用法を日常目にしないこと
から、これを「関心」とする訳本もあるが、ここでのtrue interest in Christ は、「キリストに真にあずかっている」(松谷訳)、「キリストとの真の結び付き」(宮﨑訳)が意を
伝えている。
 水の洗いではキリストへの接ぎ木を証印され、主の晩餐ではキリストとの結び付きを
深く思う。

 172答でのこのinterestにかかわる証拠聖句のうち、特に詩編77:2-13は神の主権の恵み
に基づく聖徒の堅持と証言してやまない。神との結び付きを躍動感をもって告げている。
なお、欽定訳聖書には、172での意味のinterestの用例はない。
 ウ告白27:1は礼典全般の定義を記す部分であるが、そこに礼典が確証するものとして、
our interest in Him (Christ) が挙げられている。関心、権利の訳も見られるが、ここでの
interestは、関係、関わり、あずかること、結び付きがふさわしい。
 証拠聖句のうち、ガラテヤ3:17に3:27を加える版もある。3:27のみとする版もある。
3:27 新共同訳、洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからである。
 なお、ウ告白の明治13年訳では「信者ノキリストニ興ル事ヲ堅フシ」とあり、意を
伝えている。

 ジュネーブ問答で、この「結び付き」が既に明らかにされていた。358では、聖晩餐
に近付くに先立って自分を検討すべき内容として、キリストのまことの肢であるかどうかが挙げられる。 渡辺は358, 359を解説して言う…「キリストの真の肢であるかどうか、すなわち、キリストと真実に結び付いているかどうか。キリストと結び付いていないにもかかわらず、聖晩餐の印を受けるのは相応しくない。…相応しくあるとは、受ける側が条件付けられることを意味するのでなくキリストと結び付いている必要があることを言う(p.271)。
 *下線部は、ウ大教理 172での true interest in Christ を思わせる。
  ジュネーブ→ウエストミンスターの流れは随所で認められる。
                                (以上)
                                       
                    

                          


 
  
 





 


 
 
、水