2018年5月24日木曜日

「ICS軽井沢文庫だより」NO.16

“二刀流”の伝道者(3)

宮﨑彌男


 前回、「ICS軽井沢文庫だより」(第15号)を公開したのは、3月9日でしたので、それから、2ヶ月以上も経ちました。待っていて下さった方には(そういう人がおられればの話ですが)、どうしているのだろうかと思われたかも知れません。言い訳になるかもしれませんが、4月10日にA・ウォルタース著『キリスト者の世界観―創造の回復』(増補改訂版/拙訳)がいよいよ出版の運びとなり、すでに書店に出回っているのですが、300冊を訳者である私が窓口となって売りさばくことになったものですから、そのことで、結構走り回っていた?のです。おかげさまで、もうすでに、100冊ばかりは、買っていただいたり、予約していただいたりしました。ちなみに、このルートで購入されますと、(割引価格) 税込み 1700円で購入できますので、私の方にお申し込み下さい。すぐにお送りします。

(A・ウォルタース著『キリスト者の世界観―創造の回復』[増補改訂版])
 
『キリスト者の世界観』
(増補改訂版)
初めから宣伝のような話になってしまいましたが、実は、この訳書の出版は、私の「“二刀流”伝道者」と決して無関係ではないのです。このことは、すでに「ICS軽井沢文庫だより」第14号「“二刀流”の伝道者」で、この本の初版の出版の意義について、次のように記していることからもおわかりいただけると思います。「…ただ、そのような中で、熊本伝道所時代に、九州連合青年会を指導する中で、A.ウォルタースの名著『キリスト者の世界観―創造の回復―』を翻訳・出版できたことは感謝でした。この書物は好評で、第二刷まで売り切れ、現在第二版(増補改訂版)の出版を準備中です。この訳書を読んだ人の多くが、キリスト教信仰による人生観・世界観が飛躍的に広げられ深められた、と喜んでおられます。」
 ここに記した最後の文章は本当です。この書は、キリスト者の「ものの見方」(世界観)を変える不思議な力を持っています。多くの読者から、私はこのことを聞きました。もちろん、私自身もそのひとりです。自分の訳した本を、出版後、改めて読み返してみて、神の創造とあがないの広さ深さに感動の涙を禁じ得なかったことを思い出します(特に第4章など)。
 私たちは、ふつう、教会で聖書のお話を聞いたり、キリスト教教理の勉強をしたりします。しかし、私たちにとって “毎日が日曜日” なわけではありません。教会で聞いたり教えられたりした(インプットされた)「神の言葉」を「行う」(アウトプットする)生活現場は、教会だけではなく、家庭であり、職場であり、学校であり、諸々の社会生活であるはずです。そのような生活の現場で、どのように神の言葉に従い、シャローム(平和)を実現しようとするのか、この本は、私たちの、そういったニードに応えるべく、懇切丁寧に、聖書に従って、案内役をつとめてくれます。そういう意味では、この本は、正に、“二刀流”伝道の指南書ともいうべき、神からの贈り物です。この本を、個人として、教会として、また、色々のグループ等で読んで下さればいいなと思っています。私が家内と共に通っている長野佐久教会(佐久会堂)でも、牧野信成牧師の発意で、毎週水曜朝の祈祷会で学んでいます。https://rcjnaganosaku.jimdo.com

(私にとっての「有神的人生観世界観」ー実践的時間論ー)

 さて、“二刀流”伝道の指南書としてのA・ウォルタース著『キリスト者の世界観―創造の回復』の紹介をしましたが、この辺で、前回からの宿題になっていました、第一刀「有神的(神が共におられる)人生観世界観」を私がどのように用いているかをご紹介します。
 正直言って、これなしには、私の毎日の生活はあり得ません。「有神的人生観世界観」という刀、これなしには、私は一日たりとも生活できない。これは、私の実感です。こういう風に言いますと、私の、日頃のぐうたらな生活ぶりを知っている人たちは、「おいおい、無理しなくてもいいよ」と言われそうです。でも、私は、何も気負ってこう言っているのではありません。「有神的人生観世界観」というこの一刀なしには、私は、一瞬たりとも生きられないのです。キリストにあがなわれたクリスチャンならば、皆同じように言うはずです。
 なぜかと言えば、クリスチャンは、毎日与えられている時間を神の恵みの「時」として捉えているからです。有神的人生観世界観で「時間」をどのように考えているかについて、「ICS軽井沢文庫だより」の11号でも少し触れたことはあるのですが、改めてこのたび、G. スパイクマンの『改革主義神学ー教義学のための新しいパラダイム』を読み直して見て、時間と創造/摂理の関係について、かなり説得的な議論がなされていることを知りました。まとまった紹介はまたの機会に譲るとして、スパイクマンは、時間が「神の創造によるもの」であり、それ故に、「神のしもべ」である、とはっきりと語っています(注1)。もし、神の創造と摂理の御業の全体も神の恵みの御業と考えるならば、(私は最近、共通恩恵論を学ぶ中でそのように考えるようになってきていますが)、時間も神の恵みによって私たちに与えられたものであるに違いありません。
御影用水
また、私がトロントで師事した、H. ハート先生からは、「時間とは、被造物が神の宇宙的法(Cosmic Law)に応答する継続的関係性」である(旧約聖書コヘレトの言葉12:13、イザヤ書55:12等参照) と教えられ、これは、日本伝道に益する、得がたい洞察だと深く心に留めました。また、東京基督教大学でキリスト教哲学を教えておられる稲垣久和先生は、ここで言う「宇宙的法」を「宇宙論的(コスモロジカル)な法構造」と呼び、「宗教的根源に接した自我」と共に、その「超越論的解釈学」の二本柱(「超越論的ア・プリオリ」)の一つとしておられます(注2)。
 ここで、神の律法について、「宇宙的法」(Cosmic Law)とか「宇宙論的(コスモロジカル)な法構造」と言い表されているところに注意を向けてください。この場合の「宇宙」(cosmos)とは、宇宙工学等で言う「宇宙」のことではなく(もちろんそれも含まれますが)、聖書の言葉で言えば、「天地万物」(創世記2:1)、「世界とその中の万物」(使徒言行録17:24)で、そこには、神に造られた「見えるもの、見えないもの」の一切が含まれています(コロサイ1:16)。『キリスト者の世界観―創造の回復』の「あとがき」では、「全包括的」と言い換えています。「…福音はその拡がりにおいて全包括的です。イエスの宣べ伝えた福音はイエスの宇宙的王権の福音です」(180頁)。
 きょう届いた JAF Mate 6月号の表紙に、“地球のこと、考えてみない?”とありました。何だかわくわくするようなキャッチフレーズではありませんか。ましてや、“宇宙のこと、考えてみませんか?”と、イエス様から誘われたら、わくわくしませんか。
 私たちは、神の律法の支配領域を、ともすれば、狭く考えがちです。けれども、神によって造られた世界の全体が全包括的な「神の法」に服しており、それは、原子の構造や太陽系の運行、植物の生活周期、ビーバーの建築本能といった自然科学の対象となるような事柄だけではなく、社会学、美学、政治学、経済学といった人文・社会科学関係の分野にも生きた「規範」として関わりを持っているのです。「神の定めはさまざまな社会組織、芸術の世界、ビジネスや商業にも及んでおり…結婚や国家についても聖書の教えがあり…教育や育児の分野においても…さらには、人間の情緒や性も規範を欠くものではありません。また、議論する場合には、思考の法則があり、話をする場合には言語上の原理に従っており、すべては神のお与え下さった法に服しているのです」(上掲『キリスト者の世界観』46~50頁)。
 このような、全包括的な神の律法を信じ、これに従って生きようとするならば、神の恵みとしての時間は、一日、一週間、一ヶ月、一ヶ年に亘る私たちの生活時間の全体と重なるものとなります。私たちは、かくして、全時間、全日を神の恵みの時間として、神に生かされ、神と人に仕えつつ生きることとなるのです。
 スパイクマンは、上記の書物で、時間を神の主権的な創造による「神のしもべ」と主張していますが、創世記1,2章の記述に従って、「創造時間」 creating time と「被造時間」created time とに区別しています。前者は、創世記第1章の、「六日間」に亘る神の創造時間であって、私たち人間が関与することのできないものです。それに対して、2:1に記されている「第七の日」以降、終末に至るまでの後者、すなわち「被造時間」は、言わば歴史的な時間で、私たち人間にも主体的な関わりが求められている時間です。従って、前者については、「一日」が、今日のカレンダー的な数え方でどのくらいの時間なのかは分からないのですが、後者の「被造時間」については、(第六の日が終わってから)今日まで続いているのですから、私たちが今日のカレンダー的な「年月日」を用いて管理することが、許されているどころか、求められてさえいるのです(注3)。

(有神的人生観世界観に基づくライフプラン)

 
庭の九輪草
もしそうであるならば、「ICS軽井沢文庫だより」11号で示した有神的人生観世界観に基づく私のライフプランは、基本的に、聖書の教えに適っていると言えるのかも知れません。大変勇気づけられます。
 昨年7月で私は76才になり、一般的に言うならば、「後期高齢者」の仲間入りです。私は、信仰的な観点から、家内と共にライフプランを考えました。私としては、「ICS軽井沢文庫」の育成を引退教師としての主たる仕事にしたいとの召命感に基づいて、向こう3年間の計画を立てたわけです。今一度、第11号の「時を生かして」をご参照いただければ幸いです。
 3年の時間をそのために主からいただいている。感謝である。。日数としては、(安息日を除いて)939日、時間数としては、1日8時間労働で、7512時間。これを「生かして用いるならば」3年がかりで一つの仕事が出来るのではないか。このような、一個のライフプランを作ったのです。今ベストセラーとなっている楠木新著『定年後ー50歳からの生き方、終わり方』(中公新書)に触発されて、自分の生き方、時間の用い方を考えてのことでした。
 それから10ヶ月が経った今、振り返って検証してみますと、総じて、このようなライフプランを立てて励んできたことは良かった、と思っています(箴言21:5)。どれだけの「成果」を上げ得たかとなれば、「遅々として進まず」で、心許ないのですが、それでも、率直に言って、このようなライフプランなしには、一瞬たりともここで生きることができなかったのではないか、と思っているのです(注4)。そういう意味では、神の恵みによって与えられた時間をこそわが人生とする、このようなライフプランは、私にとってなくてはならないものでありました。前回記した近隣諸教会での説教奉仕と共に、これからも、間違いなく、“二刀流”伝道の尊い一刀であり続けることでしょう。
 
(注1)「空間や他のすべての神に造られた実在と同様、時間や歴史も、その本質的なところにおいては、神の創造によるものである。(そして)それ故、神の言葉によって存在を許され、継続的に保持されているという意味においては、神のしもべなのである」(Reformational Theology--A New Paradigm for Doing Dogmatics、p. 268)。

(注2) 『哲学的神学と現代』(1997年、ヨルダン社)39頁、『知と信の構造ー科学と宗教のコスモロジー』(1993年、同社)298頁。

(注3) 歴史の終局(終末の日)がいつ来るのかは、私たちに知らされてはいません(マルコ13:32等)。しかし、イエス様は、終末における御自身の再臨に備え、目を覚まして仕事をしている家令のことを「忠実で賢い管理人」と呼んでおられます(ルカ12:35-48)。

(注4) 言うまでもなく、このような有神的なライフプランによる「仕事」は成果主義ではありません。私たちは、「仕事」の時間を、上記のように、神の恵みの賜物として捉えていますので(ヤコブ4:13-15)、この3年間でどのくらい目標を達成できるかは、主に委ねるほかありません。

「時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです」
  (エフェソ信徒への手紙5章17節)
「ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう」
  (ガラテアの信徒への手紙6章10節)

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「ICS軽井沢文庫」を開き、ラベル「ICS軽井沢文庫だより」第16号を選択します。次にパソコン右上のオプション設定のマーク(縦3つ)をクリック、印刷を選択する。左欄のオプションを両面印刷にし、詳細設定の中の倍率を150、背景のグラフィックもオンにしてください。印刷ボタンを押すと OKです。同様に、他のすべてのラベルも、選択して、印刷することができます。


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2018年3月9日金曜日

「ICS軽井沢文庫だより」NO.15

“二刀流”の伝道者(2)

宮﨑彌男


 前回の「ICS軽井沢文庫だより」では、「“二刀流”の伝道」について書きました。「“二刀流”の伝道」とは、日本キリスト改革派教会が、その創立宣言(1946年)において掲げた(1)有神的人生観世界観の確立と、(2)信仰告白・教会政治・善い生活において一つである聖書的教会の樹立、を目的とする福音伝道です。
 現役時代、両刀をかざしながらも、その「調和」を体得できず、十分な力を発揮できなかったのではないだろうかと、その反省も記しました。また、引退後、定住代理宣教教師として奉仕した、“第二次”熊本伝道(2012年4月~2014年6月)で、初めて、“二刀流”伝道の「こつ」がわかり始めてきたということも、最後に記しました。
 軽井沢に引き上げてきましてから、すでに3年半になります。その間、引退教師としてではあるけれども、“二刀流”の技をどのように磨いてきたのか、今日は、前回の続きとして、先ずは、両刀の内、上記(2)の一刀をどのように用いているのか、振り返って見たいと思います。

(引退教師としての説教奉仕)
 幸いなことに、ここ3年ばかりの間、平均月2回ばかり、新潟、宇都宮、長野、佐久等、近隣の改革派諸教会で説教奉仕を依頼され、出張伝道する機会が与えられました。これは、引退教師にとっては、老化防止のためにも、大変ありがたいことです。また、教会の側でも、特に定住の牧師を欠く“無牧”の教会にとっては、嬉しいことなのだと思います。そんなわけで、私も、月1,2回、力を込めて講壇の奉仕をさせていただいているところです。
 心がけていることは、次の三つです。 
 1)神の言葉を取り次ぐこと。
 そのために、聖書のテキストに密着した話しの構成と語り口を心がけています。もちろん、説教は、神の言葉(Ⅰテサロニケ2:13、第二スイス信仰告白第1章)であると同時に、人の言葉でなされるのですから、説教者の好みや経験、思想的傾向が反映されないわけではありません。しかし、人を救うのは、人間の知恵や知識ではなく、天より啓示された神の言葉ですから、神の霊感を受けた聖書のテキストに密着しつつ語ることが大切と考えています。ですから、聞く側としても、説教を聞いた後で、自分でその聖書箇所を再読し、説教で聞いたことが聖書の教えと合致していることを確かめるようしていただければ、最高ですね(使徒17:11参照)。 
 2)説教者と会衆(礼拝参加者)ー主にある交わりの中でー
 説教者から会衆へという一方通行ではなく、礼拝に集ってこられた方々と対話するような姿勢で御言葉の説き明かしができるようにと心がけています。キリスト教会の良い伝統の一つに、礼拝の中で説教者と会衆が交わす相互祝福の挨拶があります。説教者(または司式者)が「主があなたがたと共にいてくださいますように」と呼びかけますと、会衆は声を合わせて「主があなたを祝福してくださいますように」と応えるのです(ルツ記2:4参照)。こういった主にある交わりの中で御言葉が説き明かされるときに、御言葉はふさわしい実を結ぶのです。
 それで、「ウェストミンスター大教理問答」でも、説教に召された者のための指針(問159)と共に、説教を聞く者のための指針(問160)を書き加えているのです(注)。 
 3)公同の礼拝にふさわしく。
佐久会堂
教会や学校、家庭等においてささげられている幾多の礼拝の中で、日曜日(主の日)に教会でささげられる礼拝は、特に「公同礼拝」と呼ばれています。これは、英語で言えば、Public Worship Serviceで、「すべての人に開かれた礼拝」を意味しています。ですから、この公同礼拝でなされる説教は、全世界に向かって語られる「公の性格」を持っているということになります。この点において、公同礼拝における教会の説教は、上記(1)の「有神的人生観世界観の確立」という改革派教会の目的と合致しているのです。
 ただ、説教には、もう一方で、「その地方の、その教会に対する説教」というローカルな面もあります。説教者は、自分が奉仕するその教会の礼拝に集ってくる一人一人を心に思い浮かべながら、そのニードに応える説教を準備します。それ以外ではありません。上記「ウェストミンスター大教理問答」問159でも、説教者がいつも「聞く者の身になって、その必要としていることと理解力とに気を配り、知恵を働かせて」神の言葉を語らなければならない、と教えています。
 このように、公同礼拝での説教には、「全世界に向かって」という面と、「この礼拝に集まって来られた人々のために」という両面があるのです。そして、幸いなことに、この両者は決して矛盾せず、一つの説教の二つの面なのです。今はやりの言葉で言えば「グローカル」な性格を持っているのが私たちの礼拝説教なのです。グローバルとローカル、正に“二刀流”の説教です。

(「ウェストミンスター大教理問答」による学習会) 
 イエス・キリストの伝道方法は、「教え」と「説教」と「癒し」の三本立てでした(マタイ4:23、9:35)。とても現実的な伝道方法です。一方的に「説教する」だけでは、教会は建たない。神様の御言葉という権威をもって「宣べ伝える」、と同時に、膝と膝をつき合わせて「教える」教会教育がなければなりません。また、どの町にも教会にも、病気等で苦しんでいる人がいます。福音と「癒し」は決して別ものではありません。
 それで、どこの教会にも、礼拝と教会学校があるのですが、多くの場合、教会学校は子供たちのためだけのプログラムとなっています。すべての年代層に対する教会教育が必要です。私は、熊本“第二次”伝道では、礼拝後の “ティータイム” を「教理セッション」と名付けて、教理問答の学びをするようにしました。今でも、熊本では、後任の先生に引き継がれているようで、感謝しています。テレビやインターネットで情報を得ている今の時代の人々が、教会では、「教理の学び」に少しでも楽しんで欲しいと、名称など工夫を凝らしたつもりですが、果たしてどうでしょうか。
 新潟伝道所では、説教に行く度に、昼食後1時間半の学習会で、「ウェストミンスター大教理問答」を学びました。キリスト教の信仰や生活のことについて共に語り合い分かち合う、良い交わりの時ともなりました。また、佐久の教会では、毎月第3主日の午後、やはり「ウェストミンスター大教理問答」の学習会を担当させていただきました。今は、新しく赴任された牧野信成牧師による学習会と婦人会/男子会における『信徒の手引き』の輪読会に引き継がれています。
 なぜ説教と共に教理の学びが必要なのでしょうか。宗教改革以来、プロテスタント教会で重んじられてきた原理に、「聖書のみ」(Sola Scriptura)と、「聖書のすべて」(Scriptura tota)があります。説教では、人の言葉や思想ではなく、神の言葉を取り次ぐということで、「聖書のみ」が強調されるのに対して、教理の学びにおいては、聖書啓示の全体を視野に入れて、神、聖定(永遠のご計画)、創造、摂理、人間の罪、恵みの契約、キリスト、聖霊、教会、救いの恵み、死と復活、審判、神の律法、恵みの手段(御言葉、礼典、祈り)など、私たちの信仰と生活に関わる大切な教えを学びますので、「聖書のすべて」が強調されるのです。このように申しますと、教理の学びは難しいことのように思われるかも知れませんが、一言で言えば、「イエス・キリストは主である」という、初代教会以来の信仰告白を今の時代の私たちが聖書全体から読み取る以外のことではないのです。そういう意味では、心躍る福音の学びです。
 
 以上は、“二刀流”伝道者として今用いている”第二刀”(「信仰告白・教会政治・善い生活において一つである聖書的教会の樹立」)に関わることです。次号では、引退教師としての私が左手に握った”第一刀”(「有神的人生観世界観の確立」)を、どのように錬磨し使用しつつあるのか、お分かちできればと願っています。

(注)
「ウエストミンスター大教理問答」
 問159 神の言葉は、その職務に召された者によって、どのように説教されなければ なりませんか。
 答 御言葉の宣教に努めるように召された者は、次のようにして健全な教えを説教しなければなりません。 折が良くても悪くても、熱心に。人を惹きつけようとする人間の知恵の言葉によらず、御霊と力との立証によって、はっきりと。神の御計画を余すところなく告げて、忠実に。聞く者の身になって、その必要としていることと理解力とに気を配り、知恵を働かせて。神と神の民の魂への燃えるような愛をもって、ひたむきに。神の栄光ならびに神の民の回心と育成と救いとを目指し、心を打ち込んで。
  
  問160 説教される御言葉を聞く者には、何が求められていますか。
  答  説教される御言葉を聞く者には、次のことが求められています。すなわち、注意力と準備と祈りとをもってこれに傾聴すること。聞くことを聖書によって確かめること。信仰・愛・素直さ・気構えをもって真理を神の言葉として受け入れること。説教される御言葉を瞑想し、それをめぐって語り合うこと。説教される御言葉を心に蓄え、自分の生活の中で実を結ばせること。

「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。」(テサロニケの信徒への手紙一2章13節)


【ラベル「平昌オリンピックに見る“二刀流”の勝利」もごらん下さい】

【A・ウォルタース著、宮﨑彌男訳『キリスト者の世界観―創造の回復』(増補改訂版)の出版について】
教文館出版部から、4月初めに発行予定です。ご期待下さい。この度の増補改訂版では、初版の訳文を、より正確で読み易く改訳すると共に、「物語と宣教を媒介する世界観」と題してゴヒーン&ウォルタースが新たに執筆した「あとがき」(原著で24頁)を加え、「増補改訂版」として出版するものです。単なる再版ではなく、新しい本として出版しますので、既に、初版を読んだ方も、ぜひもう一度購入して、読み直していただければ幸いです。

【「思想とキリスト教研究会」の講演会に出席】

 2月26日(月)午後、東京恩寵教会で開催された「思想とキリスト教研究会」の講演会に出席する機会を得ました。講師は、東京基督教大学准教授の加藤喜之氏で、「改革派と初期啓蒙思想:スピノザという問題」という題で、興味深い講演をしてくださいました。加藤先生は日本長老教会の会員ですが、音楽と哲学を専攻された学生時代(テキサス大学)よりスピノザとその時代の神学/哲学について学んで来られた方です。講演の中で印象に残っていますのは、神学がわかっていないと、かの時代の哲学思想は正しく理解できないのではないか、と言われたことです。キリスト教学(神学、哲学、諸学)の重要性について、改めて覚えさせられたひとときでした。

【石丸新先生による研究ノート「ウ大教理問答の洗礼論」】
右欄のラベル「ウ大教理問答の洗礼論」を選択してお読み下さい。ウ大教理問答165、ウ小教理94、ウ信仰告白第28章において、洗礼の中心的な意義として、「キリストと接ぎ木されること」が教えられていますが、そこでは、名詞「接ぎ木」(ingraftment)ではなく、動名詞「接ぎ木されること」(ingrafting)が用いられています。石丸先生はこのことに注目し、「ここでも、キリストへと接ぎ木され、キリストの命を受けて新しく活かされるという恵みの躍動が描き出されている」とコメントしておられます。洗礼を受けたものは、このような生命的な絆でキリストと結び合わされているのですね。ハレルヤ!

【『ホ・ロゴス』Vol.20.No.4】
 この度、「それでは如何に生きるべき会」(ロゴス会)の機関誌『ホ・ロゴス』の最新号に、私の「キリストの王権にひれ伏すーICS50周年に当たって」が掲載されました。この機関誌を発行している「それでは如何に生きるべき会」(ロゴス会)は、「キリスト教世界観を日本に確立し、人類の全領域にそれを適応するための学びと交わりを深める」ことを主な目的としている会です。問い合わせは、ロゴス会事務局(〒206-0025 多摩市永山5-34-15-2 山川暁方)まで。

【「ICS軽井沢文庫だより」の印刷のために】

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「平昌オリンピックに見る“二刀流”の勝利」

【平昌オリンピックに見る”二刀流”の勝利】’宮﨑彌男

平昌冬季オリンピックが閉幕しましたが、日本選手団は金4、銀5、銅4、計13のメダルを授与され、意気揚々と故郷に凱旋してきました。今回の冬季オリンピック、いつになく、日本選手のここ一番に力を発揮する「精神力」に感動させられたのではないでしょうか。でも、それだけではなかったのです。
 私は、家内が関西の方に行っていた留守中、一人で食事をしながら見ることが多かったのですが、特に、男子フィギュアの羽生結弦と女子スピードスケートの小平奈緒が優勝したときには、ヤッタと思いました。羽生は、怪我がまだ治りきらない「満身創痍」の状態で、4回転ジャンプを何度も決めて、金メダルに輝きました。長野県出身の小平も「選手団の主将を務めると金は取れない」と言われているジンクスを気にしながらも、オリンピックのプレッシャーに打ち勝って、優勝しました。他方、両者共に、4年間の努力が本当に報いられたと喜んでいました。
 彼らは、”真摯”(小平の言葉)な練習の積み重ねによって身につけた実力と、プレッシャーをも「味方に付けてしまう」(羽生の言葉)精神力=人間力という“二刀流”で勝利をものにしたと言うことができます。実力と精神力(=人間力)の両刀でもって初めてオリンピックという晴れの舞台で勝利することができたのです。おそらく、どちらか一刀だけで戦っていたならば、金メダルはなかったのではないでしょうか。
 私たちの生活や伝道も、普段の修練とここ一番という勝負どころ、この両刀使いで初めて勝利できるのですね。

2018年3月8日木曜日

ウエストミンスター大教理問答の洗礼論

ウエストミンスター大教理問答の洗礼論(石丸新)


1.キリストと接ぎ木されること
 洗礼の定義を下す165問では、水の洗いをもってキリストがしるしとなし、証印となし
てくださることが3点にわたって述べられている。
  ① ご自身へと接ぎ木してくださること
  ② ご自身の血による罪の赦しと御自身の聖霊による再生
  ③ 子とすることと永遠のいのちへの復活
 冒頭に置かれていることからも分かるとおり、キリストへと接ぎ木されることingraftingは限りなく重い。
 ② の赦し remission および再生 regeneration、③ の子とすること adoption および復活 resurrection がいずれも ーtionに終わる名詞であるのに対し、①の ingraftingが動名詞であることに注目したい。
 農業での接ぎ木を表す名詞は engraftment/ingraftmentである。
大教理165がことさらに動名詞 ingraftingをここで用いたのはなぜか。しかも177問に
再び ingraftingを重ねた意図は何であったのか。
 
 キリストとの結合(union)とは何かと問う大教理66は、答でキリストに……分離できないように結び合わされることだと言う(joined)。この結び合わされているさまが命に溢れていることを特に鮮やかに表現するのが、動名詞ingraftingだと思う。キリストが主権の
恵みをもって、この私を分離できないように、ご自身へと接ぎ木してくださる。接ぎ木されたからには決して離れることがない。引きちぎられたり引き剥がされたりすることもない。動名詞の活力を十分に読み取りたい。また、翻訳に活かしたい。
 大教理165でのingraftingをあたかもingraftmentであるかのように、ご自身への接ぎ木
とする訳が見られるが、ここはご自身へと接ぎ木してくださること(宮﨑訳)、彼に接がれたこと(岡田訳)とするのがふさわしい。
 なお、小教理94にも our ingrafting into Christ が用いられているが、ここでも、キリストへと接ぎ木され、キリストの命を受けて新しく活かされるという恵みの躍動が描き出されている。
 小教理30では、有効召命において私たちをキリストに結び合わせる聖霊の働きが言われ
ている。ここでの uniting us to Christ を、明治12年訳は「キリストに接がしむる」と言い表した。まさに、キリストへと接ぎ木してくださることに基づくキリストとの結合である。
 この意味で、ingrafting はキリストに接ぎ木されることとキリストに接ぎ木されているさまの両面を表すものと言える。

 ingrating into Christ のinto も注目に値する。このintoは、大教理165,177での証拠聖句、ガラテヤ3:27をそのままに反映している。For as many of you as have been
baptized into Christ …このinto(eis)を的確に言い表すのに、諸訳は工夫を施してきた。
 教理問答でのinto Christ を、キリストの中に、と訳したりはしない。この場合は、
キリストに接ぎ木されるよりも、キリストへと接ぎ木されるとする方が日本語らしい。intoの勢いを伝えるためにも。

 ハイデルベルク問答70では、洗礼に際し、キリストの肢(えだ)として聖別されること
が言われている。キリストの一部分(Glied)とする訳もある。 同74では、幼児もまた
洗礼によって、キリストの教会の肢とされることが言われている。キリスト教会に接ぎ木
されるとする訳もある。einverleibt…(be taken into) えだとして入れられるの訳もある。
 ウ大教理は、ずばりingrafting を用いて、事柄を明確にした。ヨハネ福音書15章にある
イエスの言明は限りなく重い。

2.子とすることのしるし
 洗礼の定義としては、ウ告白28章1節より、ウ大教理165の方が詳しい。そこでは、、水の洗いをもってキリストがしるしとなし、証印となしてくださることの一つとしてadoptionが挙げられている。しかも、キリストへと接ぎ木されることに密接に結ばれる形で子とすることが言われているのに注目したい。
 キリストへと接ぎ木されている者が、罪を赦され、再生させられた者として、神の子の身分を授けられ、地上にあって、神の子としての厚遇を受ける。ひとえに、キリストご自身
の血によること、また、キリストご自身の御霊によることである。

 ウ告白28:1で既にキリストに接ぎ木されることが挙げられていたが、子とすることへの
言及は無い。そこでは、受洗者がイエス・キリストを通して神に身をささげて新しい命の
中を歩くことが言われている。これに対応するのが大教理165での子とすることと考えることができようか。神の子の身分を授けられた者が神の子らしく「新しい命に生きる」
(証拠聖句ローマ6:4)。

 キリストへと接ぎ木されていることと、神の子とされていることの直結が、日本キリスト改革派教会創立六十周年記念「終末の希望についての信仰の宣言」に明白に述べられて
いる。
 二(三)……また主は、洗礼を通して、御自分に接ぎ木されたわたしたちが、罪に死に、
 復活の新しい命に生かされ、キリストのものとされていることを確証されます。
 二(四) わたしたちは、御霊によって、キリストにあって新しく創造され、神の子とさ
 れ御国の相続者とされています。
 なお、二(二)では既に、次のとおり言われていた。天上の復活の主キリストは、聖霊に
 よって、わたしたちを御自分へと結び合わせ、死から命へとよみがえらせ、……。
 キリストに結び合わされたこの民こそ、新しい契約の民、聖霊の神殿、来たるべき世の
力に満ちたキリストの体、キリストの花嫁である教会です。
 *上に言う「キリストに結び合わされる」ことが即ちキリストに接ぎ木されることで
  ある。

 最後の審判の日に、新しい天と地が現れ、上の国は栄光の王国として完成される。
新しいエルサレムにやって来るのは、「……栄光の神の子たち、キリストにある新しい
人類です。この神の民は、世々限りなく主と共に統治します。」(同宣言四(四)

3.洗礼の公的性格
 問165の答えに次のとおり言われる---and whereby the parties baptized are
solemnly admitted into the visible church,…
 ここのsolemnlyは従来「厳かに」、「厳粛に」と訳されてきたが、宮﨑訳では「正式に」
となった。洗礼式を支配する張りつめた厳かさ、あるいは式に漂う荘厳な空気は、事柄
にふさわしい。しかし、ここでは、洗礼による教会への入会が公式のものであることが
重要なポイントである。
 日本キリスト改革派教会『式文』洗礼式誓約に次のとおり記される。「(氏名)、あなたは、次の信仰を告白し、誓約をしなければなりません。これによって、あなたは神と
教会との厳かな契約に入れられます。」
 参考としたと思われる南長老教会版Directory for Worship では次のとおりーーー
…、 by which you enter into a solemn covenant …  ここでのsolemnは、公の、
正式の意。
 辞書によれば、solemn=宗教上の形式にのっとった〔法〕正式の
 〔例〕solemn oath 正式の誓約

 ヴォスの注意書きに注目したい…このsolemnlyは教理問答の中で「公に」とか
「公式に」という意味で使用されていることは明らかである。(ウ大教理講解〔下〕
p.82)
 問167の答に「洗礼時に行った公の誓約」(宮﨑訳)が出る。our solemn vow made
therein 諸訳では、おごそかな誓約、厳粛な誓約。この solemn vow をもって、見える
教会へと正式に(solemnly) 受け入れられる(165問)。
 洗礼の公的性格は、165答の続きから明らかに補強されているand enter into an open
and professed engagement to be wholly and only the Lord's.  openは、公の、公然
たるの意。
 professedは、誓約を伴った、誓約に基づく、誓約しての意。
 engagement は誓約、誓約に基づく関係、契約関係の意。

 問166の答……till they profess their faith in Christ and obedience to him 及び…
professing faith in Christ, and obedience to him での profess 及びprofessing は、
公に言い表す/公に言い表しているとの公的性格を描き出している。同時に165の正式に
受け入れられる、公の契約関係と響き合っている。
 辞書でprofessを引けば、「~への信仰を告白する」がもちろん出るが、それに並べて、
他動詞「教団に正式に入会させる」が記される。なお、自動詞の場合の例として「宣誓
して宗門に入る」が挙げられる。 一般の辞書から改めて教えられた。

4.洗礼を生かして用いるべき義務
 問167は次のように問う…How is our Baptism to be improved by us? 答は次のとおり始まる…The needful but much neglected duty of improving our Baptism, is…
 ここで用いられるimprove をどう記せばよいか。向上させる、改善する、改良する、
増進するが第一義だが、第二義に,、十分に[うまく]利用する、が挙げられる。すなわち、
事柄の目的にかなうように、その趣旨に合致するように、あるものを用いる、の意。
to good effect の意。望ましく、かつふさわしい用い方が、ここでは求められている。
 諸訳では、よく用いる、生かして用いる。適切に用いる、も可能か。
 同じ用法が195にも見られる。誘惑を生かして用いる、誘惑を益となるようにきよく用いる。

 洗礼は一回限りであるだけに、これを生かして用いる場が他の人の洗礼に立ち会う時であることはよく分かる。167の答が示すとおり。しかし、そこでは、他の人の洗礼への臨席に先立って、「試練の時」(誘惑)が挙げられていることに目を留めなければならない。
 試練の時にこそ、自分の受けた洗礼に立ち帰らなければならない。洗礼がすぐれて
公的なものであることに思いを致さなければならない。洗礼時に行った公の誓約を真剣に
考えなければならない。
 167の答を声に出して読むこと、事柄の重大さが身に迫ってくる。果たすべき責務の
広がりに圧倒されるばかりである。
 さらに、主の祈りの第6の祈願を扱う問195との生き生きとした関連に目と心を奪われる。そこでは、サタンの企みと魔力の現実が一枚の絵のように描き出されている。同時に、
サタンを制服する神の力と勝利とが歌い上げられている。しかも高らかに。
 167問,195問とはセットとなって、神の計らいの広がりと奥深さとを私たちに告げている。大いなる牧会書簡と言える。ウ小教理では味わえないものが、ここにある。
 167の答の証拠聖句の一つであるローマ6:3-5で、パウロはキリスト・イエスに結ばれる
ために洗礼を受けたその意義を知らないのですか、と問うている。167答原文のthe death
and resurrection of Christ into whom we are baptized のこなれた訳に到達するのは
難しい。 Rom.6:3…were beptized into Jesus Christは、さまざまな工夫を施して邦訳
されてきた。
 キリスト・イエスに合ふバプテスマ(文語訳)
     ”    あずかるバプテスマ(口語訳)
     "    結ばれる為に洗礼を受けた(新共同訳)
     ”    つくバプテスマ(新改訳)
 洗礼を受けてキリスト・イエスと一致したわたしたち(フランシスコ会訳)
 キリスト・イエスへと洗礼を受けたわたし達(塚本訳)
 キリスト・イエスと一つになるためのバプテスマ(柳生訳)
 キリスト・イエスへと洗礼を受けた私たち(青野訳)
    *「……へと」はeisをそのままに置き換えたもの。

 167答では、次のように訳されてきた。
  その御名に入れて洗礼せられたキリストの死と復活(岡田訳)
  わたしたちが洗礼によって入れられているキリストの死と復活(改革派委員会訳)
  洗礼によって結び合わされたキリストの死と復活(鈴木訳)
  洗礼によって接ぎ木されたキリストの死と復活(松谷)
  洗礼によって一体とされているキリストの死と復活(宮﨑訳)
      *上のローマ6:3諸訳に照らせば
       自分たちが洗礼によって 一つとされているキリスト
                   一つに結ばれているキリスト
                   一体とされているキリスト
       のいずれかが順当と考えられる。 松谷訳の 「接ぎ木された」
       は、一つとされているさまを巧みに描き出されている。
       165答 キリスト御自身への接ぎ木と呼応している。

 洗礼を生かして用いるべき道は多岐にわたるが、わけても、キリストに接ぎ木されて、キリストと一つにされていることに深く思いを致し、そのキリストの死と復活とから力を
引き出さなければならない。キリストに接ぎ木されているという動かし難い恵みの事実 が罪に打ち勝つ力の源である。接ぎ木に優る比喩は見当たらない(ヨハネ15章)。
 ジュネーブ問答345で既に、私たちがキリストと一つであることが明確にされていた。
(ヨハネ17:21)

5.キリストへと接ぎ木されることと キリストとの結び付き
        (ingrafting)                             (interest)
  165答では、洗礼がキリストへと接ぎ木されることのしるしであり証印であると明言
されている。
 172答では、主の晩餐に臨むにあたり、キリストとの真の結び付きを持っていることを
心に留めるべきことが求められている。
 両者は見事に響き合っていると読める。interestの上のような用法を日常目にしないこと
から、これを「関心」とする訳本もあるが、ここでのtrue interest in Christ は、「キリストに真にあずかっている」(松谷訳)、「キリストとの真の結び付き」(宮﨑訳)が意を
伝えている。
 水の洗いではキリストへの接ぎ木を証印され、主の晩餐ではキリストとの結び付きを
深く思う。

 172答でのこのinterestにかかわる証拠聖句のうち、特に詩編77:2-13は神の主権の恵み
に基づく聖徒の堅持と証言してやまない。神との結び付きを躍動感をもって告げている。
なお、欽定訳聖書には、172での意味のinterestの用例はない。
 ウ告白27:1は礼典全般の定義を記す部分であるが、そこに礼典が確証するものとして、
our interest in Him (Christ) が挙げられている。関心、権利の訳も見られるが、ここでの
interestは、関係、関わり、あずかること、結び付きがふさわしい。
 証拠聖句のうち、ガラテヤ3:17に3:27を加える版もある。3:27のみとする版もある。
3:27 新共同訳、洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからである。
 なお、ウ告白の明治13年訳では「信者ノキリストニ興ル事ヲ堅フシ」とあり、意を
伝えている。

 ジュネーブ問答で、この「結び付き」が既に明らかにされていた。358では、聖晩餐
に近付くに先立って自分を検討すべき内容として、キリストのまことの肢であるかどうかが挙げられる。 渡辺は358, 359を解説して言う…「キリストの真の肢であるかどうか、すなわち、キリストと真実に結び付いているかどうか。キリストと結び付いていないにもかかわらず、聖晩餐の印を受けるのは相応しくない。…相応しくあるとは、受ける側が条件付けられることを意味するのでなくキリストと結び付いている必要があることを言う(p.271)。
 *下線部は、ウ大教理 172での true interest in Christ を思わせる。
  ジュネーブ→ウエストミンスターの流れは随所で認められる。
                                (以上)
                                       
                    

                          


 
  
 





 


 
 
、水  







 
 






2018年1月22日月曜日

「ICS軽井沢文庫だより」NO.14

”二刀流”の伝道者

宮﨑彌男

 
 大谷翔平選手が米国メジャーリーグのエンゼルスでプレーすることになりました。果たして、彼の “二刀流” がメジャーリーグでも通用するのかどうか、注目されています。多くの “超高校級” と言われた野球選手(例えば、王貞治さん)は、高校時代は、投手としても打者としても活躍しましたが、プロ入り後は、打者一本に専念して、世界のホームラン王となりました。大谷選手のユニークな所は、少なくとも日ハムでプレーした最初の2年間は、打者としても投手としても、それなりの成績を上げ、“二刀流” はプロでも可能との期待を抱かせたことです。
 さて、実は、私も “二刀流” なのです。牧師/伝道者として、50数年 “プレー” してきましたが、当初から “二刀流” の伝道を目指し、試みてきたことは確かです。今日は、年頭の「文庫だより」ですので、私の50余年の伝道者人生を振り返りつつ、ちょっとそんな話しをさせていただきます。
 
(日本キリスト改革派教会の「創立宣言」)

 そもそも、私が17才の時に導かれて受洗した教会は、「日本キリスト改革派教会」というのですが、この教会は、1946年4月の創立以来、ずっと “二刀流” の伝道を戦後の日本において展開してきているのです。これは、この教会が創立時に公にした「日本基督改革派教会 宣言」において述べられている日本伝道論なのですが、心躍る文章ですので、その部分だけ、ここに引用/掲載させていいただきます。
 
 「終戦後既に九ヶ月、敗戦祖国の再建は種々なる構想と方途によりて計られつつありと雖(いえど)も、聖書に『神家をたて給(たま)ふにあらずば、建つる者の勤労は空しく、神城を守り給ふにあらずば、衛士(えじ)のさめ居(お)るは徒労(むなしきこと)なり』と、あるは真(まこと)なり。宇宙と人類を主宰し給ふ全知全能至聖至愛の神を信ずるに非(あら)ざれば、一国と雖も善く建ち善く保たるる道理なし。…今後より良き日本の建設の為に我等は誠心誠意歴史を支配し給ふ全能にして至善なる神の御心に適(かな)ふ者とならざる可(べ)からず。その誡命(いましめ)の如(ごと)く神を敬ひ、隣人を愛し、単に精神文化的部面に於てのみならず、『食(くら)ふにも飲むにも、何事をなすにも凡(すべ)て神の栄光を顕(あら)はす事』を以つて至高の目的となさざる可(べ)からず。此(こ)の有神的人生観乃至(ないし)世界観こそ新日本建設の唯一の確(たしか)なる基礎なりとは、日本基督改革派教会の主張の第一点にして、我等(われら)の熱心此処(ここ)に在(あ)り。…神のみ明かに知り給(たも)ふ所謂(いわゆる)『見えざる教会』は全世界に亘(わた)り、過去、現在、未来なる全歴史を通じ地上と天上とを貫きて聖なる唯一の公同教会として存在す。然(しか)れども、我等は地上に於(おい)て、見えざる教会の唯一性が、一つ信仰告白と、一つ教会政治と、一つ善き生活とを具備せる『一つなる見ゆる教会』として具現せられる可(べ)きを確信す。是(これ)日本基督改革派教会の主張の第二点なり」(『日本キリスト改革派教会宣言集』より)。

( “二刀流” 日本伝道論) 

 ここに、 “二刀流” の日本伝道論が繰り広げられているのがおわかりでしょうか。その “一刀”は、日本における有神的(神が共におられる)人生観・世界観の確立と実践であり、もう“一刀”は、信仰告白・教会政治・善き生活において一つである制度教会の樹立です。 
 私は、神学校入学前の学生時代に、当時日本キリスト改革派東京教会牧師であられた矢内昭二先生より、このような日本伝道論を教えられ、以来、このヴィジョンに導かれて、50年有余、日本伝道に献身してきました。
 1967~70年、神戸改革派神学校で、改革派神学による基礎的な伝道訓練を受けた後、1970年11月に教師受按、宝塚、国立(くにたち)、熊本、灘、つくばの諸教会/伝道所で、伝道/牧会に従事してきました。 
トロントのICS
その間、1972~75年、トロントのキリスト教学術研修所 (Institute for Christian Studies)に留学、改革主義キリスト教哲学/神学を学びました。この研修所については、前月号の「文庫だより」(NO.13)ですでに紹介しましたように、1880年にオランダ・アムステルダムで、アブラハム・カイパーによって創設された改革派総合大学、Free University と理念を同じくする研究/教育機関を北米大陸において設置したいとの一連の改革派信徒のヴィジョンにより、1967年に始められたばかりの研修所でした。私は、その第一回の卒業生だったのですが、1975年に、修士論文「禅仏教の基礎構造ー即非の論理ー」で、M.Phil.の証書を得て帰国、日本キリスト改革派教会の教師として、牧会/伝道の働きに復帰しました。このICSで、私は日本伝道の有神的ヴィジョンを深め広げることができたと感謝しています。

(現役牧師としての働きを振り返って)
 
 このように、私は、2011年7月に定年引退するまで、トロントに留学した3年間を除く38年間、日本キリスト改革派教会の教師として伝道牧会の働きに従事したのですが、果たして “二刀流” の名にふさわしい伝道ができたのか、その切れ味はどんなものであったのか、正直言って、引退教師となった今、反省させられているところです。
 右手に、「有神的人生観世界観の確立」という名刀を握り、左手には、もう一つの「信仰告白・教会政治・善き生活において一つである教会の樹立」という伝家の宝刀を、これぞと高く掲げて神の召命に応えようとしたのですが、現実には、バランスの良く取れた戦いができたかどうか、反省せざるを得ないのです。
 具体的には、第二点の教会形成の使命が、プロテスタント宣教わずか150年の日本においては、多大のエネルギーを要するものであることがよくわかったということです。たとえば、教会規定に従って教会を建てるためには、長老(教会役員として、牧師と共に教会を治める職務をキリスト教会では「長老」と言っています)の選出が不可欠ですが (使徒言行録14:23等参照)、教会の歴史の浅い日本では、一人の長老を0から育成するには、10年かかると言われますように、様々な条件が整って、初めて教会設立に至るのです。牧師が、教会形成のため、説教・教育・牧会の務めを十分に果たそうとするならば、それで精一杯となり、創立宣言第一点の「有神的人生観世界観の確立」を目指す働きは、追々最小限のものとならざるを得なかったのです。
 例えば、わたしは、上記ICS留学時、日本においても、キリスト教学術研修所を立ち上げたいとの願いを与えられていましたが、説教・教育・牧会の務めと並行して、このような研修所の設置に向けて活動することなど、結果論かも知れませんが、とてもできませんでした。ただ、そのような中で、熊本伝道所時代に、九州連合青年会を指導する中で、A.ウォルタースの名著『キリスト者の世界観―創造の回復―』を翻訳・出版できたことは感謝でした。この書物は好評で、第二刷まで売り切れ、現在第二版(増補改訂版)の出版を準備中です。この訳書を読んだ人の多くが、キリスト教信仰による人生観・世界観が飛躍的に広げられ深められた、と喜んでおられます。
 
(転機) 

改革派熊本教会
転機は、2012~14年、“第二次” 熊本伝道の時に訪れました。引退教師として軽井沢に住むようになってもう半年後のことでしたが、2012年4月、私と家内は古巣の熊本教会に戻って代理宣教教師を務めるようにとの招聘をいただいたのです。牧師の転任により「無牧」となるので、ぜひもう一度来て欲しいとのことでした。私どもはこれに応じることにしました。私の仕事は、後任の専任牧師が来られるまでの2~3年、定住の代理牧師となることでした。牧師館に住んで、説教・教育・伝道から会堂管理に至るまで、正規の牧師が行うほぼすべてのことを代理として行うのです。ただ、以前の現役時代と違うのは、大会・中会関連の一切の委員会活動などは除外されていたことでした。それで、私として有り難かったことは、牧師本来の働きとも言うべき、説教や牧会に専念できることでした。教会員も、ほとんどが昔なじみの、気心の知れた方たちでしたので、この2年3ヶ月に及んだ熊本での代理宣教教師としての働きは、思いの外、楽しく、充実したものとなりました。私は、説教、牧会に、これまで覚えたことのないような喜びを感じるようになりました。
 
(調和した “二刀流” )

 そうすると、不思議なことに、私の心の中で、創立宣言の第一点と第二点、すなわち、有神的人生観世界観の確立・実践と教会形成は、一つの使命として自覚されるようになったのです。トロントICSで学んだキリスト教哲学/神学は、牧師としての私にとってなくてはならないものとして説教等に生かされるようになり、また、牧会伝道を通して教えられるすべてのことは、私の神学/哲学/世界観を深め、いっそう地に着いたものとするように思われました。私は、もはや、以前のように、第二点(教会形成)に力を入れると、第一点(有神的人生観世界観の確立/実践)がおろそかになると言ったような考え方をしなくなりました。むしろ、相互に強化し合うような関係にあるのではないかと思うようになっています。“二刀流” のたとえに戻るならば、私は “二刀流” をやめて、“一刀流” で行こうとしているのではありません。あくまでも “二刀流” なのですが、この二刀の間に調和があることに気付き始めているということなのです。
 
 次号では、このような “二刀流”の伝道を、引退後の今、どのように行っているのか、また今後の目標と計画等について、お分かちしたいと願っています。

「主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい。
 主御自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなし  い」。      (詩編127編1,2節)

【 石丸新先生にょる「ウ大教理問答における『神を見る』」を読んで 】

 

 先月号に、石丸新先生の研究メモ「ウエストミンスター大教理問答における『神を見る』の入力が終わった旨記しましたが、改めて読んでみまして、やっぱり素晴らしいです。「神を見る」と言えば、神秘主義者にでもならなければ、自分などとても無理と思われるかも知れません。けれども、聖書やウ大教理等を引きながら、この研究メモを読むと、自然にフォローできて、神を「見上げる」ようになります。ただ、石丸先生によれば、86問の答は委員会訳の「神のみ顔を仰ぎ…」よりも、新しい宮﨑訳の「神のみ顔を見て…」の方がよいとのことです。私たちは、地上にある限りは、神を見上げるのですが、「死の直後に至高の天に受け入れられた者は、そこで神を見る。…垂直ではなく、水平に」と書いておられます。神に関わることについて必要以上の敬意表現は、却って真の神との交わりから自分たちを遠ざけることになるのかも知れません。右の欄のラベル「ウエストミンスター大教理問答における『神を見る』」をクリック、できれば、プリントアウトしてお読みください。


【熊本教会修養会講演レジメ】

 
 上記「“二刀流”の伝道者」でも触れたように、私は、1978~1996年、宣教教師として、また、2012~2014年、代理宣教教師として、都合20有余年、熊本市の教会で伝道/牧会しました。その熊本教会が今年40周年となるというので、昨年8月26~27日、「40年を振り返り、これからを考える」というテーマで「修養会」を行いました。「ICS軽井沢文庫だより」NO.11にその報告文を載せています。私は、この修養会に招かれて、「熊本伝道所の40年を振り返って」と題する講演をしました。この講演のレジメもこのブログに掲載することにしました。右の欄のラベル表より「熊本伝道所の40年を振り返って」をクリックして、ご覧ください。

【本のプレゼント】


 希望者に次の書物をプレゼントします。
記念文集

①『恵みの泉、尽きることなく』―松田輝一・やゑ二人三脚66年―
 松田輝一先生とやゑ夫人の記念文集です。松田輝一先生(1905~1998)は、神戸長田教会、恵泉教会で長く牧師として奉仕されたほか、長田幼稚園の園長として、やゑ夫人と共に幼児教育にも献身された方です。わたしは、青年時代に米国で先生とお会いしてより、先生が92才で召されるまで、親しい交わりをいただきました。先生は、生涯、どんな若者にも負けない求道心旺盛な牧者/伝道者/教育者でした。私が伝道者となるためにご指導いただいた数少ない恩師の一人です。やゑ夫人(1910~1998)も、私の熊本時代、何度も達筆のお手紙で励ましてくださいました。

②『心やすし、神によりて安し』―粂野栄子 信仰の旅路 白寿まで―
 粂野栄子姉(1910~2009)は、上記やゑ姉の双子の姉妹で、私も青年時代同じ教会で何かとお世話になりました。やゑ姉と同じように、字も達筆でしたが、加えて絵もお上手でしたので、色紙に日本画と聖句を書いては、プレゼントしてくださいました。しかし、何よりも、生き生きとした信仰の持ち主で、そのことがこの記念文集を本当に読み甲斐のある本にしています。
 
 ご希望の方には、着払いで送(贈)りますので、ご連絡ください。両方でも もちろん良いですし、一冊のみご希望の場合は、どちらをご希望かお知らせください。なお、この度のご提供は、記念文集の編集者である、先生のご長男、松田高志氏(神戸女学院大学名誉教授)のご好意によるものです。

【「ICS軽井沢文庫だより」の印刷のために】

「ICS軽井沢文庫」を開き、ラベル「ICS軽井沢文庫だより」第14号を選択します。次にパソコン右上のオプション設定のマーク(縦3つ)をクリック、印刷を選択する。左欄のオプションを両面印刷にし、詳細設定の中の倍率を150、背景のグラフィックもオンにしてください。印刷ボタンを押すと OKです。同様に、他のすべてのラベルも、選択して、印刷することができます。


【連絡先】

〒389-0115長野県北佐久郡軽井沢町追分36-23 宮﨑彌男・淳子

Tel/Fax 0267-31-6303、(携帯) 080-3608-3769

Eメール<mmiyazk41@gmail.com>   ブログ「ICS軽井沢文庫」<ics41.blogspot.jp> 

2018年1月20日土曜日

ウエストミンスター大教理問答における「神を見る」

ウェストミンスター大教理問答における「神を見る」

石丸 新


1.問86での「神の顔を見る」

 見えない教会の会員が死の直後に享受する、キリストとの栄光における交わりの局面の一つとして、この上もなく高い天で光と輝きのうちに神の顔を見ることが挙げられている。
 これは、ウェストミンスター信仰告白第32章1節での内容をそのままに受けたものである…the highest heavens, where they behold the face of God in light and glory, …。
下線部の翻訳は、「神の御顔を仰ぎ見る」と「神の御顔を見る」見るに分かれる。単純な「見る」では畏れ多いと考えて「仰ぎ見る」としたのか。
 大教理86の翻訳も同様に、「仰ぐ」「仰ぎ見る」「見る」に分かれる。証拠聖句Ⅰコリント13:12。 新共同訳では、顔と顔とを合わせて見ることになる。文語訳では、顔を対(あは)せて相見(あひみ)ん。「対」を「あわせる」と読ませる、すなわち合わせるに「対」の振り漢字を充てることによって、face to face(prosopon pros prosopon)の意を伝えた。対面。
 もう一つの証拠聖句Ⅰヨハネ3:2。新共同訳では、御子をありのままに見る。as he is
 ここからしても、大教理 86  behold の訳は単純な「見る」がふさわしい(岡田訳、宮﨑訳)。地上にある限りは、高く挙げられ、父の右に座しておられるキリストを仰ぎ見るが、死の直後に至高の天に受け入れられた者は、そこで神を見る。父なる神と主イエス・キリストと聖霊とを見る。垂直ではなく、水平に。(問90で後述)。

 ウ告白 32:1 の改革派訳ほかが「神の御(み)顔を見る」としたのに対し、1953年の松尾訳が「神の御顔を視る」としていたのにぜひ注目したい。「視」は旧漢字だが、常用漢字「視」の読みは「シ」に限られる。現在は「視(み)る」は表外の訓読みだが、意がよく伝わってくる。
 「見る」は、視覚で捉えることを表すのに幅広く用いられる、最も一般的な用語。(例)前を見る、外を見る、夢を見る。
 これに対して、「視る」は、視覚を注意深く働かせてつまびらかに観察する、調査する、判断することに用いる。(例)現地を視る、被害状況を視て回る。
 ウ告白32:1の松尾訳が「神の御顔を視る」としたことの意味は大きい。目(ま)のあたりに見る、注視する、凝視する が beholdの意味するところだが、熟視するも捨てがたい。

 一般的な動詞「見る」(orao)を多用するのはルカであった。注意深く読めば、救済史の要所要所での用例には「視る」の意が込められていたことに気付く。
   ルカ2:15 主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか
   ルカ2:17 その光景を見て
   ルカ2:20 見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので
   ルカ2:30※ わたしはこの目であなたの救いを見たからです
     …
   ルカ24:39 わたしの手や足を見なさい。 まさしくわたしだ。
         触ってよく見なさい
      ※岩波版 佐藤訳では、「私の両の目は、あなたの救いを拝見したから  
      です。」ここで特に「両の目」と言ったのは、28節「シメオン自らが幼子
      を両腕に受け取り」の「両腕」と対応させてのことである。
       幼な子としてこの世に降ってこられたメシア・イエスの重みを両腕にひ
      しひしと感じ、両目が幼子イエスをまざまざと見つめる。長きにわたる預言
      はここに成就し、救いが現実に来た。神の国は確かに到来した。

 ウ告白 1964年改革派委員会訳では、32:1の箇所は「神のみ顔を見る」と訳されてい
た。1963年改革派委員会訳大教理86での「神のみ顔を仰ぎ」とは一致させなかった。批判を込めたのか。
 折角の「見る」を2006年の改革派委員会改訳試案は「仰ぎ見て」とした。惜しい。  聖書の諸訳にも見られるように、日本の文化ではともすれば神に関わることについ   て、必要以上の敬意表現に傾く。

2. 問90での「神を直接に見る」
 
 問86は問90に昇りつめる。その内容が格段に高められる。 見えない教会の会員が栄光において享受する、キリストとの完全で満ち満ちた交わりが、考えも及ばない喜びを軸として展開される。
 審判の日に義人に対してなされることを列挙する問90の答で特に注目すべきことは、
「父なる神と私たちの主イエス・キリストと聖霊とをいついつまでも直接的に見て」(2014年宮﨑訳)と言われているところである。
 問86 死の直後に享受する交わりでは「神の御顔を見て」とあったところが、審判の日のことを告げる問90では、「三位一体の神を見て」と言われる。しかも、「いついつまでも直接に見て」。

 上の下線部の原文は in the immediate vision of である。カタカナ語ヴィジョンは未来像の意で身近な語だが、ここでの visionは本来の「見ること」「目撃」の意で用いられている。なおウエストミンスター信仰基準での vision の用例はここのみ。
 大教理86での beholdの証拠聖句 Ⅰヨハネ3:2 とⅠコリント13:12 は共に、大教理90での immediate vision の証拠聖句でもある。90で追加されたⅠテサロニケ4:17,18は主が来られる日に、地上に生き残っている者が空中で主と出会うために雲に包まれて引き上げられ、そこでいつまでも主と共にいることを告げている。to meet the Lord in the airと言われる meetingこそが、光と輝きの内なる immediate visionにほかならない。

 形容詞 immediate は、im/mediateに分解される。この場合 imは否定の in。mediateは media(pl.) medium(sg) から。すなわち、何の媒介もなしに、直接に、じかにの意。
雲の柱・火の柱によらず、この目でじかに、まじまじと、三位格にいます神を直視する、
凝視する、熟視する、正視する。何にも妨げられることの無い目撃こそが90問でのimmediate vision の言うところである。「顔の覆いを除かれて」(Ⅱコリント3:18)。

 上のⅠテサロニケ4:18「(そこで)いつまでも主と共にいる」に結ばれるのが、天上の礼拝を描き出すヨハネ黙示録 22:3,4 だと思う。90問の証拠聖句に欲しいほどだ。
 …and his servants shall serve him: And they shall see his face;… この see his face は、新共同訳では「御顔を仰ぎ見る」だが、文語訳では、「その御顔を見た」。今から身の引き締まるのを覚える。 岩波版 小河訳でも「彼の顔を見」。注に言う。「顔と顔を合わせて神を見る、の意味で、穢れた人間には許されず(出33:20、なお、創32:31 参照)、義人にのみ与えられた約束であった(詩17:15,42:3)。。

 日本キリスト改革派教会創立六十周年記念宣言(「週末の希望についての信仰の宣言」)二(三)「栄光の王国の先取りとしての礼拝」 に次のとおり言われている。
   地上の教会であるわたしたちは、全世界の教会と共に、また天上の群れと一
   つになって神を礼拝し、栄光の王国の礼拝を先取りして味わい、永遠の安息
   を確信し、御顔を仰ぎ見る日を待ち望みます。 (2016年刊『宣言集』117
   ページ)
 下線部には注として ウ大86,90が付されている。とすればこれまでに考察したとお
り、「御顔を見る日」とするのが良かったか。あるいは「御顔を見つめる日」。
   
 同宣言三(二)「死後の状態」に次のとおり記されている。
   天上の勝利の教会へ移された魂は、地上にあるよりもさらに豊かなキリスト
   との栄光の交わりにあずかり、先に召された聖徒たちとの愛の交わりを喜び、
   彼らと共に神の御顔を仰ぎます。(2016年刊『宣言集』121ページ)
 下線部は同様に「神の御顔を見ます」とするのが適切か。あるいは「神の御顔を見つめます」。ここの参照聖句にⅠヨハ三2が欲しいほどだーー「…なぜなら、そのとき
御子をありのままに見るからです。」

 改革派委員会訳大教理86では「神のみ顔を仰ぎ」、90では「父なる神と主イエス・キリストと聖霊を永遠に直接見て喜ぶ…」。本宣言執筆者は86での訳語にひっぱられたのであろう。
 
3.問90での「神を満ち足りるほどに喜ぶ」

 本問では、三位の神を直接に見ることと、この神を心ゆくばかりに喜ぶことが直結されている。原文では次のとおりーー
      in the immediate vision  and
                           fruition
                           of God the Father,
                           of our Lord Jesus Christ, and
                           of the Holy Spirit,
 神を見ることと神を喜ぶことが、単純な並列のことではなく、一体のことであることが構文から明らかに見てとれる。ここでの証拠聖句には挙げられていないが、詩篇17:15が注目に値する。
      I will behold thy face in righteousness:
                  I shall be satisfied, when I awake, with thy likeness.
 岩波版 松田訳では、「しかし私は、義にあってあなたの顔を視※、目が覚めたとき、あなたの姿に満ち足りよう。」
      ※神の顔を見る と諸訳の記すところを、松田は一貫して神の顔を視る と訳す
       11:7, 27:4, 63:3)。直視、正視、注視のさまを言い表す。
 関根訳では、…あなたのみ顔を見、…み姿をみてあき足りるであろう。
まさに、満ち足りるとは飽き足りるほどのことだ、と知らねばならない。なお文語訳で既に飽足(あきた)ることを得た。

 問90での fruitionは なじみの無い語だが、ウ告白7:1にも用いられている。…yet they could never have any fruition of Him…諸訳では神を喜ぶということ/神を喜び
とすること。 成果/収穫の語を充てる訳本もあるが、これは、fruitからの連想と思われる。事実、辞書を引けば、結実、成果の訳語を目にするが、辞書によっては、「結実」などの意は fruitとの誤った連想と明記して、注意を促している。(例)研究社リーダーズ英和辞典。
 OEDで fruitionを引けば、冒頭に the action of enjoyingが挙げられている。これに続くのが the pleasure arising from possessionである。そのうえで、fruitionが誤って fruitと結び付けられていることに注意を促し、このような誤用は英国の辞書でも米国のWebsterやWorcesterでも支持されていない、と注記している。先に触れたリーダース英和辞典での注記はOEDに従ってのものと思われる。
 
 fruitionは ラテン語 fruor (to enjoy)に由来し、『所有・実現』の喜びを意味する。
 ウ大教理 90での fruitionは、三位の神を我が主、我が神としていただいていることの無上の喜びを言い表している。 まさに、躍るばかりに神を喜ぶ。三位の神をいついつまでも直接に見て、この三位の神を喜ぶ。

 このように喜ぶさまを表す日本語に「法悦」がある。新明解国語辞典では、仏の道を聞き、随喜し、全身を仏にゆだね、絶対安心の境地に浸ること。肝にはまる字釈だが、キリスト教教理問答には使えない。
 「喜悦」もあるが日常語ではない。「歓喜」も考えられるが、結局のところ「喜ぶこと」に落ち着く。飽き足りるほどに喜ぶことを宮﨑訳では「満ち足りて喜ぶこと」と言い表した。

 ウ大教理第1問での「神を永遠にこの上なく喜ぶこと」は、第90問での「父なる神と私たちの主イエス・キリストと聖霊とをいついつまでも直接に見て、満ち足りて喜ぶこと」に見事に昇りつめる(いずれも宮﨑訳)。この直接に見ること (the immediate vision)
を、Vincent はウ小教理38を解説するなかで、the immediate and beatifical vision of
his faceと言っている。一般の辞書にさえ、beautific visionが採録されていて、驚くばかりである。 字釈は次のとおりー〔神学〕至福直感(天使や聖徒が天国において天主を見ること);神の栄光〔天国〕の示現。

 聖書の告げる「神を見る」ことには 神秘的な要素は全く無い。「見神」についてのこの上なく有益な論述は、アウグスティヌスの『神の国』第22巻にある「神の直視」の部分である。ウ大教理90での immediate visionの訳語としては、「直視」に勝るものは無い。…「直接に見て」、「直接に視て」

 fruitionの意味する満ちあふれる喜びは 詩篇作者のしばしば歌い上げるところである。たとえば、16:11。
   in thy presence is fulness of joy
   文語訳 なんじの前(みまへ)には充足(みちたれ)るよろこびあり
   他の諸訳では、満ちあふれる喜び、満ち足り、あふれる…
   充足・充満・満足・横溢の意がさまざまに言い表されている
 次に63編を見れば、2節では神を見ること、神に目を注ぐこと、5節では神に飽き足りることが歌われて、うるわしい対を成している。
    2 To see thy power and thy glory, so as I have seen thee in the sanctuary.
     5   My soul shall be satisfied as with marrow and fatness; and my mouth shall
       praise thee with joyful lips.
  2節の I have seen thee を 文語訳は「目をなんじより離れしめざりき」と言い表した。
これは胸に迫る。注視、熟視。
 5節の be satisfiedを飽く、飽き足りとしたのは、文語訳、口語訳、関根訳。満ち足りるとしたのは、新改訳、新共同訳、松田訳、フランシスコ会訳。
 5節に marrow and fatness(髄と脂)の比喩が用いられていることからも、be
 satisfied は「満ち足りる」ではなく「飽き足りる」とするのが自然だと思う。my
 mouthが用いられていることからしても。
  ウ大教理90で「飽き足りて喜ぶこと」とするのはどうだろうか。教理問答書にそぐわないことはないような気がする。
 上の5節 文語訳が「わがたましひは髄と脂とにて饗(もてな)さるるごとく飽(あく)ことをえ」と、下線部を付して丁寧に表現したとおり、私たちは神の周到なおもてなしに飽き足りて喜ぶ。大教理90の折角の fruitionを「喜ぶ」の一語では済まされないものがある。

4. 問90での「喜び」の特質

 (1)約束実現の喜び
  p.7に記したとおり、によれば、fruition は the pleasure arising from possession
 の意である。これを受けるように、リーダーズ英和辞典は先ず達成、実現、成果の訳語
 を挙げ、次いで『所有・実現の』喜びを記す。後者が90問でのfruitionの意味するところである。
  長きにわたり地上で待ち焦がれていたものを遂に手に入れたとの躍り上がるような喜
 びが自分のものとなり、心は満たされる。
  86問 死の直後に、この上もなく高い天で神を見る
  90問 審判の日に、至高の天において父・子・聖霊なる神をいついつまでも直接に見
   て、飽き足りるまでに喜ぶ。・・・これ以上のことはない。
 福音の約束は、ここに何一つ欠けることなく成就された。地上から贖われた十四万四千人の者たちは、玉座の前で新しい歌をうたう(黙示録14:3)。とこしえまでも。

 90問では、実はfruitionに先だって、キリストの右に置かれた者が「考えも及ばない喜び
に満たされる」ことが明記されているーーwhere they shall be・・・filled with inconceivable joys,・・・ここで言う喜び(joys)の究極の姿が、joyを遙かに超えた満ち
足れる喜び(fruition)そのものである。fruitionが現代の英語話者になじみの無いことから、
これをenjoymentと言い換えた現代語訳があるが、それでは、joyとの違いがおぼろになる。
 繰り返すが、fruitionは無上の満足感を抱いて喜ぶこと、すなわち「満悦」そのものである。宮﨑訳「満ち足りて喜ぶこと」ー満悦。これこそ最高度の充実感。

 天国を目指す旅人であるわたしたちは、天国を憧れる。しかし、天国での祝福を待ち焦がれると言う方が、信仰の事態に即していると思う。キリストへと接ぎ木されて神の子とされた者は、地上でたどる旅路において、苦難に耐え、誘惑と闘う。その中で、天国でいただくこの上ない祝福を瞑想し、そのことによって、今、この地上で神の国の祝福を確かに
受け取っていることを確信する。 その確信は、天国でいただく計り知れない祝福を熱望
することへと連なる。

 「沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ」とダビデは訴えた(詩編37:7)。「沈黙して」は、信仰に基づく静けさと安らぎを言い表している。「待ち焦がれる」の語の原意は
「ねじる」で、身もだえするさま、もだえ苦しむ様子描写している。英語では`twist'。
日本語で「ツイスト」と言うとおり。信仰者の旅路には苦悶があり、極度の緊張がある。
自分の内なる罪、特に貪りの罪との闘いのただ中で神の手にすがって助けを祈る。ほえたける獅子のように向かってくる悪魔に抵抗し、信仰に踏みとどまるために、主キリストにはすがりついて力を祈り求める(Ⅰペテロ5:4ー11)。
 ひるむことなく、レスリングの激しさをもって神と取り組むばかりの燃える思いが「待ち焦がれ」の語の示すところである。終わりの日をひたすら待ち望むとは、このように闘い、このように励むことに尽きる。感傷的な憧れとは異なる。

(2)聖さと結ばれた喜び
  90問では、父・子・聖霊の神を直接に見て、満悦することにおいて、体と魂の両面で、完全にきよく幸せな者とされることが確信されている。…made perfectly holy
and happy…。
 イエスは言われたー「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」(マタイ5:8)この箇所での清さ・幸い・神を見るのトリオを大教理90でそのままに見る思いがする。
 英語でのここの`happy`を日本語で「ハッピー」と書けば、 途端に価値が下がる。
聖書の告げる happy, happiness は神との関係、人との関係、世界との関係における十全
かつ円満なあり方を指している。
 名詞 聖さと幸いの複合は、天使に対する神の摂理についても見ることができるー大教理 19答・・・神は、また、残りの天使たちを聖さと幸福のうちに揺るぎないものとし、
御心のままに、彼らすべてを、神の力と憐れみと正義の行使のために用いられます。(宮﨑訳)
 形容詞 happy が単独で用いられるのは、告白4:2である。……善悪を知る木から食べるな、という命令を受けたが、これを守っている間は、神との交わりにおいて幸せであり、…。(改革派委員会訳)
 神の恵みによって贖われた者は、地上にある限り、残る罪との闘いに従事し、聖化の道
を歩むが、時に罪に陥り、誘惑に打ち負かされる。しかし、神の不変の愛とキリストとの結合、さらにキリストの絶えざる執り成しによって、堅忍を与えられ、救いに至るまで固く守られる(大教理79問)。
   哀歌3:25-26は告げるーー
     主に望みをおき尋ね求める魂に
       主は幸いをお与えになる。
     主の救いを黙して待てば幸いを得る。

   大教理86問 見えない教会の会員の魂は、死の時 全く
      ↓  聖くされる。    ↓
      90問 審判の日に、義人は体と魂の両面で、完全に聖く幸せな者とされる。


 おわりに

  地上を旅するわたしたちは、自分の死を厳かに思い、終末の完成を心を躍らせて
 瞑想したい。満悦(fruition)を目指して地上の生を全うしたい。死後と終末を巡って、
 ウエストミンスター大教理問答 86問および 90問に勝る告白は他に無かったし、これからもおそらく無いであろう。この両問に深く心を沈めたい。
 地上の命を許される限り、声高らかに歌いたい。

       したしくわが主に まみえて喜ぶ
           ときはちかし。
       みもとにかえらば、つきせぬ命(いのち)を
           代々(よよ)たのしまん。
             (1954年版現行讃美歌165番4節)

                      (石丸 新)












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2018年1月18日木曜日

「熊本伝道所の40年を振り返って」(2017.8.26)

「熊本伝道所の40年を振り返って」
2017年8月26日(土)
宮﨑彌男      
(東部中会引退教師) 
序 私の自己紹介…
・①1978年1月~1996年3月(18年間)、熊本伝道所宣教教師、②2012年4月~2014年6月(2年3ヶ月)、同定住代理宣教教師。計20年と3ヶ月(熊本伝道所40年の歴史のちょうど半分を小生が牧師として担わせていただいた。本当に光栄なことであった、と主と皆様方に感謝している。特に70才を越えてから,再び呼んでいただいて、引退教師として奉仕させていただいた②は、私と家内にとっては、幸いな時であった。と感謝している。
Ⅰ.熊本伝道の出発点(原点)
・日本キリスト改革派教会による熊本伝道は、日本キリスト改革派長丘教会(伝道所)の熊本集会から始まる。1974年12月13日~1977年4月3日、毎月1回、常葉謙二長老ご夫妻宅で家庭集会。長丘教会の岩崎洋司牧師が出張奉仕。これが契機となって,日本キリスト改革派教会による熊本伝道が1978年1月1日の主の日に,正式に始められ、私が宣教教師として遣わされた。
・岩崎洋司先生の九州伝道のヴィジョン…有神的人生観世界観の確立と改革派教会の形成。これが改革派教会による九州伝道/熊本伝道の出発点/原点である。Cf. 岩崎洋司「九州の開拓伝道に寄せて」(中央宣教研究所『紀要』第8号、10,28-29頁)、「創立二十周年記念宣言」「回顧」の項。(資料1)。
・聖書における有神的世界観と教会の使命…詩編24編に学ぶ。
[1節]私たちが住んでいるこの「世界」とはどんな所か。主が「ご自身のもの」として、ご支配なさっている所なのだ。
[2節]…基礎工事は、主がなさった。それ故に,堅固な土台は据えられている。「潮の流れ」もこの土台を壊すことはない。
[3-6節]…しかし、その上に築かれる人間の歴史/文化/生活はアダムにおける罪の故に、揺らいだり壊されたりすることがある。それ故に十字架の死と復活によって罪と死の力に打ち勝たれたキリストによる救いが必要である(創世記3:15)。キリストは贖いを成し遂げ、これを土台として教会を建てられた(マタイ16:18)。
[7-10節]…教会の形成と完成のために主は力強く働き給う。
この詩編24編が証しているように、有神的人生観世界観の確立とそのための教会の樹立を、私たちは二つの別個の使命としてではなく、一つの目的として、その実現のために祈り励む。
Ⅱ.教会形成の課題
・教会役員の育成と伝道の課題…伝道の進展と教会形成において一番重要なことは、教会役員(教師/長老/執事)の育成である(使徒20:,31,32、『熊本伝道所十五年の歩み(1978~1993)』25頁(資料2)。熊本伝道所40年の歴史の中で、未だに教師と2名以上の長老から成る小会(長老会)を設置できないでいることは、私自身の率直な反省事項であると共に、地方伝道の難しさでもある。
・教師と教会役員
 教師…自ら伝道すると共に,役員を育成しなければならない(二重の使命、Ⅰテモテ5:17)。
教会役員(長老、執事)…「世の働き」(職業)に従事しつつ、教会で牧会/奉仕する(二重の使命、教会員の祈りによって支えられなければならない)。
・使徒20:32に学ぶ。
御言葉には,教会を建てあげ、教会員に嗣業(クレイロノミア)を受け継がせる力がある。「教会は、壊さない限り、建つ」(榊原康夫)。Cf. 長田秀夫「地方伝道で学んだこと」(『成長する教会』1989年度東北中会修養会記録)(資料3)。
Ⅲ.熊本大地震と執事的愛の奉仕
・「ゆるっとセンター」、asobeba、「あみあみの会」等、新しいプログラムが始められたことの意義…地域のニードに応えるキリストの教会。
・ルカ10:25~37(「善いサマリア人」のたとえ)に学ぶ。
「隣人を自分のように愛せよ」についてのイエスの教え…イエスの目線はもっぱら「追い剥ぎに襲われた人」に注がれている。主エスにとっての一番の関心は、この人が何を必要としていたか、にあった。サマリア人(当時のユダヤ人にとっては異端者)は、この人を見て「憐れに思い」彼を「助けた」。イエスは、私たちに対して言われる。「行って、あなたも同じようにしなさい」と。これが、隣人愛であり、永遠のいのちである。Cf.吉田隆「“執事的宣教”とは何か―その重要性と課題」(『紀要:ミッション』第10号、2015年3月31日)(資料4)。
結び 
・「主を愛し、教会を愛しなさい」…この「愛の律法」は、私たちに対する十字架の主の「命令」であると同時に、また「賜物」(Ⅰコリント12:31)であることを覚えよう。

(資料1~4)

(資料1)  岩崎洋司「九州の開拓伝道に寄せて」(中央宣教研究所『紀要』第8号、10,28-29頁)。
「(開拓の理念) 九州開拓伝道の開始は68年9月でしたが、その精神的基点は66年4月の二十周年記念大会にあったと言えます。この大会では、記念宣言と共に説教と三つの記念講演がありました。あの二十周年宣言は創立宣言をふまえ更にこれを教会論として徹底した改革派の教会理念の白眉また結晶と言うべき歴史的宣言でありましたし、また説教と三つの講演もそれぞれ、改革派教会の現状と将来を踏まえて躍進する教会の原理とそのヴィジョンとをうたった素晴らしいものでした。これらを含めて、二十周年記念大会の理念こそ、九州開拓の基本理念であったと言うことができます。…ここに示されている二点は、余りにも有名な創立宣言で示された改革派教会の主張の二点です。即ち,第一点は、有神的人生観乃至世界観の確立と第二点は聖書的使徒的教会の樹立,以上の二点です。さて,私は最初、この創立宣言を読みこの二点を知ったとき、余りの素晴らしさに目を見張ったことを想い出します。特に第一点は,戦前の教会では、全く聞かれなかったことです。九州伝道においても,この二点を生かそうと思ったことは当然です。それで、看板にも改革派の時を大きく書きました」。
「創立二十周年記念宣言」「回顧」の項
「思えば、昭和21年4月28日、荒廃焦土の祖国に、神のみ旨にかなう国家と教会の建設を願うわが日本基督改革派教会が創立されたことは、神の深きみ旨によるところである。まことに、キリスト教有神論こそ新日本建設の唯一の基礎であるとして、信条的にも教会政治的にも宗教改革の正統を継ぐ教会を樹立しようとする改革派教会が日本人のみの手によって誕生したことは、わが国キリスト教史を飾る画期的事件であった」。

(資料2)『 熊本伝道所十五年の歩み(1978~1993)』(別途配布済み)。

(資料3) 長田秀夫「地方伝道で学んだこと」(『成長する教会』1989年度東北中会修養会記録)(別途配布済み)。

(資料4)  吉田隆「“執事的宣教”とは何か―その重要性と課題」(『紀要:ミッション』第10号、2015年3月31日)

「[そして、この度の震災を通して、私が何べんも何べんも思い巡らされました御言葉が、あの『善きサマリア人』の譬えであります。あの『善きサマリア人』の譬えというのは、サマリア人というユダヤ人が毛嫌いしておりました異端者でありますね。その異端者が親切にしてあげた、隣人になったという物語として痛烈なユダヤ人批判と言いましょうか、非常に衝撃的な教えになっているわけであります。今回この御言葉を、様々巡らせる中で、一つたいへん深く教えられましたのは、あの譬え話の中でですね、イエス様の視点がどこにあるかということです。イエス様の視点が、実は倒れている人のところにあるのではないかというふうに気付かされました。倒れている人にとってですね、そこに祭司が通ろうが、レビ人が通ろうが、関係ないんです。タイトルは関係ないんです。倒れている人にとっては、助けてくれる人が全てなんです。助けてくれる人が善い人なんです。その倒れている人の視線にイエス様が寄りそっておられる。その人が何を信じていようが、どういう宗教であろうが、どういう社会的な地位を持っていようが関係ない。倒れている人にとっては、助けてくれる人が善い人である。その倒れている人の視点でイエス様が見ておられる。正に、イエス様が倒れてらっしゃる。そのことを改めて教えられました。私たちの神さまはこういう方です。決して天高くから見ているわけではない。神さまの視点はそういう所にはありません。倒れている人から見ています。お腹を空かせている人から見ています。抑圧されている人から神様は見ていらっしゃる。この世界を。そして私たちキリスト者を。そのことに気付かされました。」