2016年10月8日土曜日

「ICS軽井沢文庫だより」第3号

ICS軽井沢文庫だより」 NO.3 2016108

2016年 夏から秋へ」 宮﨑彌男
 
 3ヶ月ぶりに「ICS軽井沢文庫だより」第3号をお届けします。
  今年の夏は、雨が多く、台風も次から次へと南の方から襲来したので、何だか本格的な暑さを感じないままで過ぎ去ってしまったような思いがしないでもありません。
 それともう一つ、今年の夏、特に8月は、毎週のように近隣諸教会での説教奉仕等があり、教会奉仕に明け暮れたという事情もあったかも知れません。第一週は新潟伝道所、第二週は佐久伝道所(ウ大教理学習会)、第三週は長野伝道所、第四週は再び新潟伝道所、と詰まっておりましたので、“夏期休暇”はありませんでした。
 それで、旅行と言えば、718(月・祝)に神港教会で行われた日本カルヴィニスト協会の年次総会・講演会に出席のため、関西に行ったことくらいです。この会は、有り難いことに、遠隔地からの参加者には、旅費の半額援助があるのです。それでも、長野から中央線廻りで、会計さんに配慮しながらの旅行を心がけました。
 この会では、KGK総主事の大島重徳さんや東京基督教大学准教授の岩田三枝子さんといった比較的若い人材が講師として、それぞれ、「私の生き方を変えたカルヴィニズムとの出会い」、「キリスト教世界観―東京基督教大学における実践実例を通して―」と題する講演をされたこともあって、例年よりも多くの参加者がありました。カルヴィニスト協会の活力をいささかなりとも感じさせた会合でした。
 この会の質疑応答の時に、私が以前に翻訳・出版した、アルバート・ウォルタース著『キリスト者の世界観―創造の回復―』のことが話題になりました。この本、今は品切れとなっており、再刷となれば、原著改訂版に加えられた付録の翻訳が必要、と申しましたところ、「ぜひやってほしい」との声を多くの方々から聞きました。もとより、すでに一部手がけていたことでもありましたので、神戸からの帰途、先ずはこの仕事を優先させよう、と考えるに至りました。スピアの『カルヴァン主義哲学』(前号参照) は、これを終えてからの課題にしたいと思います。ご了解ください。
 “Worldview between Story and Mission”(「物語と宣教を媒介する世界観」)と題する上記改訂版の付録(Postscript)は、マイケル・ゴヒーンとアルバート・ウォルタースの共著で、原著24頁に及ぶ力作です。意図せざるも、初版に欠けていた宣教(missional)的な視点を加味し、今日のキリスト教会の宣教的課題に応えようとする意図をもって書かれたようです。
 多くの政治家が「日本会議」等の影響下、「改憲」を目指す中で、私たち日本のキリスト教会も、全世界・全宇宙を視野に入れた、霊的な戦いを強いられていますが、この「付録」において展開されている、“物語と“世界観と“宣教についての論述は、大きな示唆を与えてくれます。ご期待ください。

(いよいよ「ICS軽井沢文庫」のブログを立ち上げました)
 
去る9月24()午後、思いがけず、島先克臣さん・夏子さんご夫妻が私どもを訪ねてくださいました。島先さんは、これまで、牧会やフィリピンでの宣教活動に従事されたことがあり、キリスト教世界観に立つ理解の普及に熱心な方です。
当日は、私どもの住まいより10分くらいの宿泊施設に泊まっておられたと言うことでお訪ねくださったのです。ICS軽井沢文庫を見ていただいたり、色々情報交換を行うなど、楽しい時を過ごしたのですが、ホームページの立ち上げのことを話したところ、今は無料で簡単にできると言われ、さっそくグーグルのブロガーで、「ICS軽井沢文庫」のブログを立ち上げてくださいました。何と事が早く進むことでしょうか!!
それで、皆さん、「ICS軽井沢文庫」で検索していただくと、出ますので、一度試してみてください。パソコン、大の苦手の私ですので、まだ、整っていないところもあり、これからも、島先さんや近所のパソコン教室主宰の赤井さんに世話になりながら、私なりに充実させてゆきたいと願っています。
 まずは、「ICS軽井沢文庫だより」をこのブログに掲載します。大体、月一くらいで「たより」を書くつもりです。そして、次に、翻訳原稿を、できるだけ区切りの良い所で、できた所まで掲載します。そして、必要かつ可能ならば、出版を目指します。その他、他の方の執筆された記事を、許可を得て掲載することなども、検討したいと思っています。
 なお、「たより」につきましては、前号で申しましたように、メールや郵送ご希望の方は、別途お送りしますので、お申し出ください。

【連絡先】
389-0115長野県北佐久郡軽井沢町追分36-23 宮﨑彌男・淳子
TelFax 0267-31-6303(携帯) 080-3608-3769

e-mailmmiyazk@a011.broada.jp





2016年10月5日水曜日

ICS軽井沢文庫だより NO.2 2016716

「カルヴァン主義哲学をあなたに」 宮﨑彌男
 
 「ICS軽井沢文庫だより」第2号をお届けします。
 第1号をお送りしたのは、614日でしたので、そろそろ第2号かなということで、ワープロに向かっています。第1号に対しては、多くの方から、親切なレスポンスをいただき、御礼申し上げます。
 ある先輩の先生からは、「さあ!いつまで(何号まで)続くかな?」と若干辛目の感想もいただきましたが、「とっても良いこと」と期待してくださる方たちも多く、励まされています。改革派教会の引退教師となってからすでに5年が経とうとしていますが、“伝道者生涯現役”を志している者としては、やはり、御言葉を“読み聴き黙想する”入力活動だけでは、健康維持は期待できず、少しは(御言葉の奉仕やこのような「たより」など)“発信”も必要かと心得ている次第です。

(法理念哲学入門書の出版計画) 
文庫につきましては、まだまだ、“充実”とは言えない未整理の所も多いのですが、ソフト面での充実を、少しずつ考え始めています。その一つは、J. M. Spier, What Is Calvinistic Philosophy?(カルヴァン主義哲学とは何か)の日本語訳出版です。この書物の邦訳については、すでに、1967年に活水社書店から出版された石黒直男訳『カルヴァン主義哲学』があります。この訳書には、巻末に語句の索引などもついており、改革派教会の長老が精魂込めて訳されただけあって、得がたい価値ある本であることは間違いありません。しかし、それでも、今日の読者のためには、もう一度訳し直す必要があると思っています。
 私は、1989年に、A・ウォルタース著『キリスト者の世界観~創造の回復~』を翻訳・出版したとき、次には法理念哲学の入門書を出版したいと考えていました。それで、現在英語で手に入る2,3の入門書を読んでみましたが、いずれも欧米の読者のために書かれたもので、日本の読者に馴染んでいただけるか、という危惧がありました。その点、上記のスピアーの入門書(オランダ語の原著を、Fred H. Kloosterが英語に訳したもの)は、先ず“簡潔”で、さらには、原著者がオランダの諸教会で牧会に従事した牧師であることにもよると思われますが、信仰生活をより豊かにするという方向性において“奨励的”であること。この2点により、この書物を選びました。

(誰にでもわかる法理念哲学) 
ところで、法理念哲学(philosophy of law-idea)は、特にA. カイパー(1837-1920)の神学的伝統の中で養われたH. ドーイウェールト(1894-1965)とD. H. Th. フォレンホ-フェン(1892-1978)によって創始され、今日に至るまで、国際的にも多くの支持者/共鳴者を得ておりますが、日本ではまだまだよく知られているとは言えません。色々の理由があると思われますが、用語の問題はその一つです。英語で読むと、それほど難しいとは思わないのですが、日本語訳で読むと、難しいという印象を受ける方が多いようです。私たち多くの者が哲学用語に慣れていないということがあるかと思いますが、やはり的確な日本語への翻訳が望まれるところです。
 法理念哲学は、天地の造り主なる神様が、その(創造・贖い・希望の)「法」によって万物を治めておられるという聖書のメッセージの上に立つ哲学ですから、本当は、子供でも大人でもお年寄りでも、すぐにわかるものなのです。(この点、カルヴァンの『キリスト教綱要』や『ウェストミンスター信仰基準』も同じでしょう)。しかし、日本語に訳しますと、用語の問題に阻まれ、広く学ばれていないのは、残念です。
 私としては、上記石黒直男訳を始め、すでにドーイウェールト哲学と取り組んでこられた春名純人先生、稲垣久和先生、市川康則先生等の業績を参考にしながら、翻訳ができればと願っている次第です。ただ、私は哲学の専門家ではなく、説教・牧会に長く従事してきた牧師でありますので、この度のカルヴァン主義哲学入門書の翻訳についても、牧師の訳を心がけたいと思っています。
 トロントICSで習ったH. ハート先生は、授業の中で、ヨハネによる福音書1:1の「ホ・ロゴス」は、聖書的に言えば、「WORD=御言葉」、哲学的に言えば、「LAW=法」だと言われました。御言葉に従うことと、創造の法(creation-law)に従うこととが一体とされる神学/哲学が熱心に学ばれ、実践されるならば、日本の伝道にも大きな地平が開かれてくると信じています。
 
(今後のこと)
次号からは、上記「カルヴァン主義哲学とは何か」を、1章ずつ順不同で取りあげ、翻訳または内容の紹介/解説を試みたいと願っています。ご期待ください。
なお、「たより」の送付の仕方については、近い将来、ホームページを立ち上げ、その中で、ブログの更新という形で「たより」を続けることができれば、と考えています。しかし、そのようにできるまでは、郵送、メール配信、その他の方法に頼るしかありません。
もし、受信ご希望の方で、メール配信の可能な方は、メールアドレスをお知らせください。郵送ご希望の方は、郵送料ご負担(後ほど纏めてで結構です)ということで、郵送先をお知らせいただければ、喜んでお送りします。さらに、別途、こちらから勝手に差し上げる方もあるかも知れませんが、しばらくは、お許しいただければ幸いです。
それでは、梅雨明けも間近です。お身体お大事になさってください。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」。
       (ヨハネによる福音書1:15
                               


【連絡先】
389-0115長野県北佐久郡軽井沢町追分36-23 宮﨑彌男・淳子
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ICS軽井沢文庫だより第1号

ICS軽井沢文庫だより」 NO.1 201669

 皆さん、お元気ですか。わたしは、現在、長野県北佐久郡軽井沢町に住んでいる日本キリスト改革派教会・西部中会引退教師の宮﨑彌男です。
 今年もすでに半ばに差し掛かり、もう1ヶ月もすれば、ここ軽井沢も避暑地本番の夏を迎えようとしています。
 わたしは、今年の年賀状で「ICS軽井沢文庫」の開設をお知らせし、4月オープンの予定、と言っておりました。ところが、思いがけないことに、4月14日と16日に、わたし自身が都合20年間開拓伝道しました熊本で、M6~7の大地震が発生し、その被害状況に心も体も揺れ動く毎日が続きました。幸いにして、教会員とご家族は主の御守りの中で、皆さん無事で、教会堂も、地域の方々のために、支援物資の集配また憩いの場となっているようで、感謝しています。しかし、今なお余震の心配があり、多くの方が避難所生活を続けておられるとのことですので、わたしも、家内と共に今月の25日から4日間お訪ねし、御言葉のご奉仕もさせていただきたいと願っているところです。
 そんなわけで、「ICS軽井沢文庫」の開設も予定より少し遅れてしまいました。この「たより」(NO.)の発刊をもって開設とさせていただきます。
  この「たより」は、当面、毎月第2週の木曜日に発行することといたします。当初は、「文庫」に関する情報のみならず、わたしや家内の身辺の出来事なども適宜報告させていただきますので、気軽にお読みいただき、お祈りに覚えていただければ幸いです。
 この第1号では、以下に、この文庫開設に導かれた経緯、現在の文庫の様子、今後の計画/ヴィジョン等について記しておきます。

(開設に至るまで)
 ICS軽井沢文庫の開設に至るまでの経緯については、一つ一つのことにおいて、主の摂理的な導きがあったことを覚えざるを得ません。 
  牧師は、引退の時、ほとんど例外なく本の処分に頭を悩まします。牧師館の書斎から一般の住居へ引っ越す際、書物を収納するスペースは限られています。それで、泣く泣く多くの愛蔵書を処分せざるを得ないのです。わたしの場合も、筑波みことば教会を定年退職して、軽井沢の現住所に引っ越したとき、多くの書物を手放さざるを得ませんでした。それでも、残りの本を住居内の書棚に並べ終えた後、なお20箱ばかりを物置小屋に積んでおく以外にありませんでした。その中には、以前にカナダの留学先から持ち帰った大事な書物も多くありましたので、湿気の多い軽井沢では心配でした。
 いずれ何とかしなければと思っていたところ、昨秋、近くの家の敷地内に木製の小屋が建っているのを見て、わが家の庭にログハウス風の「ICS軽井沢文庫」を設置することを考えた次第です。幸い、近くに住んでいる義弟(2級建築士)の協力も得て、小屋の内外に灯りもつき、たった3畳の小さなものですが、「ICS軽井沢文庫」が庭の一隅に完成しました。ハレルヤ!

(現況)
 ICS軽井沢文庫には、わたしの持っている書物やその他の文献・資料の内、大まかですが、次の三つのカテゴリーに従い、これに限って収納・展示したいと思っています。
 ①トロントICSInstitute for Christian Studies)関連の書籍・文献
 ②オランダで展開された「法理念哲学」(philosophy of law-idea)関連  の書籍・文献
 ③その他、日本におけるキリスト教有神的世界観人生観確立の   ために有益な書籍・文献
 現在のところ、①については、約700冊を収納しています。但し、この中には、わたし(宮﨑彌男)1975年4月、ICSに提出した修士(M.Phil)論文“A Basic Pattern in Zen Buddhism--the Logic of Sokuhi--”及び、その関連の文献も含まれています。
 ②については、現在のところ、最近いただいた「H. H. Schat 氏寄贈図書」(法理念哲学関連のオランダ語、英語文献約70冊)がその主なものです。なお、この関連で、数ヶ月前、トロントICSのライブラリアンから、オランダ改革主義哲学協会の学術誌“Philosophia Reformata”の創刊号(1936)から(ほぼ)全巻寄贈の可能性があるとのメールをいただきました。もしいただければ、大変貴重な“文庫の宝”となるに違いありません。

(今後の計画とヴィジョン)
 上記のごとく、ICS軽井沢文庫は、設置の直接的な動機としては、引退牧師の愛蔵書収納の必要性から出たことでありましたけれども、事がスムーズに運んで行くにつれて、わたしは主の「聖く、賢く、力強い」摂理の御手(ウ大教理18)に導かれていることを強く覚えざるを得ませんでした。と申しますのは、わたしが1975年4月に上記修士論文をトロントICSの教授会に提出し、合格を告げられた後の懇談会で、わたしは、帰国後に、ICSのような改革主義キリスト教哲学研修所を日本にも創設したい旨、強い決意を述べているからなのです。そして、その時のわたしの言葉は、そのままの形で、当時のICSニュースレター(“Perspective" Vol.9, No.5, 1975/5-6)に、掲載されたのです。
 このことは、牧師現役時代も、わたしの頭から離れたことはなかったのですが、牧会と両立できると思えず、延び延びになっていたのです。結構長い「延び延び」ですね! でも、引退教師となった今、やっと、一歩を踏み出すことが出来て感謝です。ハレルヤ!
 そういうわけで、「ICS軽井沢文庫」は小さな第一歩ですが、それでも、重要な第一歩なのです。
 「ICS軽井沢文庫」は、年賀状にも書きましたように、「カナダ・トロント留学時代を中心に集めた、有神的世界観人生観確立のための文献や講義ノートを収納・公開」するためのささやかな文庫です。なぜ「公開」かと言えば、私どもがここ軽井沢・追分にいる間、ぜひ皆様方にお訪ねいただいて、書物を見開き、テープを聴き、教会の現在と将来、日本の現在と将来について語り合いたいからです。軽井沢は、不思議と話の弾む所です!。
 新幹線で東京から1時間とちょっと、「しなの鉄道」信濃追分駅から車(迎えに行きます)10分の所です。わたしの夢は、この文庫が発展して、教会の内外の方々(特に、若い世代の方々)が聖書的改革主義的世界観に立って、今日の教会と社会(さらには、文化・芸術・学問etc.)に対する鋭い切り込み術を学ぶJICSJapan Institute for Christian Studies日本キリスト教哲学研修所)となることです。このために、ぜひお祈りいただきたいと存じます。
 
  「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かさ
  れないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主
  に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄になら
  ないことを、あなたがたは知っているからです」。
      (コリントの信徒への手紙一15:58
 
                               (宮 男)

PS. この「ICS軽井沢文庫だより」(NO.1)は、今年2016年の年賀状を差し上げた方々とその他親しい方々にお送りしています。次の「たより」は、714日の予定です。受信ご希望の方は、メールアドレスをお知らせくだされば、当方よりメールでお送りします。

389-0115長野県北佐久郡軽井沢町追分36-23
宮﨑彌男
TelFax 0267-31-6303(携帯) 080-3608-3769
e-mail:mmiyazk@a011.broada.jp

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2016年10月4日火曜日

『キリスト者の世界観―創造の回復』改訂版<あとがき>




<あとがき>
物語と宣教を媒介する世界観
マイケル・ゴヒーン
アル・ウォルタース
 『キリスト者の世界観―創造の回復―』が書かれたのは、ある特殊な状況の下においてでありました。元々、それは、1970年代にアル・ウォルタースがトロントのキリスト教学術研修所(ICS)で教えたキリスト教哲学のコースのため聖書的世界観の基礎知識を提供する目的で書かれたものでした。ICSに来る学生の多くは、ICSの背景にあった改革派の伝統を知らず、それゆえに、自分たちが学ぼうとしている改革主義哲学の伝統の底流にある聖書的世界観についての理解を欠いていました。改革主義哲学の詳細に入ってゆく前に、その前提となっている世界観に関わる幾つかの重要事項を学んでおく必要があったのです。
 1985年の出版以来、本書は広く用いられ、多くの言語に翻訳されました。しかしながら、元々の状況から離れて広く用いられた結果、時には、誤解を生み出すことともなりました。本書が元々DHT・フォレンホーヘンやH・ドーイウェールトの哲学への序説として書かれたということは確かに本書の中で書かれてはいるのですが、そのような目的の限定はしばしば見過ごされました。あたかも、本書が聖書的な人生観世界観についての完結した著作であるかのように読まれるようになったのです。実際のところ、この本の目指したところは、組織だったキリスト教哲学展開のために必要な視野を得るための、言うならば、「桁」を構築することだったのです。その結果、聖書の物語的な特質や、宣教の重要性といった、聖書啓示の全体像を考える上で欠かすことのできない局面が十分に取り上げられていないのです。
 本書の出版20周年に際し、私たちは、この問題に対処したいという思いもあって、最終章を加えることにしました。私たちは、「創造の回復」という根本的に肯定的なメッセージをより広く聖書的文脈に位置付けるために、第一版で十分に顧みられなかったこれら幾つかの主題を取り上げ肉付けしたいと思います。

出発点は福音

 イエス・キリストに従う者として、私たちは、世界観も含め、どのような問題を考えるときも、聖書宗教の根元的な良い知らせ、すなわち、イエス・キリストの福音を出発点としなければなりません。イエスが歴史の舞台に登場されたとき、彼は、神の国の癒やす力がついに決定的にこの世界に突入してきたことを告知されました。この福音の告知は、旧約聖書に告げられている神のあがないの御業の物語、すなわち、アダムとエバへの神の原初の約束に遡る物語のクライマックスにおいてなされました。この福音は、全世界を新しくする神の力が今や聖霊によりイエスに宿っている、と告げました。自由をもたらすこの力は、イエスの生涯と御業において示され、その御言葉によって説き明かされました。その十字架の死によって彼は悪の力と戦い、決定的な勝利を収めました。その復活によって、彼は、「多くの兄弟の中の長子」として、新しく造られた者の復活の初めとなられました。その昇天に先立って、彼は弟子たちに、再臨の日まで福音を知らせるという御自身の使命を果たし続けるようにとお命じになりました。今や、彼は神の右に座して、御力をもって全世界を治め、御自分の民が福音を体現し宣べ伝える時、彼らを通して全世界にもたらされる回復の力を、その霊により明らかにしておられます。終わりの日に、すべての者はひざまずき、すべての舌がイエスは創造主、あがない主、また主であると告白するようになります。しかし、その時まで、教会は、神の国の福音を告げ知らせる聖霊の働きに参加するように召されています。
 以上、大まかに福音の基本的事項を記してきましたが、私たちにとっては、特に次の諸点に留意することが大切です。
 先ず第一に、福音は方向転換させるであるということです。福音は、第一義的には、教理でも神学でもありません。世界観でもありません。それは、私たちを新たにして救いをもたらす神の力です。福音は、世界全体を回復する神の霊の道具です。
 第二に、福音は復元的です。すなわち、イエスは、神の創造された世界に対し、罪の様々な影響からの復元を公布されました。ですから、福音とは、基本的に創造・堕落・あがないに関わるものなのです。イエスによる福音の公布は、その良き創造に対する完全な“YES”であると同時に、それを歪めてしまった罪に対する決定的な“NO”でもあるのです。教会の歴史において、あがないはしばしば、創造救いではなく、創造からの救いであるかのように誤解されてきました。しかし、福音の主張しているのは、再創造こそが福音の告げる救いの目標なのです。
 第三に、福音はその拡がりにおいて全包括的です。イエスの宣べ伝えた福音はイエスの宇宙的王権の福音です。驚くべきことに、この宇宙的王権(「天の御国」)はイエスの宣教と奉仕の中心的な枠組みであったにもかかわらず、しばしばそれ以下のものであるかのように誤解されてきました。時には、その範囲において、人類、それも人間の魂に限定されることがありました。聖書の教えるところによれば、御国とは、神の創造された全世界に及ぶ神のご支配以外の何ものでもありません。御国と言う場合、この言葉は、イエスが体現し、告知し、成し遂げられた救いの全包括的な性質を強調するものなのです。福音とは神の力であって、それにより、高く上げられたキリストが、その死と復活を基として、私たちの全生活 を、その権威と御言葉に服することができるように、御霊によって回復させられるのです。
 第四に、イエスと彼が宣べ伝えた福音は、旧約聖書において展開された長い物語の成就に他なりません。イエスは、長く語り継がれてきた神のあがないのものがたりのクライマックスを待ち望んでいたユダヤ人社会に生まれました。ユダヤ人はすべて、この物語が大いなる結末へと向かっていることを知っていました。すなわち、神が決定的な行為を行い、終に世界をあがなわれるという大いなる結末を待ち望んでいたのです。
 これを行うのは誰なのか、どのように行うのか、いつ起きるのか、その時まで自分たちはどう生きるべきなのか、については、彼らは一様に理解していたわけではありませんでした。けれども、彼らは皆、神のあがないの行為についての物語が終極に近づいていることを認識していたのです。イエスは,御自身こそがこのあがないの物語の到達点であることをはっきりと宣べられました。ですから、一方では、もし私たちがイエスの福音を正しく理解したいと思うならば、旧約物語の文脈でこのイエスを見なければなりませんし(ルカ24:25-27を参照)、他方、もし私たちが聖書物語を正しく理解したいと思うならば、イエスとその福音のレンズを通してこの聖書物語の全体を見る必要があるのです(ヨハネ5:36-37、ルカ24:44-45を参照)。しかし、この物語においてイエスはクライマックス的な位置を占めているだけではなく、終わりをも指し示しているのです。終わりはまだ来ていません(使徒1:6-7)。それゆえ、イエスに対する私たちの目は,旧約聖書の物語を振り返ると同時に、物語の終わりにも向けられているのです。
 最後に考えなければならないことは、神の民としての教会についてです。教会が福音に本質的なことだということです。イエスは、幾世紀にも亘って、多様な文化圏に福音を行き渡らせるために,(モハメットのように)一冊の書物に書き記すという方法を取られませんでした。むしろイエスは、一個の共同体を形成し、この共同体に福音を担わせるという方法を取られました。この共同体を特徴づけたのは、御国の福音を知らせるためのミッション,すなわち、イエスによって派遣されることでした。
 『キリスト者の世界観―創造の回復』の15章では,回復をもたらす力、さらには全包括的な拡がりという観点から福音の解明がなされてきました。それゆえに、創造の教理と被造物全体を歪曲する罪の影響、さらには、創造の回復としてのあがないの復元的性質とその全包括的範囲について詳述されました。この章において,なおわれわれがなさねばならないのは次のことです。⑴この世界観が聖書物語全体との関連においてどのように理解されるべきか。⑵聖書物語における私たちの役割を知ることの重要性を明らかにすること、そして、⑶聖書物語の世界観あるいはその基本的事項が、福音の力の更新、さらには、この福音を世界に知らせる教会の宣教にどのように関係するのか、を解き明かすことです。

聖書物語

 聖書は、創世記1章における万物の起源から黙示録22章における万物の完成にいたるまで、単一の物語を綴っています。このような聖書物語の流れをたどる一つの方法は6幕より成る一つのドラマとしてこれを読むことです。第1幕において、神は世界をご自分の支配する王国として創造されます。この世界の創造における原初の目的が示され、神はお造りになったものが「極めて良かった」と宣言されます(創世記1章)。人間が、神のかたちとして造られます。それは、神との交わりの中で世界を発展させ管理するためです(創世記1:26-28; 2:15)第2幕においては、人間生活の全体を含め、神の良い被造物の全体が、人間の反抗によって汚されます(創世記3章)。物語の中では今や良い創造とそれを汚す悪との間に緊張が生まれたことが語られます。この緊張は解決を要求します。
 第3幕において、神はその解決を宣言されます。すなわち、神はアダムとエバの反抗によって引き起こされた罪とその悲惨な結果を打ち砕かれます(創世記3:15)。神は、世をあがなうという目的実現のため使命を帯びた特選の民を形成されます(創世記12:1-3; 出エジプト記19:3-6)。彼らは人間生活のために神が創造の初めにお定めになった良い意図を体現する共同体となるべく召されます。この民は、諸国の光、すべての国々の民をあがなう神の力の通路となるべく地に置かれます。神はその民に律法、犠牲の制度、祭司・王・預言者として召された指導者たち、その他の多くをお与えになります。これらは皆、すべての民に対する神のご意図を指し示す生き方のモデルを示すためです。罪の力がイスラエルの民の心に余りにも深く根付いており、異教の隣人たちの暗闇も彼らを圧倒するようになったので、神の目的は失敗するかに思われます。しかし、預言者たちを通して神は、やがて来られる救い主が世界大の、決して終わることのない王国を聖霊の力によって来たらせ給うと約束されます。世界は更新され、罪とそのもろもろの結果はとこしえに取り除かれるのです。
 第4幕において、その約束は、ナザレのイエスが歴史の舞台に登場する時に実現します。イエスは宣言されます。ご自分が遣わされたのは、イスラエルの望みの実現のためであり、荒廃の世に神の救いをもたらすというイスラエルの召しを現実のものとするためである、と(ルカ4:18-19)。それは、神の御国が到来し、聖霊によってこの世界を解放し癒す神の力が御自身の内に宿っている、との宣言に他なりませんでした(マルコ1:14-15; マタイ12:28)。イエスの生涯そのものが御国を顕示しているのです。イエスはイスラエルをすべての民の集合点としてお集めになります。イエスはその死によって御国の勝利を勝ち取られます。またその復活によって御国が現実のことであることを保証されます。
 復活されたキリストが父の御許に昇ってゆくに先立って、キリストは、新しいイスラエルの核となるべき弟子たちを集め、彼らに新しい使命をお与えになります。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(ヨハネ20:21)。これこそがキリストに従う者が形作る共同体の存在理由です。すなわち、彼らはイエスが始められた御国を証する事業の継続のために召されるのです。イエスがイスラエルにおいてなさったことを,教会は全世界においてなすべく召されたのです。御国を証するというこの共同体に引き継がれた使命、これが聖書物語第5幕の内容です。この“証しの時代”は以後、約2000年間続いてきましたが、イエスが、この更新の業を完成するために再臨される時まで続きます。全世界の審判と更新という、この最後の御業が,世界の歴史の最終第6幕を構成する内容です。
 このような6幕より成るドラマとして読むならば、ここには、すべての部分を一つに結び合わせる、物語としての統一性があることが明らかになります。さらに、ここには,段々と進展し展開してゆく構造のあることもわかってきます。私たちは,これまで、ともすれば、聖書を次第に展開して行く一つの物語として理解して来なかったのではないでしょうか。レスリー・ニュービギンは、クリスチャンが聖書を読み違えているとこぼす、あるヒンズー教の学者の言葉を紹介しています。曰く、「わたしは、なぜあなたがた宣教師が、インドのわれわれに聖書を宗教の経典として提示しようとするのかわからない。これは、宗教の一経典ではない。宗教の一経典ならば、インドに沢山ある。これ以上、必要とはしない。聖書には、普遍史,すなわち、被造物全体の歴史と人類の歴史についてのユニークな解釈がある。そして、それゆえに、人間を歴史における責任ある行為者として捉えるユニークな解釈がある。これは、他に類がない。世界の宗教文学を見渡しても,これに匹敵するようなものはない」。彼の不満は、聖書は世界、世界全体について次第に展開してゆく一つの物語―普遍史、世界の真の物語―を述べているのに、キリスト者はこれを宗教的、神学的、あるいは世界観的とも言ってよいような真理を述べた書物にしてしまっている、ということなのです。
 キリスト者の共同体において、なぜこのようなことが起こったのでしょうか。一貫した聖書の物語がばらばらの部分に解体されるのです。ある者は聖書を神学の証拠聖句に解体して一個の組織神学にまとめ上げます。またある者は、信仰書を用いて、聖書を、今この時に慰めや励ましとなる黙想用の断片に解体します。またある者は、聖書を倫理的な指針となる道徳訓の寄せ集めとしてしまいます。聖書の教えを創造・堕落・あがないの世界観に還元することによって聖書の物語性をなきもののようにしてしまうことすらあるのです。聖書の物語性を無視することは重大な結果をもたらします。それは単に聖書のいくつかの部分を間違って解釈することに止まるものではありません。それは、私たちの生き方を決定づけているのはどのような物語なのかを無視することにつながります。何らかの物語が私たちの生き方を決定づけているのです。聖書が小さな断片―神学的、黙想的、霊的、道徳的、世界観的断片―に解体されるならば、その断片は、私たち自身の偶像文化の中で支配的な物語に見事に適合させられてしまうのです。私たちが神学的に正統的で、日々のデボーションを守っており、道徳的に正しく、さらに、敢えて言うならば、世界観の諸項目を正しく認識していたとしても、にもかかわらず、偶像に満ちた西洋的物語の決定的な影響下に置かれていることは十分にあり得ることです。私たちがより包括的な世俗の物語に呑み込まれてしまうとき、聖書はその力ある形成力を失ってしまいます。
 これは、決して組織神学や聖書のデボーショナルな読み方や、聖書倫理、さらには聖書的世界観の確立に意味がないということではありません。むしろ、聖書をこのような仕方で用いることは、すべて必要なことです。私たちは、あとで、教会にとって世界観を明らかにすることは、福音を宣べ伝えるというその使命を果たす上で本質的な意味を持つことであることを主張しようとしています。問題となるのは、このように聖書を用いる場合に、聖書が物語的文脈に基礎づけられていることを見失い、多くの抽象化された(かたまり)となって、聖書にさない、より究極的な物語に適合させられてしまう場合なのです。
 この最後の一文は物語の持つ世界観的意義についてのさらなる検討を促します。今日、世界観的観点、それも究極の世界観から見た物語についての関心が高まりつつあります。改めて物語の意義に注目するこの今日的傾向の中心にあるのは、人は物語を通して自分たちの生きている世界の意味や意義を考えるものだとの認識です。レスリー・ニュービギンの言葉で言えば、「われわれが人間の生をどう理解するかは、われわれが人間の物語についてどのような理解を持っているかによる。私の人生の物語がその一部である真の物語とは何なのか」。それは、物語を、文学的な見地からではなく、世界観の基礎となるものがたり(narrative)の本質的な形態として、人間の生をはじめ実在のすべてに意味を与える宇宙の歴史の解釈者として、考えることなのです。物語は、人間の生を理解するための最も深い全体的枠組みを提供するものなのです。人類が自分たちの生活を解釈するのに物語にまさって根本的な方法は他にありません。
 聖書物語を、私たちがこの世界と人間の生を理解するための物語と考えると言いましたが、それは、単に解釈学的な主張として言っているのではありません。そうではなく、存在論的な主張なのです。聖書の物語は、この世界が一体何なのかについて語っています。これは、単にある一定の民族集団とか宗教についての民話ではありません。そうではなく、これは公共的真理です。聖書の物語は実在の全体を包含しています。―東・西・南・北、 過去・現在・未来。それは、万物の創造に始まって、万物の更新でもって終わっています。また、その間に横たわる宇宙史の意味の解釈を提供しているのです。ポストモダンの言葉で言えば、それは、大いなる物語、メタナラティブです。ヘーゲルの言葉で言えば、それは普遍史です。
 『キリスト者の世界観―創造の回復―』は聖書のメタナラティブの基本的な世界観のカテゴリーを精査しようとするものです。創造・堕落・あがないの三本柱はあらゆる意味において聖書物語全体に依っているとは言え、物語そのものではありません。それは、世界観を浮き彫りにするという意図のもの、基本的な聖書物語の内容を体系的に、また図式化された形で述べたものです。このように聖書物語の世界観的前提を敷衍することの重要性については、後に述べることにします。しかし、創造・堕落・あがないというカテゴリーを精査したとしても、それはイスラエルの民についての旧約の物語や、キリストの生涯と死と復活についての新約の物語といった聖書ものがたりの決定的な展開に取って代わるものではありません。また、同じように聖書の物語の一時期である、ペンテコステとキリスト再臨の間の長い期間(私たちが今生きている時代)についても同じ事が言えます。
 
聖書の物語と教会の宣教的使命における私たちの役割

 聖書に忠実に生きようとする者にとっては、聖書のものがたりとしての全体的な輪郭を理解するだけでは、不十分です。そのものがたりの中での自分たちの役割は何かを理解しなければならないのです。この点でのNT・ライトの説明は、助けとなります。彼は、リチャード・ミドルトンとブライアン・ウォルシュが唱えた四つの世界観的な問いから出発します。私たちは何者か?私たちはどこにいるのか?どこが悪いのか?どうすれば直るのか?この書のこれまでの(5つの)章において扱われた創造・堕落・あがないはこれらの問に対する答を提供しています。しかし、ライトは、もう一つの基本的に重要な問いがあると言います。それは、「今はどういう時か」という問いです。もし私たちの世界観が聖書のものがたり性を熟慮するのであれば、この世界について語る聖書の物語の中で私たち自身がどこに位置するのかを問うことは本質的に重要なことです。
 ここで私たちは、あがないについて第4章で述べたことに立ち帰らなければなりません。われわれは、神の国の「すでに―まだ」の時に生きているということです。「すでに―まだ」と言っても、私たちは今日、このような言葉が1世紀のパレスチナでどのような驚きと困惑を引き起こしたか想像することができません。どうして、何ごとかが、すでにここにあってしかもまだ到来していないのか。歴史のクライマックスはすでに到来したのか、していないのか。1世紀のユダヤ人にとってこのことがどんなに奇妙なことであったかを理解しないので、私たちは通常、なぜなのか、なぜこのようなことがあり得るのかという問題と取り組むことをしないのです。
旧約聖書は、将来における神のあがないの御業の完成を予告していました。その御業はメシアと聖霊の働きによる御国の到来をもって完成します。それは、歴史の目的地に到達したことを示す終末的な出来事でした。イエスは、神の国が来た、との驚くべき告知をされました。しかし、終末は予期されたような形ではやって来ません。預言者たちは最終的な審判を予告しましたが、ヨハネや他のユダヤ人たちが思い描いた(ルカ3:7~10,17、ヨハネ3:17)ような形では実現しません。洗礼者ヨハネですら、他の方を探し求めるべきかと思ったほどに、困惑していました(ルカ7:18~23)。しかし、イエスは、御国は来ているがなお秘密にされねばならない、と明言されたのです。イエスのメシアとしての御業が完了したとき、「なぜ?」という問いはいっそう差し迫ったものとなります。死者の復活の初穂としてのイエスの復活、約束の“霊の降臨、御国の到来――これらすべては、ユダヤ人にとっては終末を告げるものに他なりませんでした――に直面して弟子たちは、「主よ、イスラエルのために国を立て直して下さるのは、この時ですか」(使徒1:6)、と問わざるを得ませんでした。御国は、もはや秘密にしておくことはできなくなっていたのです。
イエスの三重の答は、「今はどのような時か」という問いに対する答として大変重要です。先ず第一に、御国はまだ来ない(使徒1:7)。父が、御自身の計画の中でいつ御国を来たらせ給うのかは、弟子たちの知るところではない。それゆえに、終わりの裁きは、まだ遅れることであろう。
イエスの答の二つ目は、“霊が与えられる、ということです。旧約の預言者たちは、終末的な救いの完成のために、終わりの日にが注がれる、と告げました(イザヤ、エレミア、ヨエル)。ペンテコステの日にが注がれたとき、ペトロはそれを、「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ」とのヨエルの預言の成就であると言いました。“霊”は、歴史のただ中において、終末的な御国の救いをもたらします。パウロはこの“霊”について語るとき、手付金と初穂という二つのイメージを用いています。すなわち、この“霊”によって御国の救いはすでに実現しているけれども、まだ完全に実現しているわけではない、ということなのです。
“霊”は救いの言わば手付け金です。1世紀パレスチナの文化においては、これは借用証書ではなく、現金による分割払いの頭金です。しかし、それはさらに多くの入金がなされるという約束と保証を伴うものでした。“霊”は、より多くが与えられますよ、という保証を伴う実質的な救いをもたらすのです。“霊”は、終末的な救いの初穂とも言えます。それは収穫の一部ですが、これからさらに収穫が与えられる確かなしるしでもあります。新約聖書に出てくるもう一つのイメージは、前味です(ヘブライ6:5)。信者は、今御国の食事を真に味わうことができるのですが、終末の宴はなおこれからの楽しみなのです。これら三つのたとえはすべて同じことを指し示しています。すなわち、終わりの日の救いはもうすでに本当にやって来ていて、体験できる。私たちは「時の終わりに直面している」(Ⅰコリント10:11)。しかし、御国の最終的・完全な実現はなお将来のことなのです。
イエスの答の三つ目の部分は、教会が今は“霊”の前味だけしか与えられていないのは、地の果てに至るまで御国を証するためである(使徒1:8)ということです。もし御国が完全に実現していたならば、悔い改めのための余地も機会もありません。終末の遅れはそのための余地を残すことになります。聖霊降臨は神の民に救いをもたらし、彼らはやがて来たるべき終末を知るようになります。他の新約の著者たちは違った表現で同じ真理を述べています。神は忍耐強く、憐れみ深いので、一人も滅びないで、皆が悔い改めるようにと、裁きの日を延ばしておられる(Ⅱペトロ3:9、ローマ2:4)。福音は全世界に宣べ伝えられ、それから終わりが来る(マタイ24:14)。今は証しの時である。神の民は神の国を証しし、すべての人が悔い改めて神の国に入ることができるように、裁きは延ばされている。
今は宣教の時である。神の民はイエスの御国の事業を継続するために遣わされる。今はどのような時か。今は証しと宣教の時である。
 「証し」とか「宣教」という言葉は誤解を生みやすい。しばしば、証しや宣教という場合、私たちは宣教師や伝道者を派遣することや、隣人/仕事仲間に福音を伝えることに限定して考えがちです。これらのことは重要ですが、証しを言葉による福音の伝達や何らかの奉仕活動に限って考えてはなりません。私たちは、生活全体の中で神の国を証しするように召されています。それは御国に対する証しであり、言葉と行いと生活における証しですから、ある意味において全生活が証しである、と言うことができるのです。神の民に求められているのは、被造世界全体に対する神の新しいご支配の福音を知らせることです。キリストの王権は全世界に及んでいます。神の宣教も同様に全包括的です。すなわち、それは、イエスがもう一度、結婚と家庭、ビジネスと政治、芸術とスポーツ、レジャーと学問、性と技術を支配される、との福音を具体化するものです。福音は御国の福音ですから、その福音の宣教も創造と同じように広いのです。北米キリスト改革派教会の、「世界は神のもの」と題する現代的な信仰の証言はこのことを雄弁に言い表しています。
 
“霊”は、神の民を世界大の宣教へと押し出す。
 “霊”は老若男女を駆り立てて、
近くへ、遠くへ、
学問や芸術、メディアや市場へと、
神の恵みの良きおとずれを携えて…赴かせる。(32)

使徒たちの働きを継続すべく、教会は遣わされる―
御国の福音を携えて遣わされる…。
幾百万もの人々がどう生きればよいのか、生き方の選択に迷う
神から離れたこの世界の只中で、
この宣教は私たちの存在の一番の目的だ…。(44)

イエス・キリストの支配は全世界を覆う。
この主に従うことは、いずこにおいてもこの方に仕えることだ、
埋没することなく、
闇の中の光、腐敗する世界の塩として。(45)

「神の民のミッション」という項目において、現代的信仰の証言は、上掲の段落に続き、中絶、安楽死、性差、性、独身、結婚、家庭、教育、仕事、技術、政治、戦争、平和といった今日的な諸問題について述べています。これらのすべては、宣教と関わりを持っています。しかし、教会の宣教に関わるのは、こういった、大きな文化的社会的問題だけではありません。私たちの宣教は私たちの私的な日常生活上の事柄において証することでもあります。私たちの生活の大部分は、日常的な事柄に関わっているからです。私たちは眠ります。仕事をします。食事をします。休みます。色々の話をします。歌を歌います。ゲームをして遊びます。結婚します。子供を育てます。看病します。親類を訪ねます。亡くなった者たちを埋葬し、嘆き悲しみます。私たちが牧師であっても、宣教師であっても、伝道師であったとしても、この世における生活の大部分の時間をこういった日常的な活動に費やしているのです。キリスト者共同体が福音を証しすべく召されているのは、正にこのような通常の日常的な活動においてなのです。私たちの生き方そのものがキリストとその支配を知らせる書状でなければなりません。私たちが福音を説こうとするとき、言葉での説明は、キリストの救いの力を一貫して証する毎日のクリスチャン生活に深く根ざすものでなければなりません。
私たちは先に創造とあがないを回復と捉えることの基本的な重要性を強調しましたが、これは、そのことのもう一つの局面です。母親が幼子に子守歌を歌い、子供たちがただ速く走りたい一心で懸命に走る、そのような回復された被造生活の豊かな輝きの中においてこそ、神の栄光は現されるのです。そして、それは、罪と死の傷や痛みにもかかわらず、あがなわれた人間の生がどのようなものであるかを全世界に示す、私たちの神に対する奉仕と証しによるのです。個人としても、共同体としても、私たちはイエス・キリストの御国を指し示す者となることが期待されているのです。
このような私たちの召しを示す二つのイメージがあります。一つは、私たちは御国のポスターであるということ。教会は「真理の柱であり土台」である、とパウロは言っています(Ⅰテモテ3:15、新共同訳)。パウロが意味しているのは、私たちが、神の民として、神の真理を何とかして支え、維持し、守るといったことではありません。そうではなく、おそらくこのイメージが表そうとしているのは、私たちが教会として集合的に、古代世界の絵が刻まれた壁や柱を、通りがかりの人皆にメッセージとして送り続けているということです。それは、古代世界の掲示板なのです。教会の存在理由は、御国が到来しつつあるという福音を公示する掲示板となることです。この公示は、私たちの日常生活の非日常的な日常性の中でなされます。すべてを新しくする“霊”の力の故に、非日常的であり、私たちの日常生活が他の人々と同じく神の創造の秩序によるものであるが故に、日常的なのです。あるいは、言い換えますならば、方向性においては非日常的であるが、構造的には日常的である、とも言えます。
もう一つのイメージは、御国の予告編です。終末的な救いをもたらす聖霊降臨以後、教会は御国を前もって一瞥することのできる場所となります。映画の予告編は、見ている者に今後の上映作品に興味を抱かせるため、実際の画面の一部を掲げます。御国の予告編としての教会は、未信者に将来のことについて関心を抱かせるため、御国がどのようなものであるかを示す実際の“画面”を見せるのです。このような予告編、すなわち、未来についてのビデオクリップにより、教会は日常的な生活の中でその行いと言葉によって、イエスとこの方の来たるべきご支配を証しするように召されているのです。レスリー・ニュービギンは、御国の「すでに-まだ」という時の宣教的意義を説得的な言葉で要約的に述べています。「私たちが生きている“重複的な時代”、すなわち、キリストの初臨と再臨の中間の時代、の意味するところは、それが使徒的教会が地の果てに至るまで証しをするために与えられている時である、ということである。真の終末信仰は、宣教の業における従順を求めており、そのような従順を伴わない終末論は偽りの終末論である。」

宣教における苦難と戦い

 “二つの時代の重複”という言葉は、私たちの生きているあがないの時代についてさらに深い洞察を与えてくれます。“かつての日”と“来たるべき時代”という言葉は、ユダヤ教の神学では、イエスの時代にすでに定着していました。「かつての日」とは罪と悪と悪魔による支配の時です。「来たるべき時代」は「神の国」と同義です。悪とサタンの力は「かつての日」において働いています。“霊”の到来は、「来たるべき時代」の更新力が未来から歴史の中に突入してきたことを意味します。ユダヤ人は、“霊”による救いの力が悪の力と神による解放の支配への反対勢力の一切を完全に打ち倒してしまうと期待しました。しかし、そのようには成りませんでした。キリストの来臨は、「かつての日」の終局と「来たるべき時代」の始まりではなく、二つの時代の重複を導入しました。そこでは、悪の力は「来たるべき時代」の癒やし更新する力と共存しているのです(マタイ13:24-30.36-43)。これら二つの“力”の間の戦いが今の時代の特徴です。事実、私たちは二つの王国間の対立がいよいよ高まってきた、そのような時代に生きているのです。
それゆえ、このような“中間時代”の歴史は、御国の完成へと向かう穏やかな進歩とか、右上がりの直線的な進展といったものではありません。私たちの宣教は終わりに向かってゆっくりと進む勝利の行進のようなものでもありません。むしろ、このあがないの時代は激しい戦いの時代で、多くの悲惨な出来事も起こります。私たちの宣教は犠牲と苦難を伴うものです。パウロは「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受け」る、と言っています(Ⅱテモテ3:12、新共同訳、使徒14:22も参照)。宣教についての私たちの理解がどの程度新約聖書の教えるところに近いか、その判断は、部分的には、私たちが教会の使命を考える中で苦難をどのように位置付けているかによるのかも知れません。
このことは、すでに第4章で第二次世界大戦の終結についてのオスカー・クルマンの類比を用いて述べたところでもあります。イエスの死と復活はD-デイのようなものであり、再臨はV-デイのようなものである。1944年~45年のヨーロッパのように、中間時代は戦いの時です。この類比は、「掃討作戦」とも言われますので、私たちの宣教が最終的な勝利に向かう確実な行進であるかのような誤解を与えるかも知れません。確かに最終的な勝利は保証されているという聖書の教えを強調することは大切です。使徒言行録は、教会が御言葉を実行し伝える中で、御言葉がローマ帝国全域に広まっていった進展状況を画き出しています。ルカは、「主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった」(使徒19:206:7, 12:24も参照) 
と言っています。このような御言葉を勝利主義的に読まないように気をつけなければなりませんが、それでも、だからといって、最終的な勝利についての聖書の教えを軽んじてはなりません。福音には力があります。教会は、高く挙げられたキリストとその“霊”が教会の宣教において、またそれを通して、生きて働かれることを信じてよいのです。にもかかわらず、私たちは、福音の拡がりの物語が使徒言行録において展開して行く中で多くの苦難や悲惨な出来事があったことを知らされますし、勝利と言っても、それはローマ帝国においては取るに足りないと思われるようなものでありました。「戦闘はなお続き」、われわれは「今なお激しい戦いをの最中にある」のです。
 宣教は苦難を伴います。御国の福音に忠実であろうとするならば、私たちは、宣教の場において必ずや、自分自身の文化の中にある偶像崇拝的な力と対決することとなるでしょう。私たちが御国の宣教を忠実に果たそうとするならば、包括的な物語どおしの衝突を避けることができません。福音は私たちの生活全体に対して絶対的な要求をします。私たちの西洋文化を形造っている物語も、同じように、
全体主義的な要求をする包括的な物語です。福音と私たち自身の文化との間にはどうしても相容れないものがあるのです。文化に体現された大いなるものがたりは、すべて、支配的であるだけではなく、排他的な物語となることを求めます。もし私たちが同じように包括的な聖書の物語に、教会として忠実であろうとするならば、二つの内の一つを選択せねばなりません。聖書の物語を自分たちの文化の物語に合わせて、世に受け入れられる少数共同体として生きるか、それとも、忠誠を守って幾ばくかの戦いと苦難を経験するか、どちらかです。
 私たちの宣教は、十字架の下での宣教です。良きおとずれは反対と闘争と拒絶を呼び起こすかも知れません(ヨハネ15:18-25)。私たちは終わりの日まで隠されている勝利を告知し体現するのです。それゆえに、そのような勝利の体現は、世には、弱さや愚かさとも映ることがしばしばあります。しかし、十字架の勝利は復活において保証されています。そのような復活の命が全き現実となるまで、教会の宣教には苦難と戦いがあるのです。
 今日の世界の中で西洋の教会が苦難と迫害に直面しない数少ない教会の一つであるのはなぜか、という問いが発せられることがあります。それに対する一つの答えとして、教会は福音の全包括的要求に応えてこなかったと言うことが挙げられてきました。教会は、西洋文化の多くを形成してきた合理主義的進歩という世俗的な大いなるものがたりとの妥協を許す二元論を構築することによって、聖書の物語世に順応させてきた、というわけです。このような主張には、疑いもなく、多大の真理があります。他方、もっと積極的な理由もあるのではないかと思います。西洋文化は、ますます人本主義的かつ世俗的となりつつある一方で、何世紀にも亘り福音による一定量の塩づけをされてきたと、いうことです。これは、緊張関係を和らげます。―しかし、同時に、これは、さらなる順応に陥る危険と誘惑ともなるかも知れません。新たな異教主義が強くなりつつある時代の中で、公共社会における福音の影響力は小さく感じられるようになりつつありますが、忠誠と苦難についての聖書の教えはをもう一度強調すべき時ではないでしょうか。

文脈化―構造性と方向性をわきまえる

それでは、このことは、もし私たちが真実な教会たらんとするならば、自分たちの文化に対して唯一攻撃的対決的な姿勢のみを取ることを意味するのでしょうか。宣教師たちは長い間このジレンマと戦ってきました。一方では、福音とその包括的な要求に忠実でありたいという欲求があります。良き知らせを証するという、正に彼らが他の文化に入ってゆこうとする理由そのものが、このような欲求に根ざしています。もし、福音の要求がその文化の宗教的信条に合わせられるのであれば、そこには宣べ伝えるべき福音、少なくとも、全包括的な福音はありません。もう一方で、宣教師はその文化に土着したいと願います。もし福音が外国のものだと考えられたならば、拒否されるでしょう。文化との連帯感の中で生きつつ、同時にその文化に挑戦することができるのでしょうか。自らの文化的環境に順応しつつ、一線を画することは可能なのでしょうか。
 聖書は、神の民が自分たちの文化の発展に寄与するように求めています。“文化(創造)命令”(創世記1:28)は、このためにこそ神は人間を創造された、と教えています。また、創造主であると同時に文化の全体を新しくされるキリストの主権を信じ、これに従おうとするならば、進展しつつある文化との一定の連帯と参与を逃れるわけにはゆかないでしょう。さらに、進展しつつある文化への参与から身を引くことは、たとえそのようなことができたとしても、神によって造られた世界のその部分を“世”とその偶像に委ねてしまうことになります。なぜなら、聖書は、人間生活の全体、とりわけ文化の進展は偶像崇拝によって形造られる、とも教えているからです。カルヴァンが言ったように、人類の心は偶像製作者であって、この偶像崇拝から、私たちの参与している政治、経済、教育、社会の諸制度が生み出されているのです。私たちの文化の偶像崇拝的な型に合わせることなく、同時に私たちの文化的な働きにおいて「心を新たにすること」(ローマ12:1-2) は可能なのでしょうか。御国の福音をあらゆる分野で証ししなければならない一方で、この世の文化は社会の隅々まで偶像崇拝によって形成されているという、これら二つの現実を真剣に考えれば考えるほど、私たちキリスト者は、「耐えがたい緊張」を覚えざるを得ないのです。
 このような耐えがたい緊張は、次の二つの事から来るものです。第一に、教会も、文化の物語を体現する社会の一部であるということです。そのような文化の物語は、少なくとも部分的には、人間生活の全体を形成し、共同体によって体現されている偶像宗教の信仰に根を持つものです。第二に、キリスト者共同体は、自分たちの身元を信仰に根ざし、等しく包括的であり、社会的に体現されている、もう一つ別の物語に見出している、ということです。ですから、耐えがたい緊張は、神の民の生活の中での“二重の体現”に起因するものです。文化的共同体の一員として、信者はその文化の物語によって形造られています。新しい人類の一員として、もし彼らが忠実な一員であるならば、聖書の物語によって形造られています。聖書の物語と、競合する文化の物語とは、互いに相いれないものですが、にもかかわらず、神の民の生活の中で“出会う”のです。このような緊張の意識が深ければ深いほど、またこの緊張を真摯に受けとめようとする思いが強ければ強いほど、それだけ、教会は健全であると言えます。教会がこの緊張を避けたり、忘れてしまおうとするならば、それだけ、教会は世の偶像崇拝に加担することとなります。この緊張を受け入れ、福音と妥協することなく対処する道を探り求める事こそ、文脈化の目指すところです。
 この緊張を解く方向で助けとなる一つの方法は、以前に述べた構造性と方向性という重要な区別を思い起こすことです。すべての文化的産物・制度・慣習には神の良い創造構造の痕跡をいくらかは見ることができます。同時に、その全体の方向性は、共有する文化の偶像崇拝によって、ある程度まで歪められています。神の民に求められることは、神の良い創造とその構造性をわきまえ、受け入れると同時に、偶像崇拝による歪みを斥け、覆すことです。これこそ、初代教会が異教のローマ帝国の下での宣教において行ったことです。この点を明らかにするために、聖書から二つの例を挙げて見ます。家族(oikosについてのパウロの教えと、古典ギリシャ語の語彙をヨハネがどのように用いているか、です。
 初代教会はローマ帝国の文化的環境の中で誕生しました。ローマ帝国の領域においては、基本的な社会制度はoikosでした。oikosは通常「家族」と訳されますが、今日私たちが家族と呼んでいるものとは非常に違った制度でありました。私たちがこの言葉を用いる場合、通常は、両親とその子供たちから成る核家族を指します。ローマ帝国のoikosは、概ねまだ未分化の状態で、核家族と親族のみならず、僕や奴隷をも含むものでした。それは、法的権威の側面だけではなく、経済的な関係をも抱え持つものでした。ローマのoikosは、深いところでローマ文化の偶像崇拝をその形成要因とするものでした。父親の権威、paterfamiliasは無限と言ってもよいほどで、生殺権をも含むものでした。父親は家のkurios、すなわち、主でありました。oikosの全体が、このような未分化で一方的な父権のもとにあり、それはしばしばひどい濫用を生み出したのです。新約の時代にこの社会制度は、多くの点で、歪曲と腐敗の源となっていました。
 初代教会は、ローマ社会を基本的に支えるこの根本的制度に直面したとき、これにどう対処しようとしたのでしょうか。彼らはただこれを拒否して、新しい形の結婚・家庭、そして経済のやり方を創始しようとしたのでしょうか。いいえ、彼らの求めたのは、文化に定着しつつ、通常の日常的な関係の中で福音を体現することでした。彼らは単純にこれを肯定し取り入れようとしたのでしょうか。いいえ、甚だしく歪んだ社会制度を受け入れることは福音の妥協につながるものと思われました。初代教会は、文化に定着することの必要性と同時に、その文化を支え形成している主要な信仰的前提とは相いれないものであることをも認識したのです。初代教会は、ローマ帝国を形成していた偶像崇拝を非常によく知っていました。福音が要請する生き方とローマ文化を支配していた偶像崇拝の信仰的前提との間には緊張がありました。正にこの緊張こそが忠実さの源だったのです。
 家族制度を単純に拒否するのでもなく、肯定するのでもなく、彼らはそれを覆し改革したのです。彼らは、家族制度の中の創造に起源する諸関係をわきまえました。夫と妻、親と子、雇用者と被雇用者、等々です。彼らは、このような諸関係を変革しました。彼らは、これをローマの土壌から引き抜いて、福音の土壌に植え替えました。創造の構造性が認識せられ、認知されました。これら諸関係のねじれた方向性が拒否されました。私たちは、この光の中で、エフェソの信徒への手紙5章を読むことができます。夫は献身的に妻を愛しなさい、愛をもって子供たちを育てなさい、尊敬を持って奴隷を扱いなさい、というパウロの勧告はラジカルなものでした。女性や奴隷に対して、主のために自分から自発的に従うように、と責任ある生き方を求めたことは、彼らに尊厳を与える意味において革命的でありました。これらの諸関係は変革されました。初代教会が従順である限りにおいて、非常に違った種類のoikosが出現しました。初代教会と同時代のローマ人の目にはoikosと認定できるような制度であったとしても、それは根本的には変革されていたのです。父親はその権威を、他者を支配するためではなく、献身的に仕えるために用いました。妻や子供たち、そして奴隷は新しいレベルの尊厳へと引き上げられたのです。
 もう一つの例は、ヨハネが福音書を書いたとき、いくつかの含みのあるギリシャ語を用いていることです。新約聖書の他の著者たちと同様、ヨハネもヘレニズム文化の言語と思想形態を用いています。ヘレニズム時代の聞き手はこのような聞き慣れた言葉や範疇をすぐに理解することができたのですが、ヨハネがそういった言葉をどのように用いているかを見れば、多くの場合、福音と異教的な人間文化の間の衝突がどのようなものであるかを知ることができます。ヨハネは、聞き手の世界を形作っていた古典時代の宗教と文化の言語/思想形態を自由に用います。光と闇、天と地、肉と霊、等々です。これらの言葉は、背後にある異教的な世界観を表しています。しかし、ヨハネはこれらの用語や思想形態を、聞き手が根本的な問いに加えてその矛盾にも気付くような仕方で用いるのです。ヨハネは、「初めにlogosがあった」という知らせをもって始めます。そして、続くに従って、logosは宇宙に浸透して秩序を与える非人格的な合理性の法則ではなく、人間イエス・キリストであることが明らかになります。logossarxとなったのです。ヨハネは、logosという言葉で表されている、秩序の源を求める古典期の志向に自らを合わせながら始めるのですが、古典期の世界で進展してきた偶像的な合理性の理解を覆し、問題とし、その矛盾を明らかにするのです。このようにして、ヨハネは状況に適合しつつ、しかも信仰的なのです。状況に適合しているというのは、彼が実存的な求めを表すのによく知られた範疇を用いているからであり、信仰的であるのは、彼がこれらの範疇を形成している世界観を福音で挑戦しているからです。
 文化に対するこのようなアプローチは言葉や宣教の場面での言語によるコミュニケーションについてだけ言えるわけではありません。これは、キリスト者共同体が、その文化の様々な制度や慣習全体に関わる場合に踏むべきプロセスです。福音は各文化形態に対して、yesと言えば、noとも言うのです。創造の構造性に対してはyesと言い、罪による歪曲に対してはnoと言うのです。教会は、それぞれの状況においてこれが何を意味するかを見分けなければなりません。

“霊”と霊性

  宣教の場で出会う様々な厳しさ、とりわけ、拒否される時にも臆せずに立ち向かい、歪曲された方向性にもかかわらず、創造の構造性を見抜くことは、骨の折れる召しです。誰がこの任に耐えうるでしょうか。ここで二つの洞察が重要です、また、この二つは互いに連携しています。一つは、教会の宣教は、何よりも、教会の中で働き、教会を通して働く、“霊”の働きであるということです。第二に、教会の宣教は健全な霊性によって支えられなければならないということです。
 ルカがローマ帝国における福音の伝播について語り伝えるとき、聖霊が注がれた後、次のような言葉で始めていることは、決して偶然ではありません。「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」(使徒言行録2:42)。ひたすら献身的にこのような活動に従事することによって、教会は御国の生き方を体現することができたのです。祈り、聖書、交わり、主の晩餐は、“霊”の生命が高く挙げられたキリストから地上の教会へと流れ下る通路となったのです。このことは、「御国は、祈りに応えて“霊”が働くときに到来する」という、ルカ言行録を貫く主要なテーマと一致するものです。
 教会の宣教は、第一義的には、組織や戦略の問題ではありません。これらのことが有益であったとしても―。むしろ、健全な祈りと冥想の生活、世界についての真実な物語としての聖書への沈潜、地元の教会活動への積極的な参加こそが何よりも大切です。御国に生きる私たちの生き方は、このような形において知られ、体験され、また分かち合うこととなるのです。
 初代教会が苦難に出会ったとき、教会は、大胆に証しの使命を果たし続けることができるように祈りました(使徒4:23-31)。パウロは、自分の開拓した教会が、識別する力と知恵においていよいよ成長し、自分たちを取り巻く文化の偶像崇拝に直面するとき、霊の力に満たされるようにと、何度も祈っています(フィリピ1:9-11、コロサイ1:9-12)。宣教において遭遇する戦いにおいて忠実たらんとする教会は生きた霊性を育て培う必要があるのです。

聖書物語と今日の生き方を媒介する世界観の役割

 キリスト教会は福音の力によって生き、人生のすべての領域において神の支配を知らせるべく召されています。少なくとも、このことは福音のレンズを通して世界を解釈することを意味しています。この点で大切なことは、これまで見てきたように、聖書の物語的な構造、とりわけ、御国の“すでにーまだ”の宣教の時としての意義を認識することです。ここで、聖書物語を創造・堕落・あがないという骨組みにおいて読むことの大切さについて考えなければならないのです。聖書物語とか福音を通して世界を見ると言うだけ十分ではないのか。この本でアウトラインを示した世界観によって聖書物語を読むことの意義はどこにあるのでしょうか。世界観的な思索は、教会が御国の福音を証する上でどのような助けとなるのでしょうか。
 教会が宣教の使命を果たすために、福音についての思索が必要なことは常に自覚されていました。福音に対して忠実であることは、単に聖書の言葉を繰り返し唱えることに尽きるものではありません。教会の召しは、それぞれの時代において、その時代のための福音の意義を明らかにし、語り直し、解明することにあります。今日の必要に応え、今日の生活に意味を持つ聖書の教えを表明する必要はいつもありましたし、これからもあり続けることでしょう。このように、現代という時代の要請に応えるために、創造・堕落・あがないの基本的範疇において福音を考えることは、教会の恒常的な使命に属することなのです。
 このような福音についての思索は、媒介の働きと言えるのかも知れません。すなわち、それは、福音の力を今日における教会の生活に媒介するのです。この働きを明瞭にするために二つのたとえを挙げましょう。世界観は自動車のギア装置のようなものです。ギア装置は、エンジンの力と、地に接して車を動かすゴムのタイヤの間を媒介する働きをします。聖書についての世界観的な思索は、福音の力とその影響下に置かれる人間生活との間を媒介します。あるいは、今一つのたとえで言えば、世界観的な思索は、家の配管工事のような働きをします。水道管は、水をその源泉から導いて家庭の飲み水・洗い水とするための管としての役割を果たすのです。世界観の確立は、福音によって教会が生きるための必要を満たす導水管としての役割を果たすのです。
 このように、世界観の構築は、常に人間の思索であり、構成物です。世界観は福音ではありません。福音が救いをもたらす神の力であるのに対して、世界観は、教会を宣教の使命へと整えるために福音の有する基本的構造的特質を明らかにしようとする人間の試みです。これは、人間のわざであるがゆえに、福音のどのような表現についても言えることですが、誤り得るし、歴史的有限性を持つものです。にもかかわらず、これは、どうしてもなさなければならない働きです。なぜならば、福音の文脈化は、どのような場合でも、必然的に、ある一定の聖書的世界観の概念を前提として初めてできるものだからです。そして、文脈化は、世にある教会が生きた教会となるために不可避の課題でありますから、教会の世界観的な前提をよく吟味することはどうしても必要なことなのです。福音が、聖書の教えの根元性及び一貫性を正しく捉えていない世界観によって媒介されていることが余りにも多いのです。万物は神の創造によるものです。どんなものも罪の破壊力と無関係ではありません。すべてのものは“霊”により、キリストにあってなされつつある神の更新の御業に参与しています。

結び

 福音は私たちの命の源であり、私たちがこの世界に置かれている位置を正しく認識するための手段です。福音は聖書のものがたり、すなわち、全宇宙の歴史の解釈を提供している物語、の中心であり、クライマックスです。イエス・キリストに従いゆく者にとって、この物語の中で自分たちはどこに位置づけられるのか―それは、罪による破れから被造世界を神がお癒しになる福音を告げ知らせることにあります。これは戦いと苦難を意味します。このためには、深い霊性と“霊”への依存が必要です。これこそが、聖書物語の最も基本的な範疇を明らかにする必要性を理解するための文脈です。世界観の確立は、福音と神の民の宣教的使命の間を媒介する役割を果たします。このために『キリスト者の世界観―創造の回復』が教会に与えられたのです。すなわち、神の国が到来し、神が全被造物、また人間生活のすべてを“霊”により、イエス・キリストの御業において新しくしつつあられる、という福音を見また聞くことを何よりも必要としている世の教会の必要に応えるためです。