2018年8月31日金曜日

2018年「8・15平和祈祷会説教」

2018年 8・15 平和祈祷会説教 

「神の国の子どもたち」

牧野信成牧師(長野佐久教会)


ルカによる福音書18章9~17節
神の国の子どもたち

 今、私たちが直面している破れ口は、旧約聖書のモーセや預言者エゼキエルが立たされたイスラエル社会の破れ目と少しも変わらないものではないかと思われます。法があっても尊ばれず、貧しい者が見捨てられ、力ある者が富と権力をほしいままにして、社会が破滅に向かう状況です。神に召された僕たちはその破れ口に立ち、人々の立ち返りを求めて神の裁きを告げて、神と人との間を執り成そうとしました。
 私たちの時代を広く覆っている一つの価値観は「新自由主義」と呼ばれます。そこでは努力した者だけが報われるべきだとし、競争を肯定的に捉えて、個人の能力による公平で自由な評価を基準に分配を行います。人間観もそこでは市場原理に侵食されます。つまり、役に立たない人間には価値がないわけです。文系科目は価値のないものとされて、学校でも会社でもいかに役に立つ人間になるかが目標になる。
 そういうところで、一昨年、相模原市で障害者施設でのテロ事件が起こったのは実に象徴的です。これが単に一人の狂人による偶然の出来事として捨て置けないのは、犯人を英雄視する声がネットやツイッターに寄せられたことです。自分にもそういう思いが僅かながらあるのに気づいた、という一般の反応もありました。役に立たない者は抹殺すべきであるとの信念に基づいてこれを実行したのは、第二次大戦中のナチス・ドイツによる「T4計画」でした。新自由主義による伝統や共同体の解体は全体主義に近づく、と論じる方がありますが、それが今、私たちの時代にもたらされた「破れ口」ではないかと思わされます。聖書の教えに照らして言うならば、私たちは「この世の栄光」を目指す世界に今閉じ込められようとしています。そうして神の言葉を締め出すことで、罪の裁きを招こうとしている。
イエスのたとえ
 主イエスは、「自分は正しい人間だと自惚れて、他人を見下している人々に対して」語ります。格差のあるところで教えておられます。「格差」の問題は単に収入にばらつきがあることではなくて、まさにここで描かれるような心の問題ではないかと思われます。一人は豊かで潤っている。一人は貧しくて生活に苦しんでいる。一人は誇りをもって社会に立場を得ている。一人は誇りも持てずに人前に出ることも憚られる。ここに格差があって、驕りと卑屈と差別とを生じさせています。
 譬えに登場するのはファリサイ派と徴税人です。この両者の間を隔てているのは経済的な差ではなくて、宗教的なそれです。ファリサイ派には自分が正統的な信仰の継承者だとの自負があります。加えて、その伝統に則って自分は正しくふるまっているとの誇りと自覚があります。具体的には「自分は奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではない」こと、つまり十戒をもれなく守っているということ、さらに、「週に二度断食し、全収入の十分の一をささげている」という積極的な礼拝の実践が伴っています。あなたの信仰は立派だと、あなたこそ価値のある人だと、皆が認めてくれます。
 他方は徴税人です。皆がそうだと認めていた罪人です。「奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者」たちの仲間です。まともに礼拝に出ることもできず、皆からいなくなってくれた方がありがたいと思われているような価値のない人間です。そこで、ファリサイ派の立派な人は、彼を見て、自分と比べて、こう祈っています。「自分はこのような者たちでないことを感謝します」。これが「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人」の例だとイエスは言います。
 「ヘイト・スピーチ」が未だに燻っています。目に見える場所で事が起こっていなくても、在特会の前会長である櫻井誠氏が東京都知事選挙に立候補すれば10万票を超える票を得たりします。「ヘイト」の特徴は、偏見や誤った知識に基づく正義感をその感情の根にもっていることです。まさにそれは「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」の実例です。若者がこういう運動の中心にいると考えるのは誤りで、中には若い人もいるとは思いますが、多くは40代以上の立派な社会人だと言われます。古い生活規範などは失われつつある今日ですから、この人たちの「正しさ」が一体どこに基盤を持つのか不思議ですけれども、おそらく会社で言われた事はちゃんとやっている。世の中で人から後ろ指をさされるようなことはしていない、というような「感覚」なのでしょう。本当に自己が確立していて豊かな人生を送っている人は、他人を見下したりはしないはずです。けれども、その正しさを確保するためにしのぎを削るような生活をしている人は、上司や親や友人からかつて責められて傷ついた劣等感が常に疼いて、隣人に対する厳しい言葉を抑えきれないのでしょう。譬えが描く「ファリサイ派」の姿勢は、ローマの支配の下で傷ついた民族意識をかかえて伝統遵守に汲汲としていたユダヤ人の様子を戯画的に暴露したものです。戦後、アメリカの支配から片時も逃れる事が出来ずに歪んだ自尊心を育んできた日本人と相通じるものがあるように思います。
 このイエスの譬えは、人間による人間の評価ではなく、神がどのような評価を人間に与えるかを教えています。この譬えの驚きは、徴税人がファリサイ派に勝るとして、社会通念を転覆させたところにあります。ファリサイ派に対する「当てつけ」ですけれども、そこにこそ人が気づかなければならない事があるわけです。徴税人は、もちろん常日頃の振る舞いが評価されたわけではありません。彼は自他共に認める通りの罪人です。けれども、彼は正しく自分を知っています。自分のありのままを見つめて、自分は救い難い罪人だということに心を痛めています。この徴税人のへりくだる様子が丁寧に描かれているのは、それを私たちがじっくりとなぞるようにして心に留めるために違いありません。彼は「遠くに立って、目を天にあげようともせず、胸を打ちながら」こう言いました。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」。自分が救い難い罪人であると知っているとは、こういうことだと描いて見せています。「僕は罪人、あなたも罪人、人間は皆罪人」という罪についての表面的な知識ではないわけです。そこには自分が罪人であることの恥と痛みと恐れが息づいていて、それでも神に向かわざるを得ないから、「憐れんでください」との最小限の言葉が絞り出されます。
 ここから、人の死も生も司っておられる真の神に対して、真実なささげものをしているのはどちらか、ということが明らかです。譬えが描くのは、一方ではファリサイ派のささげものの偽りです。彼が気にしているのは神ではなく他人の目です。そして、自分を見つめる自分の目をも欺いています。彼は生きておられる神を知りません。彼はこの世の栄光の中に自分の居場所を定めています。方や徴税人は、ひたすら神に赦しを乞います。そうするしか生きて行くすべがないからです。そして、真実なささげものをしているのはこの徴税人の方です。なぜなら、彼はありのままの自分を知って、神に心を明け渡しているからです。心の伴わない形ばかりの知識や礼拝は神に向かうどころか、そこで対面しておられる神を愚弄しています。
 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。(14節)。
神が人に求めているのは真実に悔い改める心です。だから、むしろ「罪人」であることを知っている徴税人が神に評価されて、価値ある人間だと言われます。
  だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
子どもたちの国
 神を見失った世界が押し付けてくる虚しい価値観に対抗して、キリストがおられる神の国の価値観を私たちは聖書から学びます。罪人こそが神に報いていただけるとはどういうことか。罪人だから憐れんでもらえる、ということです。神は人間が罪に汚れているのをご覧になって憐れんでおられる、ということです。そこで、自分は大丈夫だ、正しく生きているんだ、と勝手に自覚している立派な人には、その憐れみが届きません。神に憐れんでもらう必要なんかない、と思っているからです。私も何度も知人からそう言われた経験があります。「憐れむ」なんて勘弁してくれ、と。日本語のニュアンスがいけないのかも知れませんね。「愛する」の方がよく伝わるかも知れません。けれども、「罪」のことを考えるときに、やはり「憐れむ」でないと正確ではありません。神は私たちが罪によって滅びてしまうのを忍びなく思って、私たちの罪を赦して受け入れ、新しい命に生かしてくださるお方です。
 その事を明らかにするために、先の譬えには一つの小さなエピソードが続きます。イエスのもとに親たちが幼子たちを連れてきた。ちょっとでも良いからイエスに触れて欲しい。素朴で健気な信仰です。ローマ法王がやってくるとどの町もそんな風景になりますが。もちろん法王はキリストではありませんけれども。そういう親たちの素朴で健気な信仰をイエスは決して退けませんでした。そして、ここにも立派な大人が介入してきます。今度はイエスの弟子たちです。「赤ん坊はうるさいからあっちへ行きなさい」とでも言ったのでしょう。イエスの説教を聞く資格など子どもたちにはない、との誤った見積もりがそこにあります。あるいは大人の驕りです。けれどもイエスははっきりこう仰いました。
 子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。(16、17節)
神の国は子どもたちのものである。子どものように、まっすぐ神の国を受け入れなければ、人はそこに入ることができない。「徴税人」と「子ども」では種類が違うように思われるかも知れません。けれども、どちらも世の中では価値がなかったり、未熟だったり、と見做される小さな人であることには変わりがありません。子どもは案外エゴイストですけれども、イエスに触っていただくことを特別に嫌がる理由ももちません。親に連れてこられるがまま、イエスを通して神に祝福されるがままです。うぬぼれるでもなく、他人を見下すでもなく、神に受け入れていただくままに、自分を明け渡す人が、神の国の住人です。
 教会に集う私たちは、そうやって受け入れていただいたはずです。キリストが私の立派さに目を留めて、真の神に引きあわせてくださったのではありません。神は自由に、御子キリストのもとに人を集めて教会をお建てになります。ここに集う人は皆が徴税人であり幼子です。ですから、教会にはいろいろな人生経験をして来た人が集います。教会は直接的に神の国ではありませんが、終末の神の国へ至る道筋がここに備えられています。教会にはおかしな人ばかりが集まる、との愚痴を何度か聞いたことがあります。そこには、もっと立派な人が加わって教会を立派に建て上げたいという人の思いも見受けられます。けれども、そこには大きな罠があります。もしも教会が立派な人ばかりの集まりでしたら、かつてはそのように側から見られていたようですけれども、それはキリストの教会では無くなっているかも知れません。フリーメーソンのような結社であったり、会員制のクラブであったりして、何にせよそれはこの世の栄光を求める場所です。教会はそうではなくて、神に憐れんでいただいた人が、この世に対する神の国の証としてここに集められているわけです。人の目からすると価値のない命の集いになってしまうかも知れません。しかし、神の目からしてそこには尊い命だけが集まっています。そういう証をキリスト教会は世に対してなすために存在する、とも言えましょう。
平和の基である教会
 どんな平和を私たちは願うでしょうか。戦争が無いこと-それは確かに喫緊の課題です。今、日本は戦争をしようと準備しているからです。国際情勢がそれを要請している、と言いますが、簡単に乗るわけには行きません。情報統制が進んでいて報道では実情が分かりづらくなっています。ナショナリズムの復興は政治から見れば都合のいい道具立に過ぎません。憲法を改正して戦争のできる国にしたい人々の理由は、国際情勢を利用して収益を上げる仕組みの中へ積極的に参与したいだけのことです。日本も世界も、イエス・キリストを信じて政治を行っているわけではありません。ですから、教会がいくら信仰に基づいて発言してもそれが具体的な影響を及ぼす見込みはありません。政治はいつも現実的な方向へ流れていきます。けれども、神が御言葉を通して私たちに新しい命をくださったことが真実であり、キリストが世の終わりまで歴史を導いて行かれることが本当であるならば、私たちは「現実的」という言葉に惑わされないで、キリストが実現する平和のために働くより他はありません。歴史家たちが、キリスト教会は必ずしも戦争に反対してこなかった、と書物に記します。それは事実だとしても、それはキリストが戦争に反対しなかったこととは違います。すでに軍隊が力をもってしまっている国々にあって、現実的なこととして戦争を論じざるを得なかった。そして、教会も戦争に加担してきた。だから、我々もそうするということにはなりません。なぜなら、私たちは歴史に従うのではなく、歴史に学びながら聖書に従うからです。聖書から語りかける、生けるキリストに従うのが教会だからです。
 戦争に向かう時代の流れの中では、弱者の切り捨てが顕著になります。役に立たない者は戦場に送り込め。戦争の役にも立たない者は処分してしまえ、と人々が皮膚感覚で感じるようになる前に、私たちにはまだできることがあるのではないでしょうか。個人の自由を最大限に拡大すれば人間の生活はより豊かになり発展する、と信じた新自由主義の時代は、自分の価値を自分で謳歌する人々の競技場へと世界を変えました。キリスト教会もまたその波に飲まれて、心砕かれた人の祈りの家から、スピリチャルな市場へと変わってしまう危険があります。けれども、私たちは時代を越えて、神の恵みに生かされているキリストの体です。神がキリストの十字架と復活によって打ち立てた、平和の証と礎がここにあります。私たちは内に対しても外に対しても、また、個人においても教会にあっても、神の国の子どもたちとして、平和の使者であることへと召されています。命の価値は神がキリストにあって定めておられます。障害があっても、辛い過去があっても、今逃れられないしがらみがあって自分で自分を評価できなくても、神の憐れみはそうした皆を神の国に受け入れてくれます。そこで生きる真実の命があります。世界のキリスト教会が祈りを合わせ、力を合わせて平和に向かうならば、主がそれを成し遂げてくださることを信じたいと願います。また、教会は破れ口に立って執り成す務めをもいただいています。世の終わりには裁きが待っていることは知らされています。けれども、私たちは神の怒りが解かれるように心を合わせて祈ります。政治においても、社会においても、教育においても、芸術文化においても、あらゆる分野で私たちはキリストの平和を求めます。けれども、何より私たちに求められているのは執り成しの祈りでしょう。悔い改める人の心を聖霊が導いてくださるように。この日本でも福音の力がもっと輝きを増してゆくように、各々の献身の思いに合わせて共に祈りましょう。
祈り
御子キリストの十字架と復活によって、世界と和解してくださった天の父なる御神、人間があなたの主権を顧みずに自由を謳歌して、どこまでも思い上がった結果、この世界は弱い者が軽んじられるばかりか、人間の命に価値があることさえ忘れつつあります。私たちはただ、徴税人のようにあなたの憐れみにすがります。幼子のように神の国を受け入れ、主の祝福に与ります。どうか、私たちだけでなく、私たちを通して、人が生きる希望であるキリストの福音を伝えさせてください。そして、主にある罪の赦しをさらに実現させてください。人々の心にある平和への願いをあなたが支えてくださって、人の命が尊ばれる社会を、世界に、また日本にもつくることができるよう導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

2018年8月25日土曜日

ウェストミンスター大教理問答研究(石丸新)

ウェストミンスター大教理問答におけるサタン

石丸 新

 私が初めてサタンに出会ったのは、物心ついて聖書カルタを手にしたときだった。取り札に描かれたサタンは全身が骸骨で、眼だけが異様に大きく、鎌と刀を手にして、敵を足で踏みにじっていた。地面に血が流れていた。幼い私にとっては、この取り札自体がサタンそのものだった。読み札は記憶に無い。サタンの実在を信じたのはそのときだった。今も変わることがない。サタンに人格のあることを強調して、「ミスター・サタン」と
呼んだ人がある。ある人は言ったー「サタンには手も足もある」。

●大教理問答での用例は次のとおり。
  21 サタンの誘惑による始祖の違反
  27 人類の悲惨の様相
  48 キリストの謙卑のさま
 121 安息日を毀(こぼ)たんとするたくらみ
 191(x2)主の祈りの第二祷
   195(x3)主の祈りの第六祷

●小教理問答での用例は1回のみ:102 主の祈りの第二祷

●信仰告白での用例は7回:1:1、5:6、6:1、17:3、20:1、21:1、25:5、

1.大教理21
 答 私たちの始祖は、自分自身の意志の自由に任されていたところ、サタンの誘惑によ
   、禁じられていた木の実を食べて神の戒めに違反しました。そのことによって
   彼らは、創造された時の無罪状態から堕落しました。(宮﨑訳)
 証拠聖句のうち、Ⅱコリント11:3が告げるところに注目したい。「エバが蛇の悪だくみで欺かれたように・・・・。」サタンは巧妙な手口を駆使して神に背かせる。人を神から引き離す力をサタンは行使する。
 創世記3章の堕落物語には「力」の語こそ用いられないが、蛇に宿るサタンの力は際限なく強い。

2.大教理27
 答 堕落は、人類に神との交わりの喪失、および神の不興と呪いをもたらしました。
   そのため、私たちは生まれながらにして怒りの子、サタンの奴隷であり、この世に
   おいても、来たるべき世においても、あらゆる刑罰を受けて当然の者です。(宮崎訳)
 下線部の証拠聖句Ⅱテモテ2:26は極めて絵画的である。新共同訳では「こうして彼らは
悪魔に生け捕りにされてその意のままになっていても、・・・・。」
 下線部の原文 eis to ekeinou thelema の eis は、悪魔の意志のただ中へと丸め込まれているさまを描き出す。この意をくんで、岩隈は「その意志に屈服させられている」と訳した。  
 アダムにおいて堕落した私たちは、神の目からすれば怒りの子であり、実態はと言え ばサタンの奴隷である。サタンの意志に屈服させられ、サタンに隷属している存在であ
る。
 パウロはⅠテモテ3:7で「悪魔の罠」と言っている。同6:9では「誘惑、罠」とも。
 隷属は、家来となって主君の支配力の下に身を置くさまを言う。サタンへの隷属は
サタンのとりことされ、その力の下でがんじがらめにされているさまを指す。

 クリスマスの讃美歌《もろびとこぞりて》の2節は、現行112番では〈悪魔のひと
やをうちくだきて、捕虜(とりこ)をはなつと主はきませり〉であるが、讃美歌21
の261番では〈悪魔の力をうちくだきて〉となった。
 ハイデルベルク信仰問答問1の答に次のとおり言われる。「この方[イエス・キリスト]は御自分の尊い血をもってわたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました。」(吉田訳)
 登家訳では「・・・・まったく悪魔の権力のもとにあったわたしを解放してください ました。」

3.大教理48
 本問の答では、サタンの誘惑と戦うことにおいてキリストが自らを低くされたことが
言われている。戦いの相手は他にも挙げられている。
 48問の趣旨は、46問で明白に述べられていた。キリストがご自分の栄光を空しくし、
自らにしもべのかたちをとられたことの目に見えるさまの一つがサタンの誘惑との戦い
であった。

4.大教理 121
 第四の戒めの冒頭に「心に留めよ」との言葉がおかれているのはなぜか、と本問は
問う。
 答を大別すれば、①安息日を覚えることは大きな益だから。
 ②私たちが安息日をすぐに忘れがちだから。
 ②に三つの細目がある。その第三は「サタンがその手下どもを用いて、安息日の栄光、
そしてその記憶をすら消し去って,不信仰と不敬虔が全面的に支配する世の中にしようと
大いに骨折っているからです。」(宮﨑訳)
 下線部は、原文では Satan with his instruments much labour である。主語が三人称
単数で現在のことを言うのに、なぜ labours としないのか、ネイティブでない身には分からない。ここは、Ward の現代英語版では、Satan with his agents seeks by all means
となっている。

 ここでの instruments を「手先」とする訳本もあるが、鈴木訳の「さまざまな手練
手管」には、思わず目を見張った。人をだましたり操ったりする腕前のこと。なお、
much labour も、鈴木訳では「躍起になる」で、翻訳の極意を垣間見る思いがした。
 サタンは狡猾で、あらゆる手を用いる。先ずは人を迷わせ、その隙をついて自分の言う
ことを信じさせる。そうして神から引き離そうとする。常に虎視眈々とうかがっている。
複数形の agents は、ありとあらゆる手段、やり口を言い表している。証拠聖句の
ネヘミヤ13:15-23は、安息の戒めをおろそかにさせようとするサタンの手口が、あらゆる
商品の売買に及んでいるさまを描き出しているーー穀物、ぶどう酒、ぶどうの実、いちじく、食品、魚。
 サタンは安息日遵守をおろそかにさせるという蟻の穴を手始めとして、信仰者の週日、
そして全生涯を破滅に陥れようとして、日夜働いている。今、この時もうごめいている。
サタンは細部に宿る。

5.大教理 191
 (1)主の祈りの第二の祈願をささげるにあたり認めることとして、「自分自身、さら
  には全人類が生まれながら罪とサタンの支配下にあること」が挙げられている
  (宮﨑訳)。
   原文の under the dominion of を「支配下」と訳した。罪が力を振るい、サタン
  が力を総動員する、そのような状況下に全人類は置かれている。ここでの支配下は、
  罪とサタンの権力下にほかならない。

 (2)第二祷で祈るべきことの冒頭に置かれるのが、「罪とサタンの支配が打ち滅ぼさ
  れ」である(宮﨑訳)。原文では、the Kingdom of sin and Satan may be
      destroyedであるので、「罪とサタンの王国」とする訳本もある。

 (3)第二祷で祈るべきことの最後に置かれるのが、「キリストが全世界において御力
  の支配を行き届かせることを喜んでしてくださるように、とのこと」である(宮﨑
  訳)。原文では、that he would be pleased so to exercise the kingdom of his
      power in all the world である。
   古語 kingdom は王位、王権の意で用いられるので、ここを「王権」とする訳も
  ある(松谷訳)。一方、一般の辞書でも説明されているとおり、kingdom は神
  [キリスト]の霊的支配を意味する。私は、「支配」に傾く。 改革派委員会訳では支
  配、鈴木訳では支配力。
   罪とサタンとが実効支配している現実にキリストが主権をもって斬り込んで、ご自
  身の力の支配を世界の隅々にまで打ち立ててくださる。その意味で、「支配力」の
  訳語は意を伝えている。
   直ぐに頭に浮かぶのがパウロの言明であるー「御父は、わたしたちを闇の力か
  から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました」(コロサイ
  1:13)。下線部を保坂は「御子の王国的支配の下へと」と訳した。ここでは、
  「○○から」と「△△への」の対比が著しい。絵画的でもある。
   罪とサタンは常に変わることなく、聖なる神への抵抗勢力である。
   告白20:1では、キリスト者が、今のこの悪しきと、サタンへの隷属と、
  支配とから救い出されていることが明言されている。この箇所の証拠聖句の一つが
  コロサイ1:13である。

   大教理191と並行する小教理102には、次のトリオが整然と現れる。
    that Satan's kingdom may be destroyed
            that the kingdom of grace may be advanced
            that the kingdom of glory may be hastened
   明治13年(1880)発行『新約全書』馬太(マタイ)伝第六章の「主の祈り」を、
  日本の教会は140年近くの長きにわたって用いてきた。表記に多少の変更が加えられ
  てはきたが。明治13年版では、thy Kingdom に爾国(みくに)の訳語が当てられて
  いた。爾は汝(なんじ)のこと。後に御国(みくに)となる。
   ウエストミンスター小教理問答の日本語訳を一覧すれば、明治9年以来、表記の
  異同はあるものの、ほぼ、サタンの国、恵みの国、栄光の国と訳されてきた。
   これを、サタンの王国、恵の王国、栄光の王国としたのは、1978年の榊原訳が
  最初である。1963年改革派委員会訳大教理191「罪とサタンの王国」に倣ってか。
   1997年の鈴木訳は、サタンの支配、恵みの支配、栄光の国とした。
   2002年松谷訳、2009年春名訳、2015年袴田訳はいずれも、サタンの王国、恵み
  の王国、栄光の王国。
   王国とは、王が自らの権力で支配する国であることから、そこで自明なのは、
  他の原理をくまなく排除する支配力そのものである。

6.大教理195
 (1)主の祈りの第六祷をなすにあたり認めるべきことが三つ挙げられるが、その
       第二点は次のとおりーーー「サタンと世と肉とが,強引に自分の方へと私たちを
   引き寄せて、罠にかけようと身構えていること」(宮﨑訳)。
    サタン・世・肉のトリオに注目したい。告白1:1に早くも姿を現す-「肉の
   腐敗とサタンとこの世の敵意」。
    同じく告白5:6では「肉」の語こそ用いられないものの「自分自身の欲望と
   世の誘惑とサタンの力に引き渡される」。
    同17:3では「サタンとこの世との誘惑や、自らの内に残っている腐敗」。
    上に見るとおり、肉は罪の腐敗面を言い表している。神に対しては背反、自分
   に対しては腐敗。

    大教理191ではサタンの支配力が前面に出ていた。195でも変わることがないが、
   195では、このサタンに肉の欲、肉の腐れが直結されていることを注視しなければ
   ならない。世も同様に,自分の欲の欲するままに行動する姿を映し出している。心に
   入り込んでいる欲望が問題なのだ。証拠聖句のルカ21:34とマルコ4:19の
   告げるとおりである。

    サタンと世と肉とが、強引に自分の方へと私たちを引き寄せようと身構えてい
   る。下線部の動詞 drawが大教理155に用いられているのに気付いた。神の御霊が、
   御言葉の朗読、特に御言葉の説教を有効な手段としてお用いになる目的の一つと
   して挙げられているのが、「罪人を自分自身から引き離してキリストへと引き寄せ
   る」ことである。エチオピアの高官の例を証拠聖句として挙げるとおり、罪人で
   ある自分は、先ずは自分本位の勝手気ままな聖書の読み方、また聖書解釈をしよう
   とする、そのような自分から解放されなければならない。その解放は御霊の業に
   ほかならない。それが、罪人を「自分自身から引き離し」との句で明らかにされて
   いる。下線部の動詞はdrive。
    原文では、driving them out of themselvesと
         drawing them unto Christ の対比が著しい。
    「罪人を自分自身から引き離し」を「罪人を自分自身からひき剥がし」とすれ
   ば、実感がこもる。

    サタンは常に、世と肉とを仲間に引き込み、手を組んで巧妙に動き回る。

   (2)主の祈りの第六祷で祈るべきことの前段に、「神が…、肉を従わせ、
     サタンを抑制し」とある。(1)のサタン・世・肉が(2)では肉・サタン
     となった。
     「肉」は神に背いて堕落した人間の罪の姿、特に汚れを言い表す。罪に
     汚れた人間の腐敗そのものが肉である。サタンはこの肉を狙って攻撃を
     仕掛けてくる。よって、神が肉を従わせてくださるように、と祈り求める。
      証拠聖句の詩編119:133「どのような悪もわたしを支配しませんように」
     を唱えて、神の聖なる支配を願い求める。
      次いで、神がサタンを抑制してくださるように、と祈る。サタンは肉と
     世とを家来にして働くが、それはすべて神の許しの範囲内でのことである。
     したがって、神がサタンの活動を抑制して、サタンの目的のすべてを達成
     させないでください、と祈るのである。
      神が肉を従わせ、サタンを抑制してくださるようにとの祈りの直前に
     置かれるのが、神が世界とその中にあるすべてのものを支配してくださるよう
     にとの祈りである。直後に置かれるのは、万事を統御してくださるようにとの
     祈りである。神の主権を告白する祈りといえる。

      神の全能の働きに信頼を傾けてなす祈りは、神が備えてくださっている恵み
     の手段を目を覚まして用いることに直結されている。大教理154問では恵み
     の外的手段は何かが示された。195問のこの箇所では,この手段を最大限の
     注意を払って自覚的に用いることが求められている.牧会的な勧めといえる。
    
    (3)主の祈りの第六祷で祈るべきことの後段に、「サタンが私たちの足の下に
      踏みにじられ」が挙げられる。この後段は終末の完成を確かに見通しての
      祈りである。
      (2)では「サタンを抑制し」と言われたが、(3)では「サタンが踏みに
      じられ」となった。終末における決定的壊滅を指してのことである。
      証拠聖句ローマ16:30「……神は間もなく、サタンをあなたがたの足の
      下で打ち砕かれるでしょう。」
      下線部は諸訳での「速やかに」に傾く.遅れることなくの意。

       大教理89問に目を配れば、審判の日に、悪しき者は「……地獄に投げ
      入れられ、悪魔とその使いたちと共に、体と魂の両面にわたり、言い尽くす
      ことのできない苦悶をもって、永遠に罰せられます。」この箇所の証拠聖句
      Ⅱテサロニケ1:8,9に見える「神を認めない者や、わたしたちの主イエス
      の福音に聞き従わない者」が、本問での「悪しき者」の定義だと思う。
       終わりの日に,悪しき者は悪魔と共に,永遠に罰せられる。
      悪魔の決定的な敗北は、義人すなわち聖徒たちの不動の勝利と対比されて
                  いる。

       大教理195答「サタンが踏みにじられ」の別の証拠聖句ゼカリヤ3:2に
      注目したい。「主の御使いはサタンに言った。『サタンよ、主はおまえを
      責められる。……』」なお続く3:3は「また、御使いはヨシュアに言った。
      『わたしはお前の罪を取り去った。晴れ着を着せて貰いなさい。』」
      何たる対比であろうか。

       悪魔/サタンの客観的実在と人格性とを信じる者にして初めて,霊の戦い
      に勝利することができる。この勝利は活けるキリストの力による。

     【付】ウエストミンスター信条での悪魔
       ウエストミンスター信条で devil が用いられるのは、3例のみ。
      いずれの例でも「悪魔」と訳される。
      ●大教理89 審判の日に悪魔は永遠に罰せられる。上記6.(3)で触れた
       とおり。
      ●大教理105 第一戒で禁じられていることの一つとして「すべて悪魔と
       同盟したり、相談したり、その提言に耳を貸したりすること」が挙げられ
       る。(宮﨑訳)「耳を貸したり」の証拠聖句 使徒5:3では、「サタン
       に心を奪われ」。
      ●大教理192 主の祈りの第三祷にあたり認めるべきことの一つに挙げられ
       るのが「肉の欲すること,悪魔の意図することを行う方向性に完全に
       染まっている者であること」(宮﨑訳)である。
        悪魔の意図することは、すなわち私たちを神から引き剥がし,完全に
       引き離して自分の支配下に引きずり込もうとするたくらみにほかならない
       い。
        ここでも、「肉の欲すること」と「悪魔の意図すること」が単なる
       並列の域を超えて,合体していることに注目したい。
        大教理195では、サタンと世と肉の一体を見た。同じ195で、肉と
       サタンが一息で言われていることを目にした。
        192と195を併せて読めば、サタンと悪魔が瓦換可能であることが
       見えてくる。ちなみに、告白1:1で諸訳が「肉の腐敗とサタンとこの世
       の敵意」とするところを、改革派委員会訳は「肉の腐敗と悪魔や世の
       敵意」と言い表している。「悪魔」とする訳本は他にもある。

        1954年版『讃美歌』を一覧すれば、驚くことに「サタン」の用例
       は無かった。頻出するのは「悪魔」「あくま」である。
         27, 112, 150, 158, 198, 255, 267, 281, 382, 387, 397,
                           408, 528
                        日曜学校で歌ったものに「わたしはちいさいひ」がある。
        (1965年初版『ふくいん子どもさんびか』86番)その3節は、
          あくまがふいても ひかりましょう
          あくまがふいても ひかりましょう
          ひかれ ひかれ ひかれ
        日本の教会は、新約聖書で一貫して用いられている「悪魔」を、
       讃美歌でももっぱら使ったようだ。もっとも、明治21年の
       『新撰讃美歌』では、全274曲中、70, 79, 133の3曲に「サタン」の
       用例が見られる。