2019年10月19日土曜日

「ICS軽井沢文庫だより」第26号

  ~巻頭言~  「『政』とは何か」


宮﨑彌男

 
  前回、「政界にキリストの風を」との巻頭言を記しました。イエス・キリストを信じる信仰に立って発信している「ICS軽井沢文庫だより」としては、「当然」の主張なのですが、肯定/否定/無関心いろいろの反応がありました。それで、今一度、フォローすることにします。
 「政界」の「政」とは、一体何なのでしょうか。
 角川『漢和中辞典』によれば、「政」という漢字は、「正が音を表し、直(まっすぐ)からきている。打って直にする、正すの意」と解字されています。また、字義としては、①「まつりごと」(国家を治めること)が上げられています。さらに、『岩波 国語辞典』を引くと、「まつりごと」【政】は、「主権者が領土・臣民を統治すること。政治」とあり、それに「『祭り事』の意。古くは祭政一致だったから」という補足説明が加えられています。
 政治というのは、古くから、国を「治め」「統治する」ために行われてきたもので、その目的は、「打って直(まっすぐ)にする」「正す」ことにある、というわけです。聖書においても、王による治世の核心が「公正と正義」にあることが明言されています(列王記上10:9、イザヤ書26:10、箴言8:15,16等)。
 わが国の現今の政治はどうでしょうか。公正と正義を旨とする政治が行われているでしょうか。「自民一強」が長く続く中、現政界を動かしているのは、「政」の公正/正義ではなく、権力の座にある者への諸々の忖度(そんたく)の結果としての不正行為の横行、政治家の自己保身の結果としての聖なるヴィジョン(長期展望)の欠如ではないですか。このような公正/正義を旨とする政治感覚のなくなった政界をこのままにしておくならば、それは国民全体の道徳的腐敗を結果します。もう既に顕わになりつつあるのではないですか。
 今こそ、日本の政界はキリストの風を必要としています。イザヤ書9:5,6で、「その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。その主権は増し、平和には終わりがない。ダビデの王座と其の王国は、公正と正義によって立てられ、支えられる。今より、とこしえに。万軍の主の熱情がこれを成し遂げる」と預言されているキリストの風(霊)を必要としています。

(政治学と聖書) 

 このようなキリストの風を政界に導入するためには、前回述べたように、キリスト教主義の政治綱領を定めた政党を立ち上げることが必要です。そして、その第一歩として、政治学における聖書の規範性を学ぶことが大切です。幸い適当な参考書が見つかりました。H. H. ミーター著、原良三訳『カルヴィニズムーその神学と秩序の理念ー』(新教出版社、1949年)です(注1)。この本は、私が、学生時代、神田の友愛書房という古本屋で購入したものなのですが、長い間、友人に貸しておりました。それが、摂理的な仕方で、山梨栄光教会のI長老、A姉の手を介して、つい先日、私の手元に戻ってきたのです。感動し、感謝しました。
 さわりの部分だけ紹介します。第八章「カルヴィニズム、政治学及び聖書」に次のよう
H. ミーター著『カルヴィニズム』

な文章があります。今回は、抜粋的に引用します。
 「聖書は信仰及び生活万般の事柄にわたるカルヴィニスト(注2)の規準であり、したがって、それは、政治学の分野においても、また同様に規準をなすものである。なぜか。カルヴィニストに従えば、神はいずこにおいても主権的であられる。それゆえ、神の言葉は政治の世界に対してもまた律法(おきて)であり、聖書は神の言葉として信仰並びに行為の規範である故に、カルヴィニストはその政治的諸活動における指導にあたっても、聖書に訴えるのである。
 しかし、カルヴィニストがその諸々の思想をことごとく聖書より引き出すように主張すると考える誤謬を敢えてしてはならない。断じてそのようなことはあり得ない。…神は自己啓示の二つの書をお持ちになった。すなわち、自然の書(自然的諸対象、歴史及び人間の生活)と聖書とである。それゆえに、自然と歴史から、われわれは、政治学の分野に対して多くの重要な事実を学ぶことができる。この諸事実をカルヴィニストは大いに活用する。彼は、諸国家の政治の歴史を跡づける。彼はまた法律学者が国家に関して何を考え、また教えてきたかを研究する。しかしながら、この自然の書が神と真理について、むしろ不完全な見解しか与えなかった故に、われわれはその修正を必要とする。そして、カルヴィニストはこの収支を聖書に発見する。この聖書が自然の書の修正と共に、永遠の諸真理を包有しており、かつ人類社会一般の行動を指導するものなのである。このように、聖書は最後的なアピールの書となり、特別な意味において、政治学に関するカルヴィニストの見解に対して規準となる」(pp.112~113、下線-宮﨑)。

 ここで、ミーターの言う(キリスト教政治学の規範としての)「二つの書」とは、「自然の書」と聖書です。前者,すなわち,「自然の書」とは、「ICS軽井沢文庫だより」9号で,「創造啓示」と呼んでいるもので、「創造の律法(法)による啓示です。これだけでは、罪の影響を被っていますので、キリスト教政治学の健全な営みのためには、聖書による矯正が絶えず必要なのです。キリスト教政治学のための規範は、創造の法と聖書であると言うことができます。

(注1)原著は、H. Henry Meeter, Calvinismーthe Theological and the Political Ideas-(Zondervan publishing House, 1939)。副題のより適切な訳は、「その神学と政治の理念」。

(注2)「改革主義的キリスト者」と読み替えても良い。




 L. プラームスマ著

『キリストを王とせよ―アブラハム・カイパーとその時代―』

宮﨑彌男訳

ー第25号より続くー


第1章 19世紀の精神 


革命と軌を一つにして


イ. 自由主義

 「自由主義」という用語には、注意が必要です。複数の意味があるからです。多くの場合、この言葉には、人間の自由―絆からの自由、伝統や権威からの自由、といった、人を惹きつける含蓄があります。神学的に言えば、19-20世紀の多くの教会に見られる、人間の自律性への傾向性を示すものです。聖書や信条の権威についての伝統的な見解を斥け、自由主義者は人間の理性、経験、感情の至上性を主張します。政治的に言えば、「リベラル」という語は、英国やカナダにおけるホィッグ党に源流を持つ組織の名称です。米国においては、この用語は、他に比べてより進歩的であろうとする政党のメンバーや派閥のことです。
 私は、ここでは、この「自由主義」(liberalism)を、フランス革命の諸原理を穏健に採用したいと願っていた18世紀ヨーロッパの中産階級の哲学を指す言葉として、用いています。これらの自由主義者たちはこの革命の恐怖の支配やその他の行き過ぎには嫌悪を覚えながらも、革命の基本原理、すなわち、いかなる神的啓示からも独立した人間と人間理性の自律性を、躊躇なく受け入れたのです。
 このような自由主義者(librals)と正統的なキリスト者との違いについては、オランダの自由主義政治家、S. ヴァン・ハウテンは次のように言っています。
 「私たちは、真理と正義を知る源泉としての啓示も、教会を代表するどのような権威も認めない。理性の光においてのみ、私たちは、現在と過去における国民の思いがどこにあるかを察知することができる。私たちは、そういった判断をよくわきまえた上で、幸福と繁栄を増進し、悲嘆を回避する。いわゆる「神のことば」ではなく、我らの理性という神の賜物こそが、(信仰者の言葉で言えば)我らの足もとを照らすランプなのである」(注10)
 自由主義は人民主権に味方しますが、それは、すべての人々の味方をするわけではありません。中産階級、すなわち、ブルジョアジーの主権を求めますが、労働者階級、すなわち、プロレタリアートの主権は求めません。それゆえ、自由主義者は、選挙権を、少なくとも、一定の税額を納める市民に限定しました。
 自由主義者の経済原理は、“laissez faire, laissez aller”(自由放任・成り行き任せ)というスローガンに要約されています。その結果、産業革命の時代に、多くの労働者は最悪の労働条件の中で、やっと生きることができたのです。このスローガンの名の下で、女性や子どもは利潤を上げるために用いられることとなりました。
 自由主義者は、神の言葉から逸脱したあらゆる種類の見解には寛容でしたが、1834年にオランダで起きた「分離運動」(Afscheiding)の時に明らかになったように、礼拝の自由を求める正統的な集団に対しては、非寛容でした。彼らは、国が建てた公立学校の子供たちのための現代的な教育は増進しましたが、純粋なキリスト教の教理を教えることには反対しました。彼らは、自由なキリスト教主義学校の設立をほとんど不可能にしてしまったのです。
 アブラハム・カイパーの公共の分野における活動のほとんどすべては、教会、国家、社会における自由主義との継続的な戦いに向けられることとなります。彼は、自由な教会、公立学校と同じ権利と義務を持つ自由なキリスト教主義学校、そして、いわゆる庶民(Kleine luyden)のために必要な社会的法制のための大いなる戦士(champion)となるのです。

ロ.社会主義と共産主義

 19世紀は、また、マルキシズムの起こった時代でもありました。階級闘争の理念を唱え、プロレタリア社会主義とエリート共産主義を生み出した哲学です。マルキシズムは、自由主義の摘出の子でもありました。これもまた(イエス・キリストとは別の)自由、平等、博愛を求めて戦うのですが、裕福で、礼儀正しく、善意の中産階級の市民のためではなく、その戦いは、とりわけ、下層階級に属する多数の人々、すなわち、プロレタリアートのための戦いでした。
 マルキシズムは、自由主義にも増して根源的に神の御言葉の権威を否定し、これに反対しました。始めは、「宗教は私的生活に属するものである」とのスローガンで始まったのですが、「宗教は人民のアヘンである」と言い始めたとき、その特質が鮮明となりました。
 自由主義は唯物主義的な人生観を主唱してきました。すべての労働を、需要と供給の法則に従うべき商品と考えました。自由主義は、好んで、賃金という鉄の法則について語りました。労働者の賃金は、その家族が生活するに必要な額以上であってはならないというのです。この思想においては、すべての人間関係、理想や宗教は、単に物質的状況の反映にしか過ぎませんでした。
 マルキシズムは、完全に唯物主義的でした。それゆえ、常に、避けることのできない階級闘争が現実となる、というのです。また、それぞれの階級に属する人々は、それぞれの道徳を生み出し、それぞれの偏見から逃れることができない。この結果生まれる終わりなき闘争を終わらせるものは、階級なき社会へと向かう運動でしかない。このような社会の到来がメシア的熱情をもって預言されました。恐るべき世界革命の栄光の結果がこれでした。
 19世紀の最初の社会主義者(社会主義という名称が最初に用いられたのは1830年頃です)は、ユートピア社会主義者と呼ばれていました。しかし、彼らのうちの幾人かは実践的なプログラムを提示しました(フーリエ、ルイ・ブラン等)。
 1948年に、マルクスとエンゲルスは、自分たちの「共産党宣言」を出しました。その中で、彼らは、生産手段の私有化を廃する仕方で富を分かち合うことを提唱しました。この「宣言」は、次のよう熱情的な言葉で終わっています。

   共産主義者は、自分たちの見解と目的を覆い隠すことを潔しとしない。彼ら
   は、公に宣言する。彼らの目的が既存の社会的条件のすべてを力尽くで覆す
   ことによってしか達成できないことを。支配階級よ。共産主義革命の前に震
   え上がるが良い。プロレタリアは、この革命において鉄鎖以外に失うものは
   何もない。プロレタリアが獲得すべきは、全世界である。万国のプロレタリ
   ア、団結せよ。

 なぜ、このような社会主義者、共産主義者の訴えが反響を得たか、多くの理由があります。多くの産業の中心地や、農村地域における労働者の状況は、悲惨極まるものであったのです。
 カイパーは、社会主義には反対でしたが、それが指し示している現実問題のチャレンジには良く気付いていました。彼は、社会的な条件の改善とキリスト教的な労組のために、計画を立て、その必要を熱心に訴えました。

(注10)Groen's Ongeloof en Revolutie(1922)のあとがき(pp. 270-271)においてP. A. Diepenhorstが引用している。


【9月の活動報告】


9月1日(日)家内と共に、長野佐久教会(長野会堂)で、主日礼拝を守る。聖餐式にも与
幼子イエスを抱くシメオン
る。

9月8日(日)長野佐久教会(長野会堂)にて、礼拝説教奉仕。(ヘブライ12:25~29)。

9月16日(月)東部中会信徒修養会(於/川崎市、麻生文化センター)に家内と共に出席。289名が参加。以前は、2泊3日で行われていたが、今は日帰りの「一日信徒修養会」となっている。それでも、修養会は良いもの。老若男女それぞれの世代が、信徒として交わりを深め、広げ、御言葉による訓練を受けるために、主は、修養会を用いてこられた。今後とも大切にしたい。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」(詩編133:1)。

9月23日(月・休)友人に誘われて、宝生流/演能空間【烏帽子折】を観能。後半に,牛若と熊坂長範が打ち合う場面があったが、間の取り方など、現代に生きる私たちにも興味深いものがあった。

 9月27日(金)第6回信州神学研究会、於佐久会堂。「原理主義とカルヴィニズム」というテーマで、牧野信成牧師が発題講演。カルヴィニストは、聖書解釈において,ファンダメンタリズムやリベラリズムを排して、第三の道(リフォームド)を模索するとのこと。

9月29日(日長野佐久教会(佐久会堂)にて、礼拝説教奉仕。ヘブライ12:25~29。


「ICS軽井沢文庫だより」の印刷方法

「ICS軽井沢文庫」<ics41.blogspot.jp>を開き、ラベル「ICS軽井沢文庫だより」第26号 を選択します次に、パソコン画面右上のオプション設定のマーク(縦3つ)をクリック、印刷を選択する。左欄のオプションを両面印刷にし、詳細設定の中の倍率を150背景のグラフィックもオンにしてください。印刷ボタンを押すと OKです。同様に、他のすべてのラベルも、選択して、印刷することができます。


【「ICS軽井沢文庫」】

「ICS軽井沢文庫」は、日本におけるキリスト教有神的世界観人生観の研鑽と普及のために、2016年6月14日に、軽井沢町追分36-23に設置された文庫です。“ICSInstitute for Christian Studies)は、この文庫が、日本における (改革主義)キリスト教学術研修所(大学院)の設置を目指していることを告白するものです。また、最近は、日本におけるキリスト教政党立ち上げのヴィジョンも与えられつつあります。文庫設置の経緯については、「ICS軽井沢文庫だより」第1号(2016.6.14)をごらん下さい(ラベル「ICS軽井沢文庫だより」第1号をクリック)。シャーローム。


【連絡先】

389-0115長野県北佐久郡軽井沢町追分36-23 宮﨑彌男・淳子

TelFax 0267-31-6303(携帯) 080-3608-3769

Eメールmmiyazk41@gmail.com   

ブログアドレス 「ICS軽井沢文庫」<ics41.blogspot.jp>