2018年5月24日木曜日

「ICS軽井沢文庫だより」NO.16

“二刀流”の伝道者(3)

宮﨑彌男


 前回、「ICS軽井沢文庫だより」(第15号)を公開したのは、3月9日でしたので、それから、2ヶ月以上も経ちました。待っていて下さった方には(そういう人がおられればの話ですが)、どうしているのだろうかと思われたかも知れません。言い訳になるかもしれませんが、4月10日にA・ウォルタース著『キリスト者の世界観―創造の回復』(増補改訂版/拙訳)がいよいよ出版の運びとなり、すでに書店に出回っているのですが、300冊を訳者である私が窓口となって売りさばくことになったものですから、そのことで、結構走り回っていた?のです。おかげさまで、もうすでに、100冊ばかりは、買っていただいたり、予約していただいたりしました。ちなみに、このルートで購入されますと、(割引価格) 税込み 1700円で購入できますので、私の方にお申し込み下さい。すぐにお送りします。

(A・ウォルタース著『キリスト者の世界観―創造の回復』[増補改訂版])
 
『キリスト者の世界観』
(増補改訂版)
初めから宣伝のような話になってしまいましたが、実は、この訳書の出版は、私の「“二刀流”伝道者」と決して無関係ではないのです。このことは、すでに「ICS軽井沢文庫だより」第14号「“二刀流”の伝道者」で、この本の初版の出版の意義について、次のように記していることからもおわかりいただけると思います。「…ただ、そのような中で、熊本伝道所時代に、九州連合青年会を指導する中で、A.ウォルタースの名著『キリスト者の世界観―創造の回復―』を翻訳・出版できたことは感謝でした。この書物は好評で、第二刷まで売り切れ、現在第二版(増補改訂版)の出版を準備中です。この訳書を読んだ人の多くが、キリスト教信仰による人生観・世界観が飛躍的に広げられ深められた、と喜んでおられます。」
 ここに記した最後の文章は本当です。この書は、キリスト者の「ものの見方」(世界観)を変える不思議な力を持っています。多くの読者から、私はこのことを聞きました。もちろん、私自身もそのひとりです。自分の訳した本を、出版後、改めて読み返してみて、神の創造とあがないの広さ深さに感動の涙を禁じ得なかったことを思い出します(特に第4章など)。
 私たちは、ふつう、教会で聖書のお話を聞いたり、キリスト教教理の勉強をしたりします。しかし、私たちにとって “毎日が日曜日” なわけではありません。教会で聞いたり教えられたりした(インプットされた)「神の言葉」を「行う」(アウトプットする)生活現場は、教会だけではなく、家庭であり、職場であり、学校であり、諸々の社会生活であるはずです。そのような生活の現場で、どのように神の言葉に従い、シャローム(平和)を実現しようとするのか、この本は、私たちの、そういったニードに応えるべく、懇切丁寧に、聖書に従って、案内役をつとめてくれます。そういう意味では、この本は、正に、“二刀流”伝道の指南書ともいうべき、神からの贈り物です。この本を、個人として、教会として、また、色々のグループ等で読んで下さればいいなと思っています。私が家内と共に通っている長野佐久教会(佐久会堂)でも、牧野信成牧師の発意で、毎週水曜朝の祈祷会で学んでいます。https://rcjnaganosaku.jimdo.com

(私にとっての「有神的人生観世界観」ー実践的時間論ー)

 さて、“二刀流”伝道の指南書としてのA・ウォルタース著『キリスト者の世界観―創造の回復』の紹介をしましたが、この辺で、前回からの宿題になっていました、第一刀「有神的(神が共におられる)人生観世界観」を私がどのように用いているかをご紹介します。
 正直言って、これなしには、私の毎日の生活はあり得ません。「有神的人生観世界観」という刀、これなしには、私は一日たりとも生活できない。これは、私の実感です。こういう風に言いますと、私の、日頃のぐうたらな生活ぶりを知っている人たちは、「おいおい、無理しなくてもいいよ」と言われそうです。でも、私は、何も気負ってこう言っているのではありません。「有神的人生観世界観」というこの一刀なしには、私は、一瞬たりとも生きられないのです。キリストにあがなわれたクリスチャンならば、皆同じように言うはずです。
 なぜかと言えば、クリスチャンは、毎日与えられている時間を神の恵みの「時」として捉えているからです。有神的人生観世界観で「時間」をどのように考えているかについて、「ICS軽井沢文庫だより」の11号でも少し触れたことはあるのですが、改めてこのたび、G. スパイクマンの『改革主義神学ー教義学のための新しいパラダイム』を読み直して見て、時間と創造/摂理の関係について、かなり説得的な議論がなされていることを知りました。まとまった紹介はまたの機会に譲るとして、スパイクマンは、時間が「神の創造によるもの」であり、それ故に、「神のしもべ」である、とはっきりと語っています(注1)。もし、神の創造と摂理の御業の全体も神の恵みの御業と考えるならば、(私は最近、共通恩恵論を学ぶ中でそのように考えるようになってきていますが)、時間も神の恵みによって私たちに与えられたものであるに違いありません。
御影用水
また、私がトロントで師事した、H. ハート先生からは、「時間とは、被造物が神の宇宙的法(Cosmic Law)に応答する継続的関係性」である(旧約聖書コヘレトの言葉12:13、イザヤ書55:12等参照) と教えられ、これは、日本伝道に益する、得がたい洞察だと深く心に留めました。また、東京基督教大学でキリスト教哲学を教えておられる稲垣久和先生は、ここで言う「宇宙的法」を「宇宙論的(コスモロジカル)な法構造」と呼び、「宗教的根源に接した自我」と共に、その「超越論的解釈学」の二本柱(「超越論的ア・プリオリ」)の一つとしておられます(注2)
 ここで、神の律法について、「宇宙的法」(Cosmic Law)とか「宇宙論的(コスモロジカル)な法構造」と言い表されているところに注意を向けてください。この場合の「宇宙」(cosmos)とは、宇宙工学等で言う「宇宙」のことではなく(もちろんそれも含まれますが)、聖書の言葉で言えば、「天地万物」(創世記2:1)、「世界とその中の万物」(使徒言行録17:24)で、そこには、神に造られた「見えるもの、見えないもの」の一切が含まれています(コロサイ1:16)。『キリスト者の世界観―創造の回復』の「あとがき」では、「全包括的」と言い換えています。「…福音はその拡がりにおいて全包括的です。イエスの宣べ伝えた福音はイエスの宇宙的王権の福音です」(180頁)。
 きょう届いた JAF Mate 6月号の表紙に、“地球のこと、考えてみない?”とありました。何だかわくわくするようなキャッチフレーズではありませんか。ましてや、“宇宙のこと、考えてみませんか?”と、イエス様から誘われたら、わくわくしませんか。
 私たちは、神の律法の支配領域を、ともすれば、狭く考えがちです。けれども、神によって造られた世界の全体が全包括的な「神の法」に服しており、それは、原子の構造や太陽系の運行、植物の生活周期、ビーバーの建築本能といった自然科学の対象となるような事柄だけではなく、社会学、美学、政治学、経済学といった人文・社会科学関係の分野にも生きた「規範」として関わりを持っているのです。「神の定めはさまざまな社会組織、芸術の世界、ビジネスや商業にも及んでおり…結婚や国家についても聖書の教えがあり…教育や育児の分野においても…さらには、人間の情緒や性も規範を欠くものではありません。また、議論する場合には、思考の法則があり、話をする場合には言語上の原理に従っており、すべては神のお与え下さった法に服しているのです」(上掲『キリスト者の世界観』46~50頁)。
 このような、全包括的な神の律法を信じ、これに従って生きようとするならば、神の恵みとしての時間は、一日、一週間、一ヶ月、一ヶ年に亘る私たちの生活時間の全体と重なるものとなります。私たちは、かくして、全時間、全日を神の恵みの時間として、神に生かされ、神と人に仕えつつ生きることとなるのです。
 スパイクマンは、上記の書物で、時間を神の主権的な創造による「神のしもべ」と主張していますが、創世記1,2章の記述に従って、「創造時間」 creating time と「被造時間」created time とに区別しています。前者は、創世記第1章の、「六日間」に亘る神の創造時間であって、私たち人間が関与することのできないものです。それに対して、2:1に記されている「第七の日」以降、終末に至るまでの後者、すなわち「被造時間」は、言わば歴史的な時間で、私たち人間にも主体的な関わりが求められている時間です。従って、前者については、「一日」が、今日のカレンダー的な数え方でどのくらいの時間なのかは分からないのですが、後者の「被造時間」については、(第六の日が終わってから)今日まで続いているのですから、私たちが今日のカレンダー的な「年月日」を用いて管理することが、許されているどころか、求められてさえいるのです(注3)

(有神的人生観世界観に基づくライフプラン)

 
庭の九輪草
もしそうであるならば、「ICS軽井沢文庫だより」11号で示した有神的人生観世界観に基づく私のライフプランは、基本的に、聖書の教えに適っていると言えるのかも知れません。大変勇気づけられます。
 昨年7月で私は76才になり、一般的に言うならば、「後期高齢者」の仲間入りです。私は、信仰的な観点から、家内と共にライフプランを考えました。私としては、「ICS軽井沢文庫」の育成を引退教師としての主たる仕事にしたいとの召命感に基づいて、向こう3年間の計画を立てたわけです。今一度、第11号の「時を生かして」をご参照いただければ幸いです。
 3年の時間をそのために主からいただいている。感謝である。。日数としては、(安息日を除いて)939日、時間数としては、1日8時間労働で、7512時間。これを「生かして用いるならば」3年がかりで一つの仕事が出来るのではないか。このような、一個のライフプランを作ったのです。今ベストセラーとなっている楠木新著『定年後ー50歳からの生き方、終わり方』(中公新書)に触発されて、自分の生き方、時間の用い方を考えてのことでした。
 それから10ヶ月が経った今、振り返って検証してみますと、総じて、このようなライフプランを立てて励んできたことは良かった、と思っています(箴言21:5)。どれだけの「成果」を上げ得たかとなれば、「遅々として進まず」で、心許ないのですが、それでも、率直に言って、このようなライフプランなしには、一瞬たりともここで生きることができなかったのではないか、と思っているのです(注4)。そういう意味では、神の恵みによって与えられた時間をこそわが人生とする、このようなライフプランは、私にとってなくてはならないものでありました。前回記した近隣諸教会での説教奉仕と共に、これからも、間違いなく、“二刀流”伝道の尊い一刀であり続けることでしょう。
 
(注1)「空間や他のすべての神に造られた実在と同様、時間や歴史も、その本質的なところにおいては、神の創造によるものである。(そして)それ故、神の言葉によって存在を許され、継続的に保持されているという意味においては、神のしもべなのである」(Reformational Theology--A New Paradigm for Doing Dogmatics、p. 268)。

(注2) 『哲学的神学と現代』(1997年、ヨルダン社)39頁、『知と信の構造ー科学と宗教のコスモロジー』(1993年、同社)298頁。

(注3) 歴史の終局(終末の日)がいつ来るのかは、私たちに知らされてはいません(マルコ13:32等)。しかし、イエス様は、終末における御自身の再臨に備え、目を覚まして仕事をしている家令のことを「忠実で賢い管理人」と呼んでおられます(ルカ12:35-48)。

(注4) 言うまでもなく、このような有神的なライフプランによる「仕事」は成果主義ではありません。私たちは、「仕事」の時間を、上記のように、神の恵みの賜物として捉えていますので(ヤコブ4:13-15)、この3年間でどのくらい目標を達成できるかは、主に委ねるほかありません。

「時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです」
  (エフェソ信徒への手紙5章17節)
「ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう」
  (ガラテアの信徒への手紙6章10節)

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