2017年11月30日木曜日

「ICS軽井沢文庫だより」NO.13

「キリストの王権にひれ伏して」

宮﨑彌男

 薄化粧
(はじめに)
 11月21日(火)の早朝、起き出して窓の外を見ると、夜の間に雪が降ったのでしょうか、文庫の屋根は真っ白、辺りの木木も薄化粧をまとっていました。早いなぁ!まだ11月もやっと終盤というのに、もう雪ですか。
 今年は、全国的にカメムシが多く、カメムシが多く出る年は大雪となるという地方の言い伝えもあると、ラジオで言っていましたが、実は、この秋、我が家でも、カメムシくん、例年になく賑やかだったのです。この分で行くと、この冬は雪が多くなりそうです。“楽しみ”というか、“うんざり”というか?!皆さんはどうですか。そこで、思い出したのは、ドイツ生まれの讃美 “Shonster Herr Jesu”(「イエスきみはいとうるわし」)です。熊本伝道の折り、県立劇場で聞いたウィーン少年合唱団によるこの歌の素晴らしさが未だに忘れられません。
 初雪のあった晩秋にふさわしい歌と思いますので、日本語訳讃美歌(166番)全文を巻頭に掲げます。
 
 イエスきみは いとうるわし、あめつちの主なる
   神の御子、人の子を、なににかはたとえん。
 春のあさ 露ににおう 花よりうつくし、
   秋のよる 空に澄む 月よりさやけし。
 夏のゆう 青葉わたる 風よりかぐわし、
   冬の日に ふりつもる 雪よりきよけし。
 イエスきみは いとうるわし、あめつちの主こそ
   わがさかえ、わがかむり、わがよろこびなれ。

 11月11日(土)には、トロント近郊のオークヴィル市で、ICS開学50周年の式典・祝賀会が行われました。と言っても、私が出席できたわけではなく、祝文のメールを送っただけなので、残念ながら何も報告できないのですが、私なりに、50周年を記念して、ICSの依って立つ「基本信条」(通常、「教育信条」と呼ばれています)の日本語訳を思い立ち、ここに掲載することにしました。

(そのまえに) 

 よく、ICSって何ですか、と訊かれますので、今一度、一言だけご紹介しておきます。
 ICS(Institute for Christian Studie)は、北米大陸にカイパー流のキリスト教総合大学(注1)を設立することを目的として、ちょうど50年前の1967年10月に、カナダのトロントで始められた大学院レベルの研究・教育機関です。この50年間に多くの研究者を、哲学、神学、政治学、教育学、美学、心理学、歴史学等の諸分野において集め(注2)、「聖書に導かれた学問」Scripturally-directed learning の研鑽・展開・普及に従事してきました。現在、ここで学んだ者は、Master of Arts(MA)、Master of Worldview Studies(MWS)の学位を得ることができ、2005年以降は、PhDも取得可能となりました。卒業生は、キリスト者でありつつ、大学教授、教師、牧師、政治・社会活動家、カウンセラー、美術・音楽家等々として、社会の諸分野において活躍しています(詳しくは、www.icscanada.edu/をクリック)。私自身も、1972-75年、日本キリスト改革派教会の教師としてICSで学ぶ機会が与えられ、M.Phil.の証書certificateを得て帰国、以来40数年、伝道・牧会に従事して来ました。引退教師となった今も、ICS軽井沢文庫」ics41.blogspot.jpを立ち上げ、改革主義哲学・神学の研鑽と普及に努めています。改革主義哲学 Reformational Philosophy(「法理念哲学」Philosophy of Law-idea とも呼ばれます)の文献については、www.allofliferedeemed.co.ukを、ぜひ検索(クリック)してみてください。

(ICSの基準および教育信条)

前文
ご自身の栄光のために万物を創造し、人がその法に背いた後には、御子イエス・キリストを遣わすことにおいて完全に示された赦しの愛を宣言された三位一体の神に依り頼むへりくだった思いをもって、私たちは、私たちにふさわしくないご好意への感謝から、私たち自身とすべてのものを献げよとのご命令に服しつつ、ここに示す原理と規定に従って、聖書に導かれた学問推進のための協会を設置する。この目的のため私たちは願い求める。神が恵みにより、今も将来も、私たちの使命遂行のため、心と知性の特別な賜物と、この働きをなすための手段とを有する男女を備え、常に御自身の栄光と神の民、とりわけカナダとアメリカ合衆国の神の民の救いのために、私たちの協会を祝福してくださるように。そして、またそのことによって彼らが両国とその全ての住民にとっての祝福となるように。

目的
この協会の目的は、聖書に導かれた学問の進展に寄与すると思われるすべての活動を行い推進すること、とりわけ、キリスト教主義大学を設置し、運営し、発展させること、また、これらの諸活動により、神の言葉がその全き力をもって生の全体に亘って意味あるものとなるように、男女を整えることにある。

基準
この協会の至高の規準は、私たちがプロテスタント宗教改革の歴史的諸信条の意味において神の言葉と告白する旧新両約聖書である。

教育信条
聖書は、教育にとって非常に重要ないくつかの基本的原理を教えていると信じるがゆえに、私たちは告白する。
生…人間の生は、その全体において宗教である。それ故に、学的研究は唯一の真の神への奉仕か、さもなくば、偶像への奉仕かどちらかである。
聖書…記された神の言葉である聖書は、神と私たち自身と創造の構造を教えることにおいて、完全で活きた神の言葉また力である。この御言葉により、御霊を通して神は私たちを真理へと結びつけ、真理の内に照らし出す。この真理とはキリストである。
キリスト…受肉した神の言葉である聖書のキリストは、私たちの生全体の、また、それ故に、私たちの理論的思惟の全体をも含む、贖い主・更新者である。
実在…神の創造による全実在の本質また核心は、キリストにある神と人との契約による交わりである。
知識…真の知識は真の宗教によって可能となり、神の言葉を通して、聖霊により照明された人間の心の認識活動によって起こる。それ故、私たちの日常的経験および学的な課題を理解する上で、決定的な役割を果たすのは宗教である。
学問…(a)研究者共同体において絶えざる研鑽に励むことは、文化命令に対する神の民の従順で感謝に満ちた応答として本質的な重要性を持つ。研究者の使命は、創造の構造を学的に究明し、それによって共同体全体の日常的経験により有効な指針を提供することである。(b)堕落後の世界に対する神の保持恩寵の故に、神の言葉を生の指針原理として受け入れない者たちも、共通の実在構造に対して多くの価値ある洞察を与えてくれる。にもかかわらず、生における中心的宗教的反定立はなお残っている。それ故に、私たちは、聖書に導かれた思想と他のどのような思想体系との折衷の可能性を認めない。
学問の自由…学問は、人間生活を支配する神の言葉と神の諸法に対する、神与の、完全かつ自発的な服従においてなされなければならない。研究者の責任ある自由は、教会・国家・企業その他のいかなる社会組織によるどのような抑制や支配からも、保護されなければならない。
まとめ…神のご命令に対する信仰の従順を持ってなされるすべての学問は、神の言葉の規範的指針に聴従し、全被造物がその全領域において服している神の法を認識し、すべての学問的な働きに対するキリストの王権にひれ伏す。

(解説)
 上記、トロントICSの「基準および教育信条」は、私どもが主にあって設立を願っているJICS(日本キリスト教学術研修所)の基本信条をやがて考える時の参考、むしろモデルとなります。特に、三つの点にご注意ください。
 (1) 生の全体が宗教
 この教育信条の「生」の項に、「人間の生は、その全体において宗教である」(That human life in its entirety is religion.) と告白されています。これは、ICS設立の背後にあって最も大きな力となったカルヴィン大学の哲学教授、Dr.  H. Evan Runner 先生の言葉ですが、神戸改革派神学校の前身、神戸神学校の S. P. フルトン校長の有名な言葉、「私にとっては、神学とは私の宗教である」を思い起こさせます。学問も含めて、人生とは「神の前に」(Coram Deo)に生きること、とする敬虔において共通していますが、この教育信条においては、「まとめ」の項で、「… 全被造物がその全領域において服している神の法を認識し、…」と言っているように、神と被造物の間に定められている創造の「法」を認識することの重要性を告白しているところに特色があります。この創造の法は、「聖書」と「学問」の項では、「創造の構造」と言い替えられています。(A・ウォルタース著、拙訳『キリスト者の世界観―創造の回復』特に、第二章「創造」と第五章「構造性と方向性をわきまえる」 を参照)。
 (2) 保持恩寵と反定立
 「学問」の項( b)に、「保持恩寵」(preserving grace)と「反定立」(antithesis)のことが出てきます。前者は、「一般恩恵」(common grace)とも呼ばれる聖書的教理(マタイ5:45、使徒14:17等参照)で、神が民族や宗教を越えて、すべての人とその文化に恵みの支配を及ぼしておられる、と告白するものです。この信仰告白に立てば、キリスト教伝来以前の日本の歴史も、聖書啓示の光の下で調べることができます。
 他方、「反定立」とは、カイパーの好んで用いた用語で、真の神とその御言葉の規範性を受け入れる者と、そうでない者の間には、生き方の霊的方向性に違いがあるので、折衷なしには共同の営みができない、とするものです。この両者の関係をどのように考えて行くかが私たちの課題です。 
 (3) キリストの王権にひれふす
 「教育信条」は、「…すべての学問的な働きに対するキリストの王権にひれ伏す」という言葉で結ばれています。私たちの生き方の基本姿勢は、神の子キリストにひれ伏すか、神ならぬ偶像にひれ伏すか、いずれかです(「十戒」の第一戒、ウ小教理45-48参照)。学問的な働きにおいて、私たちは、「理性」こそが絶対規準であると思っているかも知れませんが、その前に私たちはキリストの王権にこそひれ伏して、その御言葉である聖書に導かれつつ、神の法(構造)を探索すべきなのです。
 来たるべきクリスマス、私たちは王としてお生まれになったキリストにひれ伏す所から、生きる姿勢を正し、キリストによる大いなる希望を持って新年を迎えたいものです。

(注1)20世紀初頭、オランダの首相を務めたアブラハム・カイパーが1880年に設立したアムステルダム自由大学が、キリスト教哲学を基本に据えた総合大学の一つのモデルとなっている。
(注2)私の存じ上げている教授たちは、今は殆どが引退されたり召天されたりしているが、その著書によって知ることができる。H. Hart(哲学)、 Bernard Zylstra(政治学)、 J. H. Olthuis(神学、倫理学)、 A. H. DeGraaf(教育学、心理学)、 Calvin Seerveld(美学)、 A. M Wolters(哲学史)、  H. Evan Runner(哲学入門)等です。

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」        (マタイによる福音書2章2節)


[『キリスト者の世界観―創造の回復』(改訂増補版)の出版について]


先日受けた、教文館出版部からの連絡によれば、米国アードマン社から版権の許可が下りたので、これから出版の準備に入り、来年の3月末までには出版したいとのことでした。どうか、お祈りに覚えてください。

[石丸新先生の「ウエストミンスター大教理問答の聖餐論」について]


 石丸新先生の研究メモ「ウエストミンスター大教理問答の聖餐論」を先月号から掲載していますが、ワープロ入力が終わりましたので、ほぼ完全な形で読んでいただけます。但し、巻末の【付】礼典用語一覧は手書きの表をデジタル化できませんでしたの、割愛させていただきました。ご了解ください。ラベル「ウエストミンスター大教理問答の聖餐論」を選択して、お読みください。なお、同じく石丸先生の「ウエストミンスター大教理問答における『神を見る』」も入力が終わりましたので、読んでいただくことができます。


「ICS軽井沢文庫だより」の印刷のために


「ICS軽井沢文庫」を開き、ラベル「ICS軽井沢文庫だより」第13号を選択します。次にパソコン右上のオプション設定のマーク(縦3つ)をクリック、印刷を選択する。左欄のオプションを両面印刷にし、詳細設定の中の倍率を150背景のグラフィックもオンにしてください。印刷ボタンを押すと OKです。同様に、他のすべてのラベルも、選択して、印刷することができます。


【連絡先】

389-0115長野県北佐久郡軽井沢町追分36-23 宮﨑彌男・淳子

TelFax 0267-31-6303(携帯) 080-3608-3769

Eメールmmiyazk41@gmail.com   ブログ「ICS軽井沢文庫」<ics41.blogspot.jp> 


ウエストミンスター大教理問答の聖餐論

ウエストミンスター大教理問答の聖餐論(石丸新)


1.  主の晩餐を強調するウ大教理
 
 GreenのHarmony, p.217に見るとおり、大教理は、告白、小教理に優って、主の晩餐を詳説している。力説もしている。主の晩餐に充てる分量が物語るとおり。
 本文の字数からすれば、大教理の叙述は告白の2.2倍にあたる。大教理を14%に縮約したのが小教理である(僅かに2問)。
 大教理は問168から問177までの10問を主の晩餐に費やし、具体化な側面を採り上げて丁寧に述べている。
 Greenは随所で、大教理が告白と小教理に比べて、ないがしろにされている事実を嘆いているが、主の晩餐の箇所でも、同じ憂いを吐露している。
 主の晩餐においてキリストを受けるマナーが告白29:7に述べられているが、大教理170問の言うところは一層の現実味を伴って迫って来る。同様に、告白29:8は弁えに欠けた悪しき者がこの礼典の品を受けることによって自分に裁きを招くことを確言しているのに対し、大教理171-175は、そのような裁きを招くことがないようにいかに処すべきかを、積極的かつ具体的に述べている。包括的、印象的な叙述と言える。
 上のことを指摘するに当たり、Greenは、171問から175問までを、問の部分を外して一気に読み通すことを勧めている。まるでコロンビア神学校の教室に座っているような気にさせられる。

2. キリストの体と血とを「食する」

 168答に 'feed upon his body and blood' とあるところを、1963年改革派委員会訳は「キリストの体と血によって養われ」とした。続く諸訳もこれに倣った。しかし、半世紀を経て、2014年の宮﨑訳では「キリストの体と血とを食し」となった。画期的と言える。
 「食する」は「食う」の意で、硬い文章に用いる。[例] 米を食する文化。感情をこめずに客観的な調子で記述する場合に用いる。実は身近な広告でも目にする。[例] 大トロを食す歓び。生のまま食してほしい「オリーブオイル」ができました。
 
 告白29:7に ’receive and feed upon, Christ crucified,…’ と言われるところを、明治13年(1880)邦訳は、既に「之ヲ食シ」と表現しているのを知って驚いた。昭和15年(1940)の堀内訳でも、「それらを食するのである」。戦後の諸訳では、なぜか一律に「養われる」。
 コリント前書11:24、明治13年新約全書では「…取(とり)て食(しょく)せよ」。コリント前書分冊はヘボン訳で明治11年に出版されていたので、明治13年の告白、本邦初訳が「食する」とした事情はよく分かる。

 大教理170の問と答にも 'feed upon the body and blood of Christ’ が用いられる。ここも「キリストの体と血とを食する」と訳すのが順当である(=宮﨑訳)。他の訳では「養われる」。

 ちなみに、マタイ26:26 KJV:Take, eatの明治13年訳では、「取(とり)て食(くらへ)」。今では、「食らう」は「食う」よりぞんざいな言い方とされるが、明治期の語感は違っていたのであろう。その点、「食する」は昔も今もやや格式ばった言い回しだと思う。 カッチリと引き締まった文体を求められる信条文書に適している。

 174答にも feeding on him (Christ) by faith が現れる。
ここも、「信仰によってキリストに養われ」ではなく、「信仰によってキリストを食し」と訳すのが当たっている。主の晩餐は確かに信仰者の霊的養いと成長のためのものである。(告白29:l, 大教理168, 小教理96)その目的を指してキリストを「食す」。それが
主の晩餐の礼典である。
 大教理171との関連で小教理97答を見ればーof their faith to feed upon him (Lord)…とある。

  主の晩餐に臨むにあたってなすべき備えを詳しく述べるなかで、大教理171は「信仰」を
挙げる。 このfaithを、小教理97は膨らませて、their faith to feed upon himとした。
 この場合のfeed upon は、主の晩餐にあずかる場でキリストの体と血とを食すること(大教理170)を指してはいない。むしろ、日頃の信仰のあり方を自己吟味すべき、と告げている。この信仰を諸訳は「キリストを糧とする自分の信仰」としてきた。

 feed on (upon)は、…を常食にする、…で生きている、…に育まれるの意であるので「主を糧とする信仰」は、すんなりと分かる。しかし、feed on には、…にすがって生きる、…を心の支えとして生きているの意もある.。[例] feed on hope 希望にすがって生きる
 とすれば、「主を頼りとする自らの信仰」と訳すことも可能ではないだろうか。十字架と復活の主への不動の信頼こそ、信仰の神髄である。この信仰を小教理86答は「キリストにのみより頼む」信仰と言っている。

3.キリストの体と血とを「想起する」
 
 169答に、陪餐者の心得が示され、自分たちのために感謝のうちに想起し、パンを取って食べ、ぶどう酒を飲むべきことが求められている。
 'in thankful remembrance' は これまで「感謝のうちに覚えつつ」と訳されてきた。証拠聖句 Ⅰコリ11:23,24 this do in remembrance of me は、文語訳以来「わたしの記念として」「わたしを記念するために」と訳されてきた。聖餐式で、「記念」が耳に残って今に至る。
 ところが、新改訳では、「わたしを覚えるために」。 泉田訳も同じ。永井訳では「我のを憶ひ出づるために」、柳生訳では「これからもわたしを思い出すために」、青野訳では
「私を思い起こすために」。
 遡れば、明治13年新約全書では「爾曹(なんじら)も 如此(かくのごとく)おこなひて我(われ)を憶(おぼえ)よ」となっていた。折角の「憶よ」を文語訳(大正6年)が「記念として」に改変したのは、いかにも惜しい。
 eis ten emen anamnesineisは「として」ではなく、目的を表す「ために」。
 rememberと聞けば、学校で習った記憶している、憶えているの訳語を思い浮かべるが、どの辞書でも第一義は思い起こす、思い出すであることに注目したい。キリストの体が裂かれ、血が流されたさまをありありと思い起こす行動が、ここでは強調されている。
 in memory ではなく、in remembrance であることを丁寧に説明すれば、中学3年生にも分かってもらえると思う。
 記念植樹といえば、卒業の記念に思い出として残しておく樹が挙げられるが、あくまでも過去を懐かしく思い浮かべる手段である。一方、大学の創立記念日の場合には、過去の出来事への記憶を新たにする面が確かにある。しかし、どうしても追想、追憶といった感傷面が伴う。
 主の晩餐の礼典では、キリストの体と血とを、ありありと、まざまざと、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」の叫びを耳にこだまさせながら、想起する。目で読む教理問答書では「想起」を超える訳語は無い。聖餐式で「ソーキ」を耳にして,漢字を思い浮かべて欲しい。

 169答 最終部を次のように訳すのが適切と考える。
 …陪餐者は、自分たちのためにキリストの体が裂かれて与えられたこと、またキリストの血が流されたことを感謝のうちに想起して、パンを取って食べ、ぶどう酒を飲まなければなりません。

 ウ大教理169が下敷きとしたのは、ハイデルベルク75であった。そこでは、十字架におけるキリストの犠牲とその恵みにあずかっていることを、聖なる晩餐において想起させられ、確信させられる道筋が述べられている。この問75と対を成すのが、洗礼について述べる問69である。そこでは、十字架におけるキリストの犠牲が自分の益になることを、聖なる洗礼において想起させられ、確信させられる道筋が明らかにされている。「想起」の語は重い。
 ハイデルベルク問答での想起はカルヴァンに遡る。『綱要』Ⅳ.17.44 は聖晩餐について言うーー「これはキリスト者たちの間で頻繁に行われて、キリストの御苦しみをしばしば記憶に呼び起こすため、また、これを思い起こすことによって、かれらの信仰を支え強くし、また、これを思い起こすことによって、かれらの信仰を支え、強くし、また、神に対して賛美の告白を歌い、そのいつくしみを宣べ伝えるべく励ますため、……ために制定されたのである。」

 キリストの贖いを主の晩餐の礼典のたびごとに想起すべきことが告白29:1に言われている。…for the perpetual  remembrance of the sacrifice of Himself in his death, …
既訳では、perpetual の訳語は二つに分かれる。
 ①永続的、永遠に、いつまでも
 ②常に, 断えず、不断に
 ここでは②が適切と思う。 「常ニ、思ハシメ」は、実は明治13年訳。「いつまでも」
ではなく、「いつも」。その都度、そのたびに。
 Ⅰコリ 11:25,26の諸訳が参考になる。明治13年訳では「飲むごとに」。以後、たびに、たびごとに、いつでも。即ち、受領のたびごとに、キリストご自身の犠牲をありありと想起する行為が言われている。
 なお「いつまでも」の側面は、おなじ 29:1の「世の終わりまで」(unto the end of the
world)で言い表されている。                        

4.キリストを「自分のものとする」
 
 170答に次のとおり言われるーーwhile by faith they receive and apply unto
themselves Christ crucified, and all the benefits of his death. ここでのapplyをどう理解すべきか。「適用する」、「当てはめる」の訳語が既訳に用いられているが、宮﨑訳では「自分自身のものとする」となった。実は、1950年の岡田訳で既に「自身のものとする」と言い表されていた。
 改革派信徒にとって最も身近なウ小教理29では、キリストによって買い取られた贖いが、キリストの聖霊により、わたしたちに有効に適用されることが明言されている。「適用」は、もはや動かすことのできない神学用語として定着し、今に至る。
 しかし 大教理170では、主の晩餐の礼典でキリストを食する者は、即ち キリストとその死の益を、信仰によって受け取って、自分自身のものとするのだ、と言われている。畏れ多い限りである。
 ここでのapplyは即ちmake one's own である。信仰により、自分の身に引きつけて食べ、飲まなければ、パンとぶどう酒は物質にとどまる。

 ジュネーブ問答342で既に次のとおり言われていたーー「主のもろもろのよきものは、まず主がご自身をわれわれにお与えにならない限り、われわれのものとはならないからであります。」(外山訳)
 同355でもーー「私たちはこれらのしるしの表す実体を我がものとするため、精神を天に向けて高めなければなりません。」(渡辺訳)

 applyは、主の晩餐における陪餐者の積極的な態度を言い表している。それが、霊的に
食することにほかならない。十字架につけられたキリストとその死の益を信仰によって受け取って、自分自身のものとするという能動的な行為が本問では強調されている。

 上の意味でのapplyが大教理73で義認に関して既に用いられていた。…but only as it is an instrument by which he receiveth and applieth Christ and his righteousness.
ここでの主語は罪人である。動詞applyは従来「適応される」「適用される」「適用する」
「自分に当てはめる」と訳されてきたが、宮﨑訳は「自分のものとする」として、文章を明確にした。
 72答に「福音において提供されているキリストとその義を受け入れ、依り頼むのです」
とあるのはよく分かる。その上、73は「キリストとその義とを受け取って、自分のものとする」と断言する。receiveとapplyの複文は重い。

 receive +applyのパターンはウエストミンスターに先立って、ハイデルベルク61に現れていたーーわたしは、ただ信仰による以外に、それを受け取ることも自分のものにすることもできないからです。
 同じパターンはジュネーブ問答に遡る。119答「私たちが心からの固い信頼をもって福音の約束を受け入れる時、私の言ったような、この義の所有を、或る意味で獲得するからであります。」ここで言う義の所有の獲得が、ウ大教理のapplyが意味するものと読める
 ジュネーブ問答でのパターンは更にカルヴァンにまで遡る。綱要Ⅲ. 2. 16「信仰とは、主が憐れみの約束を差し出したもうことを我々の外で真実だと判定するだけで無く、我々自身の内には何も捉えていないというようなことでもなく、むしろ、それを内面に把握して我がものとすることである。」(渡辺改訳版)なお、渡辺旧版では、最終部はつぎのとおり。「むしろわれわれはそれを内に抱擁することによってわがものとしてしまうのである。」Allenの英訳では、"…but rather make them our own, by emblacing them in our hearts."

神が福音において差し出してくださるものを、わたしが信仰をもって受け取る。
神がわたしに転嫁してくださるものを、ありがたく自分のものとする。

5.キリストとの「結び付き」を意識する

 ウ告白27:1が礼典の目的の一つとして挙げるのが、to confirm our interest in Him(Christ)である。このinterestは、明治期以来さまざまに訳されてきた。
 関心、関係、権利、関わり、あずかること等だが、ひときわ目を引くのが、明治13年訳の
「キリストに与ること」である。

 キリストとの結合(union)、キリストとの交わり(communion)に並んでキリストとのinterestが言われていることに注目したい。
 ウ大教理での用例は次のとおり。
 ① 32 第二の契約において表されている神の恵み
  …requiring faith as the condition to interest them in him
                                   この方に結び付ける/あずからせる
 ② 83 この世での栄光における交わり
  …in him are interested  この方に結ばれている/あずかっている
 ③ 172 主の晩餐に臨むにあたって
  …may have true interest in Christ
                キリストとの真の結び付き
 ④ 189 主の祈りの序言 fatherly goodness について
  …our interest therein
        その慈しみに結ばれていること/あずかっていること
 ※unionに結合の訳語を忘れているので、interestに機械的に「結び付き」の訳語を充てるのはどうかと思うが、難しい。
 Bower のGlossaryによれば、Interest:To share in a right, title, or privilege(Q.32)と
ある。rightが挙げられていることから、このinterestは、恵みによって賦与される権益/
特権を意味するものと解し得る。
 OEDでは、’To invest (a person)with a share in or title to something, esp.
  a spiritual privilege とある。最初の用例は1610年。神が主権の恵みによって罪ある者
神の子として受け入れ、もろもろの特権を与えてくださる。そのような命の関わりが、
interest(v.,n.)の意味するところではないのか。キリストとの結合の目に見える姿と言い
得ようか。とは言え、このinterestをキリストとの関わりと訳すのはためらわれる。せいぜい、キリストにあずかっていることか。 キリストとの結び付きか。関与は別の意味となる。こちらから、ある事柄にかかわりをもつこと。
 告白と大教理で用いられるinterestが一般には難しいと考えたのか、小教理には一度も
出ない。
 大教理172は、主の晩餐に臨むにあたっての自己吟味を教えている。自分がキリストに
あること(his being in Christ)について、あるいは、主の晩餐の礼典のために自分のなす
べき備えについて不安を抱いている者であっても、キリストとの真のinterestを持って
いるのかもしれない。そのinterestのないことを懸念して誠実に悩むほどの者であるなら
そのinterestを持っているのだから、主の晩餐に臨むべきだ、と励ますのが本問である。
 上では、being in Christとtrue interest in Christとがほぼ同義であると読める。キリストにあることは即ちキリストに結ばれて権益を授けられていることにほかならない。Ⅰコリ6:17「主に結びつく者は主と一つの霊となるのです」。
 この意識を生き生きとした形で新たにするのが主の晩餐の礼典である。受領のたびご
とにこの意識は深められていく。

  ハイデルベルク問答76では、キリストの体を食べ、その流された血を飲むとは、……
その祝福された御体といよいよ一つにされてゆくことだと告白されている。
 同80では、わたしたちが聖霊によってキリストに接ぎ木されていることを主の晩餐
が証ししていると言う。
 遡れば、ジュネーブ問答358は、聖礼典を正しく受けるための自己検討課題として、
「キリストのまことの肢であるかどうか」を挙げている。
 渡辺講解によれば、キリストの真の肢であるかどうか、はすなわち、キリストと真実に
結び付いているかどうか、である。キリストと結び付いているかどうかは霊的な事柄であ
るから、見た目には分からないが、印によって分かる。印としては、①悔い改めと信仰、
②隣人への愛、③魂の純潔の三つがある。(359)
 宮﨑訳大教理172ほかで、interestに「結び付き」の訳語を充てているのは、上の
ジュネーブ358の趣旨を反映してのことと読める。
 Torranceのジュネーブ英訳358での true member of Jesus Christ は、ウエストミンスター大教理172でのtrue interest in Christ と響き合っていることに気付いた。

6.陪餐前の備え

 171答は多岐にわたる。主の晩餐の礼典を受けようとしてそれに臨むにあたり、自らを
備えなければならないことが求められる。その備えの内容を分解すればーー
  ① 自分自身を吟味すること。
   1) 自分がキリストにあることについて…172にも出る
   2) 自分の罪と欠けていることについて
   3)自分の知識・信仰・悔い改め・神と兄弟に対する愛・すべての人への思いやり
     ・自分に悪を行った者への赦しの真実さと度合いについて
   4)キリストを慕い求める思いと新しい服従について
  ② 真剣な瞑想と祈りとをもって、これらの恵みを常に新たに働かせること。

  ① 4) their desires after Christ 改革派委員会訳では「キリストにならおうとする
   自分の願い」だが、岡田訳が既に「キリストへの渇望」としていたとおり、「キリ
   ストを慕い求める願い/思い」とするのが当たっている(鈴木訳、松谷訳、宮﨑訳)
    171のdesiresを読み解くには、174から遡るに限る。
   主の晩餐の礼典執行中の心 得を告げる174に挙げられる項目のうちで、171の
   desiresに対応するのは、earnest hungering and thirsting after Christである。
   「切にキリストに飢え、キリストに渇き」(宮﨑訳)。互いに照らし合う171と
   174たちが聖礼典を重視した思いをくみ取ることができる。
    171 desires after Christの証拠聖句ヨハネ7:37「渇いている人はだれでも、
   わたしのところに来て飲みなさい」は、desires の何たるかを明らかに告げている。
   もう一つの証拠聖句イザヤ55:1 が、これを補強している。「渇きを覚えている者
   は皆、水のところに来るがよい。」両聖句での「渇」に注目すれば、岡田訳の「
   渇望」が胸にすとんと落ちる。その意味では、desires after Christ を「キリスト
   を渇き求める思い」と訳しても悪くはない。

7.晩餐中の心得

  主の晩餐の執行中に、これを受ける者に求められることを、174答は丹念に描き出
 している。後半部分のinに始まる前置詞句が何を修飾しているかについては、訳者
 の判断が分かれていて,決め難い。南長老教会版および現在のアメリカ合衆国長老
 教会版(PCUSA)では、パンクチュエーションからして、前半部分全体を修飾すると
 解しているものと読める。 それに倣えば、次の構文理解が成立する。
   求められているのは次のことーー
  ① 神を待ち望むこと
  ② 礼典の品と動作に目を注ぐこと
  ③ 主の体をわきまえ、主の死と苦しみとを瞑想し、恵みの実践へと我が身をかき立て
   ること
  以上①②③を実行する道は次のとおりーー
  1)我が身を裁いて罪を悲しむこと
  2)切にキリストに飢え渇き、キリストを食し、キリストの豊かさより受け、
    キリストの功績により頼み、キリストの愛を喜び、キリストの恵みに感謝をささ
    げること
  3)神との契約と聖徒たちへの愛を新たにすること
      ※上の①②③1)2)3)は、何と途中でピリオドなしのワンセンテンス。
  求められていることを言い表す動詞に、副詞あるいは前置詞句が付されて、その様態
 が厳密に規定されているのが、本問の特徴である。
  ① with all holy reverence and attention →wait upon God
      ② diligently →observe the sacramental objects and actions
  ③ heedfully →discern the Lord's body
            affectionately →medidate  on his death and suffering's
            空白 (thereby)→stir up themselves to a vigorous
                                            exercises fo their graces
        ※上の①②③abcの分類を、①②③ab④           
                  とするのが松谷訳の解釈であり、
    大いにうなずかされる。①神を待ち望み、②礼典の品と動作を見つめ、③
    主の体をわきまえ、主の死と苦しみを瞑想する。その上でかくしてthereby
            ④恵みの賜物を働かせることに心をかき立てる。
    ①②③+④の理解は、執行前の備えを記す171の分類をそのままに映し出す
    ものと言える。ー、-、-、-、について自分自身を吟味すること+恵み
    の賜物を働かせること。この照応を大切にすべきと思う。
 執行中の作法の中で特に目を引くのが、diligently observe the sacramental objects
and actions である。注意を傾けて見る、即ち注視することが求められている。
 礼典の品、即ちパンとぶどう酒=キリストの体と血とが私たちの贖いと救いとのために
差し出されている。ただ、恵みによって差し出されている物を、私たちが信仰の手を伸ばして受け取る。配餐者の手にするパンと杯が自分に近付いてくるのを我が目で見つめる。
「キリストの愛我に迫れり」と告白する。
 手に取ったパンをさらに見つめる。直視する。ぶどう酒の赤さを凝視する。更にパンの
味と香り、ぶどう酒の刺激を味得する。そうすることによって、差し出されている神の恵みを体得する。それを自分のものとする(apply)。物体的なしるしが霊的な実質そのものであることを、この礼典において確信する。次なる聖餐式を期待する。
 カルヴァンが『綱要』Ⅳ.17で用いる用語の数々から教えられることは大きい。「ジュネーブ問答」についても同様である。そこでは、「主がご自身をわれわれにお与えになるー
われわれがその主をいただく」の図式が一貫して示されている。

 ウ大教理174が「注視すべきこと」を特に挙げているのは著しいことである。このような具体的な指示は、ジュネーブ、ハイデルベルク両問答には見られないことであった。

8.陪餐後の義務

 英語を習い始めた当初より、successを「成功」と覚えて今に至ることから、本問での用法を正確に掴み損ねてきた。その結果、従来の訳では、どんなによくやれたか、どこまでうまくできたか、どの程度よくできたか、どれほどよくできたか、とよくできた度合いを
問題とする言い回しに終始したきた。
 辞書では、success の第一義は「成功」だが、第二義として「結果」が挙げられているのを見落としてはならない。その用例 として、good success 上でき、上首尾
                      ill(bad) success 不でき、不成功、不首尾が挙げられる。
なお、動詞succeedには〔廃〕…な結果になるの訳語が示されている。〔例〕succeed badly ひどい結果に終わる
   ぶざまな~
 上のsuccess 理解は、証拠聖句の表現によって裏付けられる。
●詩28:7 わたしの心は喜び躍ります。 歌をささげて感謝いたします。
     (good success)
●詩85:9 主は平和を宣言されます/御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に
     (good success)

     同  彼らが愚かなふるまいに戻らないように。
     (ill success)
●Ⅰコリント11:17 あなたがたの集まりが、
         良い結果よりは         the better (good success)
                           むしろ悪い結果を招いているからです。the worse (ill success)
●  同  11:30 弱い者や病人がたくさん降り、多くの者が死んだのです。
                 (ill success の事実)
●  同  11:31 私たちは、自分をわきまえていれば、裁かれはしません。
           (ill success への警告)---(good success の勧め)
  *Ⅰコリント11:17 文語訳では、益を受けずして損を招けばなり。これは、上首尾
   ーー不首尾の対比を明らかに言い表している。               
この対比を頭に置いて175問の答えを分析すれば次のようになる。
  good success =力づけと慰めを見いだすならば
  ill success=何の益も見いださないならば
  good success=自分を正しいとすることができるのであれば
           if they can approve themselves
  ill success=落ち度のあったことに気付いたならば
           if they have failed
  *approve oneself とfail とが対比successがプラスとマイナスの両面に用いられてい
   ることが判然としている。

カルヴァンの『綱要』Ⅳ.17.40では、この食物を味わってキリストこそ我がいのちでいますことを 得し、感謝を献げ、互いの愛を進める者がいる反面、この食物によって信仰を
養われも固められもせず、讃美と愛に駆り立てられもしない者のいることが言われている。
後者にとって、この食物はその魂を大きい破滅に突き落とす、とも断言する。 まさに
good success  ill success である。

 ウ大教理175は、ill success の者を全面的に切り捨てはしない。むしろ、執行前の準備の仕方と執行中のあり方を一層厳密に検証することの必要性を訴えてやまない。落ち度のあったことに気付いたならば謙虚になって、一層の注意と熱心を傾けて、この礼典に臨むように、と励ましている。極めて牧会的な表現に終始している。カルヴァンの筆致を思わせる。

9.「引き続き」キリストの内にとどまるために

 洗礼と主の晩餐の異なる点を述べる177問では、洗礼が一度だけであるのに対し、主の
晩餐はしばしば執行されなければならないと言われている。その目的は、私たちがキリストの内に引き続きとどまって成長することを確かにすることである。

 「確かにする」(confirm)の主語は陪餐者ではなく、主の晩餐であることが、大教理
168問との照応から分かる。
  168…have their union and communion with him confirmed
       文法上の主語はふさわしい陪餐者だが、事柄の上での主語は主の晩餐。
  168…his body and blood to their spiritual nourishment and
                                                                  growth
                                                                      in grace
      177…Christ as spiritual nourishment to the soul, and
         to confirm our continuance and growth in him                                             
       168177は共に、主の晩餐の目的と効果とを、同じようなフレーズを重ねて語って
  いる。
  聖礼典の執行をとおして、神が福音の約束を封印なさることがハイデルベルク問答
  66で既に言われていた。「確証する」との訳語も用いられている。明治17年の訳文
  は次のとおりであった。
    此聖禮典を用いて神様が福音の約束を我 (わたしども)に愈(いよいよ)
  能く理解せ(わから)御調印(ごちゃういん)なされて御確保(おうけあい)なさる
  為で御座ります
   英訳からの重訳だがsealに二つの  「ちゃういんする」と「うけあふ」を充てる
  ことにより、意を十二分に伝えるものとなっている。「うけあひなさる」は抜群と言
  うべき。
   大教理177で神が確証していてくださるのは、私たちがキリストの内に引き続き
  とどまること(continuance)と、キリストにあって成長することの(growth)の
  二つである。両者は実は一つのことである。その基盤にはキリストへと接ぎ木さ
  れていることがある(165)。神の子とされていることがこれに重なる(同)。
  キリストとの結び付きを持っているという恵みの事実が不動のものとしてある
  (172 interest)。

  主の晩餐を受けるにあたっては、「自分がキリストにあること」(being in Christ)
      の意識が不可欠である(171, 172)。キリストにあることは、「キリストの内にあり
  続ける」ことにほかならない(177 松谷訳)。
  変わることなく、引き続きとどまるために、主の晩餐はしばしば執行される。
  その都度、キリストとの真の結び付きの意識は燃え立つ。

   177では、主の晩餐の目的が二点に絞って述べられている。
  ①魂にとっての霊的栄養であるキリストを表すこと(represent), また与えること
   (exhibit)。
  ②キリストの内にとどまり続けて成長することを確証すること(confirm)。
   ①のexhibitは典型的な礼典用語の一つである。162にも見える。諸訳では、
  表す、示すの語が充てられると共に、提供する、与えるの語も用いられている。
  ずばり「与える」が、その意味するところである。
  27:3、28:6に用いられる。諸訳では、表示される、あらわされる、提供される、
  差し出される。 この場合も「与えられる」が適訳だと思う。
  差し出されて→じっさいに与えられるがその意味するところである。これは、
  28:6でreally exhibited and conferred と言われていることから分かる。
  conferredは、授けられる。
   中期英語(1150-1500)での医学用語の一つがexhibitで、医療を施す、投薬
  する、食餌療法を施すことに用いられた。
  語源は<ラ>exhibereで、他人に物を呈するの意(hold forth)。ここから、
  じっさいに授けるの意で用いられるようになった。
  礼典用語exhibitとapplyは同義と考えてよい。

  【付】礼典用語一覧 (省略)

2017年10月7日土曜日

「ICS 軽井沢文庫だより」第12号

「木の成長に学ぶ」

宮﨑彌男

 
 「ICS軽井沢文庫」は、たった3畳のログ風ハウスですが、木の香りの芳しい文庫と祈りのスペースです。ここに、私がトロント留学時代に訳した、「木」という題の一篇の詩が掲げてあります(前号写真参照)。この色紙の原本は、当時私を祈りをもってトロントへ送り出したくれた日本キリスト改革派東京教会の牧師夫人、矢内正子姉にプレゼントしましたので、ここに掲げられているのは、そのレプリカです。
 原本の色紙には、「とうきょうのやどやのおかみさまへ」と書かれています。学生時代、仲間の青年たちと、よく食事のお世話になったり、泊めてもらったりしたからです。ちなみに、矢内正子姉は、牧師夫人であると共に、オルガニスト、詩人でもありました。先生を天に送り、今は一人となられた姉妹の老境に主の祝福がありますように。 
 同姉の了解を得て、少し訳文に手を加えたものを以下にご紹介します。

Mat Cupido画
「木」(フレデリック・ W・タミンガ、
     宮﨑彌男訳)

   木は生活のシンポル。
   その枝を張ったからだのゆえに
   木は家族だ。
   多くの実を結ぶゆえに
   木はいのちだ。
   天にむかってのびるようにつくられている。

だから 根は地中深くしっかりと張り巡らされ
その美しい葉脈はいのちの水を追う。
だから その冠は光を求めて身をのばし
天と地を結ぶ絆(きずな)のイメージとなる。
     
     木はわれわれの冒険のシンボル。
     もろもろの活力がその波打つ枝に
     あふれている。
     高く上げられたその腕で豊かな実を
     結ぶために、すべての力をかりいれる。
     一つ一つの小枝は手だ。たくみな道具だ。
     一つ一つの葉は呼吸する口だ。
   
   木はすまいのシンポル。
   何のわけへだてもなく、よくいらっしゃいましたと歓迎する。
   鳥はよく知っていて
   陽の当たる木の葉に心地よさそうにうずくまる。
    くもはそこに巣をめぐらし
    人はそこに風をさけて
    雨やどりの場所を見出し
    日中(ひなか)の暑さから身を守る。

もろもろの霊は思いのままに吹き
幹の腋下(わきした)にやどる。
嵐が来るたびに木はその身を曲げる。
それでも、くずおれてはしまわない。
   
   木は多様な生活のシンボル。
   日中(にっちゅう)の夢と
   夜の守りのシンボルだ。

   だれでも
   意味なく
   木を倒す者は
   いのちそのものを倒す。
   そのような人は
   汚れた者
   畏怖(いふ)の念を持たぬ者
   不信者
   殺す者
   とみなされる。
   そのような人のために
   赦しを祈り求めよう。

   なぜなら、かれらは
   何を壊してしまったかを
   知らないからだ。

 この詩の作者、フレデリック・タミンガは、オランダ系カナダ人で、この詩を書いたときには、バンクーバー近郊の広大な地に、奥さんと6人の子供たち共に住んでいると紹介されていました。野性的なクリスチャン詩人と言うべき方です。この詩は、Mat Cupido編の詩集、Bunk Among Dragons に収録されていたのですが、この題名はどう訳したら良いのか、今の私にはわからないので、原題だけ記しておきます。この詩集には、詩編147編やⅠコリント13章のタミンガ訳も収録されており、励まされる詩集です。
 上掲の「木」では、木が「天と地を結ぶ絆(きずな)のイメージ」として詠まれている所に、私は、特に心惹かれました。「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇(のぼ)り降(くだ)りするのを、あなたがたは見ることになる」と言われた主イエスの御言葉(ヨハネによる福音書1:21)を思い起こさざるを得なかったのです。
 ちなみに、私たちは、この詩全体の中に、木もまた万物の造り主なるキリストの愛の内に生かされている、との作者の素朴な信仰が脈打っているのを感知しないでしょうか。たとえば、次の箇所など。「木はすまいのシンポル。何のわけへだてもなく、よくいらっしゃいましたと歓迎する。…」
 軽井沢の木々もまた「天と地を結ぶいのちの絆」です。私たちの思いを、主のおられる天に向けてくれます。タミンガの「木」は、追分の散歩道の両側に並ぶ、生きた木々でもあるのです。それで、私は「ICS軽井沢文庫」の片隅にこの詩を掲げることにしたのです。
 今月の軽井沢新聞(2017年9月号)に、次のような全面意見広告が出ていました。「土地を売るため、建設のための、皆伐(かいばつ)に反対します。すべての樹木を切らなくても土地の販売はできます。全ての樹木を切らなくても建設はできます。美しい緑は軽井沢の財産です。樹木があるから、リスや野鳥は暮らすことができ、爽やかな空気が保たれます…」(軽井沢自然景観会議、会長/羽仁進、理事長/鈴木美津子)。アーメンです。
さらに、木について思いを巡らして見ましょう。文庫周辺の木は、高さ20メートルくらいの木が多いです。樹齢は、よく調べていないのでわかりませんが、40年くらいでしょうか。もう少し年が行っているかも知れません。樹齢40年の木であれば、毎年50センチずつ伸びてきたわけです。正に創造主なる神のいのちの恵みです。
 私たちも、日々に同じ創造主のいのちの恵みをいただいているのではないでしょうか。そうです、3年ならば、1,095日、神のいのちの恵みをいただいてきました。これからもいただくことができるでしょう。3年ならば、1,095日、いのちの恵みをいただくことができます。この間、1年に50センチ、1日に1.37ミリ、成長することができるのです。天に向かって伸びる木に学ぶ教訓です。
ICS軽井沢文庫にて
これからの軽井沢/追分での3年間、わたしは、知恵と力を尽くして「ICS軽井沢文庫」の育成につとめたいと、先月号に書きました。毎日、一歩一歩前進できればと願っています。カタツムリのような前進か、新幹線のような前進か、それは日によって違うでしょうけれども、前進してゆきたいと願っています。
 目標とするところは、共同体としての JICS(Japan Institute for Christian Studies、日本キリスト教学術研修所)を立ち上げることです。より具体的には、基本信条・会則の決定、所員、主事、賛助会員の募集、等々です。3年後に、どこまで進んでいるか。それは、主の御旨によることで、私たちには定かではありません。しかし、この3年間、カタツムリのような前進であっても、新幹線のような前進であっても、御言葉と“霊”の導きににしたがって前進したいのです。どこまで前進できるかに拘わらず、「愛に根ざして真理を語る」ことに専心したいものです(エフェソ4:15、Ⅰコリント13章)。

  更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の  子の上に昇(のぼ)り降(くだ)りするのを、あなたがたは見ることになる」。           (ヨハネによる福音書1:51)


(「長野佐久教会」のホームページで、「ICS軽井沢文庫だより」をごらんいただけるようになりました)

 
 私どもが毎週の礼拝に出席し、会員になっています (旧)佐久伝道所は、去る9月18日に、(旧)長野伝道所と合併し、日本キリスト改革派長野佐久伝道所として、牧野信成牧師を迎え、新たな歩みを始めることとなりました。9月18日には、佐久交流センターに94名の来会者を得て、長野佐久伝道所設立式(合併式)と牧野信成教師・宣教教師就職式が行われました。台風も逸れた秋空の下、恵みあふれる一日でした。
 このように、牧野先生が長野佐久伝道所で牧会を始められてから数週間が経ちましたが、早速の所、「長野佐久教会」のホームページを立ち上げ、その「地域と交流」リンクの一つとして「ICS軽井沢文庫」を加えてくださいました。
 まず、「長野佐久教会」のホームページをごらんください。「地域と交流」リンクの「佐久市」をクリックすると「ICS軽井沢文庫」のブログが出てきます。ここで最新の「ICS軽井沢文庫だより」をチェックすることができます。


(石丸 新先生による「ウェストミンスター大教理問答研究ノートを掲載します)

 
 今月号より、このブログに、石丸新先生の「ウェストミンスター大教理問答研究ノート」の一部を掲載させていただくことになりました。先生の許可もいただいています。ラベル 「ウ大教理の聖餐論(1)」 をクリックしていただくと、読んでいただくことができます。
 石丸先生は、ここ20年来、絶えず、私の「ウェストミンスター大教理問答」の訳業を励まし、応援してきてくださった大先輩の先生です。「ウェストミンスター信仰基準」、とりわけ、「ウ大教理問答」の研究と翻訳には、並々ならぬ関心と情熱をお持ちの先生です。
 私が 2014年6月に教文館より『ウェストミンスター大教理問答』を出版しました前後の数年間、毎月のように「研究ノート」を私宛送ってきてくださいました。その中には、大変貴重なものも多くあり、何とか多くの方に読んでいただきたいと思ったこともしばしばでした。この度、「ウェストミンスター大教理問答の聖餐論」、「ウェストミンスター大教理問答の洗礼論」、「ウェストミンスター大教理問答における『神を見る』」など、先生が特に深い関心を持ち、情熱を注いで来られたテーマについての研鑽を先生がまとめられたものをお送りくださいましたので、お許しを得て、まずは「ICS軽井沢文庫」のブログに順次掲載させていただくことになりました。今回では、まず手始めに「ウェストミンスター大教理問答の聖餐論」の1~3章を掲載します。石丸先生による手書きのノートを宮﨑淳子姉がパソコンに打ち込んでくださいました。その労を主にあって感謝します。
 なお、石丸新先生は、現在、日本キリスト改革派東関東中会の引退教師ですが、86才となられた今もお元気で、主の日には、諸教会で礼拝奉仕などにご活躍です。読んでくださればおわかりと思いますが、先生は信条文書にふさわしい適切な日本語を絶えず求める一方で、老若男女の教会員と共に生きる現代的な感性も今なお持ち合わせておられます。


(「ICS軽井沢文庫だより」の印刷・保存のために


「ICS軽井沢文庫」を開き、右欄のラベル「ICS軽井沢文庫だより第12号を選択します。次にパソコン右上のオプション設定のマーク(縦に3つの点)をクリック、「印刷」を選択します。左欄のオプションを「両面印刷」にし、「詳細設定」の中の「倍率」を150、「背景のグラフィック」もオンにしてください。「印刷」ボタンを押すとOKです。

※次号は11月初めに出す予定ですが、それまでにも、思いつくままに、直したり、付け加えたりすることがありますので、時々チェックしていただければ、ありがたいです。






【連絡先】

389-0115長野県北佐久郡軽井沢町追分36-23 宮﨑彌男・淳子

TelFax 0267-31-6303(携帯) 080-3608-3769

Eメールmmiyazk41@gmail.com   ブログ「ICS軽井沢文庫」<ics41.blogspot.jp>


2017年8月31日木曜日

「ICS軽井沢文庫だより」第11号

「時をよく用いて」 

                                                                   宮﨑彌男

きょうは8月31日、今年の夏も、もう終わりかな。何だかさびしいような気がします。教会で食べた、冷えた黄スイカの美味しかったこと。思わず三切れも食べてしまいました。ふと立ち寄った、追分の鯛焼き屋さんで注文した抹茶ソフトの深い味わい。軽井沢では昔は聞けなかったというミンミンゼミのBGMで夏空を眺めた、布施温泉の露天風呂。その他随所に “小さい夏” を見つけて楽しみはしましたが、ギラギラ輝く太陽の下、大海原で泳ぐといった “大きな夏” を楽しむことはありませんでした。このまま秋になると、何だかさびしい気がしないでもありません。もっとも、軽井沢にも、長野県にも、海なんてないのですが…。
涸れた谷に鹿が水を求めるように
(詩編42:1)
それでも、全国的には、やっぱり“異常気象”とも言うべき集中豪雨や台風による被害が毎日のように報道されましたが、この夏は、これと言った災害のなかった軽井沢です。
 引退教師となってここ軽井沢・追分に住むようになったのは、2011年8月のことですから、もうかれこれ6年が経ちました。と言っても、この間、熊本伝道所の定住代理宣教教師として、2年3ヶ月は熊本に住んだので、これを差し引くと、3年9ヶ月の軽井沢生活を経てきたことになります。
 年齢的には、このあいだ(7月27日)の誕生日で、76歳となりました。家内もほぼ同じ年です。あと何年、軽井沢住まいが許されるのだろうか、家内と共に考えてみました。特に、私が教師引退後の中心的使命と考えている「ICS軽井沢文庫」の働きをあと何年継続できるだろうか、ということです。
 聖書に、「人の心には、多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する」(箴言19:21) とあります。本当にそのとおりです。それでも、私たちの側で計画を立てることは、いつも許されている。これも確かなことでしょう。もし計画がなければ、「主の御旨」の「実現」も期待し得ないからです。
 それで、私たち、計画を立てました。もし(仮に)あと3年、「ICS軽井沢文庫」のために「働く」ことが許されるならば、(安息日を除いて)あと 3X(365-52)日=939日「働く」こととなります。時間数にすると、(1日8時間「労働」として)939x8時間=7512時間ということになります。7512時間「働く」ことができる。これも、また何という「主の恵み」でしょうか(注1)
 このような、主の恵みによって与えられた「時をよく用いなさい」と、聖書は教えています(エフェソ5:16) 。
 わたしは、これからの3年間、939日、7512時間を「よく用いて」、「ICS軽井沢文庫」を育成し、多くの人々に役立つものとしたいのです。そして、特に願っておりますことは、この働きを受け継ぎ、担ってくださる若い方たちを得ることです。そのために祈り、励んで参ります。
聖書に導かれて学問する
(文庫内部)
ちなみに、「ICS軽井沢文庫」は、「ICS軽井沢文庫だより」1号に記しましたように、カナダ・トロント留学時代を中心に集めた、有神的世界観人生観確立のための文献や講義ノートを収納・公開するためのささやかな文庫」です。さらに、「なぜ『公開』かと言えば、私どもがここ軽井沢・追分にいる間、ぜひ皆様方にお訪ねいただいて、書物を見開き、テープを聴き、教会の現在と将来、日本の現在と将来について語り合いたいからです。軽井沢は、不思議と話の弾む所です!。新幹線で東京から1時間とちょっと、しなの鉄道・信濃追分駅から車10分の所です。わたしの夢は、この文庫が発展して、教会の内外の方々(特に、若い世代の方々)が聖書的改革主義的世界観に立って、今日の教会と社会(さらには、文化・芸術・学問etc.)に対する鋭い切り込み術を学ぶ JICSJapan Institute for Christian Studies 日本キリスト教学術研修所)となることです。このために、ぜひお祈りいただきたいと存じます」。

(注1)私は、目標時点から逆算して、時間単位でライフプランを立ててみる手法を、楠木新著『定年後―50歳からの生き方、終わり方―』(中公新書2431、2017年、特に第4章と第7章)から学びました。この本では、定年退職後の1日平均「労働」時間(自分の自由になる時間)が、60~75歳の場合、11時間;75歳を越えると、介助を受ける立場にもなるということで、半分の 5.5時間、とされている。私どもの場合は、ここ 2,3年の実績を考え、1日 8時間で算定した。介助/被介助のことも、75歳を過ぎるとだんだんと現実的な課題となってくるが、これは、「主の御旨」に属することなので、特に「計画」の中には入れていない。ただ、健康の維持については、いろいろと留意しているつもりである(毎日 30~40分散歩と、毎朝 5:37am~の NHK第一ラジオ「健康ライフ」の聴取等々)。


(JCA出席の報告)


  7月17日(月・祝)神戸・六甲の改革派神港教会で、日本カルヴィニスト協会(JCA)の講演会・総会が行われ、私も出席しました。「近代日本におけるカトリック教会と天皇制ーカルヴァン主義の視点からー」(松谷好明氏)と「改革派芸術論の一考察ーよりよき創作のためにー」(山村貴司氏)の二つの講演がなされました。いずれも、興味深いテーマでしたが、終わりに全体的な総括をされた袴田 JCA 会長としては、両テーマの統合には苦心されたようです。
 私としては、日本国憲法下で初めての天皇「生前退位」を前にして、日本のカルヴィニストとして天皇制をどのように捉え、改革すべきなのか、少々勉強もして行ったのですが(吉馴明子他編『現人神から大衆天皇制へ』等)、こういった今日的な問題について余り議論が深まらなかったことは、残念に思いました。天皇制と改革派芸術論を一度に取り上げることに、やはり無理があったのではないでしょうか。
 昼食時に、「ICS軽井沢文庫」の紹介をし、希望者に「ICS軽井沢文庫だより] 9号、10号を配布しました。当日の報告要旨:「一般啓示」において語られる神の御言葉を聞くことが、これまでにも増して重要な時代を迎えつつある。しかしながら、「一般啓示」という呼び方では、神の創造啓示(詩編19:2~7など)の豊かな多様性が輝き出ないのではないか。カイパー流の「領域主権哲学」の研鑽/普及が(特に若い方たちのために)求められている。このために「ICS軽井沢文庫」を立ち上げた旨、アピールをしました。1、2 積極的なレスポンスはありました。


(『キリスト者の世界観ー創造の回復』(改訂版)の翻訳出版について)


 来年春頃には、教文館より出版できそうです。JCAから帰ってすぐの翌週、銀座の教文館出版部を訪ね、担当の方(高木誠一氏)より出版の可能性について聞きました。主の導きを覚えたのですが、高木氏は学生時代に『キリスト者の世界観ー創造の回復』(初版)を読み、キリスト者としての生き方について、特に世界観・人生観について、大いに教えられるところがあった、と話してくださったのです。それで、教文館からこの本の改訂/増補版を出版することについて、喜んでお引き受けくださることとなりました。それで、今、版権のことで、米国のアードマン社と交渉してくださっています。これが OK ならば、ほぼ話は決まります。どうか、出版に至るまでお祈りくださいますように。


(熊本伝道所の修養会

 日本キリスト改革派熊本教会(伝道所)は、私が 1978~1996年、開拓宣教教師として、また2012~2014年、代理宣教教師として、計20年3ヶ月奉仕した教会ですが、来年1月で40周年を迎えることとなりました。それで、先日、8月26日~27日、熊本県青年会館において、「熊本教会のこれまでとこれからを考える~40周年からの私たちは~」というテーマの下、修養会を持ちました。この修養会に私は招かれ、第1日目に、「熊本伝道所の40年を振り返って」と題する講演を行いました。大人・子ども合わせて24名が参加、主の恵みを沢山いただいて、盛会の内に修養会を終えることができました。ご準備くださった西堀元牧師と伝道所委員の兄姉たち感謝します。私の講演要旨と聖書の箇所は次のとおりです。

  序 私の自己紹介。
  Ⅰ.熊本伝道の出発点/原点(詩編24編に学ぶ)。
  Ⅱ.教会形成の課題(使徒言行録20:32に学ぶ)。
  Ⅲ.熊本大地震と執事的愛の奉仕(ルカ10:25~37に学ぶ)。
  結び  「主を愛し、教会を愛しなさい」、愛は神の賜物です(Ⅰコリント12:31)。
 
 27日の主の日の礼拝では、子ども礼拝に続いて、西堀元牧師が「命を選びなさい」(申命記28:69~29:28)と題する説教をされました。(日本キリスト改革派熊本教会のHPで聴くことができます)。
 私は、この修養会の後、翌日まで熊本に滞在して、病気等のため出席できなかった兄弟姉妹方を訪問した後、軽井沢に戻ってきました。特に、月曜日には、南阿蘇村に一姉妹を訪ねましたが、昨年の大地震で崩れ落ちた阿蘇大橋に替わる仮設の橋が少し下流にようやく開通したところで、完全な復旧にはまだまだ時間がかかるようでした。

(「ICS軽井沢文庫だより」の印刷のために


「ICS軽井沢文庫」を開き、ラベル「ICS軽井沢文庫だより」第11号を選択します。次にパソコン右上のオプション設定のマーク(縦3つ)をクリック、印刷を選択する。左欄のオプションを両面印刷にし、詳細設定の中の倍率を150背景のグラフィックもオンにしてください。印刷ボタンを押すと OKです。


※この度の「ICS軽井沢文庫だより」NO.11 は、8月初めに発行(公開)予定でした が、諸般の事情により、遅くなったことをお詫びします。次号は10月初め頃の予定です。



  「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。
   時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。
   だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい」。
                (エフェソの信徒への手紙 5:15~17)




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2017年6月20日火曜日

ICS軽井沢文庫だより NO.10

        「野の木々も手をたたく」

                ―創造啓示と聖書啓示―         宮﨑彌男



近くの御影用水にて
甲信地方も梅雨入り宣言がなされたようですが、まだ、雨がしとしと降り続いて湿っぽい「梅雨」といった季節感は沸いて来ません。私は、夏の暑さに弱いので、梅雨時(つゆどき)は好きな方なのですが、…。むしろ、今は、「季節感」といえば、「初夏」というのがぴったりなのかな?
 軽井沢は、今緑が満開、それも新緑の木々が勢いよく天に向かって、“待ってました”とばかり協奏曲を奏で、創造主なる神に向かって讃美の声を歌っています。わたしも、木々の讃美の歌に合わせて、イザヤ書55章12,13節を朗唱せざるを得ません。
「あなたたちは喜び祝いながら出で立ち、平和のうちに導かれて行く。
  山と丘はあなたたちを迎え、歓声をあげて喜び歌い、
  野の木々も、手をたたく。
  茨に代わって糸杉が、おどろに代わってミルトスが生える。
  これは、主に対する記念となり、しるしとなる。
  それはとこしえに消し去られることがない」。

(ICS修士論文)
 このイザヤ書の言葉は、わたしにとって思い出深い、大切な聖句です。1975年4月、トロントのICS(キリスト教学術研修所)において、修士論文を提出したのですが、その結びに掲げた聖句が、この箇所を含むイザヤ書55章8~13節だったからです。
M.Phil.証書
(1975.4.11)
わたしの修士論文は「禅仏教の基礎構造―即非の論理―」(Basic Pattern in Zen Buddhism--the Logic of Sokuhi)というものでした。これを開所(1967年)間もないカルヴァン主義哲学研修所に提出したのです。3名の教授たち( Dr. J.H.Olthuis, Dr. A.H.DeGraaf, Dr. H.Hart,)による審査に合格し、哲学修士証書を得ました。ちなみに、これは、開所間もない時の論文であったので、カナダ国認定の正式修士号ではありませんでしたが、同等の価値を持つものとわたしは思っています(注1)
 わたしは、仏教(真宗)の家で生まれ育ち、高校時代にキリスト教(改革派)に改宗したものですが、仏教については、一度も勉強したことがありませんでした。それで、カナダ留学中のことでありましたので、とにかく、英語でも読める鈴木大拙(Daisetsu Suzuki)の本でも読んで…、と思って選んだテーマがこの「即非の論理」だったのです。 
 当然のことながら、わたしの中には、イエス・キリストの福音伝道者としての強い召命感がありましたので、日本文化に深く浸透している禅的仏教思想の基本を学ぶことを通して、日本文化への福音的改革主義的アプローチを模索したいという願いがあったのです。
 上記の論文の主旨は、禅仏教が、鈴木大拙自身繰り返し言っておりますように、「即非の論理」を特徴とする宗教である、ということです。「色即是空」。哲学的には、「多即一、一即多」です。
 論文のまとめの部分より一部翻訳したものを以下にご紹介します。
 <禅仏教の基礎構造は、般若系大乗仏教より継承された、鈴木大拙のいわゆる「即非の論理」に見出だすことができる。…この「論理」(注2)によれば、実在は一であり(一元論)、一即多、多即一である。つまるところ、実在の多様性を一性に還元するものである。この「論理」は、聖書の光に照らして見れば、万物の意味をその確証的側面(注3)に還元することにおいて、被造物に対する神の律法の豊かな多様性を正当に評価しない。この意味において、禅仏教は、確証主義である。確証的側面が他のすべての側面の規範とされる。ここにおいては、「文化」が軽んじられるのではないが、確証的側面が「文化」の唯一の真の規範とされるのである。>

(聖書の「論理」)
 これに対して、聖書の教える「論理」は、「多における一、一における多」です。聖書の提示する世界観においては、統一性における多様性、多様性における統一性が強調されています。聖書の教えるところでは、すべての事物には意味があり、その意味は御言葉において啓示されているのです。例えば、当時、ある人たちが結婚を禁じたり、ある種の食物を断つことを命じたりしたことに対して、使徒パウロは、「神がお造りになったものはすべて良いもので、感謝して受けるならば、何一つ捨てるべきものはない。神の言葉と祈りによって聖なるものとされるから」と教えています。Cf.Ⅰテモテ4:3-5。
 さらに、パウロは、Ⅰコリント10:31で、「あなたがたは食べるにも飲むにも何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」と、基本的なキリスト者の生活原理を教えています。ここには、「食べること」や「飲むこと」といった私たちの生活体験の多様性が表されていると同時に、「神の栄光を現す」という私たちの「主な」 (一つの) 目的も提示されています (ウェストミンスター小教理問答 問1参照)。
 このように、現実の私たちの生活体験は多様な側面を持っていますが、それは、神の創造の御業の多様性によるものです。神の創造の御業の多様性について、旧約の詩人は、詩編104:24で、次のように証しています。「主よ、御業はいかにおびただしいことか。あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。地はお造りになったものに満ちている」と。「主の御業」は「おびただしい」のであるが、そのすべては「知恵によって成し遂げられた」と唱っているのです。神の創造の御業の多様性と統一性を見事に証している聖句です。私たちは神の創造の御業のすべてに神の知恵を見るのです。なぜならば、それらはすべて、知恵そのものであられる神の(創造)律法によって創造されているからです。

(創造啓示と聖書啓示)
 私たちの目を開き、このことに気づかせてくれるのは、聖書の御言葉です。私たちの本日のテーマに即して言うならば、それは、聖書啓示(文書化された神の言葉による啓示)によるのです。この聖書の御言葉を聞きまた読むことによって私たちは、神の創造の御業の全体が知恵によって成し遂げられたことを確かに知ることができるのです。この意味で、神の創造の御業の多様性と統一性は、聖書によって初めて知ることができる、と言えるのですね。
 創造啓示と聖書啓示は同じ主(三位一体の神)の御言葉です。それゆえに、この両者の間には、矛盾がありません。しかし、後者が人間の言語による啓示であるのに対して、前者は「被造物において知られる」(ローマ1:19,20)啓示ですから、相違点もあります。両者の共通性と相違性について、私のトロント時代の恩師、J.H.オルシウス教授は次のように言っておられます。
 <聖書はあがないの物語、すなわち、私たちの癒やしと教えのために、人間の言葉で記された神の言葉です。聖書は、…確証的・言語的側面に焦点を絞って、あがないの目的で語られた、神の言葉の再述/再宣布です。聖書は、神が始めに語り、今も引き続き語っておられること(「創造啓示」のことー宮﨑注)を、あがないのために、人間の言葉で語っているのですから、聖書の中心的メッセージは、あらゆる時代と場所におけるあらゆる生に対して直接的な関連性を持つのです。私たちがそういった直接的な関連性を知ることができるのは、メッセージの確証的な焦点から目を反らさず、その焦点に合った問いかけをするときです。そのとき、私たちは、聖書自身約束しているように、教え、戒め、慰め、励ます上で有益な文書として、現場で助けられ、諫められるのです。>(『究極性の解釈学』46頁、注4)。
 ここで、オルシウス教授は、聖書を「神が始めに語り、今も引き続き語っておられる」創造の御言葉の「再述/再宣布」であって、それは、「確証的・言語的側面に焦点を絞って、あがないの目的で」文書化されたもの、と定義しておられます。ここから、少なくともまずはっきりと教えられますことは、創造啓示と聖書啓示の啓示者は同一の主(三位一体の神)であって、両者をを切り離して考えてはならない、ということです。両者を切り離して、聖書を、創造啓示との関わりなしに読んだり、説教したりしたならば、それは、今日における私たちの生の諸問題に対して神の御心を告げる、救いのメッセージとはならないでしょう。また、聖書を読まず、また説教を聞かずに、創造啓示を尋ね求めようとしても、そこから人生を生きる真の「知恵」(詩編104:24)を得ることはできないでしょう(注5)。
 
 冒頭で、わたしは仏教(真宗)の家で育ち、高校時代にキリスト教(改革派)に改宗した、と申しましたが、それでも、小学校の理科や工作の時間はもちろんのこと、放課後にはあちこちで遊び回っていた、そのような時から、いつもこの神様の創造律法の下にあって、導かれ、守られていたのです。また、そのことにより、わが少年の日々を楽しんでいたのです。ただ、この律法の創始者であり、啓示者である父なる神・キリスト・聖霊を知らなかっただけのことです。聖書によってこのことを知った今、何という喜びと感謝を持って、この律法に従いつつ、生きるようになったことでしょうか。
 このように、聖書によって私たちは、創造律法と聖書の御言葉が同じ三位一体の神の言葉であることを知って、驚き感謝するものです。
 ただ神様に栄光がありますように。ハレルヤ!
 
(注1)この論文は英文で書かれていますが、関心のある方にはまだ5部ばかりコピーがありますので、郵送料(400円)ご負担いただければお分かちできます。
(注2)ここで言う「論理」とは、「思惟構造」のこと。
(注3)確証的側面(certitudinal aspect)・・・信仰的側面(pistic aspect or modality)とも呼ばれることがある。主体的機能としては、その主体を超越的世界に導き入れると同時に、生に統合性(インテグリティー)を与える。
(注4)Olthuis, James H., A Hermeneutics of Ultimacy: Peril or Promise? (Lanham, Md.:University Press of America, 1987)p.46.
(注5)ちなみに、創造啓示と聖書啓示の一体性に関するこの教えは、改革派教会の「創立宣言」第一点(有神的世界観人生観の確立)と第二点(聖書的使徒的教会の樹立)の関係を考える上でも、重要な視点を提供するものです。「創立宣言」第一点と第二点の関係については、以下をご参照ください。岩崎洋司「九州開拓伝道に寄せて」(日本キリスト改革派教会・中央宣教研究所『紀要』1982年10月15日、第八号、28~36頁)、宮崎弥男「改革派創立宣言の学び―第一点と第二点の関係―」(『リフォームド九州』1992年12月13日、第17号、7~9頁)。

※この度の「ICS軽井沢文庫だより」NO.10 は、6月始めに発行(公開)予定でしたが、パソコンの不具合等のため、遅れましたことをお詫びします。次号は8月始め頃の予定です。

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」
                   (使徒言行録1章8節)


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2017年5月6日土曜日

ICS軽井沢文庫だより No.9

「軽井沢と創造啓示」 宮﨑彌男

窓からの眺め

(はじめに) 
 軽井沢は、春、夏、秋、冬、四季それぞれに素晴らしい。目に優しい緑、おいしい空気、心地よい風。散歩に出かけると、たいがい癒されます。家の中で仕事をしていても、窓から外を眺めると、樹齢何十年?に及ぶような太く、高い木がそびえていて、私どもの思いを、瞬間的にでも、天高く引き上げてくれます。
 私は、軽井沢の緑と空気と風が好きです。ここにいると、不思議に本がよく読めます。客を迎えると、話が弾みます。ここに来て(もうすぐ)6年の感想です。感謝です。
 「ICS軽井沢文庫だより」の先月号に、「注意深く御言葉に傾聴すること」について書きました。教会の礼拝・諸集会、家庭礼拝、個人のデボーションにおいて語られる神の言葉に注意深く耳を傾けることが、教会の霊的リニューアルのために必要、ということでありました。その折、もう一つ大切なこととして、神の創造啓示に耳を傾ける霊的洞察力の必要なことも書き加えておりました。今日はこのことを取り挙げます。

(神の創造啓示とは)
 神の創造啓示(creation revelation)とは、詩編19:2~5で、ダビデが、
  「天は神の栄光を物語り、
  大空は御手の業を示す。
  昼は昼に語り伝え、
  夜は夜に知識を送る。
  話すことも,語ることもなく、
  声は聞こえなくても、
  その響きは全地に、
  その言葉は世界の果てに向かう」、
と歌っていますように、
神が、創造と摂理の御業を通して私たちに語っておられる御言葉(啓示)のことです。「創造の律法(法)」(creation-law)による啓示、と言うこともできるでしょう 。
 これまで、改革派教会においては、伝統的にこの創造啓示のことを「一般啓示」と呼び、キリストによる罪からの救いを啓示する「特別啓示」と対比させてきました。しかし、残念ながら、この「一般啓示」という呼称では、創造啓示の持つ豊かさが十分に表されているとは言えません。特に、神さまの創造律法の “統一性における多様性” (diversity in unity)については、全くと言ってもよいほどに言い表してはいないのです。

(創造律法の統一性と多様性)
 創造律法の“統一性”(unity)については、神の口から出る御言葉(詩編33:4~6等)であることにおいて、例えば、十戒において要約されている道徳律法と一つです。その道徳律法の要約は「愛」でありますから(ローマ13:8~10、ウ小教理39~42)、創造律法も、「愛」において統一されています。このことについて、私は、九州伝道における先輩同労者、岩崎洋司牧師がかつて言われた「キリストの愛が宇宙を支えている」との言葉を思い巡らしています。岩崎洋司先生は、九州開拓伝道の最中で召されたのですが、先生のヴィジョンは実に宇宙大に大きく、同時にキリストの愛の細やかさをも持ち合わせておられたことを私は思い返しています(注)。神の創造律法は、キリストの愛においてすべて成就しているのです(マタイ5:17~20)。
 創造律法の“多様性”(diversity)については、オランダの神学者、アブラハム・カイパーが神さまの律法の「領域主権性」という言葉で言い表してから、改革派教会の霊的知的財産となって今日に至っています。彼は、「カルヴィニズム講義」と題する1898年のプリンストン講演において、キリスト者が世界観、宗教(教会)、政治、学問、芸術、等の諸領域において、御言葉に従って神のご要求に応えるべきことを訴えました。これに応えて、キリスト教(カルヴァン主義)哲学を展開したのが、ドーイウェールト、フォレンホーフェン等、オランダの「法理念哲学者」であり、トロントのICS(キリスト教学術研修所)です。私どもの「ICS軽井沢文庫」は、日本においてこの聖書的キリスト教哲学を研鑽、展開、普及させるために、昨年オープンしました(「ICS軽井沢文庫だより」No.1参照)。この小さな文庫の他にも、日本の各地で同じ趣旨の運動が起こされることを祈り、願っています
 神様の創造律法の “(統一性における)多様性” につき、私たちの身近なところで思い浮かべることのできるのは、
 ⑴ 結婚のための神様の創造律法
 ⑵ 子育てのための神様の創造律法
 ⑶ 学校のための神様の創造律法
 ⑷ 教会のための神様の創造律法
 ⑸ 政治のための神様の創造律法
等々です。
 神様の創造律法の対象は、その名のごとく、神様の創造の御業と同じように広いのですが、この律法に耳を傾けることは、情報化の時代と言われる今日の時代/社会において、何よりもその重要性を増しつつあると言わねばなりません。新聞、雑誌、本、ラジオ、テレビ、インターネット、正に情報の洪水です。その中で、私たちは、「すべてを吟味して、良いものを大事にする」(Ⅰテサロニケ5:21)ように求められているのです。マスコミの報道についても、私たちは真実な報道とフェイクな (でっち上げの) 報道を見分けなければなりません。その規準こそが、聖書において啓示されている神の創造律法です。

(創造啓示に与る道) 
 ちなみに、創造啓示との関わりにおける、最近の私自身の情報収集の手段は次のとおりです。(順序が大切)
  ⑴ 聞くこと。
  ⑵ 読むこと。
  ⑶ 見ること。
  ⑷ 触れること。
 については、ラジオを聞くことに最近ハマッテいます。特にNHKラジオ第1の「マイあさラジオ」(5:00~)を,インターネット・ラジオ「らじる」で聞くことは、私の毎朝の習慣になっています。年齢相応と言うべきなのでしょうか。5:37の「健康ライフ」と6:43の「社会の見方・私の視点」は、必ず(旅先でも!)聞くようにしています。この時間帯、担当者が良いからでしょうか、多くのテレビ・ニュース番組のように、政権に遠慮/忖度するようなこともなく、安心して聞いていられます。
  次に「読むこと」。新聞、雑誌、本などです。元々,私は本好きの方ですが、目が疲れ易くなってきましたので、朝方とか、ちょっと昼寝をした後で、読むことが多いです。何と言っても、キリスト教有神的 “思想” 形成のためには、それなりの読書は不可欠と認識していますので、目の健康が守られるように祈るばかりです。
春のよそおい
 ⑶ その次に「見ること」。私は、高校時代に、ある感動的な映画(その題名は思い出せないのですが)を見て、キリスト教の伝道者になりたいと思うようになったという経験がありますので、映画が人の生き方を変える力を持っていることを否定しません。にもかかわらず、聖書が御言葉を「聞くこと」を、救われる恵みの手段として第一に掲げていますので(ローマ10:17等)、「見ること」は、やはりその次です。
 テレビは、「見ること」と「聞くこと」が一緒に押し寄せて来るので、大変な情報量です。それゆえ、質の悪い番組の場合、相当にダメージを受けるので、気をつけなければなりません。反対に,真実を伝える映画やドキュメンタリーは見逃せません。 
 ⑷ そして、最後に「触れること」。同じ相撲や野球を見るのでも、テレビで見るのと、実際に、国技館(本当は、私は地方巡業にしか行ったことはないのですが)や球場に行って見るのとでは、大違いです。映像というものがいかに部分的なものに過ぎないか、行くたびに知らされます。そういう意味でも、「旅に出る」ことは、神さまの創造啓示に与る最高の時です。ただ、「何でも見てやろう」と思っても、年齢制限がありますので、「無理はしない、疲れないように」を一応のモットーとしています。歴史と地理が一体となるような旅が一番いいなと思うのですが、これも、そんなに、いつもいつもできるわけではありません。

 とにかく、これからは、私たちキリスト者が、何にもまして、神さまの創造啓示に耳を傾けるべき時代です。これは必ず教会を活性化します。ただそのためには、聖書啓示と創造啓示を一体的に捉える方法を学び取ることが大切です。次回では、そういったことを取り上げたいと思います。
 
(注)「…福岡開拓伝道が1968年9月に始まったばかりの頃だと思うが、その頃、私は神戸改革派神学校の学生であった。岩崎洋司先生は、中会等で神戸に来られた時、神学校の寄宿舎に宿泊し、夜などふらりと神学生の部屋を訪ねてお茶を飲んで行かれることがよくあった。そのような時に、『キリストの愛が宇宙を支えている』というようなお話をうかがって、この先生は大きなヴィジョンを持っておられる方だな、と思った。それから約十年後に、この先生と一緒に九州伝道にたずさわることになった。熊本へ赴任後最初に先生をお訪ねした時、週報第一号をお見せした。まだ教会には裁断機がなかったので、大きなB4版の週報であった。先生曰く「大阿蘇のような週報だな」。この一言をなぜか家内も私もよく覚えている。この大阿蘇で、その年の夏、長丘・熊本合同の第一回九州修養会を持つことになった。その時「羊児」先生が詠まれた詩(うた)の中に次の一句がある。「祈り合う小さき群、われら今、ここに、山波は雲に連なる。わが父のみもと」。ここに、洋司先生の大きなヴィジョンは天地の造り主なる父の神の偉大さに由来するものであり、同時にそれは、キリストを通して「小さき」ものに注がれる愛と無関係ではないことが示されている。…」(宮崎弥男「教会設立のお祝いの言葉」 (1994年、日本キリスト改革派長丘教会発行『丘の上の羊たち―伝道開始25周年記念ー 』37-38頁)より)




「主の御言葉は正しく,御業はすべて真実。
 主は恵みの業と裁きを愛し、地は主の慈しみに満ちている
 御言葉によって天は造られ、主の口の息吹によって天の万象は造られた。
 主は大水の水をせき止め、深淵の水を倉に納められた」。
                   (詩編33編4~7節)

 ※次号の発行&ブログの更新は6月初め頃です。



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2017年4月1日土曜日

ICS軽井沢文庫だより No.8

「注意深く御言葉に傾聴せよ」
                        宮﨑彌男       


庭の福寿草
全国的には、次々と桜の開花宣言がなされているようですが、ここ軽井沢では、標高1,000㍍という準高地のせいか、なかなか本格的な春がやって来ません。先日、3/27(月)の朝には、30㎝もの積雪があり、季節外れの雪景色となりました。待ちきれずに、3/20(月)の春分の日、私たちは二人で追分宿の方にまで、10,000万歩をあるき、早春の日差しを楽しみました。立ち寄ったカフェ・レストランの内庭に咲いていた福寿草が春の到来を告げていて、良い散歩となりました。家に戻ってくると、うちの庭にも福寿草が咲いていました(写真)。
 さて、私は、2014年6月に「ウェストミンスター大教理問答」の新訳を教文館より出版しましたが、その折に、共同研究、その他、色々の形でご協力いただいた石丸新先生 (東関東中会引退教師)とは、その後もずっと、更なる改訳を視野に入れた手紙のやりとりが続いています。「ウ基準の学びには終わりがない」とは先生のよく言われることですが、改訳に向けての学びを通して多くの新しい(フレッシュな)霊的刺激を受けることは確かです。
 1月21日付の書信で、先生は、ウェストミンスター信仰基準に計18回出てくるdiligence, diligent, diligently の訳し方について、メモ書き (内容的には「論述」に近い)を提供してくださっています。その中の一つなのですが、ウ小教理90、ウ大教理157、同160に出てくる with diligenceは、これまで、「勤勉…をもって」とか 「勤勉に」、「熱心に」 と訳されることが多かったのですが,先生は、「注意を払い」 または「注意を傾けて」と訳すべきことを主張しておられます。diligenceは、今日でこそ「勤勉」とか「熱心」という意味で用いられることが多いのですが、元々は「注意深さ」を意味する言葉であったようです(水垣渉・袴田康裕著『ウ小教理問答講解』pp.143-144を参照)。それで、私自身も、ウ大教理157では、「注意力を集中し」(て御言葉を読まなければなりません)、あるいは、同160では、「注意力」(と準備と祈りとをもってこれに傾聴すること)と訳しています。
 このように「注意を払い」と訳す方が、直前の「これに傾聴する」(attend thereuntoupon it)との繋がりも良くなります。また、証拠聖句として挙げられている箴言8:34や使徒17:11とも良くマッチします。それで、改革派教会の憲法委員会でウ小教理の改訳を出されるときには、ぜひご一考いただきたいと思っています。袴田康裕先生が最近出された新訳『ウェストミンスター小教理問答』では、この箇所については、
「勤勉…をもって」となっておりますが、私どもとしては、やはり、「注意を払って」御言葉に傾聴することを強調したい。
 私は、御言葉に注意深く聞くことこそが,今日における教会の霊的更新(リニューアル)のために基本的に重要なこと認識しています。教会の礼拝・諸集会において、信徒各自の家庭礼拝や個人的でボーションにおいて、あるいは、御言葉が語られる領域を更に広げて、神の創造啓示(「一般啓示」)に耳を傾ける霊的洞察力において、御言葉に注意深く傾聴することこそが,今日の私たち信徒に求められているのです。
 「神の創造啓示に耳を傾ける」ことについては、正に「ICS軽井沢文庫」におけるキリスト教哲学研究に関わることでありますので、改めて取り上げることにしますが、ここでは、日々の家庭礼拝において、引退教師としての私(と家内)が「注意深く」御言葉に傾聴することを心がけておりますことを、僭越ながら一つの実践例として紹介させていただきます。
 家庭(夫婦)礼拝は、毎朝朝食前の20分間、日本キリスト改革派教会教育機関誌委員会発行の「リジョイス―主にある喜びー」を用いて行っています。通常の礼拝順序は:
  □ジュネーブ詩編歌
  □聖書(&ハイデルベルク信仰問答)
  □解説と奨励(「リジョイス」の日課による)  
  □「いのちのパン」(子どものための勧め)
  □祈り(含・全国の教会/伝道所のための祈り)
 更に、家庭(夫婦)夕拝を、毎晩9時30分から約15分間、スター・ミード著、佐藤強・魚本つる子訳『主を知り,主を喜ぶ~子どもから大人まで~』(教理問答による日々のデボーション)を用いて行っています。この書物は、一昨年10月、正統長老教会(OPC)日本ミッションから発行されたものですが、日本語訳もわかりやすく、内容も充実しています。私どもは、毎晩、その日の教理問答(ウ小教理)の解説と聖書箇所を読んで、学んだことを分かち合い、その後で、祈ります。家庭夕拝にぴったりの書物で、皆様方にも心よりおすすめします。訳者の一人である佐藤強先生(TEL/FAX :0465-43-3573、e-mail:tsuyoshi-sato423@nifty.com)に連絡すれば、\2,300+税で送ってくださると思います。
 なお、ついでながら、「リジョイス」の申込先は→ 那加教会内 今井捷利さん(FAX 078-330-3371、e-mail:rcjrejoice@gmail.com)です。
 私ども夫婦にとって、これら朝夕2回の家庭(夫婦)礼拝は、軽井沢での引退教師としての毎日の生活の、なくてはならない枠組み(支柱)となっています。御言葉を注意深く聞き、語り合う,楽しく有意義なひとときとなっています。このことを感謝をもって報告し、皆様方もそれぞれの事情にあった仕方で、日々御言葉を読んで、祈るひとときを守られることをおすすめします。
 私の九州での先輩同労者、岩崎洋司先生が口癖のように言っておられた「クリスチャンであっても,毎日聖書を読んでいる人と,そうでない人とでは、数年の内に(霊性上)大きな違いが出てくる」を思い起こしています。
 今年は宗教改革500年の年です。Sola Scriptura!           
                        
<「たより」第7号へのレスポンス>安達正子さん(山梨県甲斐市、介護福祉士)

宮崎先生 
 ICS軽井沢文庫7号を読ませていただきました。いつも楽しみに読ませていただいています。有難うございました。 
 さまざまなことが起きて世界中が騒然としている今日この頃です。 
 またあの忌まわしい時代に戻ってしまうのかという漠たる不安を抱えながら過ごしている者にとって真の希望と確固たる安心感を与えてくださる文章でした。 
 頼るのはキリストにある確かな希望ですね。改めて深く心に刻みました。
 安達正子

☆☆安達さま、前月号の「希望に生きる」へのレスポンスをありがとうございました。時代がどちらの方に向かっているのかわからない、不透明な様相を呈する中で、にもかかわらず、真実な希望を説くことができるのは,御言葉の上にしっかりと立つ教会とキリスト者だけですね。信仰・希望・愛に生きたいものです。☆☆宮﨑彌男
 
『キリスト者の世界観ー創造の回復』増補版・付録の翻訳

先月は、原著140~143頁、「“霊”と霊性、「聖書物語と今日の生き方を媒介する世界観の役割」,「結び」の三つの項を訳し終え、これで「付録」部分、全訳・完了しました。今後は、増補・改訂版の出版に向けて努力します。お祈りに覚えてください。ラベル<『キリスト者の世界観―創造の回復』付録>をクリックしてごらん下さい。

☆ 宣教において遭遇する戦いにおいて忠実たらんとする教会は生きた霊性を育て培う必要があるのです」(「“霊”と霊性」)。
☆「世界観は自動車のギア装置のようなものです。ギア装置は、エンジンの力と、地に接して車を動かすゴムのタイヤの間を媒介する働きをします。聖書についての世界観的な思索は、福音の力とその影響下に置かれる人間生活との間を媒介します」(聖書物語と今日の生き方を媒介する世界観の役割)
☆「万物は神の創造によるものです。どんなものも罪の破壊力と無関係ではありません。すべてのものは“霊”により、キリストにあってなされつつある神の更新の御業に参与しています」(同上)。

※次号の発行&ブログの更新は5月初め頃です。

「ここのユダヤ人たちは,テサロニケのユダヤ人よりも素直で,非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた」。
                   (使徒言行録17章11節)


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389-0115長野県北佐久郡軽井沢町追分36-23 宮﨑彌男・淳子
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2017年3月2日木曜日

ICS軽井沢文庫だより No.7

「希望に生きる」    宮﨑彌男

  あっという間に、2月が終わって、2017年も3月となりました。年を迎える前から今年は大変な年になりそうだと予測していましたが、この2か月だけでも、トランプ大統領の就任以来、次々と打ち出されてきた大統領令のみならず、クアラルンプールの空港で起こった暗殺事件などにより、全世界が揺さぶられているような毎日です。そのような中で、私たちは、神さまの御言葉である聖書から「希望に生きる」道をはっきりと示されたい。 
創造、堕落、希望の世界観
2月は、長野伝道所で、25日と19日の2回にわたり、新約聖書ヘブライ人への手紙の6章13節~7章19節により、キリストによる希望について説教する機会がありました。新共同訳聖書のこの箇所には、「希望」という言葉が4回出て来ます。この「希望」が、この箇所を読み解くキーワードの一つであることは間違いありません。
 シールズ流()のコール&レスポンスで言えば、「希望って何だ?」「揺るがない希望のことさ!」ということになります。聖書の語る希望(キリストによる希望)は、単なる願望ではない。必ず実現する、確かな、揺るぐことのない希望である。私たちは、そのことを日本キリスト改革派創立60周年の『終末の希望についての信仰の宣言』で明らかにしました。私たちのキリストにあって抱いている希望は揺るがない希望です。ヘブライ人への手紙 619節に「私たちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです」と書いてあるとおりです。錨は、海の底に重しを下げて船をつなぎ止め、荒波や高波が押し寄せても船が流されないようにするものです。キリストにある私たちの希望も、同じように、人生の荒波が押し寄せてきても揺らぐことのないものだと言っているのです。
 なぜか。それは、私たちが律法を完全に行うことによって得ることのできる希望ではなく、十字架の死と復活によって私たちのためにあがない(罪による負債の除去)を成し遂げてくださった(ヨハネによる福音書1930)キリストのお与え下さる希望だからです。律法による希望ならば、私たちの罪や弱さによって、神のきよさに達することができないので、希望があるのかないのかわからないでしょう。むしろ、正直言って、絶望しかない。しかし、聖書の語る希望は、私たちを愛してくださるキリストのお与えくださる希望です。この希望は、どんなことがあっても、決して揺らぐことがありません。ヘブライ人への手紙の著者は、このキリストによる希望のことを、律法による希望との対比で「もっと優れた希望」(719)と呼んでいます。ハレルヤ、主よ! この希望によって、私たちは、神に近づくことができるのです(19節後半)。
 今年、教会の内外で色々のことが起こるでしょうが、どのような場面においても、この希望によって生き、神に近づきたい。私たちにとって将来は必ず開かれるます。この希望をもって、今月も、ICS軽井沢文庫の育成のために祈り、労するものとなりたい。
(注)2015年の夏、安保法案に反対して(延べ)35万人が国会前周辺に集まりました。その原動力となったとなったシールズ(SEALDS)は、従来のシュプレッヒ・コールに替えて、コール&レスポンス(問いかけ・応える)を試み、「民主主義って何だ?」と問いかけると「民主主義ってこれさ!」と応えるようにした、とのことです(高橋源一郎/SEALDS:『民主主義ってなんだ?』60-67頁参照)。デモ形式のカテキズムですね。

(文庫の中で)
December, 1972

 2月中の主な仕事は、雑誌類の整理でした。Perspective (AACS/ICS 季刊ニュースレター、1969年~2011年)、Vanguard (月刊・改革主義ジャーナル、197011月~198112)ANAKAINOSIS (季刊・改革主義思想ジャーナル/ニュースレター、主幹:アル・ウォルタース、19789月~19866月、全17) 等を年月順に整理しました。これを適当な形にバインドし、閲覧できるようにしたいと考えています。いずれも、日本における改革主義運動展開のために貴重な資料となります。




(『キリスト者の世界観ー創造の回復』増補版・付録の翻訳)
 原著135145頁の「文脈化ー構造性と方向性をわきまえる」を訳し終え、この部分を加えて、ブログ「ICS軽井沢文庫」ics41.blogspot.jp に掲載しましたので、ラベル<『キリスト者の世界観ー創造の回復』付録>の項をクリックして、ごらん下さい。伝道における文化の問題を考える上で、正しい視点を提供していると思います。力を込めて訳しました。ぜひ、お読みください。

「たより」第6号へのレスポンス>岩間孝吉さん(日本キリスト改革派山梨栄光教会長老、元・山梨英和中学・高校校長

☆☆宮崎弥男 様
 ICS軽井沢文庫だより第6号、ありがとうございました。
 賀川豊彦の働きについての研究成果が紹介されていましたのを、
興味深く拝見しました。 
 実は、賀川豊彦は、1948年山梨県を訪ね、甲府や韮崎で
揮毫し、聖句等を額に残しております。(山梨YMCAほか保存)
小生も調査しております。
 1948(昭和23)619()、賀川豊彦一行が、山梨県
伝道のため甲府へ来ておられます。「新日本建設、キリスト教
運動、賀川班、19486月記」=賀川豊彦記念松沢資料館所蔵。
 19日~23日。20()午前9時~山梨県会議事堂にて伝道
集会、来会者1100名、テーマ「一粒の麦」、主催・山梨YMCA
 21()=甲府刑務所で集会、市川大門町で集会。
 20()9時、国立甲府病院にて「精神治療と信仰治療」講演。
2010時半=県立甲府第一高校で、学校講演「自然を通して神を見る」
聴衆1500名、決心カード133枚。
 同日午後3時、韮崎教会で「自然を通して神を見る」講演、聴衆
160名中84名決心。23日正午、松沢に帰った、とのことです。
 PS 山梨県教会一致懇談会、という超教派の活動を50年山梨では
続けています。今年の一致祈祷会の予定を参考までに添付しましたので、
ご覧ください。6日間で、県下32教会3団体から延338名出席、献金
245,134円が捧げられました。小生もその世話人の1人をさせていただ
いています。 
岩間孝吉(山梨栄光教会)☆☆

☆☆岩間さま、ありがとうございました。1948年6月19日~23日の賀川豊彦による山梨伝道の記録をお分かちくださり、感謝です。20日(日)朝の集会には、1100名も集まったのですね。週日の県立高校等での集会でも多数の「決心者」が出た、とのこと。戦後日本の歴史の貴重な1頁として、心に刻みたいものです。お世話された山梨県教会一致懇談会の集いにも多くの方が出席されたのですね。soli deo gloria! 宮﨑彌男☆☆

(前号の誤字訂正)

 前月、2月1日に「ICS軽井沢文庫だより」No.6を公開しましたが、以下の2箇所ばかり誤字がありましたので、お詫びして、訂正いたします。
 1)公開の日付、(誤)201621日→(正) 2017年21
 2)長野伝道所で、御国イザヤ著『勝利を得る日本の教会』を見付けたのは、()214日→()114日、でした。

※次号の発行&ブログ更新は4月初め頃です。


  

   「私たちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨の
   ようなものであり、また至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです」
                        
                     (ヘブライ人への手紙 619節)



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