2020年5月1日金曜日

「ICS軽井沢文庫だより」第29号ー2

~巻頭言~   「グリーンイースター」


宮﨑彌男

 

「山々よ,すべての丘よ、実を結ぶ木よ、杉の林よ、
野の獣よ、すべての家畜よ、地を這うものよ、
翼ある鳥よ、…主をほめよ。」
(詩編148:9,10,13)

 グリーンイースターって何だ?それは、日本語で言えば、「緑の復活節」ということになるでしょうか。英語の辞書で green の項を引くと、用例の一つとして green Christmas が出てきます。雪の降らないクリスマスのことをgreen Christmas と言うのだそうです。そうしますと、green easterは、雪の降らないイースター、すなわち、「緑の復活節」ということになるでしょうか。 
 今年のイースター(4月12日)は、新型コロナウィルス感染予防のため,ということで、外出を控えるようにとの行政上の要請があり、教会でも、礼拝集会を開催することができず、自宅で礼拝を守った所も多くあったようです。そんなわけで,少し静かなイースターだったのですが、それだけに、郵便ポストやメールボックスに「イースターおめでとう」のカードやメールを見つけたときには、喜び一入でした。
 そのような中で,一つご紹介したいのは、私のトロント時代、共に学んだ友人Perry Reckerからのイースターメールでした(注)。それには、今年のイースターのために彼が編訳したという Okke Jager(オランダ・カンペンの神学者・ラジオ説教者)のイースターメッセージ、A Green Easter が添付されていました。オランダ語から英語に翻訳されたものだけに、日本人の私には、一読、よくわからなかったのですが、辞書を引き引き,読み返して見ると、“究極のイースターメッセージ” を読み取ることができました。英語から日本語に重訳してでも、皆さんに提供できれば良いのですが、それは、今後の課題として、ポイントだけご紹介しておきます。共にグリーンイースターを喜ぶためです。
 
 冒頭の文章はこうです。「イースターに雪が降ることはめったにありません。ほぼ毎年、イースターは緑の季節です。詩編148編の作者が『実を結ぶ木よ、杉の林よ、…主をほめよと歌っていますが、イースターは、私たちがそのように歌うのに、とりわけふさわしい時です先月号の「ICS軽井沢文庫だより」(第28号)の冒頭の聖句や出だしの文章とよく似ているので、驚きました。やはり、イースターの喜びは,どこでも、だれでも同じなのですね。
 それで、ここでは、私の印象に残っている箇所を選び、そのおおまかなサマリーだけをご紹介します。O.イエガーは申します。福音書はすべてキリスト復活後に書かれたものだから、すべての記事をキリストの復活に遡って読むことができるのだ、と。例えば、ルカが、天の大軍が現れて「地には平和」と賛美した、と記した時、ルカはキリストの復活によって天地が終末に向かって動き始めていたことを喜んでいたと想像をめぐらすことができる。復活のキリストの言動を書き記している使徒言行録1章でも、ルカは昇天と再臨に触れずにはおかない(9~11節)。
 このように聖書を読むと、キリストの復活は,私たちに将来起こるべき恵みの数々の始まりであることがわかる。イエスの遺体がなくなっていた「空っぽの墓」から出るとき、私たちはそこに贖われた大宇宙への入り口を見る。エマオの先にあるのも、贖われた宇宙である。エマオの一室にしか復活のイエスを見ないものは第二戒(偶像を造るな)を破る者だ。キリストは、すでにこの時から、新しい地の再建を始めておられるのだから。復活のキリストこそ第二のアダムだ。この方は、この時すでに、1アサリオンで売られている2羽の雀(マタイ10:29)を知っておられたに違いない。マリアの目から、朝露のような涙を拭われたイエス(ヨハネ20:17)は、もともと野の花を着飾ることのできたお方なのである。私たちは、マリアが間違ってイエスを園丁だと思ったと言うが、実のところ、主は新しい地の園丁なのだ。
 私たちの生活を振り返って見ると、体は疲れ果てた兎のように、空しく、精気を失っているのではないか。しかし、イースターはそのような体を、もう一度しなやかな体に作り替えることができる。神は鹿のような足を与え(イザヤ35:6)、鷲のように飛びかける新しく若々しい力を私たちのものとしてくださる(同40:31)。情緒面でも元気になる。萎縮してしまった心はまた生気を取り戻す。私たちの目にキリストは喜びとなり、イースターには「緑はあなたのためだよ」と祝福してくださる。イースターには、金で舗装された通りの交差する広場にいるような気持ちになるだろう。これまでなかったような長期の休暇が空の墓のある庭で始まる。この墓から戻ってきた婦人たちは少しばかり若返ったように感じたのではないか。イースターには、呼吸することが、体の必要のためだけではなく、歓びの祝宴となる。
 さらに続けて O.イエガーは申します。大きな石が脇へ転がされたとき、顕わになったのは、イエスの墓だけではなかった。私たちの生活全体が同時にそこで顕わになったのだ。すべてがもはや見かけ上のことではなくなり、命を吹き返した信仰によって、私たちは新しい可能性と機会をそこかしこに見ることができるようになった。すべてを、死に至る事として見ないで、むしろ、神の心に導く事として見るようになるからだ。
 アテネには、年老いた者たちのための神殿があった。人々はそこに子供たちを連れて行った。これは良いことだと思った人が真面目な人たちの中にもいたようだ。若い時に、人生とは死に向かう行程に過ぎないことを知らせるためだ、と。一方、エルサレムの神殿は若者のために建てられていた。そこは、年老いたアンナが祈りの拠点としていたところだが、後には幼子イエスを迎える場所となる。アンナが神殿に入った時には、先ず顔を、日の沈む西方に向けて、生涯の終わりには自分も死ななければならないことを一瞬思ったかも知れない。神と会うことは死に直面することでもあった。しかし、死は、神殿に入る敷居以上のものではなく、そこから先には、真の命の始まりがある。実を結ぶ木や花に囲まれて、アンナは詩編 92:13~15 の なつめやしやレバノン杉のようになる。ひとたび神殿の中に入ると、彼女は、朝日を受けて、新緑の喜びへと導かれる。
 神に近くあることによって、私たちは、命は死の苦しみを経ても獲得する値打ちのあるものだと知らされる。
 
 以上は、Perry Recker が英訳して送ってくれた Okke Jager の A Green Easter を、私なりに、約3分の1に要約したものです。しかし、イースターの喜びを、終末論的&世界観的な拡がりの中で、改めて味わい知ることができるのではないでしょうか。思えば、日本キリスト改革派教会創立宣言(1946年4月29日、東京)が出たのも、イースターの季節でした。
 グリーン・イースター(緑の復活節)をあなたに! ハレルヤ!

(注) Perry Reckerは 、1988年4月(ちょうど、今頃の季節)、ピースボートで世界一周の途中、船が神戸に寄港した折に、私を訪ねてくれました。神戸市北区の春名純人教授(キリスト教哲学)宅に案内し(写真)、神戸改革派神学校では、チャペルトークもしてくれました。若いときの  P.R. です。同兄は、若い頃から  Calvin Seerveld(キリスト教哲学者、美学者)に師事し、その引退記念献呈論文集『ヨベルの誓い』(Pledges of Jubilee)の巻末には、全著作・講演の文献表を寄稿しています。トロントICSでは、Hendrik Hartのもとで、キリスト教哲学を専攻し、哲学修士、同教授の引退記念献呈論文集『応答性としての哲学』(Philosophy as Responsibility)にも、その著作・講演の文献表を納めており、今も、改革主義キリスト教信仰によって様々な奉仕と活動に従事している兄弟です。

 

矢内原忠雄「国家存亡の危機」

 
 この講演は、矢内原が、敗戦の翌年、1946年2月11日におこなったもので、解説を付して、ご紹介したいと思っていましたが、今回は、私のミスで、(同時期になされた矢内原の)他の講演(「日本の傷を医す者」)を入力してしまいました。次号に掲載します。

 

L. プラームスマ著

『キリストを王とせよ―アブラハム・カイパーとその時代―』

宮﨑彌男訳

ー第28号より続くー

第2章 試行錯誤:時代の神学 



合理主義

A.カイパー
 19世紀の前半、古い合理主義を代表する思想家の影響はまだ残っていました。もともと敬虔主義的であったハレ大学においては、ユリウス・ヴェグスハイダー(1771-1849)によって合理主義が説かれていました。1815年に出たその著書『キリスト教教義神学要綱』は8版を数え、当時の標準的な神学教本となりました。人間理性に対する単純素朴な信頼のゆえに、ヴェグスハイダーは、宗教改革の原理(キリストの恵みにより、信仰によって得られるあがない)に替えて、人間による自己贖罪の原理を説きました。キリストはその模範となられたというのです(注1)
 同じように、福音書の注解を書いたH・E・G パウルス(1761-1851)は、キリストの復活は、仮死状態の身体の覚醒に過ぎなかったと主張しました。また、キリストが湖面を歩かれたと言われているのは、実際には、湖岸を歩いておられたのだと主張しました。このような考えは、18世紀的な思惟の生みだしたものですが、19世紀の自由主義思想の背後になお残っていたのです。
 後でくわしく見るシュライルマッハーは、確かに、合理主義者と呼ばれることを喜ばなかったことでしょう。しかし、フォン・シュタイン男爵が、「教職の地位を解かるべき12名の合理主義者に対しては、強い処置が取られるべきである」との見解を公にしたとき、シュライエルマッハーは、公表された書簡の中で、自分は固定的教理条項を耳にして突然のように闇に囲まれ、自由な光に戻ろうと扉を探そうとする者」のように感じた、と告白しています(注2)
  1832年に、ヴァイマールの宮廷付牧師であった J.F.レールによって、のような合理主義的な信条が作られました。
 われわれが,最も完全な存在者、世界の創造者、賦与者、支配者として、また、人類の父として、心を尽くして礼拝すべき真の神がおられる。この礼拝は、第一義的には、徳と正直を求め、肉的情欲に対して良く戦い、iイエスの模範にしたがって生きる義務の遂行へとふさわしい献身を求めるものである。このように礼拝する者に、神は、世の様々な困難の中にあっても、父らしい助けを与え、道徳的に至らないところがあっても、恵みと
と憐れみにより、死後のより良い,祝福された命による慰めを与えてくださる(注3)
 同様の合理主義は,この時代のオランダにおいても,支配的でした。フルン・ファン・プリンステラは、次のように記しています。
 肉において啓示された神であるキリストは,他の被造物よりも高位の神的存在とされた。聖霊は神的力以外の何ものでもない。原罪とは,道徳的腐敗、弱さ、不完全さ、完全への可能性であった。仲保者の受難と死によって知ることができるのは、万人に対する神の普遍的愛の証明以外ではない。再生、回心、聖化は,道徳的向上、徳の実践の開始と成長に姿を変えた。また、天は、目立った大きな罪を犯さなかった者には,すべて開かれるようになった。(注4)
 カイパーは,後に、「オランダの諸教会を除き、すべての欧州教会を骨の髄まで凍らすことに成功した合理主義の呪い」について記すことになります。カイパーは,当時、ヴォウブルッヘのオランダ系スコットランド人の牧師で、時代の精神に抗っていた強固なカルヴィニスト、アレクサンダー・コムリーについて書いていましたので、オランダの諸教会の状況を例外にしたいと思ったようです。
(注5)。
 カイパーが合理主義のことを人を凍らせる冬の風に喩えたことは、正しかったのですが、彼は、オランダの状況を余りにも楽観主義的に捉えていました。なぜなら、コムリーや他の人たちの努力にも拘わらず、オランダの諸教会もそのような凍えから逃れることはできていなかったからです。


(注1)K. Barth, Die Protestantische Theology im 19. Jahrhundert (1947), pp.425-432.

(注2) K. Aner, Kirchengeschichte, Vol. IV (1931), p.158.

 (注3)  Aner, p. 155.
 (注4)  Versprede geschriften (1860), p.16
(注5)  A. Kuyper, "Alexander Comrie," in The Catohlic Prebyterian (1882).

【4月の活動報告】


4月5日(日)長野佐久教会(長野会堂)にて、「棕櫚の日曜日」受難週主日礼拝奉仕(マルコによる福音書11:1~11)「軍馬か、子ろばか―平和の福音―」。イエスは、軍馬ではなく、子ろばに乗って、エルサレムに入城された。このことによって、イエスは、ご自分が柔和で、謙遜な王であられることを示された。このような王による支配は、明治以来の「富国強兵」の国造りとは、相反するものと言わねばならない。この度のコロナウィルス禍による経済の落ち込みはどこまで進むのか。神はこのことによってわが国の「経済第一」の国造りを裁いておられるのではないか。むしろ、「柔和な人たちは幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」(マタイ5:5)と教えられた、貧しく質素でも、人を思いやる新しいライフスタイルを求めておられる。

 4月12日(日)長野佐久教会(佐久会堂)にて、イースター礼拝説教奉仕(マルコによる福音書15:42~16:8)「イースターの喜び」。マルコによる福音書の復活記事は、「恐ろしかったからである」との一文で終わっている。イエスが死者の中からよみがえられたというイースターのメッセージは、先ずは私たちの内に恐れを生み出すからだ。イースターの喜びは並大抵の喜びではない。それは、死をも命に変える喜びである。この復活信仰に生きるならば、どんなに難しい問題でも解決できる。ハレルヤ!主よ。
 
4月16日(木)新潟伝道所を含む多くの教会では、しばらくの間、コロナウィルス感染拡大防止のため、オンラインで在宅礼拝を守ることになったと聞く。そのようなこともあって、「ICS軽井沢文庫だより」をお送りしている数名の方々には、「軍馬か、子ろばか―平和の福音―」(受難週礼拝) および「イースターの喜び」(イースター礼拝) の説教原稿を送り、喜ばれた。



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        【ICS軽井沢文庫】

「ICS軽井沢文庫」は、日本におけるキリスト教有神的世界観人生観の研鑽と普及のために、2016年6月14日に、軽井沢町追分36-23に設置された文庫です。“ICSInstitute for Christian Studies)は、この文庫が、日本における (改革主義)キリスト教学術研修所(大学院)の設置を目指していることを告白するものです。また、最近は、日本におけるキリスト教政党立ち上げのヴィジョンも与えられつつあります。文庫設置の経緯については、「ICS軽井沢文庫だより」第1号(2016.6.14)をごらん下さい(ラベル「ICS軽井沢文庫だより」第1号をクリック)。シャーローム。


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