2017年6月20日火曜日

ICS軽井沢文庫だより NO.10

        「野の木々も手をたたく」

                ―創造啓示と聖書啓示―         宮﨑彌男



近くの御影用水にて
甲信地方も梅雨入り宣言がなされたようですが、まだ、雨がしとしと降り続いて湿っぽい「梅雨」といった季節感は沸いて来ません。私は、夏の暑さに弱いので、梅雨時(つゆどき)は好きな方なのですが、…。むしろ、今は、「季節感」といえば、「初夏」というのがぴったりなのかな?
 軽井沢は、今緑が満開、それも新緑の木々が勢いよく天に向かって、“待ってました”とばかり協奏曲を奏で、創造主なる神に向かって讃美の声を歌っています。わたしも、木々の讃美の歌に合わせて、イザヤ書55章12,13節を朗唱せざるを得ません。
「あなたたちは喜び祝いながら出で立ち、平和のうちに導かれて行く。
  山と丘はあなたたちを迎え、歓声をあげて喜び歌い、
  野の木々も、手をたたく。
  茨に代わって糸杉が、おどろに代わってミルトスが生える。
  これは、主に対する記念となり、しるしとなる。
  それはとこしえに消し去られることがない」。

(ICS修士論文)
 このイザヤ書の言葉は、わたしにとって思い出深い、大切な聖句です。1975年4月、トロントのICS(キリスト教学術研修所)において、修士論文を提出したのですが、その結びに掲げた聖句が、この箇所を含むイザヤ書55章8~13節だったからです。
M.Phil.証書
(1975.4.11)
わたしの修士論文は「禅仏教の基礎構造―即非の論理―」(Basic Pattern in Zen Buddhism--the Logic of Sokuhi)というものでした。これを開所(1967年)間もないカルヴァン主義哲学研修所に提出したのです。3名の教授たち( Dr. J.H.Olthuis, Dr. A.H.DeGraaf, Dr. H.Hart,)による審査に合格し、哲学修士証書を得ました。ちなみに、これは、開所間もない時の論文であったので、カナダ国認定の正式修士号ではありませんでしたが、同等の価値を持つものとわたしは思っています(注1)
 わたしは、仏教(真宗)の家で生まれ育ち、高校時代にキリスト教(改革派)に改宗したものですが、仏教については、一度も勉強したことがありませんでした。それで、カナダ留学中のことでありましたので、とにかく、英語でも読める鈴木大拙(Daisetsu Suzuki)の本でも読んで…、と思って選んだテーマがこの「即非の論理」だったのです。 
 当然のことながら、わたしの中には、イエス・キリストの福音伝道者としての強い召命感がありましたので、日本文化に深く浸透している禅的仏教思想の基本を学ぶことを通して、日本文化への福音的改革主義的アプローチを模索したいという願いがあったのです。
 上記の論文の主旨は、禅仏教が、鈴木大拙自身繰り返し言っておりますように、「即非の論理」を特徴とする宗教である、ということです。「色即是空」。哲学的には、「多即一、一即多」です。
 論文のまとめの部分より一部翻訳したものを以下にご紹介します。
 <禅仏教の基礎構造は、般若系大乗仏教より継承された、鈴木大拙のいわゆる「即非の論理」に見出だすことができる。…この「論理」(注2)によれば、実在は一であり(一元論)、一即多、多即一である。つまるところ、実在の多様性を一性に還元するものである。この「論理」は、聖書の光に照らして見れば、万物の意味をその確証的側面(注3)に還元することにおいて、被造物に対する神の律法の豊かな多様性を正当に評価しない。この意味において、禅仏教は、確証主義である。確証的側面が他のすべての側面の規範とされる。ここにおいては、「文化」が軽んじられるのではないが、確証的側面が「文化」の唯一の真の規範とされるのである。>

(聖書の「論理」)
 これに対して、聖書の教える「論理」は、「多における一、一における多」です。聖書の提示する世界観においては、統一性における多様性、多様性における統一性が強調されています。聖書の教えるところでは、すべての事物には意味があり、その意味は御言葉において啓示されているのです。例えば、当時、ある人たちが結婚を禁じたり、ある種の食物を断つことを命じたりしたことに対して、使徒パウロは、「神がお造りになったものはすべて良いもので、感謝して受けるならば、何一つ捨てるべきものはない。神の言葉と祈りによって聖なるものとされるから」と教えています。Cf.Ⅰテモテ4:3-5。
 さらに、パウロは、Ⅰコリント10:31で、「あなたがたは食べるにも飲むにも何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」と、基本的なキリスト者の生活原理を教えています。ここには、「食べること」や「飲むこと」といった私たちの生活体験の多様性が表されていると同時に、「神の栄光を現す」という私たちの「主な」 (一つの) 目的も提示されています (ウェストミンスター小教理問答 問1参照)。
 このように、現実の私たちの生活体験は多様な側面を持っていますが、それは、神の創造の御業の多様性によるものです。神の創造の御業の多様性について、旧約の詩人は、詩編104:24で、次のように証しています。「主よ、御業はいかにおびただしいことか。あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。地はお造りになったものに満ちている」と。「主の御業」は「おびただしい」のであるが、そのすべては「知恵によって成し遂げられた」と唱っているのです。神の創造の御業の多様性と統一性を見事に証している聖句です。私たちは神の創造の御業のすべてに神の知恵を見るのです。なぜならば、それらはすべて、知恵そのものであられる神の(創造)律法によって創造されているからです。

(創造啓示と聖書啓示)
 私たちの目を開き、このことに気づかせてくれるのは、聖書の御言葉です。私たちの本日のテーマに即して言うならば、それは、聖書啓示(文書化された神の言葉による啓示)によるのです。この聖書の御言葉を聞きまた読むことによって私たちは、神の創造の御業の全体が知恵によって成し遂げられたことを確かに知ることができるのです。この意味で、神の創造の御業の多様性と統一性は、聖書によって初めて知ることができる、と言えるのですね。
 創造啓示と聖書啓示は同じ主(三位一体の神)の御言葉です。それゆえに、この両者の間には、矛盾がありません。しかし、後者が人間の言語による啓示であるのに対して、前者は「被造物において知られる」(ローマ1:19,20)啓示ですから、相違点もあります。両者の共通性と相違性について、私のトロント時代の恩師、J.H.オルシウス教授は次のように言っておられます。
 <聖書はあがないの物語、すなわち、私たちの癒やしと教えのために、人間の言葉で記された神の言葉です。聖書は、…確証的・言語的側面に焦点を絞って、あがないの目的で語られた、神の言葉の再述/再宣布です。聖書は、神が始めに語り、今も引き続き語っておられること(「創造啓示」のことー宮﨑注)を、あがないのために、人間の言葉で語っているのですから、聖書の中心的メッセージは、あらゆる時代と場所におけるあらゆる生に対して直接的な関連性を持つのです。私たちがそういった直接的な関連性を知ることができるのは、メッセージの確証的な焦点から目を反らさず、その焦点に合った問いかけをするときです。そのとき、私たちは、聖書自身約束しているように、教え、戒め、慰め、励ます上で有益な文書として、現場で助けられ、諫められるのです。>(『究極性の解釈学』46頁、注4)。
 ここで、オルシウス教授は、聖書を「神が始めに語り、今も引き続き語っておられる」創造の御言葉の「再述/再宣布」であって、それは、「確証的・言語的側面に焦点を絞って、あがないの目的で」文書化されたもの、と定義しておられます。ここから、少なくともまずはっきりと教えられますことは、創造啓示と聖書啓示の啓示者は同一の主(三位一体の神)であって、両者をを切り離して考えてはならない、ということです。両者を切り離して、聖書を、創造啓示との関わりなしに読んだり、説教したりしたならば、それは、今日における私たちの生の諸問題に対して神の御心を告げる、救いのメッセージとはならないでしょう。また、聖書を読まず、また説教を聞かずに、創造啓示を尋ね求めようとしても、そこから人生を生きる真の「知恵」(詩編104:24)を得ることはできないでしょう(注5)。
 
 冒頭で、わたしは仏教(真宗)の家で育ち、高校時代にキリスト教(改革派)に改宗した、と申しましたが、それでも、小学校の理科や工作の時間はもちろんのこと、放課後にはあちこちで遊び回っていた、そのような時から、いつもこの神様の創造律法の下にあって、導かれ、守られていたのです。また、そのことにより、わが少年の日々を楽しんでいたのです。ただ、この律法の創始者であり、啓示者である父なる神・キリスト・聖霊を知らなかっただけのことです。聖書によってこのことを知った今、何という喜びと感謝を持って、この律法に従いつつ、生きるようになったことでしょうか。
 このように、聖書によって私たちは、創造律法と聖書の御言葉が同じ三位一体の神の言葉であることを知って、驚き感謝するものです。
 ただ神様に栄光がありますように。ハレルヤ!
 
(注1)この論文は英文で書かれていますが、関心のある方にはまだ5部ばかりコピーがありますので、郵送料(400円)ご負担いただければお分かちできます。
(注2)ここで言う「論理」とは、「思惟構造」のこと。
(注3)確証的側面(certitudinal aspect)・・・信仰的側面(pistic aspect or modality)とも呼ばれることがある。主体的機能としては、その主体を超越的世界に導き入れると同時に、生に統合性(インテグリティー)を与える。
(注4)Olthuis, James H., A Hermeneutics of Ultimacy: Peril or Promise? (Lanham, Md.:University Press of America, 1987)p.46.
(注5)ちなみに、創造啓示と聖書啓示の一体性に関するこの教えは、改革派教会の「創立宣言」第一点(有神的世界観人生観の確立)と第二点(聖書的使徒的教会の樹立)の関係を考える上でも、重要な視点を提供するものです。「創立宣言」第一点と第二点の関係については、以下をご参照ください。岩崎洋司「九州開拓伝道に寄せて」(日本キリスト改革派教会・中央宣教研究所『紀要』1982年10月15日、第八号、28~36頁)、宮崎弥男「改革派創立宣言の学び―第一点と第二点の関係―」(『リフォームド九州』1992年12月13日、第17号、7~9頁)。

※この度の「ICS軽井沢文庫だより」NO.10 は、6月始めに発行(公開)予定でしたが、パソコンの不具合等のため、遅れましたことをお詫びします。次号は8月始め頃の予定です。

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」
                   (使徒言行録1章8節)


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