2018年11月30日金曜日

「ICS軽井沢文庫だより」第20号

「“小さい秋”にも神の恵み」

宮﨑彌男



 紅葉の秋、落ち葉つもる秋、そして、干し柿。秋にも色々あるのですね。今年の発見です。それも、同じ秋の風情が、軽井沢だけではない、信州だけではない、海を越えた米国でも…。
 先日、かれこれ、60年も前に在学した米国のカレッジからグリーティング・カードが舞い込みました。それには、こう書いてありました。「次から次へと落葉し、寒さも日増しに加わる中、心からの挨拶をおくります」と。 
 この間の日曜午後、私たちの教会では、一ヶ月後のクリスマスに備えて、会堂内外の大掃除をしました。部屋の掃除やガラスふきに始まって、会堂外の落ち葉掻きまで。落ち葉は、風が強くて、掻いても掻いても、舞い上がるので、こんなことでは、明日の朝には、また元通りになってしまうね、などと言い交わしながらの作業でした。でも、「クリスマスの準備をする心が大切なのではないか…」と言い聞かせながら、どんどんと落ち葉を袋に詰め込むうちに、教会の庭は、結構きれいになっていました。
 
 12月2日~24日は、教会暦では、アドベント(待降節)です。クリスマスに向けて準備をする季節です。アドベントとは、ラテン語で、「来臨」を意味します。クリスマスの準備をしながら、同時に、キリストの二度目の来臨(「再臨」と言います)に備える祈りと修練の時なのです。
 
 母校からのグリーティング・カードに促されて、「ちいさい秋みつけた♪」を、スマホで検索し、YouTubeで、視聴してみました。この歌は、サトウハチロー作詞、中田喜直作曲の日本の童謡なのですが、関心を引かれたのは、ドイツのテルツ少年合唱隊の、美しい日本語による合唱でした。24件のコメントが寄せられていましたが、その中の一つ:「日本の秋の物悲しさを、ひとつひとつ言葉を大切にしながら歌ってくれていて嬉しい。改めていい歌だなと思えます。とても素敵でした!心に染み渡る」。他にも、「感動で涙が出ました」等、寄せられていました。
 確かに、童謡としては、よく聞いてみると、ちょっともの悲しいところのある歌ですね。でも、それは、間違いなく、秋という季節の深みから来る「物悲しさ」でもあるのでしょう。秋には、紅葉の季節が過ぎると、やがて、暗く、厳しい冬がやってくるという「物悲しさ」がつきものです。秋になると、「ちいさい秋みつけた♪」を歌いたくなるのは、そのためでしょう。そして、この“小さい秋”は、ドイツも米国も日本も、文化を越えて、私たちの感じる「秋の物悲しさ」なのかも知れません。
 
 しかし、私たちは、「地の続く限り、種蒔きも刈り入れも、寒さも暑さも、夏も冬も、昼も夜も、やむことはない」と仰せになった「ノア契約」(創世記8:22、「ICS軽井沢文庫だより」19号参照) を思い起こすとき、“小さい秋”にも、神の恵みの落ち着いた輝きを見ることができるのではないでしょうか。なぜなら、秋の終わりと共に、アドベント(待降節)が始まるからです。待降節の御言葉は告げます。
  
     「(生まれ出る幼子は)主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである
   。これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所から
   あけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、
   我らの歩みを平和の道に導く」 (ルカによる福音書1:78,79)。


 
夜の後に、必ず朝が来るように、秋の終わりと共に、必ず、アドベントの季節がやってきます。クリスマスは間近なのです。主を待ち望め!諸国の民よ!ハレルヤ!

【バルソロミュー & ゴヒーン著

『ドラマとして読む聖書物語』について】

 
 今年の4月に教文館より出版しましたウォルタース著(拙訳)『キリスト者の世界観―創造の回復』(増補改訂版)は、売れ行きもよく、各方面で用いていただいています。現在、私の手元に、まだ40冊ばかり、在庫がありますので、ご希望の方は、ご一報ください)。この本の「増補改訂版への序文」(P. 8)に、著者ウォルタースが、「この改訂版は、クレイグ・G・バルソロミュー&マイケル・W・ゴヒーン著『ドラマとしての聖書―聖書物語における私たちの役割』(The Drama of Scripture:Finding Our Place in the Biblical Story [Grand Rapids:Baker, 2004])と併せて読んでくださると良いでしょう」と言っています。『キリスト者の世界観』の言わば、姉妹編(companion volume)として読むと良い、と推奨しておられる本です。以前に、原著を取り寄せて読んだとき、1,2の方と手分けして翻訳を考えたこともあったのですが、その後、頓挫していたのです。今回、読み直してみると、実に良い本で、今の日本の教会にとって必要な書物であると思うようになりました。それで、先ずは、毎月のこの「ICS軽井沢文庫だより」で、部分的に翻訳、紹介しながら、どういう形で出版ができるのか、考えて行きたいと思っています。
 今回は、終わりの方に出てくる(第5幕「王の福音を広めるー教会の宣教使命ー」の締めくくりの部分)「希望に生きる」を以下に訳出、掲載します。アドベントの季節にふさわしいと思ったからです。

「希望に生きる」―前にあるものに向かって全身を―

 聖書によって私たちは、「すべての者がひざをかがめ、…すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえる」日が来ることを知らされています(フィリピ2:10-11)。私たちは、また、被造世界の全体が回復する日が来ることも知らされています。それで、私たちは、希望を持ってその日を待ち望むのです。私たちの人生を福音の土台の上に深く据え、今日の時代においても、自分たちの置かれている場所で神のご支配を証しようと努めるのです。私たちは、前にあるものに向かって全身を伸ばすのです(3:13-14)。
 希望はなくてならないものです。それは、今日における私たちの宣教的使命を形成すべき信仰の生命的部分です。「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る」(Ⅰコリント13:13)とパウロは言っています。信仰とは、イエス・キリストによって成し遂げられた救いを、自分自身のものとする手段です。は、その信仰を外に向かって表現します。愛は、信仰共同体の生命そのものです。そして、希望は、神の国が将来必ず実現する、との確かな期待です。それは、将来への揺るぐことのない確信であって、今の生活に意味と形を与えるものです。私たちは、このことを日常生活の多くのことにおいても知ることができます。例えば、将来医師になりたいとの希望を持って大学に入ったならば、その希望は、あなたの生き方を決めることとなります。コースの選択だけではなく、学びに必要な時間と努力(とお金)を決定づけることともなります。このように、将来に対する希望の故に、あなたの生き方の全体が新しい形を帯び、新しい焦点を持つようになるのです。
 神の御国の現れについてのキリスト者の究極の希望についても、スケールははるかに大きいのですが、同じことが言えます。レスリー・ニュービギンの言葉で言えば、「歴史的に意味のある行動は、将来の目標について何らかのヴィジョンがある時にのみ可能なのです」(『多元社会における福音』114頁)。歴史はどこに向かっているのか、についてあなたと私がどう信じているのか、それが今日の私たちの生活に特別な意義と形を与えるのです。もし私たちが、来たるべき神の国がどのようなものか、今の世に証しすべく召されているのであれば、そのような御国の到来についての希望は、私たちが今ここで言うこと、なすことの一切を決めることとなります。もし私たちが、自分たちの宣教の働きの中で、イエスの伝道生涯に学び、その御言葉といつも前向きのそのお働きによって刺激を受け、前に向かって押し出されるのであれば、同時に、私たちは、やがて来たるべき御国がイエス再臨時に現実となる!大いなる望みへと、前に向かって引かれるのです。
 このように考えると、私たちが、特に何を待ち望んでいるのかは非常に重要なことがわかります。にもかかわらず、私たちはしばしば、キリスト者として持っている希望の内容、すなわち、歴史はどこに向かっているのかについて、はっきりとした関心を示そうとしないところがあります。私たちの希望がどのようなものか、について常に注意深く吟味することがないので、その内容が必ずしも聖書的とは言えないものとなってしまうことにもなりかねません。―これは、重大な影響を及ぼします。なぜなら、(これまで見たように)私たちが将来に何を望むかは、今日における私たちの宣教に形を与えるからです。聖書は、歴史の終り、すなわち、宇宙的ドラマの結末についてどう教えているのでしょうか。このような問題について、私たちは、続く最終幕において、見ることにしましょう。

(コメント)

「希望の内容」については、「ウェストミンスター大教理問答」90は次のように言っています。
 問90 審判の日に、義人には何がなされますか。
 答 審判の日に、義人は雲に包まれてキリストのもとに引き上げられ、その
  右に置かれ、そこで公に受け入れられ、無罪を宣言され、捨てられた御使い
  と人間をキリストと共に裁き、天に受け入れられ、そこで彼らは全面的に、
  また、とこしえに罪と悲惨そのものから解放されます。そして、考えも及ば
  ない喜びに満たされ、無数の聖徒や聖なる天使たちの集まりの中で、しかし、
  特に父なる神と私たちの主イエス・キリストと聖霊とをいついつまでも直接
  に見て、満ち足りて喜ぶことにおいて、体と魂の両面で、完全にきよく幸せな
  者とされます。これこそが、復活と審判の日に、見えない教会の会員が栄光に
  おいて享受する、キリストとの完全で満ち足りた交わりです(宮﨑彌男訳)。
 
 この「ウェストミンスター大教理問答」90について、石丸新先生は次のように言っておられます。
 「(ウェストミンスター大教理問答)信仰編の最後を飾る問90の答えから、どれほど大きな慰めを受けてきたことでしょうか。最後の審判の日になされることが余すところなく列挙されているばかりでなく、贖いの御業の完成が幾つもの要素をシンクロナイズさせる形で生き生きと描き出されています。最終的には、希望と喜びへと信徒を励ますものとなっています。本問にまさる告白は他になかったし、これからもおそらく無いでしょう」。(「ウェストミンスター大教理問答から受けてきた恵み」『ヴェリタス』2012.5.20、p.2、下線ー宮崎)
 

【11月の活動報告】

11月11日(日) 長野佐久教会(佐久会堂)にて説教奉仕(ヘブライ11:23~28)。

11月12日(月)「うぐいすの森」に佐々木弘幸牧師ご夫妻を訪ねる。埼玉、山梨で伝道・牧会されたが、事故にあって大けがをされ、今は「うぐいすの森」の山荘「慰留恵」(イルエ「備えあり」、創世記22:14) に住んでおられる。いろいろお話を聞かせていただき、主にある交わりを深めることができた。

11月16日(金) 銀座で、日本聖書協会の島先克臣師と会い、夕食を共にする。「聖書協会共同訳」の仕事を終えられたばかりであったが、救いを創造の回復/完成として、社会・文化的広がりの中で捉える改革主義的な福音理解が N・T ・ライトの著作等を通して福音派の中にも浸透しつつあること等、色々と情報交換することができた。『ドラマとして読む聖書物語』の翻訳出版の可能性についても話し合ったが、同師は、すでに、別途、同種の手引き書を作成中とのこと。いずれにしても、改革主義的な視点に立つ文書の出版/普及のため互いに協力し合いたい。


11月30日(金) 第3回信州神学研究会、 於・佐久会堂。発題:「ユダヤ教とカルヴィニズム」(牧野信成牧師)。6名出席。大変興味深く重要な発題講演で、ミシュナー、タルムードが読みたくなった。



「ICS軽井沢文庫だより」の印刷のために

「ICS軽井沢文庫」<ics41.blogspot.jp>を開き、ラベル「ICS軽井沢文庫だより」第20号を選択します。次にパソコン右上のオプション設定のマーク(縦3つ)をクリック、印刷を選択する。左欄のオプションを両面印刷にし、詳細設定の中の倍率を150背景のグラフィックもオンにしてください。印刷ボタンを押すと OKです。同様に、他のすべてのラベルも、選択して、印刷することができます。



【「ICS軽井沢文庫」】

「ICS軽井沢文庫」は、日本におけるキリスト教有神的世界観人生観の研鑽と普及のために、2016年6月14日に、軽井沢町追分36-23に設置された文庫です。“ICSInstitute for Christian Studies)は、この文庫が、日本における (改革主義)キリスト教学術研修所(大学院)の設置を目指していることを告白するものです。文庫設置の経緯については、「ICS軽井沢文庫だより」第1号(2016.6.14)をごらん下さい(ラベル「ICS軽井沢文庫だより」第1号をクリック)。


【連絡先】

389-0115長野県北佐久郡軽井沢町追分36-23 宮﨑彌男・淳子

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2018年11月27日火曜日

「希望に生きる」

「希望に生きる」―前にあるものに向かって全身を―

C・バーソロミュー & M・ゴヒーン、宮﨑彌男訳『ドラマとして読む聖書物語』p.206

 聖書によって私たちは、「すべての者がひざをかがめ、…すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえる」日が来ることを知らされています(フィリピ2:10-11)。私たちは、また、被造世界の全体が回復する日が来ることも知らされています。それで、私たちは希望を持ってその日を待ち望むのです。私たちの人生を福音の土台の上に深く据え、今日の時代においても、自分たちの置かれている場所で神のご支配を証しようと努めるのです。私たちは、前にあるものに向かって全身を伸ばすのです(3:13-14)。
 希望はなくてならないものです。それは、今日における私たちの宣教的使命を形成すべき信仰の生命的部分です。「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る」(Ⅰコリント13:13)とパウロは言っています。信仰とは、イエス・キリストによって成し遂げられた救いを、自分自身のものとする手段です。は、その信仰を外に向かって表現します。愛は、信仰共同体の生命そのものです。そして、希望は、神の国が将来必ず実現する、との確かな期待です。それは、将来への揺るぐことのない確信であって、今の生活に意味と形を与えるものです(注70)。私たちは、このことを日常生活の多くのことにおいても知ることができます。例えば、将来医師になりたいとの希望を持って大学に入ったならば、その希望は、あなたの生き方を決めることとなります。コースの選択だけではなく、学びに必要な時間と努力(とお金)を決定づけることともなります。このように、将来に対する希望の故に、あなたの生き方の全体が新しい形を帯び、、新しい焦点を持つようになるのです。
 神の御国の現れについてのキリスト者の究極の希望についても、スケールははるかに大きいのですが、同じことが言えます。レスリー・ニュービギンの言葉で言えば、「歴史的に意味のある行動は、将来の目標について何らかのヴィジョンがある時にのみ可能なのです」(注71)。歴史はどこに向かっているのか、についてあなたと私がどう信じているのか、それが今日の私たちの生活に特別な意義と形を与えるのです。もし私たちが、来たるべき神の国がどのようなものであるかを今の世に証しするように召されていると知るのであれば、そのような御国の到来についての希望は、私たちが今ここで言うことなすことの一切を決めることとなります。もし私たちが、自分たちの宣教の働きの中で、イエスの伝道生涯の言葉と働きに見る刺激と前身運動によって、前に向かって押し出されるのであれば、私たちは、また、やがて来たるべき御国がイエス再臨時に現される!その望みに満ちた期待へと、前に向かって引っ張られるのです。
このように、私たちが、特に何を待ち望んでいるのかは非常に重要なことなのです。にもかかわらず、私たちはしばしば、キリスト者として持っている希望の内容、すなわち、歴史はどこに向かっているということについて、はっきりとした関心を示そうとしないところがあります。私たちの希望がどのようなものか、について常に注意深く吟味することがないので、その内容は常に全く聖書的とは言えないこととなってしまうのです。―これは、重大な影響を及ぼします。なぜなら、(これまで見たように)私たちが将来に何を望むかは、今日における宣教に形を与えるからです。聖書は、歴史の終り、すなわち、宇宙的ドラマの結末についてどう教えているのでしょうか(72)。このような問題について、私たちは、続く最終章において、検討を加えることにします。

2018年11月1日木曜日

「ICS軽井沢文庫だより」第19号

希望に生きる私たち

―動物たちと共にー

宮﨑彌男


16才頃のモモ
私どものモモちゃん(雌の柴犬)が、昨年のお正月に17才でなくなったことは、「ICS軽井沢文庫だより」No.6で報告しました。あれから1年と9ヶ月が経ちました。モモちゃんの死後は、わが家のはす向かいに住む千葉さんちの柴犬ベルちゃんがずっと頑張って,私たちが出て行くときには見送り、帰ってくると出迎えてくれていたのですが、だんだんと弱り、2,3日前から、鳴き声がばったりと聞こえなくなったので、訪ねてみるとやはり20年ばかりの生涯を閉じたとのこと。亡くなってからの数日は、仕事も手に付かず、フード皿もそのままにしていたと、千葉さん、淋しそうに話しておられました。追分も、また一つ淋しくなりました。
 今の時代、私たちの多くにとって、ペットはなくてはならない存在になりつつあるようです。犬や猫も、今は長生きするようになっていて、15年も20年も一緒に過ごしていると、家族の一員のようになると言っても過言ではありません。
 
 これは、犬や猫だけの話ではありませんが、エデンの園の昔から、動物たちは、私たち人間のコンパニオンでした(旧約聖書・創世記2:18-20)。しかし、初めの人アダムにとっては、「ふさわしい助け手」(新改訳聖書、創世記2:18)とはならなかったので、主は、エバをお与えになったとのことです。
 以上は、創世記1,2章の教える動物の創造物語ですが、その後、3章まで読み進みますと、アダムとエバ夫妻が蛇(サタン)の唆しに負けて罪を犯したため、その結果が動植物を含む被造物の全体に及んだことが記されています。アダムの罪のために「土はのろわれたものとなった」(3:17)のです。この場合の「土」は、直接的には、人の食べ物となる「野の草」を生じさせる土壌を指している(13節参照)のでしょうけれども、さらに広く、被造物の全体が、アダムの罪の故に「のろわれたものとなった」と読むことができるのではないか。使徒パウロの言葉を用いて言えば、アダムの罪の結果、「被造物は虚無に服し」、「うめき苦しむ」ようになったのです(新約聖書・ローマの信徒への手紙8:20,22)。しかし、このことは、「自分の意志によるものではなく」、人の罪によるものでありますので、被造物には、「いつか滅びへの隷属から解放されて,神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれる」との「希望」がある、とも同じ所でパウロは言っています(20,21)。

 この「希望」の実現する終わりの日の情景について、イザヤ書11章(クリスマス前のアドベントの季節に教会でよく読まれる旧約聖書の預言)では、次のように描写しています。
 「狼は小羊と共に共に宿り、
  豹は子山羊と共に伏す。
  子牛は若獅子と共に育ち、
  小さい子どもがそれらを導く。
  牛も熊も共に草をはみ
  その子等は共に伏し、
  獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
  乳飲み子は毒蛇の幼子は穴に戯れ、
  幼子は蝮の巣に手を入れる。
  わたしの聖なる山においては、
  何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。
  水が海を覆っているように、
  大地は主を知る知識で満たされる」。
何と平和な情景でしょうか。人と動物は主の恵みの内に,共に仲良く生きているのです。

「箱舟に乗り込む」(金斗絃作)

 このような、人と動物との間の平和な関係は、聖書によれば、大洪水の後、主がノアと結ばれた契約(「ノア契約」)に基づいているのです。このノア契約については、創世記6~9章を参照。人が余りにも悪くなってしまったので、主は地上に人を造ったことを悔い、全地を覆う大洪水を起こして、地とその中にあるすべてのものを滅ぼそうとされます。しかし、義人ノアとその家族だけは救われました。大きな箱舟を造らせ、その中に入らせて、お救いになります。また。そこには、雌雄一つがいずつの動物も入らせて、絶滅を逃れさせられます。
 
 ノアとその家族、並びに箱舟に入って救われた動物たちを除くすべての生き物は、この洪水によって滅びたのですが、箱舟から出たノアが神を礼拝し、「焼き尽くす献げ物」を献げたとき、その香ばしい香りをかいでこう言われた、と聖書は記しています。
  「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いとき
   から悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、
   二度とすまい。
    地の続く限り、種まきも刈り入れも、
    寒さも暑さも,夏も冬も,
    昼も夜も、やむことはない」(創世記8:21~22)
 このように、神は「二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない」(同9:11)と誓われ、そのしるしとして「雲の中にわたしの虹を置かれた」(同9:12~17)とのことです。(注1)
 
 この「ノア契約」は、今日に到るまで有効な神の「永遠の契約」です。このことについて、私たちの先輩・改革派神学者、A・ カイパーの次の言葉に耳を傾け、しっかりと心に留めたい。「神がノアおよびその子孫等に対して立てられた契約は,あなたと私に対しても立てられており、さらには、今いのちの息を持つすべてのものに対してもうち立てられているということ、そして、それゆえに、ノアの時代に現実となった状況は、今の私たちの生活においても現実を支配しているということである」(注2)
 このように思いを馳せるとき、ノア契約は、最初に述べたモモちゃんやベルちゃんの生死と決して無関係ではなく、私たちに深い慰めを与える神の永遠の契約であることを知るのです。彼らの生涯と死は,私たちに喜びと悲しみ/暖かさと淋しさを与えるものですが、そのすべては、神の恵みのご支配の下に置かれていたことを覚えたいです。
 
 動物たちは、人間の罪故に、今も確かにうめき苦しんでいます。私たちは、災害時に置き去りにされる家畜やペット、さまざまな形で行われている虐待の現実など、見聞きする度に心を痛めます(注3)。そのような中で、私たちは、始祖アダムにおいて犯した人類の罪を取り除くために十字架にかかられたキリストのあがないの御血潮を思わざるを得ないのです。彼ら、動物たちもこのキリストの故に「希望」を持っているのです。私たちも日々この希望に生きる者となりたい。ハレルヤ!

(注1)私たちの先輩・オランダの神学者、アブラハム・カイパーは、その『共通恩恵論~堕落した世界への神の贈り物~』(1902年、『一般恩恵論』と訳されることもある)をノア契約の解説から始めていますが、その冒頭において,次のように述べています。
 「敬虔な神の子等も含め、多くの人は虹を見ても,感嘆はしても、そこに表されている神の契約を知ることがない。しかし、実は、この契約にこそ彼らは聞くべきなのである。だから、私たちはもう一度、ノア契約の大きな意義をもっと明確に理解することから始めなければならない。この契約は,今一度私たちのために息を吹き返して、語りかけ、私たちを支える神の恵みの重要な構成要素とならねばならない。
 その場合に、先ず第一に知らなければならないことは、神がノアと立てられたこの契約は、聖書において、決して補助的な事柄として扱われてはおらず、また、単に二次的な重要性を持つものでもない、ということである。むしろ、ノア契約の締結は,楽園での契約やアブラハム契約の締結と比べ、より厳粛、より包括的、より詳細に陳べられている。この契約の締結については、間接的に陳べられているのではなく、契約の締結そのものが歴史的な出来事として、物語の中に含まれているのである。主なる神が語り、誓われたことが詳細に語られている。そして、雲の中に現れるしるしをもって締めくくられるのであるが、この聖なる契約のしるしこそ、世々に亘って、ノア契約の信頼性と真実性を証することになる。
 このように、主なる神が聖書を教会にお与えになったとき、このノア契約を覚えることをすべての時代の教会に求められたことは明らかである。神はご自身の教会のためにこの出来事を細部に至るまで厳かに認知された。また、同時に、世々の教会がこの契約の重要で豊かな内容をしっかりと心に留めるよう求められた。われらの『ハイデルベルグ信仰問答も』もこのことをよく理解しており、神の摂理について「木の葉も草も、雨もひでりも…すべてが偶然によることなく、父親らしい御手によってわたしたちにもたらされるのです」(27問の答)と語るとき、おそらく、この言い回しは「地の続く限り、種まきも刈り入れも、寒さも暑さも、夏も冬も、昼も夜も、やむことはない」との創世記8:22の御言葉から採られたのであろう」。(『共通恩恵論』Ⅰ、p.11、宮崎訳)
(注2)『共通恩恵論』Ⅰ、p.39。
(注3)『週刊金曜日』2018年8月24日、1197号、特集「動物愛護管理法を考える」等、参照。


【9,10月の活動報告】


9月9日(日) 長野佐久教会(佐久会堂)にて説教奉仕(ヘブライ11:20~22)。

9月26日(水) 信州神学研究会、 於・ICS軽井沢文庫・会議室。上田市在住の引退教師、長田秀夫先生が「異教徒の中でのキリスト教葬儀」と題して発表された。これからの日本伝道において、キリスト教葬儀の持つ重要性について認識させられた。次回のテーマは、「カルヴィニズムとユダヤ教」(発表:牧野信成師)で、11月30日(金)午前10時~12時、開催、於・佐久会堂。

10月2-4日(火-木) 「恵みシャレー軽井沢」で行われた JCC (現TCU)の同期会(家内が世話役)に、1日だけ出席、良い交わりをいただいた。特に、旧知の高山清彦師(片倉キリスト教会)と同部屋で、夜遅くまで語り合った。この方は、JCC在学中に,渡辺公平先生から弁証学やキリスト教哲学を学ばれたとのこと。また、団らん時には、ウォルタースの『キリスト者の世界観』(増補改訂版)の意義について話すことができた。

10月8-10日(月-水) 横浜関内で開催された日本キリスト改革派教会定期大会に一部出席、会議を傍聴した。『キリスト者の世界観』(増補改訂版)の販売が一つの目的であったが、今回は、14冊が売れただけだった。しかし、二日間、議事の合間に多くの若い先生方や長老方と再会を喜び、交わりを深めることができた。新議長には、草加松原の川杉安美先生が選ばれた。

10月14日(日) 上諏訪湖畔教会にて説教奉仕(ヘブライ11:8-12)。篠ノ井で特急しなのに乗り換え、中央線で上諏訪へ。初めての礼拝奉仕である。翌週の10月21日には創立70周年記念礼拝を守られるとのことだったので、70年に亘る伝道の労苦を感謝の内に覚えつつ、アブラハムの信仰に学んだ。

10月23日(日) 甲信地区教師会、於・佐久会堂。昨年から、甲信地区の引退教師も,この教師会に参加させていただいている。今回は,わたしが「“生涯現役”~教師・長老・信徒として~」と題して、発題した。名著『政治規準の学び』 p.65において、宮田計先生は,「教師終身制」について論じ、ヨハネ21:15~17、Ⅰコリント9:16,17、使徒15:26等々を引きながら、それが聖書的な教えであるとしておられる。

※本「ICS軽井沢文庫だより」第19号は、筆者の日程上の都合等により、1ヶ月遅れとなりました。お詫びします。おゆるしください。―宮﨑彌男―

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