2017年11月30日木曜日

「ICS軽井沢文庫だより」NO.13

「キリストの王権にひれ伏して」

宮﨑彌男

 薄化粧
(はじめに)
 11月21日(火)の早朝、起き出して窓の外を見ると、夜の間に雪が降ったのでしょうか、文庫の屋根は真っ白、辺りの木木も薄化粧をまとっていました。早いなぁ!まだ11月もやっと終盤というのに、もう雪ですか。
 今年は、全国的にカメムシが多く、カメムシが多く出る年は大雪となるという地方の言い伝えもあると、ラジオで言っていましたが、実は、この秋、我が家でも、カメムシくん、例年になく賑やかだったのです。この分で行くと、この冬は雪が多くなりそうです。“楽しみ”というか、“うんざり”というか?!皆さんはどうですか。そこで、思い出したのは、ドイツ生まれの讃美 “Shonster Herr Jesu”(「イエスきみはいとうるわし」)です。熊本伝道の折り、県立劇場で聞いたウィーン少年合唱団によるこの歌の素晴らしさが未だに忘れられません。
 初雪のあった晩秋にふさわしい歌と思いますので、日本語訳讃美歌(166番)全文を巻頭に掲げます。
 
 イエスきみは いとうるわし、あめつちの主なる
   神の御子、人の子を、なににかはたとえん。
 春のあさ 露ににおう 花よりうつくし、
   秋のよる 空に澄む 月よりさやけし。
 夏のゆう 青葉わたる 風よりかぐわし、
   冬の日に ふりつもる 雪よりきよけし。
 イエスきみは いとうるわし、あめつちの主こそ
   わがさかえ、わがかむり、わがよろこびなれ。

 11月11日(土)には、トロント近郊のオークヴィル市で、ICS開学50周年の式典・祝賀会が行われました。と言っても、私が出席できたわけではなく、祝文のメールを送っただけなので、残念ながら何も報告できないのですが、私なりに、50周年を記念して、ICSの依って立つ「基本信条」(通常、「教育信条」と呼ばれています)の日本語訳を思い立ち、ここに掲載することにしました。

(そのまえに) 

 よく、ICSって何ですか、と訊かれますので、今一度、一言だけご紹介しておきます。
 ICS(Institute for Christian Studie)は、北米大陸にカイパー流のキリスト教総合大学(注1)を設立することを目的として、ちょうど50年前の1967年10月に、カナダのトロントで始められた大学院レベルの研究・教育機関です。この50年間に多くの研究者を、哲学、神学、政治学、教育学、美学、心理学、歴史学等の諸分野において集め(注2)、「聖書に導かれた学問」Scripturally-directed learning の研鑽・展開・普及に従事してきました。現在、ここで学んだ者は、Master of Arts(MA)、Master of Worldview Studies(MWS)の学位を得ることができ、2005年以降は、PhDも取得可能となりました。卒業生は、キリスト者でありつつ、大学教授、教師、牧師、政治・社会活動家、カウンセラー、美術・音楽家等々として、社会の諸分野において活躍しています(詳しくは、www.icscanada.edu/をクリック)。私自身も、1972-75年、日本キリスト改革派教会の教師としてICSで学ぶ機会が与えられ、M.Phil.の証書certificateを得て帰国、以来40数年、伝道・牧会に従事して来ました。引退教師となった今も、ICS軽井沢文庫」ics41.blogspot.jpを立ち上げ、改革主義哲学・神学の研鑽と普及に努めています。改革主義哲学 Reformational Philosophy(「法理念哲学」Philosophy of Law-idea とも呼ばれます)の文献については、www.allofliferedeemed.co.ukを、ぜひ検索(クリック)してみてください。

(ICSの基準および教育信条)

前文
ご自身の栄光のために万物を創造し、人がその法に背いた後には、御子イエス・キリストを遣わすことにおいて完全に示された赦しの愛を宣言された三位一体の神に依り頼むへりくだった思いをもって、私たちは、私たちにふさわしくないご好意への感謝から、私たち自身とすべてのものを献げよとのご命令に服しつつ、ここに示す原理と規定に従って、聖書に導かれた学問推進のための協会を設置する。この目的のため私たちは願い求める。神が恵みにより、今も将来も、私たちの使命遂行のため、心と知性の特別な賜物と、この働きをなすための手段とを有する男女を備え、常に御自身の栄光と神の民、とりわけカナダとアメリカ合衆国の神の民の救いのために、私たちの協会を祝福してくださるように。そして、またそのことによって彼らが両国とその全ての住民にとっての祝福となるように。

目的
この協会の目的は、聖書に導かれた学問の進展に寄与すると思われるすべての活動を行い推進すること、とりわけ、キリスト教主義大学を設置し、運営し、発展させること、また、これらの諸活動により、神の言葉がその全き力をもって生の全体に亘って意味あるものとなるように、男女を整えることにある。

基準
この協会の至高の規準は、私たちがプロテスタント宗教改革の歴史的諸信条の意味において神の言葉と告白する旧新両約聖書である。

教育信条
聖書は、教育にとって非常に重要ないくつかの基本的原理を教えていると信じるがゆえに、私たちは告白する。
生…人間の生は、その全体において宗教である。それ故に、学的研究は唯一の真の神への奉仕か、さもなくば、偶像への奉仕かどちらかである。
聖書…記された神の言葉である聖書は、神と私たち自身と創造の構造を教えることにおいて、完全で活きた神の言葉また力である。この御言葉により、御霊を通して神は私たちを真理へと結びつけ、真理の内に照らし出す。この真理とはキリストである。
キリスト…受肉した神の言葉である聖書のキリストは、私たちの生全体の、また、それ故に、私たちの理論的思惟の全体をも含む、贖い主・更新者である。
実在…神の創造による全実在の本質また核心は、キリストにある神と人との契約による交わりである。
知識…真の知識は真の宗教によって可能となり、神の言葉を通して、聖霊により照明された人間の心の認識活動によって起こる。それ故、私たちの日常的経験および学的な課題を理解する上で、決定的な役割を果たすのは宗教である。
学問…(a)研究者共同体において絶えざる研鑽に励むことは、文化命令に対する神の民の従順で感謝に満ちた応答として本質的な重要性を持つ。研究者の使命は、創造の構造を学的に究明し、それによって共同体全体の日常的経験により有効な指針を提供することである。(b)堕落後の世界に対する神の保持恩寵の故に、神の言葉を生の指針原理として受け入れない者たちも、共通の実在構造に対して多くの価値ある洞察を与えてくれる。にもかかわらず、生における中心的宗教的反定立はなお残っている。それ故に、私たちは、聖書に導かれた思想と他のどのような思想体系との折衷の可能性を認めない。
学問の自由…学問は、人間生活を支配する神の言葉と神の諸法に対する、神与の、完全かつ自発的な服従においてなされなければならない。研究者の責任ある自由は、教会・国家・企業その他のいかなる社会組織によるどのような抑制や支配からも、保護されなければならない。
まとめ…神のご命令に対する信仰の従順を持ってなされるすべての学問は、神の言葉の規範的指針に聴従し、全被造物がその全領域において服している神の法を認識し、すべての学問的な働きに対するキリストの王権にひれ伏す。

(解説)
 上記、トロントICSの「基準および教育信条」は、私どもが主にあって設立を願っているJICS(日本キリスト教学術研修所)の基本信条をやがて考える時の参考、むしろモデルとなります。特に、三つの点にご注意ください。
 (1) 生の全体が宗教
 この教育信条の「生」の項に、「人間の生は、その全体において宗教である」(That human life in its entirety is religion.) と告白されています。これは、ICS設立の背後にあって最も大きな力となったカルヴィン大学の哲学教授、Dr.  H. Evan Runner 先生の言葉ですが、神戸改革派神学校の前身、神戸神学校の S. P. フルトン校長の有名な言葉、「私にとっては、神学とは私の宗教である」を思い起こさせます。学問も含めて、人生とは「神の前に」(Coram Deo)に生きること、とする敬虔において共通していますが、この教育信条においては、「まとめ」の項で、「… 全被造物がその全領域において服している神の法を認識し、…」と言っているように、神と被造物の間に定められている創造の「法」を認識することの重要性を告白しているところに特色があります。この創造の法は、「聖書」と「学問」の項では、「創造の構造」と言い替えられています。(A・ウォルタース著、拙訳『キリスト者の世界観―創造の回復』特に、第二章「創造」と第五章「構造性と方向性をわきまえる」 を参照)。
 (2) 保持恩寵と反定立
 「学問」の項( b)に、「保持恩寵」(preserving grace)と「反定立」(antithesis)のことが出てきます。前者は、「一般恩恵」(common grace)とも呼ばれる聖書的教理(マタイ5:45、使徒14:17等参照)で、神が民族や宗教を越えて、すべての人とその文化に恵みの支配を及ぼしておられる、と告白するものです。この信仰告白に立てば、キリスト教伝来以前の日本の歴史も、聖書啓示の光の下で調べることができます。
 他方、「反定立」とは、カイパーの好んで用いた用語で、真の神とその御言葉の規範性を受け入れる者と、そうでない者の間には、生き方の霊的方向性に違いがあるので、折衷なしには共同の営みができない、とするものです。この両者の関係をどのように考えて行くかが私たちの課題です。 
 (3) キリストの王権にひれふす
 「教育信条」は、「…すべての学問的な働きに対するキリストの王権にひれ伏す」という言葉で結ばれています。私たちの生き方の基本姿勢は、神の子キリストにひれ伏すか、神ならぬ偶像にひれ伏すか、いずれかです(「十戒」の第一戒、ウ小教理45-48参照)。学問的な働きにおいて、私たちは、「理性」こそが絶対規準であると思っているかも知れませんが、その前に私たちはキリストの王権にこそひれ伏して、その御言葉である聖書に導かれつつ、神の法(構造)を探索すべきなのです。
 来たるべきクリスマス、私たちは王としてお生まれになったキリストにひれ伏す所から、生きる姿勢を正し、キリストによる大いなる希望を持って新年を迎えたいものです。

(注1)20世紀初頭、オランダの首相を務めたアブラハム・カイパーが1880年に設立したアムステルダム自由大学が、キリスト教哲学を基本に据えた総合大学の一つのモデルとなっている。
(注2)私の存じ上げている教授たちは、今は殆どが引退されたり召天されたりしているが、その著書によって知ることができる。H. Hart(哲学)、 Bernard Zylstra(政治学)、 J. H. Olthuis(神学、倫理学)、 A. H. DeGraaf(教育学、心理学)、 Calvin Seerveld(美学)、 A. M Wolters(哲学史)、  H. Evan Runner(哲学入門)等です。

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」        (マタイによる福音書2章2節)


[『キリスト者の世界観―創造の回復』(改訂増補版)の出版について]


先日受けた、教文館出版部からの連絡によれば、米国アードマン社から版権の許可が下りたので、これから出版の準備に入り、来年の3月末までには出版したいとのことでした。どうか、お祈りに覚えてください。

[石丸新先生の「ウエストミンスター大教理問答の聖餐論」について]


 石丸新先生の研究メモ「ウエストミンスター大教理問答の聖餐論」を先月号から掲載していますが、ワープロ入力が終わりましたので、ほぼ完全な形で読んでいただけます。但し、巻末の【付】礼典用語一覧は手書きの表をデジタル化できませんでしたの、割愛させていただきました。ご了解ください。ラベル「ウエストミンスター大教理問答の聖餐論」を選択して、お読みください。なお、同じく石丸先生の「ウエストミンスター大教理問答における『神を見る』」も入力が終わりましたので、読んでいただくことができます。


「ICS軽井沢文庫だより」の印刷のために


「ICS軽井沢文庫」を開き、ラベル「ICS軽井沢文庫だより」第13号を選択します。次にパソコン右上のオプション設定のマーク(縦3つ)をクリック、印刷を選択する。左欄のオプションを両面印刷にし、詳細設定の中の倍率を150背景のグラフィックもオンにしてください。印刷ボタンを押すと OKです。同様に、他のすべてのラベルも、選択して、印刷することができます。


【連絡先】

389-0115長野県北佐久郡軽井沢町追分36-23 宮﨑彌男・淳子

TelFax 0267-31-6303(携帯) 080-3608-3769

Eメールmmiyazk41@gmail.com   ブログ「ICS軽井沢文庫」<ics41.blogspot.jp> 


ウエストミンスター大教理問答の聖餐論

ウエストミンスター大教理問答の聖餐論(石丸新)


1.  主の晩餐を強調するウ大教理
 
 GreenのHarmony, p.217に見るとおり、大教理は、告白、小教理に優って、主の晩餐を詳説している。力説もしている。主の晩餐に充てる分量が物語るとおり。
 本文の字数からすれば、大教理の叙述は告白の2.2倍にあたる。大教理を14%に縮約したのが小教理である(僅かに2問)。
 大教理は問168から問177までの10問を主の晩餐に費やし、具体化な側面を採り上げて丁寧に述べている。
 Greenは随所で、大教理が告白と小教理に比べて、ないがしろにされている事実を嘆いているが、主の晩餐の箇所でも、同じ憂いを吐露している。
 主の晩餐においてキリストを受けるマナーが告白29:7に述べられているが、大教理170問の言うところは一層の現実味を伴って迫って来る。同様に、告白29:8は弁えに欠けた悪しき者がこの礼典の品を受けることによって自分に裁きを招くことを確言しているのに対し、大教理171-175は、そのような裁きを招くことがないようにいかに処すべきかを、積極的かつ具体的に述べている。包括的、印象的な叙述と言える。
 上のことを指摘するに当たり、Greenは、171問から175問までを、問の部分を外して一気に読み通すことを勧めている。まるでコロンビア神学校の教室に座っているような気にさせられる。

2. キリストの体と血とを「食する」

 168答に 'feed upon his body and blood' とあるところを、1963年改革派委員会訳は「キリストの体と血によって養われ」とした。続く諸訳もこれに倣った。しかし、半世紀を経て、2014年の宮﨑訳では「キリストの体と血とを食し」となった。画期的と言える。
 「食する」は「食う」の意で、硬い文章に用いる。[例] 米を食する文化。感情をこめずに客観的な調子で記述する場合に用いる。実は身近な広告でも目にする。[例] 大トロを食す歓び。生のまま食してほしい「オリーブオイル」ができました。
 
 告白29:7に ’receive and feed upon, Christ crucified,…’ と言われるところを、明治13年(1880)邦訳は、既に「之ヲ食シ」と表現しているのを知って驚いた。昭和15年(1940)の堀内訳でも、「それらを食するのである」。戦後の諸訳では、なぜか一律に「養われる」。
 コリント前書11:24、明治13年新約全書では「…取(とり)て食(しょく)せよ」。コリント前書分冊はヘボン訳で明治11年に出版されていたので、明治13年の告白、本邦初訳が「食する」とした事情はよく分かる。

 大教理170の問と答にも 'feed upon the body and blood of Christ’ が用いられる。ここも「キリストの体と血とを食する」と訳すのが順当である(=宮﨑訳)。他の訳では「養われる」。

 ちなみに、マタイ26:26 KJV:Take, eatの明治13年訳では、「取(とり)て食(くらへ)」。今では、「食らう」は「食う」よりぞんざいな言い方とされるが、明治期の語感は違っていたのであろう。その点、「食する」は昔も今もやや格式ばった言い回しだと思う。 カッチリと引き締まった文体を求められる信条文書に適している。

 174答にも feeding on him (Christ) by faith が現れる。
ここも、「信仰によってキリストに養われ」ではなく、「信仰によってキリストを食し」と訳すのが当たっている。主の晩餐は確かに信仰者の霊的養いと成長のためのものである。(告白29:l, 大教理168, 小教理96)その目的を指してキリストを「食す」。それが
主の晩餐の礼典である。
 大教理171との関連で小教理97答を見ればーof their faith to feed upon him (Lord)…とある。

  主の晩餐に臨むにあたってなすべき備えを詳しく述べるなかで、大教理171は「信仰」を
挙げる。 このfaithを、小教理97は膨らませて、their faith to feed upon himとした。
 この場合のfeed upon は、主の晩餐にあずかる場でキリストの体と血とを食すること(大教理170)を指してはいない。むしろ、日頃の信仰のあり方を自己吟味すべき、と告げている。この信仰を諸訳は「キリストを糧とする自分の信仰」としてきた。

 feed on (upon)は、…を常食にする、…で生きている、…に育まれるの意であるので「主を糧とする信仰」は、すんなりと分かる。しかし、feed on には、…にすがって生きる、…を心の支えとして生きているの意もある.。[例] feed on hope 希望にすがって生きる
 とすれば、「主を頼りとする自らの信仰」と訳すことも可能ではないだろうか。十字架と復活の主への不動の信頼こそ、信仰の神髄である。この信仰を小教理86答は「キリストにのみより頼む」信仰と言っている。

3.キリストの体と血とを「想起する」
 
 169答に、陪餐者の心得が示され、自分たちのために感謝のうちに想起し、パンを取って食べ、ぶどう酒を飲むべきことが求められている。
 'in thankful remembrance' は これまで「感謝のうちに覚えつつ」と訳されてきた。証拠聖句 Ⅰコリ11:23,24 this do in remembrance of me は、文語訳以来「わたしの記念として」「わたしを記念するために」と訳されてきた。聖餐式で、「記念」が耳に残って今に至る。
 ところが、新改訳では、「わたしを覚えるために」。 泉田訳も同じ。永井訳では「我のを憶ひ出づるために」、柳生訳では「これからもわたしを思い出すために」、青野訳では
「私を思い起こすために」。
 遡れば、明治13年新約全書では「爾曹(なんじら)も 如此(かくのごとく)おこなひて我(われ)を憶(おぼえ)よ」となっていた。折角の「憶よ」を文語訳(大正6年)が「記念として」に改変したのは、いかにも惜しい。
 eis ten emen anamnesineisは「として」ではなく、目的を表す「ために」。
 rememberと聞けば、学校で習った記憶している、憶えているの訳語を思い浮かべるが、どの辞書でも第一義は思い起こす、思い出すであることに注目したい。キリストの体が裂かれ、血が流されたさまをありありと思い起こす行動が、ここでは強調されている。
 in memory ではなく、in remembrance であることを丁寧に説明すれば、中学3年生にも分かってもらえると思う。
 記念植樹といえば、卒業の記念に思い出として残しておく樹が挙げられるが、あくまでも過去を懐かしく思い浮かべる手段である。一方、大学の創立記念日の場合には、過去の出来事への記憶を新たにする面が確かにある。しかし、どうしても追想、追憶といった感傷面が伴う。
 主の晩餐の礼典では、キリストの体と血とを、ありありと、まざまざと、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」の叫びを耳にこだまさせながら、想起する。目で読む教理問答書では「想起」を超える訳語は無い。聖餐式で「ソーキ」を耳にして,漢字を思い浮かべて欲しい。

 169答 最終部を次のように訳すのが適切と考える。
 …陪餐者は、自分たちのためにキリストの体が裂かれて与えられたこと、またキリストの血が流されたことを感謝のうちに想起して、パンを取って食べ、ぶどう酒を飲まなければなりません。

 ウ大教理169が下敷きとしたのは、ハイデルベルク75であった。そこでは、十字架におけるキリストの犠牲とその恵みにあずかっていることを、聖なる晩餐において想起させられ、確信させられる道筋が述べられている。この問75と対を成すのが、洗礼について述べる問69である。そこでは、十字架におけるキリストの犠牲が自分の益になることを、聖なる洗礼において想起させられ、確信させられる道筋が明らかにされている。「想起」の語は重い。
 ハイデルベルク問答での想起はカルヴァンに遡る。『綱要』Ⅳ.17.44 は聖晩餐について言うーー「これはキリスト者たちの間で頻繁に行われて、キリストの御苦しみをしばしば記憶に呼び起こすため、また、これを思い起こすことによって、かれらの信仰を支え強くし、また、これを思い起こすことによって、かれらの信仰を支え、強くし、また、神に対して賛美の告白を歌い、そのいつくしみを宣べ伝えるべく励ますため、……ために制定されたのである。」

 キリストの贖いを主の晩餐の礼典のたびごとに想起すべきことが告白29:1に言われている。…for the perpetual  remembrance of the sacrifice of Himself in his death, …
既訳では、perpetual の訳語は二つに分かれる。
 ①永続的、永遠に、いつまでも
 ②常に, 断えず、不断に
 ここでは②が適切と思う。 「常ニ、思ハシメ」は、実は明治13年訳。「いつまでも」
ではなく、「いつも」。その都度、そのたびに。
 Ⅰコリ 11:25,26の諸訳が参考になる。明治13年訳では「飲むごとに」。以後、たびに、たびごとに、いつでも。即ち、受領のたびごとに、キリストご自身の犠牲をありありと想起する行為が言われている。
 なお「いつまでも」の側面は、おなじ 29:1の「世の終わりまで」(unto the end of the
world)で言い表されている。                        

4.キリストを「自分のものとする」
 
 170答に次のとおり言われるーーwhile by faith they receive and apply unto
themselves Christ crucified, and all the benefits of his death. ここでのapplyをどう理解すべきか。「適用する」、「当てはめる」の訳語が既訳に用いられているが、宮﨑訳では「自分自身のものとする」となった。実は、1950年の岡田訳で既に「自身のものとする」と言い表されていた。
 改革派信徒にとって最も身近なウ小教理29では、キリストによって買い取られた贖いが、キリストの聖霊により、わたしたちに有効に適用されることが明言されている。「適用」は、もはや動かすことのできない神学用語として定着し、今に至る。
 しかし 大教理170では、主の晩餐の礼典でキリストを食する者は、即ち キリストとその死の益を、信仰によって受け取って、自分自身のものとするのだ、と言われている。畏れ多い限りである。
 ここでのapplyは即ちmake one's own である。信仰により、自分の身に引きつけて食べ、飲まなければ、パンとぶどう酒は物質にとどまる。

 ジュネーブ問答342で既に次のとおり言われていたーー「主のもろもろのよきものは、まず主がご自身をわれわれにお与えにならない限り、われわれのものとはならないからであります。」(外山訳)
 同355でもーー「私たちはこれらのしるしの表す実体を我がものとするため、精神を天に向けて高めなければなりません。」(渡辺訳)

 applyは、主の晩餐における陪餐者の積極的な態度を言い表している。それが、霊的に
食することにほかならない。十字架につけられたキリストとその死の益を信仰によって受け取って、自分自身のものとするという能動的な行為が本問では強調されている。

 上の意味でのapplyが大教理73で義認に関して既に用いられていた。…but only as it is an instrument by which he receiveth and applieth Christ and his righteousness.
ここでの主語は罪人である。動詞applyは従来「適応される」「適用される」「適用する」
「自分に当てはめる」と訳されてきたが、宮﨑訳は「自分のものとする」として、文章を明確にした。
 72答に「福音において提供されているキリストとその義を受け入れ、依り頼むのです」
とあるのはよく分かる。その上、73は「キリストとその義とを受け取って、自分のものとする」と断言する。receiveとapplyの複文は重い。

 receive +applyのパターンはウエストミンスターに先立って、ハイデルベルク61に現れていたーーわたしは、ただ信仰による以外に、それを受け取ることも自分のものにすることもできないからです。
 同じパターンはジュネーブ問答に遡る。119答「私たちが心からの固い信頼をもって福音の約束を受け入れる時、私の言ったような、この義の所有を、或る意味で獲得するからであります。」ここで言う義の所有の獲得が、ウ大教理のapplyが意味するものと読める
 ジュネーブ問答でのパターンは更にカルヴァンにまで遡る。綱要Ⅲ. 2. 16「信仰とは、主が憐れみの約束を差し出したもうことを我々の外で真実だと判定するだけで無く、我々自身の内には何も捉えていないというようなことでもなく、むしろ、それを内面に把握して我がものとすることである。」(渡辺改訳版)なお、渡辺旧版では、最終部はつぎのとおり。「むしろわれわれはそれを内に抱擁することによってわがものとしてしまうのである。」Allenの英訳では、"…but rather make them our own, by emblacing them in our hearts."

神が福音において差し出してくださるものを、わたしが信仰をもって受け取る。
神がわたしに転嫁してくださるものを、ありがたく自分のものとする。

5.キリストとの「結び付き」を意識する

 ウ告白27:1が礼典の目的の一つとして挙げるのが、to confirm our interest in Him(Christ)である。このinterestは、明治期以来さまざまに訳されてきた。
 関心、関係、権利、関わり、あずかること等だが、ひときわ目を引くのが、明治13年訳の
「キリストに与ること」である。

 キリストとの結合(union)、キリストとの交わり(communion)に並んでキリストとのinterestが言われていることに注目したい。
 ウ大教理での用例は次のとおり。
 ① 32 第二の契約において表されている神の恵み
  …requiring faith as the condition to interest them in him
                                   この方に結び付ける/あずからせる
 ② 83 この世での栄光における交わり
  …in him are interested  この方に結ばれている/あずかっている
 ③ 172 主の晩餐に臨むにあたって
  …may have true interest in Christ
                キリストとの真の結び付き
 ④ 189 主の祈りの序言 fatherly goodness について
  …our interest therein
        その慈しみに結ばれていること/あずかっていること
 ※unionに結合の訳語を忘れているので、interestに機械的に「結び付き」の訳語を充てるのはどうかと思うが、難しい。
 Bower のGlossaryによれば、Interest:To share in a right, title, or privilege(Q.32)と
ある。rightが挙げられていることから、このinterestは、恵みによって賦与される権益/
特権を意味するものと解し得る。
 OEDでは、’To invest (a person)with a share in or title to something, esp.
  a spiritual privilege とある。最初の用例は1610年。神が主権の恵みによって罪ある者
神の子として受け入れ、もろもろの特権を与えてくださる。そのような命の関わりが、
interest(v.,n.)の意味するところではないのか。キリストとの結合の目に見える姿と言い
得ようか。とは言え、このinterestをキリストとの関わりと訳すのはためらわれる。せいぜい、キリストにあずかっていることか。 キリストとの結び付きか。関与は別の意味となる。こちらから、ある事柄にかかわりをもつこと。
 告白と大教理で用いられるinterestが一般には難しいと考えたのか、小教理には一度も
出ない。
 大教理172は、主の晩餐に臨むにあたっての自己吟味を教えている。自分がキリストに
あること(his being in Christ)について、あるいは、主の晩餐の礼典のために自分のなす
べき備えについて不安を抱いている者であっても、キリストとの真のinterestを持って
いるのかもしれない。そのinterestのないことを懸念して誠実に悩むほどの者であるなら
そのinterestを持っているのだから、主の晩餐に臨むべきだ、と励ますのが本問である。
 上では、being in Christとtrue interest in Christとがほぼ同義であると読める。キリストにあることは即ちキリストに結ばれて権益を授けられていることにほかならない。Ⅰコリ6:17「主に結びつく者は主と一つの霊となるのです」。
 この意識を生き生きとした形で新たにするのが主の晩餐の礼典である。受領のたびご
とにこの意識は深められていく。

  ハイデルベルク問答76では、キリストの体を食べ、その流された血を飲むとは、……
その祝福された御体といよいよ一つにされてゆくことだと告白されている。
 同80では、わたしたちが聖霊によってキリストに接ぎ木されていることを主の晩餐
が証ししていると言う。
 遡れば、ジュネーブ問答358は、聖礼典を正しく受けるための自己検討課題として、
「キリストのまことの肢であるかどうか」を挙げている。
 渡辺講解によれば、キリストの真の肢であるかどうか、はすなわち、キリストと真実に
結び付いているかどうか、である。キリストと結び付いているかどうかは霊的な事柄であ
るから、見た目には分からないが、印によって分かる。印としては、①悔い改めと信仰、
②隣人への愛、③魂の純潔の三つがある。(359)
 宮﨑訳大教理172ほかで、interestに「結び付き」の訳語を充てているのは、上の
ジュネーブ358の趣旨を反映してのことと読める。
 Torranceのジュネーブ英訳358での true member of Jesus Christ は、ウエストミンスター大教理172でのtrue interest in Christ と響き合っていることに気付いた。

6.陪餐前の備え

 171答は多岐にわたる。主の晩餐の礼典を受けようとしてそれに臨むにあたり、自らを
備えなければならないことが求められる。その備えの内容を分解すればーー
  ① 自分自身を吟味すること。
   1) 自分がキリストにあることについて…172にも出る
   2) 自分の罪と欠けていることについて
   3)自分の知識・信仰・悔い改め・神と兄弟に対する愛・すべての人への思いやり
     ・自分に悪を行った者への赦しの真実さと度合いについて
   4)キリストを慕い求める思いと新しい服従について
  ② 真剣な瞑想と祈りとをもって、これらの恵みを常に新たに働かせること。

  ① 4) their desires after Christ 改革派委員会訳では「キリストにならおうとする
   自分の願い」だが、岡田訳が既に「キリストへの渇望」としていたとおり、「キリ
   ストを慕い求める願い/思い」とするのが当たっている(鈴木訳、松谷訳、宮﨑訳)
    171のdesiresを読み解くには、174から遡るに限る。
   主の晩餐の礼典執行中の心 得を告げる174に挙げられる項目のうちで、171の
   desiresに対応するのは、earnest hungering and thirsting after Christである。
   「切にキリストに飢え、キリストに渇き」(宮﨑訳)。互いに照らし合う171と
   174たちが聖礼典を重視した思いをくみ取ることができる。
    171 desires after Christの証拠聖句ヨハネ7:37「渇いている人はだれでも、
   わたしのところに来て飲みなさい」は、desires の何たるかを明らかに告げている。
   もう一つの証拠聖句イザヤ55:1 が、これを補強している。「渇きを覚えている者
   は皆、水のところに来るがよい。」両聖句での「渇」に注目すれば、岡田訳の「
   渇望」が胸にすとんと落ちる。その意味では、desires after Christ を「キリスト
   を渇き求める思い」と訳しても悪くはない。

7.晩餐中の心得

  主の晩餐の執行中に、これを受ける者に求められることを、174答は丹念に描き出
 している。後半部分のinに始まる前置詞句が何を修飾しているかについては、訳者
 の判断が分かれていて,決め難い。南長老教会版および現在のアメリカ合衆国長老
 教会版(PCUSA)では、パンクチュエーションからして、前半部分全体を修飾すると
 解しているものと読める。 それに倣えば、次の構文理解が成立する。
   求められているのは次のことーー
  ① 神を待ち望むこと
  ② 礼典の品と動作に目を注ぐこと
  ③ 主の体をわきまえ、主の死と苦しみとを瞑想し、恵みの実践へと我が身をかき立て
   ること
  以上①②③を実行する道は次のとおりーー
  1)我が身を裁いて罪を悲しむこと
  2)切にキリストに飢え渇き、キリストを食し、キリストの豊かさより受け、
    キリストの功績により頼み、キリストの愛を喜び、キリストの恵みに感謝をささ
    げること
  3)神との契約と聖徒たちへの愛を新たにすること
      ※上の①②③1)2)3)は、何と途中でピリオドなしのワンセンテンス。
  求められていることを言い表す動詞に、副詞あるいは前置詞句が付されて、その様態
 が厳密に規定されているのが、本問の特徴である。
  ① with all holy reverence and attention →wait upon God
      ② diligently →observe the sacramental objects and actions
  ③ heedfully →discern the Lord's body
            affectionately →medidate  on his death and suffering's
            空白 (thereby)→stir up themselves to a vigorous
                                            exercises fo their graces
        ※上の①②③abcの分類を、①②③ab④           
                  とするのが松谷訳の解釈であり、
    大いにうなずかされる。①神を待ち望み、②礼典の品と動作を見つめ、③
    主の体をわきまえ、主の死と苦しみを瞑想する。その上でかくしてthereby
            ④恵みの賜物を働かせることに心をかき立てる。
    ①②③+④の理解は、執行前の備えを記す171の分類をそのままに映し出す
    ものと言える。ー、-、-、-、について自分自身を吟味すること+恵み
    の賜物を働かせること。この照応を大切にすべきと思う。
 執行中の作法の中で特に目を引くのが、diligently observe the sacramental objects
and actions である。注意を傾けて見る、即ち注視することが求められている。
 礼典の品、即ちパンとぶどう酒=キリストの体と血とが私たちの贖いと救いとのために
差し出されている。ただ、恵みによって差し出されている物を、私たちが信仰の手を伸ばして受け取る。配餐者の手にするパンと杯が自分に近付いてくるのを我が目で見つめる。
「キリストの愛我に迫れり」と告白する。
 手に取ったパンをさらに見つめる。直視する。ぶどう酒の赤さを凝視する。更にパンの
味と香り、ぶどう酒の刺激を味得する。そうすることによって、差し出されている神の恵みを体得する。それを自分のものとする(apply)。物体的なしるしが霊的な実質そのものであることを、この礼典において確信する。次なる聖餐式を期待する。
 カルヴァンが『綱要』Ⅳ.17で用いる用語の数々から教えられることは大きい。「ジュネーブ問答」についても同様である。そこでは、「主がご自身をわれわれにお与えになるー
われわれがその主をいただく」の図式が一貫して示されている。

 ウ大教理174が「注視すべきこと」を特に挙げているのは著しいことである。このような具体的な指示は、ジュネーブ、ハイデルベルク両問答には見られないことであった。

8.陪餐後の義務

 英語を習い始めた当初より、successを「成功」と覚えて今に至ることから、本問での用法を正確に掴み損ねてきた。その結果、従来の訳では、どんなによくやれたか、どこまでうまくできたか、どの程度よくできたか、どれほどよくできたか、とよくできた度合いを
問題とする言い回しに終始したきた。
 辞書では、success の第一義は「成功」だが、第二義として「結果」が挙げられているのを見落としてはならない。その用例 として、good success 上でき、上首尾
                      ill(bad) success 不でき、不成功、不首尾が挙げられる。
なお、動詞succeedには〔廃〕…な結果になるの訳語が示されている。〔例〕succeed badly ひどい結果に終わる
   ぶざまな~
 上のsuccess 理解は、証拠聖句の表現によって裏付けられる。
●詩28:7 わたしの心は喜び躍ります。 歌をささげて感謝いたします。
     (good success)
●詩85:9 主は平和を宣言されます/御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に
     (good success)

     同  彼らが愚かなふるまいに戻らないように。
     (ill success)
●Ⅰコリント11:17 あなたがたの集まりが、
         良い結果よりは         the better (good success)
                           むしろ悪い結果を招いているからです。the worse (ill success)
●  同  11:30 弱い者や病人がたくさん降り、多くの者が死んだのです。
                 (ill success の事実)
●  同  11:31 私たちは、自分をわきまえていれば、裁かれはしません。
           (ill success への警告)---(good success の勧め)
  *Ⅰコリント11:17 文語訳では、益を受けずして損を招けばなり。これは、上首尾
   ーー不首尾の対比を明らかに言い表している。               
この対比を頭に置いて175問の答えを分析すれば次のようになる。
  good success =力づけと慰めを見いだすならば
  ill success=何の益も見いださないならば
  good success=自分を正しいとすることができるのであれば
           if they can approve themselves
  ill success=落ち度のあったことに気付いたならば
           if they have failed
  *approve oneself とfail とが対比successがプラスとマイナスの両面に用いられてい
   ることが判然としている。

カルヴァンの『綱要』Ⅳ.17.40では、この食物を味わってキリストこそ我がいのちでいますことを 得し、感謝を献げ、互いの愛を進める者がいる反面、この食物によって信仰を
養われも固められもせず、讃美と愛に駆り立てられもしない者のいることが言われている。
後者にとって、この食物はその魂を大きい破滅に突き落とす、とも断言する。 まさに
good success  ill success である。

 ウ大教理175は、ill success の者を全面的に切り捨てはしない。むしろ、執行前の準備の仕方と執行中のあり方を一層厳密に検証することの必要性を訴えてやまない。落ち度のあったことに気付いたならば謙虚になって、一層の注意と熱心を傾けて、この礼典に臨むように、と励ましている。極めて牧会的な表現に終始している。カルヴァンの筆致を思わせる。

9.「引き続き」キリストの内にとどまるために

 洗礼と主の晩餐の異なる点を述べる177問では、洗礼が一度だけであるのに対し、主の
晩餐はしばしば執行されなければならないと言われている。その目的は、私たちがキリストの内に引き続きとどまって成長することを確かにすることである。

 「確かにする」(confirm)の主語は陪餐者ではなく、主の晩餐であることが、大教理
168問との照応から分かる。
  168…have their union and communion with him confirmed
       文法上の主語はふさわしい陪餐者だが、事柄の上での主語は主の晩餐。
  168…his body and blood to their spiritual nourishment and
                                                                  growth
                                                                      in grace
      177…Christ as spiritual nourishment to the soul, and
         to confirm our continuance and growth in him                                             
       168177は共に、主の晩餐の目的と効果とを、同じようなフレーズを重ねて語って
  いる。
  聖礼典の執行をとおして、神が福音の約束を封印なさることがハイデルベルク問答
  66で既に言われていた。「確証する」との訳語も用いられている。明治17年の訳文
  は次のとおりであった。
    此聖禮典を用いて神様が福音の約束を我 (わたしども)に愈(いよいよ)
  能く理解せ(わから)御調印(ごちゃういん)なされて御確保(おうけあい)なさる
  為で御座ります
   英訳からの重訳だがsealに二つの  「ちゃういんする」と「うけあふ」を充てる
  ことにより、意を十二分に伝えるものとなっている。「うけあひなさる」は抜群と言
  うべき。
   大教理177で神が確証していてくださるのは、私たちがキリストの内に引き続き
  とどまること(continuance)と、キリストにあって成長することの(growth)の
  二つである。両者は実は一つのことである。その基盤にはキリストへと接ぎ木さ
  れていることがある(165)。神の子とされていることがこれに重なる(同)。
  キリストとの結び付きを持っているという恵みの事実が不動のものとしてある
  (172 interest)。

  主の晩餐を受けるにあたっては、「自分がキリストにあること」(being in Christ)
      の意識が不可欠である(171, 172)。キリストにあることは、「キリストの内にあり
  続ける」ことにほかならない(177 松谷訳)。
  変わることなく、引き続きとどまるために、主の晩餐はしばしば執行される。
  その都度、キリストとの真の結び付きの意識は燃え立つ。

   177では、主の晩餐の目的が二点に絞って述べられている。
  ①魂にとっての霊的栄養であるキリストを表すこと(represent), また与えること
   (exhibit)。
  ②キリストの内にとどまり続けて成長することを確証すること(confirm)。
   ①のexhibitは典型的な礼典用語の一つである。162にも見える。諸訳では、
  表す、示すの語が充てられると共に、提供する、与えるの語も用いられている。
  ずばり「与える」が、その意味するところである。
  27:3、28:6に用いられる。諸訳では、表示される、あらわされる、提供される、
  差し出される。 この場合も「与えられる」が適訳だと思う。
  差し出されて→じっさいに与えられるがその意味するところである。これは、
  28:6でreally exhibited and conferred と言われていることから分かる。
  conferredは、授けられる。
   中期英語(1150-1500)での医学用語の一つがexhibitで、医療を施す、投薬
  する、食餌療法を施すことに用いられた。
  語源は<ラ>exhibereで、他人に物を呈するの意(hold forth)。ここから、
  じっさいに授けるの意で用いられるようになった。
  礼典用語exhibitとapplyは同義と考えてよい。

  【付】礼典用語一覧 (省略)