“二刀流”の伝道者(2)
宮﨑彌男
前回の「ICS軽井沢文庫だより」では、「“二刀流”の伝道」について書きました。「“二刀流”の伝道」とは、日本キリスト改革派教会が、その創立宣言(1946年)において掲げた(1)有神的人生観世界観の確立と、(2)信仰告白・教会政治・善い生活において一つである聖書的教会の樹立、を目的とする福音伝道です。
現役時代、両刀をかざしながらも、その「調和」を体得できず、十分な力を発揮できなかったのではないだろうかと、その反省も記しました。また、引退後、定住代理宣教教師として奉仕した、“第二次”熊本伝道(2012年4月~2014年6月)で、初めて、“二刀流”伝道の「こつ」がわかり始めてきたということも、最後に記しました。
軽井沢に引き上げてきましてから、すでに3年半になります。その間、引退教師としてではあるけれども、“二刀流”の技をどのように磨いてきたのか、今日は、前回の続きとして、先ずは、両刀の内、上記(2)の一刀をどのように用いているのか、振り返って見たいと思います。
(引退教師としての説教奉仕)
幸いなことに、ここ3年ばかりの間、平均月2回ばかり、新潟、宇都宮、長野、佐久等、近隣の改革派諸教会で説教奉仕を依頼され、出張伝道する機会が与えられました。これは、引退教師にとっては、老化防止のためにも、大変ありがたいことです。また、教会の側でも、特に定住の牧師を欠く“無牧”の教会にとっては、嬉しいことなのだと思います。そんなわけで、私も、月1,2回、力を込めて講壇の奉仕をさせていただいているところです。
心がけていることは、次の三つです。
1)神の言葉を取り次ぐこと。
そのために、聖書のテキストに密着した話しの構成と語り口を心がけています。もちろん、説教は、神の言葉(Ⅰテサロニケ2:13、第二スイス信仰告白第1章)であると同時に、人の言葉でなされるのですから、説教者の好みや経験、思想的傾向が反映されないわけではありません。しかし、人を救うのは、人間の知恵や知識ではなく、天より啓示された神の言葉ですから、神の霊感を受けた聖書のテキストに密着しつつ語ることが大切と考えています。ですから、聞く側としても、説教を聞いた後で、自分でその聖書箇所を再読し、説教で聞いたことが聖書の教えと合致していることを確かめるようしていただければ、最高ですね(使徒17:11参照)。
2)説教者と会衆(礼拝参加者)ー主にある交わりの中でー
説教者から会衆へという一方通行ではなく、礼拝に集ってこられた方々と対話するような姿勢で御言葉の説き明かしができるようにと心がけています。キリスト教会の良い伝統の一つに、礼拝の中で説教者と会衆が交わす相互祝福の挨拶があります。説教者(または司式者)が「主があなたがたと共にいてくださいますように」と呼びかけますと、会衆は声を合わせて「主があなたを祝福してくださいますように」と応えるのです(ルツ記2:4参照)。こういった主にある交わりの中で御言葉が説き明かされるときに、御言葉はふさわしい実を結ぶのです。
それで、「ウェストミンスター大教理問答」でも、説教に召された者のための指針(問159)と共に、説教を聞く者のための指針(問160)を書き加えているのです(注)。
3)公同の礼拝にふさわしく。
教会や学校、家庭等においてささげられている幾多の礼拝の中で、日曜日(主の日)に教会でささげられる礼拝は、特に「公同礼拝」と呼ばれています。これは、英語で言えば、Public Worship Serviceで、「すべての人に開かれた礼拝」を意味しています。ですから、この公同礼拝でなされる説教は、全世界に向かって語られる「公の性格」を持っているということになります。この点において、公同礼拝における教会の説教は、上記(1)の「有神的人生観世界観の確立」という改革派教会の目的と合致しているのです。
ただ、説教には、もう一方で、「その地方の、その教会に対する説教」というローカルな面もあります。説教者は、自分が奉仕するその教会の礼拝に集ってくる一人一人を心に思い浮かべながら、そのニードに応える説教を準備します。それ以外ではありません。上記「ウェストミンスター大教理問答」問159でも、説教者がいつも「聞く者の身になって、その必要としていることと理解力とに気を配り、知恵を働かせて」神の言葉を語らなければならない、と教えています。
このように、公同礼拝での説教には、「全世界に向かって」という面と、「この礼拝に集まって来られた人々のために」という両面があるのです。そして、幸いなことに、この両者は決して矛盾せず、一つの説教の二つの面なのです。今はやりの言葉で言えば「グローカル」な性格を持っているのが私たちの礼拝説教なのです。グローバルとローカル、正に“二刀流”の説教です。
(「ウェストミンスター大教理問答」による学習会)
イエス・キリストの伝道方法は、「教え」と「説教」と「癒し」の三本立てでした(マタイ4:23、9:35)。とても現実的な伝道方法です。一方的に「説教する」だけでは、教会は建たない。神様の御言葉という権威をもって「宣べ伝える」、と同時に、膝と膝をつき合わせて「教える」教会教育がなければなりません。また、どの町にも教会にも、病気等で苦しんでいる人がいます。福音と「癒し」は決して別ものではありません。
それで、どこの教会にも、礼拝と教会学校があるのですが、多くの場合、教会学校は子供たちのためだけのプログラムとなっています。すべての年代層に対する教会教育が必要です。私は、熊本“第二次”伝道では、礼拝後の “ティータイム” を「教理セッション」と名付けて、教理問答の学びをするようにしました。今でも、熊本では、後任の先生に引き継がれているようで、感謝しています。テレビやインターネットで情報を得ている今の時代の人々が、教会では、「教理の学び」に少しでも楽しんで欲しいと、名称など工夫を凝らしたつもりですが、果たしてどうでしょうか。
新潟伝道所では、説教に行く度に、昼食後1時間半の学習会で、「ウェストミンスター大教理問答」を学びました。キリスト教の信仰や生活のことについて共に語り合い分かち合う、良い交わりの時ともなりました。また、佐久の教会では、毎月第3主日の午後、やはり「ウェストミンスター大教理問答」の学習会を担当させていただきました。今は、新しく赴任された牧野信成牧師による学習会と婦人会/男子会における『信徒の手引き』の輪読会に引き継がれています。
なぜ説教と共に教理の学びが必要なのでしょうか。宗教改革以来、プロテスタント教会で重んじられてきた原理に、「聖書のみ」(Sola Scriptura)と、「聖書のすべて」(Scriptura tota)があります。説教では、人の言葉や思想ではなく、神の言葉を取り次ぐということで、「聖書のみ」が強調されるのに対して、教理の学びにおいては、聖書啓示の全体を視野に入れて、神、聖定(永遠のご計画)、創造、摂理、人間の罪、恵みの契約、キリスト、聖霊、教会、救いの恵み、死と復活、審判、神の律法、恵みの手段(御言葉、礼典、祈り)など、私たちの信仰と生活に関わる大切な教えを学びますので、「聖書のすべて」が強調されるのです。このように申しますと、教理の学びは難しいことのように思われるかも知れませんが、一言で言えば、「イエス・キリストは主である」という、初代教会以来の信仰告白を今の時代の私たちが聖書全体から読み取る以外のことではないのです。そういう意味では、心躍る福音の学びです。
以上は、“二刀流”伝道者として今用いている”第二刀”(「信仰告白・教会政治・善い生活において一つである聖書的教会の樹立」)に関わることです。次号では、引退教師としての私が左手に握った”第一刀”(「有神的人生観世界観の確立」)を、どのように錬磨し使用しつつあるのか、お分かちできればと願っています。
(注)
「ウエストミンスター大教理問答」
問159 神の言葉は、その職務に召された者によって、どのように説教されなければ なりませんか。
答 御言葉の宣教に努めるように召された者は、次のようにして健全な教えを説教しなければなりません。 折が良くても悪くても、熱心に。人を惹きつけようとする人間の知恵の言葉によらず、御霊と力との立証によって、はっきりと。神の御計画を余すところなく告げて、忠実に。聞く者の身になって、その必要としていることと理解力とに気を配り、知恵を働かせて。神と神の民の魂への燃えるような愛をもって、ひたむきに。神の栄光ならびに神の民の回心と育成と救いとを目指し、心を打ち込んで。
「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。」(テサロニケの信徒への手紙一2章13節)
【ラベル「平昌オリンピックに見る“二刀流”の勝利」もごらん下さい】
【A・ウォルタース著、宮﨑彌男訳『キリスト者の世界観―創造の回復』(増補改訂版)の出版について】
教文館出版部から、4月初めに発行予定です。ご期待下さい。この度の増補改訂版では、初版の訳文を、より正確で読み易く改訳すると共に、「物語と宣教を媒介する世界観」と題してゴヒーン&ウォルタースが新たに執筆した「あとがき」(原著で24頁)を加え、「増補改訂版」として出版するものです。単なる再版ではなく、新しい本として出版しますので、既に、初版を読んだ方も、ぜひもう一度購入して、読み直していただければ幸いです。現役時代、両刀をかざしながらも、その「調和」を体得できず、十分な力を発揮できなかったのではないだろうかと、その反省も記しました。また、引退後、定住代理宣教教師として奉仕した、“第二次”熊本伝道(2012年4月~2014年6月)で、初めて、“二刀流”伝道の「こつ」がわかり始めてきたということも、最後に記しました。
軽井沢に引き上げてきましてから、すでに3年半になります。その間、引退教師としてではあるけれども、“二刀流”の技をどのように磨いてきたのか、今日は、前回の続きとして、先ずは、両刀の内、上記(2)の一刀をどのように用いているのか、振り返って見たいと思います。
(引退教師としての説教奉仕)
幸いなことに、ここ3年ばかりの間、平均月2回ばかり、新潟、宇都宮、長野、佐久等、近隣の改革派諸教会で説教奉仕を依頼され、出張伝道する機会が与えられました。これは、引退教師にとっては、老化防止のためにも、大変ありがたいことです。また、教会の側でも、特に定住の牧師を欠く“無牧”の教会にとっては、嬉しいことなのだと思います。そんなわけで、私も、月1,2回、力を込めて講壇の奉仕をさせていただいているところです。
心がけていることは、次の三つです。
1)神の言葉を取り次ぐこと。
そのために、聖書のテキストに密着した話しの構成と語り口を心がけています。もちろん、説教は、神の言葉(Ⅰテサロニケ2:13、第二スイス信仰告白第1章)であると同時に、人の言葉でなされるのですから、説教者の好みや経験、思想的傾向が反映されないわけではありません。しかし、人を救うのは、人間の知恵や知識ではなく、天より啓示された神の言葉ですから、神の霊感を受けた聖書のテキストに密着しつつ語ることが大切と考えています。ですから、聞く側としても、説教を聞いた後で、自分でその聖書箇所を再読し、説教で聞いたことが聖書の教えと合致していることを確かめるようしていただければ、最高ですね(使徒17:11参照)。
2)説教者と会衆(礼拝参加者)ー主にある交わりの中でー
説教者から会衆へという一方通行ではなく、礼拝に集ってこられた方々と対話するような姿勢で御言葉の説き明かしができるようにと心がけています。キリスト教会の良い伝統の一つに、礼拝の中で説教者と会衆が交わす相互祝福の挨拶があります。説教者(または司式者)が「主があなたがたと共にいてくださいますように」と呼びかけますと、会衆は声を合わせて「主があなたを祝福してくださいますように」と応えるのです(ルツ記2:4参照)。こういった主にある交わりの中で御言葉が説き明かされるときに、御言葉はふさわしい実を結ぶのです。
それで、「ウェストミンスター大教理問答」でも、説教に召された者のための指針(問159)と共に、説教を聞く者のための指針(問160)を書き加えているのです(注)。
3)公同の礼拝にふさわしく。
佐久会堂 |
ただ、説教には、もう一方で、「その地方の、その教会に対する説教」というローカルな面もあります。説教者は、自分が奉仕するその教会の礼拝に集ってくる一人一人を心に思い浮かべながら、そのニードに応える説教を準備します。それ以外ではありません。上記「ウェストミンスター大教理問答」問159でも、説教者がいつも「聞く者の身になって、その必要としていることと理解力とに気を配り、知恵を働かせて」神の言葉を語らなければならない、と教えています。
このように、公同礼拝での説教には、「全世界に向かって」という面と、「この礼拝に集まって来られた人々のために」という両面があるのです。そして、幸いなことに、この両者は決して矛盾せず、一つの説教の二つの面なのです。今はやりの言葉で言えば「グローカル」な性格を持っているのが私たちの礼拝説教なのです。グローバルとローカル、正に“二刀流”の説教です。
(「ウェストミンスター大教理問答」による学習会)
イエス・キリストの伝道方法は、「教え」と「説教」と「癒し」の三本立てでした(マタイ4:23、9:35)。とても現実的な伝道方法です。一方的に「説教する」だけでは、教会は建たない。神様の御言葉という権威をもって「宣べ伝える」、と同時に、膝と膝をつき合わせて「教える」教会教育がなければなりません。また、どの町にも教会にも、病気等で苦しんでいる人がいます。福音と「癒し」は決して別ものではありません。
それで、どこの教会にも、礼拝と教会学校があるのですが、多くの場合、教会学校は子供たちのためだけのプログラムとなっています。すべての年代層に対する教会教育が必要です。私は、熊本“第二次”伝道では、礼拝後の “ティータイム” を「教理セッション」と名付けて、教理問答の学びをするようにしました。今でも、熊本では、後任の先生に引き継がれているようで、感謝しています。テレビやインターネットで情報を得ている今の時代の人々が、教会では、「教理の学び」に少しでも楽しんで欲しいと、名称など工夫を凝らしたつもりですが、果たしてどうでしょうか。
新潟伝道所では、説教に行く度に、昼食後1時間半の学習会で、「ウェストミンスター大教理問答」を学びました。キリスト教の信仰や生活のことについて共に語り合い分かち合う、良い交わりの時ともなりました。また、佐久の教会では、毎月第3主日の午後、やはり「ウェストミンスター大教理問答」の学習会を担当させていただきました。今は、新しく赴任された牧野信成牧師による学習会と婦人会/男子会における『信徒の手引き』の輪読会に引き継がれています。
なぜ説教と共に教理の学びが必要なのでしょうか。宗教改革以来、プロテスタント教会で重んじられてきた原理に、「聖書のみ」(Sola Scriptura)と、「聖書のすべて」(Scriptura tota)があります。説教では、人の言葉や思想ではなく、神の言葉を取り次ぐということで、「聖書のみ」が強調されるのに対して、教理の学びにおいては、聖書啓示の全体を視野に入れて、神、聖定(永遠のご計画)、創造、摂理、人間の罪、恵みの契約、キリスト、聖霊、教会、救いの恵み、死と復活、審判、神の律法、恵みの手段(御言葉、礼典、祈り)など、私たちの信仰と生活に関わる大切な教えを学びますので、「聖書のすべて」が強調されるのです。このように申しますと、教理の学びは難しいことのように思われるかも知れませんが、一言で言えば、「イエス・キリストは主である」という、初代教会以来の信仰告白を今の時代の私たちが聖書全体から読み取る以外のことではないのです。そういう意味では、心躍る福音の学びです。
以上は、“二刀流”伝道者として今用いている”第二刀”(「信仰告白・教会政治・善い生活において一つである聖書的教会の樹立」)に関わることです。次号では、引退教師としての私が左手に握った”第一刀”(「有神的人生観世界観の確立」)を、どのように錬磨し使用しつつあるのか、お分かちできればと願っています。
(注)
「ウエストミンスター大教理問答」
問159 神の言葉は、その職務に召された者によって、どのように説教されなければ なりませんか。
答 御言葉の宣教に努めるように召された者は、次のようにして健全な教えを説教しなければなりません。 折が良くても悪くても、熱心に。人を惹きつけようとする人間の知恵の言葉によらず、御霊と力との立証によって、はっきりと。神の御計画を余すところなく告げて、忠実に。聞く者の身になって、その必要としていることと理解力とに気を配り、知恵を働かせて。神と神の民の魂への燃えるような愛をもって、ひたむきに。神の栄光ならびに神の民の回心と育成と救いとを目指し、心を打ち込んで。
問160 説教される御言葉を聞く者には、何が求められていますか。
答 説教される御言葉を聞く者には、次のことが求められています。すなわち、注意力と準備と祈りとをもってこれに傾聴すること。聞くことを聖書によって確かめること。信仰・愛・素直さ・気構えをもって真理を神の言葉として受け入れること。説教される御言葉を瞑想し、それをめぐって語り合うこと。説教される御言葉を心に蓄え、自分の生活の中で実を結ばせること。
「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。」(テサロニケの信徒への手紙一2章13節)
【ラベル「平昌オリンピックに見る“二刀流”の勝利」もごらん下さい】
【A・ウォルタース著、宮﨑彌男訳『キリスト者の世界観―創造の回復』(増補改訂版)の出版について】
【「思想とキリスト教研究会」の講演会に出席】
2月26日(月)午後、東京恩寵教会で開催された「思想とキリスト教研究会」の講演会に出席する機会を得ました。講師は、東京基督教大学准教授の加藤喜之氏で、「改革派と初期啓蒙思想:スピノザという問題」という題で、興味深い講演をしてくださいました。加藤先生は日本長老教会の会員ですが、音楽と哲学を専攻された学生時代(テキサス大学)よりスピノザとその時代の神学/哲学について学んで来られた方です。講演の中で印象に残っていますのは、神学がわかっていないと、かの時代の哲学思想は正しく理解できないのではないか、と言われたことです。キリスト教学(神学、哲学、諸学)の重要性について、改めて覚えさせられたひとときでした。
【石丸新先生による研究ノート「ウ大教理問答の洗礼論」】
右欄のラベル「ウ大教理問答の洗礼論」を選択してお読み下さい。ウ大教理問答165、ウ小教理94、ウ信仰告白第28章において、洗礼の中心的な意義として、「キリストと接ぎ木されること」が教えられていますが、そこでは、名詞「接ぎ木」(ingraftment)ではなく、動名詞「接ぎ木されること」(ingrafting)が用いられています。石丸先生はこのことに注目し、「ここでも、キリストへと接ぎ木され、キリストの命を受けて新しく活かされるという恵みの躍動が描き出されている」とコメントしておられます。洗礼を受けたものは、このような生命的な絆でキリストと結び合わされているのですね。ハレルヤ!
【『ホ・ロゴス』Vol.20.No.4】
この度、「それでは如何に生きるべき会」(ロゴス会)の機関誌『ホ・ロゴス』の最新号に、私の「キリストの王権にひれ伏すーICS50周年に当たって」が掲載されました。この機関誌を発行している「それでは如何に生きるべき会」(ロゴス会)は、「キリスト教世界観を日本に確立し、人類の全領域にそれを適応するための学びと交わりを深める」ことを主な目的としている会です。問い合わせは、ロゴス会事務局(〒206-0025 多摩市永山5-34-15-2 山川暁方)まで。
【「ICS軽井沢文庫だより」の印刷のために】
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