2018年3月9日金曜日

「ICS軽井沢文庫だより」NO.15

“二刀流”の伝道者(2)

宮﨑彌男


 前回の「ICS軽井沢文庫だより」では、「“二刀流”の伝道」について書きました。「“二刀流”の伝道」とは、日本キリスト改革派教会が、その創立宣言(1946年)において掲げた(1)有神的人生観世界観の確立と、(2)信仰告白・教会政治・善い生活において一つである聖書的教会の樹立、を目的とする福音伝道です。
 現役時代、両刀をかざしながらも、その「調和」を体得できず、十分な力を発揮できなかったのではないだろうかと、その反省も記しました。また、引退後、定住代理宣教教師として奉仕した、“第二次”熊本伝道(2012年4月~2014年6月)で、初めて、“二刀流”伝道の「こつ」がわかり始めてきたということも、最後に記しました。
 軽井沢に引き上げてきましてから、すでに3年半になります。その間、引退教師としてではあるけれども、“二刀流”の技をどのように磨いてきたのか、今日は、前回の続きとして、先ずは、両刀の内、上記(2)の一刀をどのように用いているのか、振り返って見たいと思います。

(引退教師としての説教奉仕)
 幸いなことに、ここ3年ばかりの間、平均月2回ばかり、新潟、宇都宮、長野、佐久等、近隣の改革派諸教会で説教奉仕を依頼され、出張伝道する機会が与えられました。これは、引退教師にとっては、老化防止のためにも、大変ありがたいことです。また、教会の側でも、特に定住の牧師を欠く“無牧”の教会にとっては、嬉しいことなのだと思います。そんなわけで、私も、月1,2回、力を込めて講壇の奉仕をさせていただいているところです。
 心がけていることは、次の三つです。 
 1)神の言葉を取り次ぐこと。
 そのために、聖書のテキストに密着した話しの構成と語り口を心がけています。もちろん、説教は、神の言葉(Ⅰテサロニケ2:13、第二スイス信仰告白第1章)であると同時に、人の言葉でなされるのですから、説教者の好みや経験、思想的傾向が反映されないわけではありません。しかし、人を救うのは、人間の知恵や知識ではなく、天より啓示された神の言葉ですから、神の霊感を受けた聖書のテキストに密着しつつ語ることが大切と考えています。ですから、聞く側としても、説教を聞いた後で、自分でその聖書箇所を再読し、説教で聞いたことが聖書の教えと合致していることを確かめるようしていただければ、最高ですね(使徒17:11参照)。 
 2)説教者と会衆(礼拝参加者)ー主にある交わりの中でー
 説教者から会衆へという一方通行ではなく、礼拝に集ってこられた方々と対話するような姿勢で御言葉の説き明かしができるようにと心がけています。キリスト教会の良い伝統の一つに、礼拝の中で説教者と会衆が交わす相互祝福の挨拶があります。説教者(または司式者)が「主があなたがたと共にいてくださいますように」と呼びかけますと、会衆は声を合わせて「主があなたを祝福してくださいますように」と応えるのです(ルツ記2:4参照)。こういった主にある交わりの中で御言葉が説き明かされるときに、御言葉はふさわしい実を結ぶのです。
 それで、「ウェストミンスター大教理問答」でも、説教に召された者のための指針(問159)と共に、説教を聞く者のための指針(問160)を書き加えているのです(注)。 
 3)公同の礼拝にふさわしく。
佐久会堂
教会や学校、家庭等においてささげられている幾多の礼拝の中で、日曜日(主の日)に教会でささげられる礼拝は、特に「公同礼拝」と呼ばれています。これは、英語で言えば、Public Worship Serviceで、「すべての人に開かれた礼拝」を意味しています。ですから、この公同礼拝でなされる説教は、全世界に向かって語られる「公の性格」を持っているということになります。この点において、公同礼拝における教会の説教は、上記(1)の「有神的人生観世界観の確立」という改革派教会の目的と合致しているのです。
 ただ、説教には、もう一方で、「その地方の、その教会に対する説教」というローカルな面もあります。説教者は、自分が奉仕するその教会の礼拝に集ってくる一人一人を心に思い浮かべながら、そのニードに応える説教を準備します。それ以外ではありません。上記「ウェストミンスター大教理問答」問159でも、説教者がいつも「聞く者の身になって、その必要としていることと理解力とに気を配り、知恵を働かせて」神の言葉を語らなければならない、と教えています。
 このように、公同礼拝での説教には、「全世界に向かって」という面と、「この礼拝に集まって来られた人々のために」という両面があるのです。そして、幸いなことに、この両者は決して矛盾せず、一つの説教の二つの面なのです。今はやりの言葉で言えば「グローカル」な性格を持っているのが私たちの礼拝説教なのです。グローバルとローカル、正に“二刀流”の説教です。

(「ウェストミンスター大教理問答」による学習会) 
 イエス・キリストの伝道方法は、「教え」と「説教」と「癒し」の三本立てでした(マタイ4:23、9:35)。とても現実的な伝道方法です。一方的に「説教する」だけでは、教会は建たない。神様の御言葉という権威をもって「宣べ伝える」、と同時に、膝と膝をつき合わせて「教える」教会教育がなければなりません。また、どの町にも教会にも、病気等で苦しんでいる人がいます。福音と「癒し」は決して別ものではありません。
 それで、どこの教会にも、礼拝と教会学校があるのですが、多くの場合、教会学校は子供たちのためだけのプログラムとなっています。すべての年代層に対する教会教育が必要です。私は、熊本“第二次”伝道では、礼拝後の “ティータイム” を「教理セッション」と名付けて、教理問答の学びをするようにしました。今でも、熊本では、後任の先生に引き継がれているようで、感謝しています。テレビやインターネットで情報を得ている今の時代の人々が、教会では、「教理の学び」に少しでも楽しんで欲しいと、名称など工夫を凝らしたつもりですが、果たしてどうでしょうか。
 新潟伝道所では、説教に行く度に、昼食後1時間半の学習会で、「ウェストミンスター大教理問答」を学びました。キリスト教の信仰や生活のことについて共に語り合い分かち合う、良い交わりの時ともなりました。また、佐久の教会では、毎月第3主日の午後、やはり「ウェストミンスター大教理問答」の学習会を担当させていただきました。今は、新しく赴任された牧野信成牧師による学習会と婦人会/男子会における『信徒の手引き』の輪読会に引き継がれています。
 なぜ説教と共に教理の学びが必要なのでしょうか。宗教改革以来、プロテスタント教会で重んじられてきた原理に、「聖書のみ」(Sola Scriptura)と、「聖書のすべて」(Scriptura tota)があります。説教では、人の言葉や思想ではなく、神の言葉を取り次ぐということで、「聖書のみ」が強調されるのに対して、教理の学びにおいては、聖書啓示の全体を視野に入れて、神、聖定(永遠のご計画)、創造、摂理、人間の罪、恵みの契約、キリスト、聖霊、教会、救いの恵み、死と復活、審判、神の律法、恵みの手段(御言葉、礼典、祈り)など、私たちの信仰と生活に関わる大切な教えを学びますので、「聖書のすべて」が強調されるのです。このように申しますと、教理の学びは難しいことのように思われるかも知れませんが、一言で言えば、「イエス・キリストは主である」という、初代教会以来の信仰告白を今の時代の私たちが聖書全体から読み取る以外のことではないのです。そういう意味では、心躍る福音の学びです。
 
 以上は、“二刀流”伝道者として今用いている”第二刀”(「信仰告白・教会政治・善い生活において一つである聖書的教会の樹立」)に関わることです。次号では、引退教師としての私が左手に握った”第一刀”(「有神的人生観世界観の確立」)を、どのように錬磨し使用しつつあるのか、お分かちできればと願っています。

(注)
「ウエストミンスター大教理問答」
 問159 神の言葉は、その職務に召された者によって、どのように説教されなければ なりませんか。
  御言葉の宣教に努めるように召された者は、次のようにして健全な教えを説教しなければなりません。 折が良くても悪くても、熱心に。人を惹きつけようとする人間の知恵の言葉によらず、御霊と力との立証によって、はっきりと。神の御計画を余すところなく告げて、忠実に。聞く者の身になって、その必要としていることと理解力とに気を配り、知恵を働かせて。神と神の民の魂への燃えるような愛をもって、ひたむきに。神の栄光ならびに神の民の回心と育成と救いとを目指し、心を打ち込んで。
  
  問160 説教される御言葉を聞く者には、何が求められていますか。
    説教される御言葉を聞く者には、次のことが求められています。すなわち、注意力と準備と祈りとをもってこれに傾聴すること。聞くことを聖書によって確かめること。信仰・愛・素直さ・気構えをもって真理を神の言葉として受け入れること。説教される御言葉を瞑想し、それをめぐって語り合うこと。説教される御言葉を心に蓄え、自分の生活の中で実を結ばせること。

「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。」(テサロニケの信徒への手紙一2章13節)


【ラベル「平昌オリンピックに見る“二刀流”の勝利」もごらん下さい】

A・ウォルタース著、宮﨑彌男訳『キリスト者の世界観―創造の回復』(増補改訂版)の出版について
教文館出版部から、4月初めに発行予定です。ご期待下さい。この度の増補改訂版では、初版の訳文を、より正確で読み易く改訳すると共に、「物語と宣教を媒介する世界観」と題してゴヒーン&ウォルタースが新たに執筆した「あとがき」(原著で24頁)を加え、「増補改訂版」として出版するものです。単なる再版ではなく、新しい本として出版しますので、既に、初版を読んだ方も、ぜひもう一度購入して、読み直していただければ幸いです。

「思想とキリスト教研究会」の講演会に出席

 2月26日(月)午後、東京恩寵教会で開催された「思想とキリスト教研究会」の講演会に出席する機会を得ました。講師は、東京基督教大学准教授の加藤喜之氏で、「改革派と初期啓蒙思想:スピノザという問題」という題で、興味深い講演をしてくださいました。加藤先生は日本長老教会の会員ですが、音楽と哲学を専攻された学生時代(テキサス大学)よりスピノザとその時代の神学/哲学について学んで来られた方です。講演の中で印象に残っていますのは、神学がわかっていないと、かの時代の哲学思想は正しく理解できないのではないか、と言われたことです。キリスト教学(神学、哲学、諸学)の重要性について、改めて覚えさせられたひとときでした。

【石丸新先生による研究ノート「ウ大教理問答の洗礼論」】
右欄のラベル「ウ大教理問答の洗礼論」を選択してお読み下さい。ウ大教理問答165、ウ小教理94、ウ信仰告白第28章において、洗礼の中心的な意義として、「キリストと接ぎ木されること」が教えられていますが、そこでは、名詞「接ぎ木」(ingraftment)ではなく、動名詞「接ぎ木されること」(ingrafting)が用いられています。石丸先生はこのことに注目し、「ここでも、キリストへと接ぎ木され、キリストの命を受けて新しく活かされるという恵みの躍動が描き出されている」とコメントしておられます。洗礼を受けたものは、このような生命的な絆でキリストと結び合わされているのですね。ハレルヤ!

【『ホ・ロゴス』Vol.20.No.4】
 この度、「それでは如何に生きるべき会」(ロゴス会)の機関誌『ホ・ロゴス』の最新号に、私の「キリストの王権にひれ伏すーICS50周年に当たって」が掲載されました。この機関誌を発行している「それでは如何に生きるべき会」(ロゴス会)は、「キリスト教世界観を日本に確立し、人類の全領域にそれを適応するための学びと交わりを深める」ことを主な目的としている会です。問い合わせは、ロゴス会事務局(〒206-0025 多摩市永山5-34-15-2 山川暁方)まで。

「ICS軽井沢文庫だより」の印刷のために

「ICS軽井沢文庫」を開き、ラベル「ICS軽井沢文庫だより」第15号を選択します。次にパソコン右上のオプション設定のマーク(縦3つ)をクリック、印刷を選択する。左欄のオプションを両面印刷にし、詳細設定の中の倍率を150背景のグラフィックもオンにしてください。印刷ボタンを押すと OKです。同様に、他のすべてのラベルも、選択して、印刷することができます。


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389-0115長野県北佐久郡軽井沢町追分36-23 宮﨑彌男・淳子

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Eメールmmiyazk41@gmail.com   ブログ「ICS軽井沢文庫」<ics41.blogspot.jp> 

「平昌オリンピックに見る“二刀流”の勝利」

平昌オリンピックに見る”二刀流”の勝利】’宮﨑彌男

平昌冬季オリンピックが閉幕しましたが、日本選手団は金4、銀5、銅4、計13のメダルを授与され、意気揚々と故郷に凱旋してきました。今回の冬季オリンピック、いつになく、日本選手のここ一番に力を発揮する「精神力」に感動させられたのではないでしょうか。でも、それだけではなかったのです。
 私は、家内が関西の方に行っていた留守中、一人で食事をしながら見ることが多かったのですが、特に、男子フィギュアの羽生結弦と女子スピードスケートの小平奈緒が優勝したときには、ヤッタと思いました。羽生は、怪我がまだ治りきらない「満身創痍」の状態で、4回転ジャンプを何度も決めて、金メダルに輝きました。長野県出身の小平も「選手団の主将を務めると金は取れない」と言われているジンクスを気にしながらも、オリンピックのプレッシャーに打ち勝って、優勝しました。他方、両者共に、4年間の努力が本当に報いられたと喜んでいました。
 彼らは、”真摯”(小平の言葉)な練習の積み重ねによって身につけた実力と、プレッシャーをも「味方に付けてしまう」(羽生の言葉)精神力=人間力という“二刀流”で勝利をものにしたと言うことができます。実力と精神力(=人間力)の両刀でもって初めてオリンピックという晴れの舞台で勝利することができたのです。おそらく、どちらか一刀だけで戦っていたならば、金メダルはなかったのではないでしょうか。
 私たちの生活や伝道も、普段の修練とここ一番という勝負どころ、この両刀使いで初めて勝利できるのですね。

2018年3月8日木曜日

ウエストミンスター大教理問答の洗礼論

ウエストミンスター大教理問答の洗礼論(石丸新)


1.キリストと接ぎ木されること
 洗礼の定義を下す165問では、水の洗いをもってキリストがしるしとなし、証印となし
てくださることが3点にわたって述べられている。
  ① ご自身へと接ぎ木してくださること
  ② ご自身の血による罪の赦しと御自身の聖霊による再生
  ③ 子とすることと永遠のいのちへの復活
 冒頭に置かれていることからも分かるとおり、キリストへと接ぎ木されることingraftingは限りなく重い。
 ② の赦し remission および再生 regeneration、③ の子とすること adoption および復活 resurrection がいずれも ーtionに終わる名詞であるのに対し、①の ingraftingが動名詞であることに注目したい。
 農業での接ぎ木を表す名詞は engraftment/ingraftmentである。
大教理165がことさらに動名詞 ingraftingをここで用いたのはなぜか。しかも177問に
再び ingraftingを重ねた意図は何であったのか。
 
 キリストとの結合(union)とは何かと問う大教理66は、答でキリストに……分離できないように結び合わされることだと言う(joined)。この結び合わされているさまが命に溢れていることを特に鮮やかに表現するのが、動名詞ingraftingだと思う。キリストが主権の
恵みをもって、この私を分離できないように、ご自身へと接ぎ木してくださる。接ぎ木されたからには決して離れることがない。引きちぎられたり引き剥がされたりすることもない。動名詞の活力を十分に読み取りたい。また、翻訳に活かしたい。
 大教理165でのingraftingをあたかもingraftmentであるかのように、ご自身への接ぎ木
とする訳が見られるが、ここはご自身へと接ぎ木してくださること(宮﨑訳)、彼に接がれたこと(岡田訳)とするのがふさわしい。
 なお、小教理94にも our ingrafting into Christ が用いられているが、ここでも、キリストへと接ぎ木され、キリストの命を受けて新しく活かされるという恵みの躍動が描き出されている。
 小教理30では、有効召命において私たちをキリストに結び合わせる聖霊の働きが言われ
ている。ここでの uniting us to Christ を、明治12年訳は「キリストに接がしむる」と言い表した。まさに、キリストへと接ぎ木してくださることに基づくキリストとの結合である。
 この意味で、ingrafting はキリストに接ぎ木されることとキリストに接ぎ木されているさまの両面を表すものと言える。

 ingrating into Christ のinto も注目に値する。このintoは、大教理165,177での証拠聖句、ガラテヤ3:27をそのままに反映している。For as many of you as have been
baptized into Christ …このinto(eis)を的確に言い表すのに、諸訳は工夫を施してきた。
 教理問答でのinto Christ を、キリストの中に、と訳したりはしない。この場合は、
キリストに接ぎ木されるよりも、キリストへと接ぎ木されるとする方が日本語らしい。intoの勢いを伝えるためにも。

 ハイデルベルク問答70では、洗礼に際し、キリストの肢(えだ)として聖別されること
が言われている。キリストの一部分(Glied)とする訳もある。 同74では、幼児もまた
洗礼によって、キリストの教会の肢とされることが言われている。キリスト教会に接ぎ木
されるとする訳もある。einverleibt…(be taken into) えだとして入れられるの訳もある。
 ウ大教理は、ずばりingrafting を用いて、事柄を明確にした。ヨハネ福音書15章にある
イエスの言明は限りなく重い。

2.子とすることのしるし
 洗礼の定義としては、ウ告白28章1節より、ウ大教理165の方が詳しい。そこでは、、水の洗いをもってキリストがしるしとなし、証印となしてくださることの一つとしてadoptionが挙げられている。しかも、キリストへと接ぎ木されることに密接に結ばれる形で子とすることが言われているのに注目したい。
 キリストへと接ぎ木されている者が、罪を赦され、再生させられた者として、神の子の身分を授けられ、地上にあって、神の子としての厚遇を受ける。ひとえに、キリストご自身
の血によること、また、キリストご自身の御霊によることである。

 ウ告白28:1で既にキリストに接ぎ木されることが挙げられていたが、子とすることへの
言及は無い。そこでは、受洗者がイエス・キリストを通して神に身をささげて新しい命の
中を歩くことが言われている。これに対応するのが大教理165での子とすることと考えることができようか。神の子の身分を授けられた者が神の子らしく「新しい命に生きる」
(証拠聖句ローマ6:4)。

 キリストへと接ぎ木されていることと、神の子とされていることの直結が、日本キリスト改革派教会創立六十周年記念「終末の希望についての信仰の宣言」に明白に述べられて
いる。
 二(三)……また主は、洗礼を通して、御自分に接ぎ木されたわたしたちが、罪に死に、
 復活の新しい命に生かされ、キリストのものとされていることを確証されます。
 二(四) わたしたちは、御霊によって、キリストにあって新しく創造され、神の子とさ
 れ御国の相続者とされています。
 なお、二(二)では既に、次のとおり言われていた。天上の復活の主キリストは、聖霊に
 よって、わたしたちを御自分へと結び合わせ、死から命へとよみがえらせ、……。
 キリストに結び合わされたこの民こそ、新しい契約の民、聖霊の神殿、来たるべき世の
力に満ちたキリストの体、キリストの花嫁である教会です。
 *上に言う「キリストに結び合わされる」ことが即ちキリストに接ぎ木されることで
  ある。

 最後の審判の日に、新しい天と地が現れ、上の国は栄光の王国として完成される。
新しいエルサレムにやって来るのは、「……栄光の神の子たち、キリストにある新しい
人類です。この神の民は、世々限りなく主と共に統治します。」(同宣言四(四)

3.洗礼の公的性格
 問165の答えに次のとおり言われる---and whereby the parties baptized are
solemnly admitted into the visible church,…
 ここのsolemnlyは従来「厳かに」、「厳粛に」と訳されてきたが、宮﨑訳では「正式に」
となった。洗礼式を支配する張りつめた厳かさ、あるいは式に漂う荘厳な空気は、事柄
にふさわしい。しかし、ここでは、洗礼による教会への入会が公式のものであることが
重要なポイントである。
 日本キリスト改革派教会『式文』洗礼式誓約に次のとおり記される。「(氏名)、あなたは、次の信仰を告白し、誓約をしなければなりません。これによって、あなたは神と
教会との厳かな契約に入れられます。」
 参考としたと思われる南長老教会版Directory for Worship では次のとおりーーー
…、 by which you enter into a solemn covenant …  ここでのsolemnは、公の、
正式の意。
 辞書によれば、solemn=宗教上の形式にのっとった〔法〕正式の
 〔例〕solemn oath 正式の誓約

 ヴォスの注意書きに注目したい…このsolemnlyは教理問答の中で「公に」とか
「公式に」という意味で使用されていることは明らかである。(ウ大教理講解〔下〕
p.82)
 問167の答に「洗礼時に行った公の誓約」(宮﨑訳)が出る。our solemn vow made
therein 諸訳では、おごそかな誓約、厳粛な誓約。この solemn vow をもって、見える
教会へと正式に(solemnly) 受け入れられる(165問)。
 洗礼の公的性格は、165答の続きから明らかに補強されているand enter into an open
and professed engagement to be wholly and only the Lord's.  openは、公の、公然
たるの意。
 professedは、誓約を伴った、誓約に基づく、誓約しての意。
 engagement は誓約、誓約に基づく関係、契約関係の意。

 問166の答……till they profess their faith in Christ and obedience to him 及び…
professing faith in Christ, and obedience to him での profess 及びprofessing は、
公に言い表す/公に言い表しているとの公的性格を描き出している。同時に165の正式に
受け入れられる、公の契約関係と響き合っている。
 辞書でprofessを引けば、「~への信仰を告白する」がもちろん出るが、それに並べて、
他動詞「教団に正式に入会させる」が記される。なお、自動詞の場合の例として「宣誓
して宗門に入る」が挙げられる。 一般の辞書から改めて教えられた。

4.洗礼を生かして用いるべき義務
 問167は次のように問う…How is our Baptism to be improved by us? 答は次のとおり始まる…The needful but much neglected duty of improving our Baptism, is…
 ここで用いられるimprove をどう記せばよいか。向上させる、改善する、改良する、
増進するが第一義だが、第二義に,、十分に[うまく]利用する、が挙げられる。すなわち、
事柄の目的にかなうように、その趣旨に合致するように、あるものを用いる、の意。
to good effect の意。望ましく、かつふさわしい用い方が、ここでは求められている。
 諸訳では、よく用いる、生かして用いる。適切に用いる、も可能か。
 同じ用法が195にも見られる。誘惑を生かして用いる、誘惑を益となるようにきよく用いる。

 洗礼は一回限りであるだけに、これを生かして用いる場が他の人の洗礼に立ち会う時であることはよく分かる。167の答が示すとおり。しかし、そこでは、他の人の洗礼への臨席に先立って、「試練の時」(誘惑)が挙げられていることに目を留めなければならない。
 試練の時にこそ、自分の受けた洗礼に立ち帰らなければならない。洗礼がすぐれて
公的なものであることに思いを致さなければならない。洗礼時に行った公の誓約を真剣に
考えなければならない。
 167の答を声に出して読むこと、事柄の重大さが身に迫ってくる。果たすべき責務の
広がりに圧倒されるばかりである。
 さらに、主の祈りの第6の祈願を扱う問195との生き生きとした関連に目と心を奪われる。そこでは、サタンの企みと魔力の現実が一枚の絵のように描き出されている。同時に、
サタンを制服する神の力と勝利とが歌い上げられている。しかも高らかに。
 167問,195問とはセットとなって、神の計らいの広がりと奥深さとを私たちに告げている。大いなる牧会書簡と言える。ウ小教理では味わえないものが、ここにある。
 167の答の証拠聖句の一つであるローマ6:3-5で、パウロはキリスト・イエスに結ばれる
ために洗礼を受けたその意義を知らないのですか、と問うている。167答原文のthe death
and resurrection of Christ into whom we are baptized のこなれた訳に到達するのは
難しい。 Rom.6:3…were beptized into Jesus Christは、さまざまな工夫を施して邦訳
されてきた。
 キリスト・イエスに合ふバプテスマ(文語訳)
     ”    あずかるバプテスマ(口語訳)
     "    結ばれる為に洗礼を受けた(新共同訳)
     ”    つくバプテスマ(新改訳)
 洗礼を受けてキリスト・イエスと一致したわたしたち(フランシスコ会訳)
 キリスト・イエスへと洗礼を受けたわたし達(塚本訳)
 キリスト・イエスと一つになるためのバプテスマ(柳生訳)
 キリスト・イエスへと洗礼を受けた私たち(青野訳)
    *「……へと」はeisをそのままに置き換えたもの。

 167答では、次のように訳されてきた。
  その御名に入れて洗礼せられたキリストの死と復活(岡田訳)
  わたしたちが洗礼によって入れられているキリストの死と復活(改革派委員会訳)
  洗礼によって結び合わされたキリストの死と復活(鈴木訳)
  洗礼によって接ぎ木されたキリストの死と復活(松谷)
  洗礼によって一体とされているキリストの死と復活(宮﨑訳)
      *上のローマ6:3諸訳に照らせば
       自分たちが洗礼によって 一つとされているキリスト
                   一つに結ばれているキリスト
                   一体とされているキリスト
       のいずれかが順当と考えられる。 松谷訳の 「接ぎ木された」
       は、一つとされているさまを巧みに描き出されている。
       165答 キリスト御自身への接ぎ木と呼応している。

 洗礼を生かして用いるべき道は多岐にわたるが、わけても、キリストに接ぎ木されて、キリストと一つにされていることに深く思いを致し、そのキリストの死と復活とから力を
引き出さなければならない。キリストに接ぎ木されているという動かし難い恵みの事実 が罪に打ち勝つ力の源である。接ぎ木に優る比喩は見当たらない(ヨハネ15章)。
 ジュネーブ問答345で既に、私たちがキリストと一つであることが明確にされていた。
(ヨハネ17:21)

5.キリストへと接ぎ木されることと キリストとの結び付き
        (ingrafting)                             (interest)
  165答では、洗礼がキリストへと接ぎ木されることのしるしであり証印であると明言
されている。
 172答では、主の晩餐に臨むにあたり、キリストとの真の結び付きを持っていることを
心に留めるべきことが求められている。
 両者は見事に響き合っていると読める。interestの上のような用法を日常目にしないこと
から、これを「関心」とする訳本もあるが、ここでのtrue interest in Christ は、「キリストに真にあずかっている」(松谷訳)、「キリストとの真の結び付き」(宮﨑訳)が意を
伝えている。
 水の洗いではキリストへの接ぎ木を証印され、主の晩餐ではキリストとの結び付きを
深く思う。

 172答でのこのinterestにかかわる証拠聖句のうち、特に詩編77:2-13は神の主権の恵み
に基づく聖徒の堅持と証言してやまない。神との結び付きを躍動感をもって告げている。
なお、欽定訳聖書には、172での意味のinterestの用例はない。
 ウ告白27:1は礼典全般の定義を記す部分であるが、そこに礼典が確証するものとして、
our interest in Him (Christ) が挙げられている。関心、権利の訳も見られるが、ここでの
interestは、関係、関わり、あずかること、結び付きがふさわしい。
 証拠聖句のうち、ガラテヤ3:17に3:27を加える版もある。3:27のみとする版もある。
3:27 新共同訳、洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからである。
 なお、ウ告白の明治13年訳では「信者ノキリストニ興ル事ヲ堅フシ」とあり、意を
伝えている。

 ジュネーブ問答で、この「結び付き」が既に明らかにされていた。358では、聖晩餐
に近付くに先立って自分を検討すべき内容として、キリストのまことの肢であるかどうかが挙げられる。 渡辺は358, 359を解説して言う…「キリストの真の肢であるかどうか、すなわち、キリストと真実に結び付いているかどうか。キリストと結び付いていないにもかかわらず、聖晩餐の印を受けるのは相応しくない。…相応しくあるとは、受ける側が条件付けられることを意味するのでなくキリストと結び付いている必要があることを言う(p.271)。
 *下線部は、ウ大教理 172での true interest in Christ を思わせる。
  ジュネーブ→ウエストミンスターの流れは随所で認められる。
                                (以上)
                                       
                    

                          


 
  
 





 


 
 
、水