2018年1月22日月曜日

「ICS軽井沢文庫だより」NO.14

”二刀流”の伝道者

宮﨑彌男

 
 大谷翔平選手が米国メジャーリーグのエンゼルスでプレーすることになりました。果たして、彼の “二刀流” がメジャーリーグでも通用するのかどうか、注目されています。多くの “超高校級” と言われた野球選手(例えば、王貞治さん)は、高校時代は、投手としても打者としても活躍しましたが、プロ入り後は、打者一本に専念して、世界のホームラン王となりました。大谷選手のユニークな所は、少なくとも日ハムでプレーした最初の2年間は、打者としても投手としても、それなりの成績を上げ、“二刀流” はプロでも可能との期待を抱かせたことです。
 さて、実は、私も “二刀流” なのです。牧師/伝道者として、50数年 “プレー” してきましたが、当初から “二刀流” の伝道を目指し、試みてきたことは確かです。今日は、年頭の「文庫だより」ですので、私の50余年の伝道者人生を振り返りつつ、ちょっとそんな話しをさせていただきます。
 
(日本キリスト改革派教会の「創立宣言」)

 そもそも、私が17才の時に導かれて受洗した教会は、「日本キリスト改革派教会」というのですが、この教会は、1946年4月の創立以来、ずっと “二刀流” の伝道を戦後の日本において展開してきているのです。これは、この教会が創立時に公にした「日本基督改革派教会 宣言」において述べられている日本伝道論なのですが、心躍る文章ですので、その部分だけ、ここに引用/掲載させていいただきます。
 
 「終戦後既に九ヶ月、敗戦祖国の再建は種々なる構想と方途によりて計られつつありと雖(いえど)も、聖書に『神家をたて給(たま)ふにあらずば、建つる者の勤労は空しく、神城を守り給ふにあらずば、衛士(えじ)のさめ居(お)るは徒労(むなしきこと)なり』と、あるは真(まこと)なり。宇宙と人類を主宰し給ふ全知全能至聖至愛の神を信ずるに非(あら)ざれば、一国と雖も善く建ち善く保たるる道理なし。…今後より良き日本の建設の為に我等は誠心誠意歴史を支配し給ふ全能にして至善なる神の御心に適(かな)ふ者とならざる可()からず。その誡命(いましめ)の如(ごと)く神を敬ひ、隣人を愛し、単に精神文化的部面に於てのみならず、『食(くら)ふにも飲むにも、何事をなすにも凡(すべ)て神の栄光を顕(あら)はす事』を以つて至高の目的となさざる可()からず。此(こ)の有神的人生観乃至(ないし)世界観こそ新日本建設の唯一の確(たしか)なる基礎なりとは、日本基督改革派教会の主張の第一点にして、我等(われら)の熱心此処(ここ)に在(あ)り。…神のみ明かに知り給(たも)ふ所謂(いわゆる)『見えざる教会』は全世界に亘(わた)り、過去、現在、未来なる全歴史を通じ地上と天上とを貫きて聖なる唯一の公同教会として存在す。然(しか)れども、我等は地上に於(おい)て、見えざる教会の唯一性が、一つ信仰告白と、一つ教会政治と、一つ善き生活とを具備せる『一つなる見ゆる教会』として具現せられる可()きを確信す。是(これ)日本基督改革派教会の主張の第二点なり(『日本キリスト改革派教会宣言集』より)。

 “二刀流” 日本伝道論) 

 ここに、 “二刀流” の日本伝道論が繰り広げられているのがおわかりでしょうか。その “一刀”は、日本における有神的(神が共におられる)人生観・世界観の確立と実践であり、もう“一刀”は、信仰告白・教会政治・善き生活において一つである制度教会の樹立です。 
 私は、神学校入学前の学生時代に、当時日本キリスト改革派東京教会牧師であられた矢内昭二先生より、このような日本伝道論を教えられ、以来、このヴィジョンに導かれて、50年有余、日本伝道に献身してきました。
 1967~70年、神戸改革派神学校で、改革派神学による基礎的な伝道訓練を受けた後、1970年11月に教師受按、宝塚、国立(くにたち)、熊本、灘、つくばの諸教会/伝道所で、伝道/牧会に従事してきました。 
トロントのICS
その間、1972~75年、トロントのキリスト教学術研修所 (Institute for Christian Studies)に留学、改革主義キリスト教哲学/神学を学びました。この研修所については、前月号の「文庫だより」(NO.13)ですでに紹介しましたように、1880年にオランダ・アムステルダムで、アブラハム・カイパーによって創設された改革派総合大学、Free University と理念を同じくする研究/教育機関を北米大陸において設置したいとの一連の改革派信徒のヴィジョンにより、1967年に始められたばかりの研修所でした。私は、その第一回の卒業生だったのですが、1975年に、修士論文「禅仏教の基礎構造ー即非の論理ー」で、M.Phil.の証書を得て帰国、日本キリスト改革派教会の教師として、牧会/伝道の働きに復帰しました。このICSで、私は日本伝道の有神的ヴィジョンを深め広げることができたと感謝しています。

(現役牧師としての働きを振り返って)
 
 このように、私は、2011年7月に定年引退するまで、トロントに留学した3年間を除く38年間、日本キリスト改革派教会の教師として伝道牧会の働きに従事したのですが、果たして “二刀流” の名にふさわしい伝道ができたのか、その切れ味はどんなものであったのか、正直言って、引退教師となった今、反省させられているところです。
 右手に、「有神的人生観世界観の確立」という名刀を握り、左手には、もう一つの「信仰告白・教会政治・善き生活において一つである教会の樹立」という伝家の宝刀を、これぞと高く掲げて神の召命に応えようとしたのですが、現実には、バランスの良く取れた戦いができたかどうか、反省せざるを得ないのです。
 具体的には、第二点の教会形成の使命が、プロテスタント宣教わずか150年の日本においては、多大のエネルギーを要するものであることがよくわかったということです。たとえば、教会規定に従って教会を建てるためには、長老(教会役員として、牧師と共に教会を治める職務をキリスト教会では「長老」と言っています)の選出が不可欠ですが (使徒言行録14:23等参照)、教会の歴史の浅い日本では、一人の長老を0から育成するには、10年かかると言われますように、様々な条件が整って、初めて教会設立に至るのです。牧師が、教会形成のため、説教・教育・牧会の務めを十分に果たそうとするならば、それで精一杯となり、創立宣言第一点の「有神的人生観世界観の確立」を目指す働きは、追々最小限のものとならざるを得なかったのです。
 例えば、わたしは、上記ICS留学時、日本においても、キリスト教学術研修所を立ち上げたいとの願いを与えられていましたが、説教・教育・牧会の務めと並行して、このような研修所の設置に向けて活動することなど、結果論かも知れませんが、とてもできませんでした。ただ、そのような中で、熊本伝道所時代に、九州連合青年会を指導する中で、A.ウォルタースの名著『キリスト者の世界観―創造の回復―』を翻訳・出版できたことは感謝でした。この書物は好評で、第二刷まで売り切れ、現在第二版(増補改訂版)の出版を準備中です。この訳書を読んだ人の多くが、キリスト教信仰による人生観・世界観が飛躍的に広げられ深められた、と喜んでおられます。
 
(転機) 

改革派熊本教会
転機は、2012~14年、“第二次” 熊本伝道の時に訪れました。引退教師として軽井沢に住むようになってもう半年後のことでしたが、2012年4月、私と家内は古巣の熊本教会に戻って代理宣教教師を務めるようにとの招聘をいただいたのです。牧師の転任により「無牧」となるので、ぜひもう一度来て欲しいとのことでした。私どもはこれに応じることにしました。私の仕事は、後任の専任牧師が来られるまでの2~3年、定住の代理牧師となることでした。牧師館に住んで、説教・教育・伝道から会堂管理に至るまで、正規の牧師が行うほぼすべてのことを代理として行うのです。ただ、以前の現役時代と違うのは、大会・中会関連の一切の委員会活動などは除外されていたことでした。それで、私として有り難かったことは、牧師本来の働きとも言うべき、説教や牧会に専念できることでした。教会員も、ほとんどが昔なじみの、気心の知れた方たちでしたので、この2年3ヶ月に及んだ熊本での代理宣教教師としての働きは、思いの外、楽しく、充実したものとなりました。私は、説教、牧会に、これまで覚えたことのないような喜びを感じるようになりました。
 
(調和した “二刀流” )

 そうすると、不思議なことに、私の心の中で、創立宣言の第一点と第二点、すなわち、有神的人生観世界観の確立・実践と教会形成は、一つの使命として自覚されるようになったのです。トロントICSで学んだキリスト教哲学/神学は、牧師としての私にとってなくてはならないものとして説教等に生かされるようになり、また、牧会伝道を通して教えられるすべてのことは、私の神学/哲学/世界観を深め、いっそう地に着いたものとするように思われました。私は、もはや、以前のように、第二点(教会形成)に力を入れると、第一点(有神的人生観世界観の確立/実践)がおろそかになると言ったような考え方をしなくなりました。むしろ、相互に強化し合うような関係にあるのではないかと思うようになっています。“二刀流” のたとえに戻るならば、私は “二刀流” をやめて、“一刀流” で行こうとしているのではありません。あくまでも “二刀流” なのですが、この二刀の間に調和があることに気付き始めているということなのです。
 
 次号では、このような “二刀流”の伝道を、引退後の今、どのように行っているのか、また今後の目標と計画等について、お分かちしたいと願っています。

「主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい。
 主御自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなし  い」。      (詩編127編1,2節)

【 石丸新先生にょる「ウ大教理問答における『神を見る』」を読んで 】

 

 先月号に、石丸新先生の研究メモ「ウエストミンスター大教理問答における『神を見る』の入力が終わった旨記しましたが、改めて読んでみまして、やっぱり素晴らしいです。「神を見る」と言えば、神秘主義者にでもならなければ、自分などとても無理と思われるかも知れません。けれども、聖書やウ大教理等を引きながら、この研究メモを読むと、自然にフォローできて、神を「見上げる」ようになります。ただ、石丸先生によれば、86問の答は委員会訳の「神のみ顔を仰ぎ…」よりも、新しい宮﨑訳の「神のみ顔を見て…」の方がよいとのことです。私たちは、地上にある限りは、神を見上げるのですが、「死の直後に至高の天に受け入れられた者は、そこで神を見る。…垂直ではなく、水平に」と書いておられます。神に関わることについて必要以上の敬意表現は、却って真の神との交わりから自分たちを遠ざけることになるのかも知れません。右の欄のラベル「ウエストミンスター大教理問答における『神を見る』」をクリック、できれば、プリントアウトしてお読みください。


【熊本教会修養会講演レジメ】

 
 上記「“二刀流”の伝道者」でも触れたように、私は、1978~1996年、宣教教師として、また、2012~2014年、代理宣教教師として、都合20有余年、熊本市の教会で伝道/牧会しました。その熊本教会が今年40周年となるというので、昨年8月26~27日、「40年を振り返り、これからを考える」というテーマで「修養会」を行いました。「ICS軽井沢文庫だより」NO.11にその報告文を載せています。私は、この修養会に招かれて、「熊本伝道所の40年を振り返って」と題する講演をしました。この講演のレジメもこのブログに掲載することにしました。右の欄のラベル表より「熊本伝道所の40年を振り返って」をクリックして、ご覧ください。

【本のプレゼント】


 希望者に次の書物をプレゼントします。
記念文集

①『恵みの泉、尽きることなく』―松田輝一・やゑ二人三脚66年―
 松田輝一先生とやゑ夫人の記念文集です。松田輝一先生(1905~1998)は、神戸長田教会、恵泉教会で長く牧師として奉仕されたほか、長田幼稚園の園長として、やゑ夫人と共に幼児教育にも献身された方です。わたしは、青年時代に米国で先生とお会いしてより、先生が92才で召されるまで、親しい交わりをいただきました。先生は、生涯、どんな若者にも負けない求道心旺盛な牧者/伝道者/教育者でした。私が伝道者となるためにご指導いただいた数少ない恩師の一人です。やゑ夫人(1910~1998)も、私の熊本時代、何度も達筆のお手紙で励ましてくださいました。

②『心やすし、神によりて安し』―粂野栄子 信仰の旅路 白寿まで―
 粂野栄子姉(1910~2009)は、上記やゑ姉の双子の姉妹で、私も青年時代同じ教会で何かとお世話になりました。やゑ姉と同じように、字も達筆でしたが、加えて絵もお上手でしたので、色紙に日本画と聖句を書いては、プレゼントしてくださいました。しかし、何よりも、生き生きとした信仰の持ち主で、そのことがこの記念文集を本当に読み甲斐のある本にしています。
 
 ご希望の方には、着払いで送(贈)りますので、ご連絡ください。両方でも もちろん良いですし、一冊のみご希望の場合は、どちらをご希望かお知らせください。なお、この度のご提供は、記念文集の編集者である、先生のご長男、松田高志氏(神戸女学院大学名誉教授)のご好意によるものです。

「ICS軽井沢文庫だより」の印刷のために

「ICS軽井沢文庫」を開き、ラベル「ICS軽井沢文庫だより」第14号を選択します。次にパソコン右上のオプション設定のマーク(縦3つ)をクリック、印刷を選択する。左欄のオプションを両面印刷にし、詳細設定の中の倍率を150背景のグラフィックもオンにしてください。印刷ボタンを押すと OKです。同様に、他のすべてのラベルも、選択して、印刷することができます。


【連絡先】

389-0115長野県北佐久郡軽井沢町追分36-23 宮﨑彌男・淳子

TelFax 0267-31-6303(携帯) 080-3608-3769

Eメールmmiyazk41@gmail.com   ブログ「ICS軽井沢文庫」<ics41.blogspot.jp> 

2018年1月20日土曜日

ウエストミンスター大教理問答における「神を見る」

ウェストミンスター大教理問答における「神を見る」

石丸 新


1.問86での「神の顔を見る」

 見えない教会の会員が死の直後に享受する、キリストとの栄光における交わりの局面の一つとして、この上もなく高い天で光と輝きのうちに神の顔を見ることが挙げられている。
 これは、ウェストミンスター信仰告白第32章1節での内容をそのままに受けたものである…the highest heavens, where they behold the face of God in light and glory, …。
下線部の翻訳は、「神の御顔を仰ぎ見る」と「神の御顔を見る」見るに分かれる。単純な「見る」では畏れ多いと考えて「仰ぎ見る」としたのか。
 大教理86の翻訳も同様に、「仰ぐ」「仰ぎ見る」「見る」に分かれる。証拠聖句Ⅰコリント13:12。 新共同訳では、顔と顔とを合わせて見ることになる。文語訳では、顔を対(あは)せて相見(あひみ)ん。「対」を「あわせる」と読ませる、すなわち合わせるに「対」の振り漢字を充てることによって、face to face(prosopon pros prosopon)の意を伝えた。対面。
 もう一つの証拠聖句Ⅰヨハネ3:2。新共同訳では、御子をありのままに見る。as he is
 ここからしても、大教理 86  behold の訳は単純な「見る」がふさわしい(岡田訳、宮﨑訳)。地上にある限りは、高く挙げられ、父の右に座しておられるキリストを仰ぎ見るが、死の直後に至高の天に受け入れられた者は、そこで神を見る。父なる神と主イエス・キリストと聖霊とを見る。垂直ではなく、水平に。(問90で後述)。

 ウ告白 32:1 の改革派訳ほかが「神の御(み)顔を見る」としたのに対し、1953年の松尾訳が「神の御顔を視る」としていたのにぜひ注目したい。「視」は旧漢字だが、常用漢字「視」の読みは「シ」に限られる。現在は「視(み)る」は表外の訓読みだが、意がよく伝わってくる。
 「見る」は、視覚で捉えることを表すのに幅広く用いられる、最も一般的な用語。(例)前を見る、外を見る、夢を見る。
 これに対して、「視る」は、視覚を注意深く働かせてつまびらかに観察する、調査する、判断することに用いる。(例)現地を視る、被害状況を視て回る。
 ウ告白32:1の松尾訳が「神の御顔を視る」としたことの意味は大きい。目(ま)のあたりに見る、注視する、凝視する が beholdの意味するところだが、熟視するも捨てがたい。

 一般的な動詞「見る」(orao)を多用するのはルカであった。注意深く読めば、救済史の要所要所での用例には「視る」の意が込められていたことに気付く。
   ルカ2:15 主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか
   ルカ2:17 その光景を見て
   ルカ2:20 見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので
   ルカ2:30※ わたしはこの目であなたの救いを見たからです
     …
   ルカ24:39 わたしの手や足を見なさい。 まさしくわたしだ。
         触ってよく見なさい
      ※岩波版 佐藤訳では、「私の両の目は、あなたの救いを拝見したから  
      です。」ここで特に「両の目」と言ったのは、28節「シメオン自らが幼子
      を両腕に受け取り」の「両腕」と対応させてのことである。
       幼な子としてこの世に降ってこられたメシア・イエスの重みを両腕にひ
      しひしと感じ、両目が幼子イエスをまざまざと見つめる。長きにわたる預言
      はここに成就し、救いが現実に来た。神の国は確かに到来した。

 ウ告白 1964年改革派委員会訳では、32:1の箇所は「神のみ顔を見る」と訳されてい
た。1963年改革派委員会訳大教理86での「神のみ顔を仰ぎ」とは一致させなかった。批判を込めたのか。
 折角の「見る」を2006年の改革派委員会改訳試案は「仰ぎ見て」とした。惜しい。  聖書の諸訳にも見られるように、日本の文化ではともすれば神に関わることについ   て、必要以上の敬意表現に傾く。

2. 問90での「神を直接に見る」
 
 問86は問90に昇りつめる。その内容が格段に高められる。 見えない教会の会員が栄光において享受する、キリストとの完全で満ち満ちた交わりが、考えも及ばない喜びを軸として展開される。
 審判の日に義人に対してなされることを列挙する問90の答で特に注目すべきことは、
「父なる神と私たちの主イエス・キリストと聖霊とをいついつまでも直接的に見て」(2014年宮﨑訳)と言われているところである。
 問86 死の直後に享受する交わりでは「神の御顔を見て」とあったところが、審判の日のことを告げる問90では、「三位一体の神を見て」と言われる。しかも、「いついつまでも直接に見て」。

 上の下線部の原文は in the immediate vision of である。カタカナ語ヴィジョンは未来像の意で身近な語だが、ここでの visionは本来の「見ること」「目撃」の意で用いられている。なおウエストミンスター信仰基準での vision の用例はここのみ。
 大教理86での beholdの証拠聖句 Ⅰヨハネ3:2 とⅠコリント13:12 は共に、大教理90での immediate vision の証拠聖句でもある。90で追加されたⅠテサロニケ4:17,18は主が来られる日に、地上に生き残っている者が空中で主と出会うために雲に包まれて引き上げられ、そこでいつまでも主と共にいることを告げている。to meet the Lord in the airと言われる meetingこそが、光と輝きの内なる immediate visionにほかならない。

 形容詞 immediate は、im/mediateに分解される。この場合 imは否定の in。mediateは media(pl.) medium(sg) から。すなわち、何の媒介もなしに、直接に、じかにの意。
雲の柱・火の柱によらず、この目でじかに、まじまじと、三位格にいます神を直視する、
凝視する、熟視する、正視する。何にも妨げられることの無い目撃こそが90問でのimmediate vision の言うところである。「顔の覆いを除かれて」(Ⅱコリント3:18)。

 上のⅠテサロニケ4:18「(そこで)いつまでも主と共にいる」に結ばれるのが、天上の礼拝を描き出すヨハネ黙示録 22:3,4 だと思う。90問の証拠聖句に欲しいほどだ。
 …and his servants shall serve him: And they shall see his face;… この see his face は、新共同訳では「御顔を仰ぎ見る」だが、文語訳では、「その御顔を見た」。今から身の引き締まるのを覚える。 岩波版 小河訳でも「彼の顔を見」。注に言う。「顔と顔を合わせて神を見る、の意味で、穢れた人間には許されず(出33:20、なお、創32:31 参照)、義人にのみ与えられた約束であった(詩17:15,42:3)。。

 日本キリスト改革派教会創立六十周年記念宣言(「週末の希望についての信仰の宣言」)二(三)「栄光の王国の先取りとしての礼拝」 に次のとおり言われている。
   地上の教会であるわたしたちは、全世界の教会と共に、また天上の群れと一
   つになって神を礼拝し、栄光の王国の礼拝を先取りして味わい、永遠の安息
   を確信し、御顔を仰ぎ見る日を待ち望みます。 (2016年刊『宣言集』117
   ページ)
 下線部には注として ウ大86,90が付されている。とすればこれまでに考察したとお
り、「御顔を見る日」とするのが良かったか。あるいは「御顔を見つめる日」。
   
 同宣言三(二)「死後の状態」に次のとおり記されている。
   天上の勝利の教会へ移された魂は、地上にあるよりもさらに豊かなキリスト
   との栄光の交わりにあずかり、先に召された聖徒たちとの愛の交わりを喜び、
   彼らと共に神の御顔を仰ぎます。(2016年刊『宣言集』121ページ)
 下線部は同様に「神の御顔を見ます」とするのが適切か。あるいは「神の御顔を見つめます」。ここの参照聖句にⅠヨハ三2が欲しいほどだーー「…なぜなら、そのとき
御子をありのままに見るからです。」

 改革派委員会訳大教理86では「神のみ顔を仰ぎ」、90では「父なる神と主イエス・キリストと聖霊を永遠に直接見て喜ぶ…」。本宣言執筆者は86での訳語にひっぱられたのであろう。
 
3.問90での「神を満ち足りるほどに喜ぶ」

 本問では、三位の神を直接に見ることと、この神を心ゆくばかりに喜ぶことが直結されている。原文では次のとおりーー
      in the immediate vision  and
                           fruition
                           of God the Father,
                           of our Lord Jesus Christ, and
                           of the Holy Spirit,
 神を見ることと神を喜ぶことが、単純な並列のことではなく、一体のことであることが構文から明らかに見てとれる。ここでの証拠聖句には挙げられていないが、詩篇17:15が注目に値する。
      I will behold thy face in righteousness:
                  I shall be satisfied, when I awake, with thy likeness.
 岩波版 松田訳では、「しかし私は、義にあってあなたの顔を視※、目が覚めたとき、あなたの姿に満ち足りよう。」
      ※神の顔を見る と諸訳の記すところを、松田は一貫して神の顔を視る と訳す
       11:7, 27:4, 63:3)。直視、正視、注視のさまを言い表す。
 関根訳では、…あなたのみ顔を見、…み姿をみてあき足りるであろう。
まさに、満ち足りるとは飽き足りるほどのことだ、と知らねばならない。なお文語訳で既に飽足(あきた)ることを得た。

 問90での fruitionは なじみの無い語だが、ウ告白7:1にも用いられている。…yet they could never have any fruition of Him…諸訳では神を喜ぶということ/神を喜び
とすること。 成果/収穫の語を充てる訳本もあるが、これは、fruitからの連想と思われる。事実、辞書を引けば、結実、成果の訳語を目にするが、辞書によっては、「結実」などの意は fruitとの誤った連想と明記して、注意を促している。(例)研究社リーダーズ英和辞典。
 OEDで fruitionを引けば、冒頭に the action of enjoyingが挙げられている。これに続くのが the pleasure arising from possessionである。そのうえで、fruitionが誤って fruitと結び付けられていることに注意を促し、このような誤用は英国の辞書でも米国のWebsterやWorcesterでも支持されていない、と注記している。先に触れたリーダース英和辞典での注記はOEDに従ってのものと思われる。
 
 fruitionは ラテン語 fruor (to enjoy)に由来し、『所有・実現』の喜びを意味する。
 ウ大教理 90での fruitionは、三位の神を我が主、我が神としていただいていることの無上の喜びを言い表している。 まさに、躍るばかりに神を喜ぶ。三位の神をいついつまでも直接に見て、この三位の神を喜ぶ。

 このように喜ぶさまを表す日本語に「法悦」がある。新明解国語辞典では、仏の道を聞き、随喜し、全身を仏にゆだね、絶対安心の境地に浸ること。肝にはまる字釈だが、キリスト教教理問答には使えない。
 「喜悦」もあるが日常語ではない。「歓喜」も考えられるが、結局のところ「喜ぶこと」に落ち着く。飽き足りるほどに喜ぶことを宮﨑訳では「満ち足りて喜ぶこと」と言い表した。

 ウ大教理第1問での「神を永遠にこの上なく喜ぶこと」は、第90問での「父なる神と私たちの主イエス・キリストと聖霊とをいついつまでも直接に見て、満ち足りて喜ぶこと」に見事に昇りつめる(いずれも宮﨑訳)。この直接に見ること (the immediate vision)
を、Vincent はウ小教理38を解説するなかで、the immediate and beatifical vision of
his faceと言っている。一般の辞書にさえ、beautific visionが採録されていて、驚くばかりである。 字釈は次のとおりー〔神学〕至福直感(天使や聖徒が天国において天主を見ること);神の栄光〔天国〕の示現。

 聖書の告げる「神を見る」ことには 神秘的な要素は全く無い。「見神」についてのこの上なく有益な論述は、アウグスティヌスの『神の国』第22巻にある「神の直視」の部分である。ウ大教理90での immediate visionの訳語としては、「直視」に勝るものは無い。…「直接に見て」、「直接に視て

 fruitionの意味する満ちあふれる喜びは 詩篇作者のしばしば歌い上げるところである。たとえば、16:11。
   in thy presence is fulness of joy
   文語訳 なんじの前(みまへ)には充足(みちたれ)るよろこびあり
   他の諸訳では、満ちあふれる喜び、満ち足り、あふれる…
   充足・充満・満足・横溢の意がさまざまに言い表されている
 次に63編を見れば、2節では神を見ること、神に目を注ぐこと、5節では神に飽き足りることが歌われて、うるわしい対を成している。
    2 To see thy power and thy glory, so as I have seen thee in the sanctuary.
     5   My soul shall be satisfied as with marrow and fatness; and my mouth shall
       praise thee with joyful lips.
  2節の I have seen thee を 文語訳は「目をなんじより離れしめざりき」と言い表した。
これは胸に迫る。注視、熟視。
 5節の be satisfiedを飽く、飽き足りとしたのは、文語訳、口語訳、関根訳。満ち足りるとしたのは、新改訳、新共同訳、松田訳、フランシスコ会訳。
 5節に marrow and fatness(髄と脂)の比喩が用いられていることからも、be
 satisfied は「満ち足りる」ではなく「飽き足りる」とするのが自然だと思う。my
 mouthが用いられていることからしても。
  ウ大教理90で「飽き足りて喜ぶこと」とするのはどうだろうか。教理問答書にそぐわないことはないような気がする。
 上の5節 文語訳が「わがたましひは髄と脂とにて饗(もてな)さるるごとく飽(あく)ことをえ」と、下線部を付して丁寧に表現したとおり、私たちは神の周到なおもてなしに飽き足りて喜ぶ。大教理90の折角の fruitionを「喜ぶ」の一語では済まされないものがある。

4. 問90での「喜び」の特質

 (1)約束実現の喜び
  p.7に記したとおり、によれば、fruition は the pleasure arising from possession
 の意である。これを受けるように、リーダーズ英和辞典は先ず達成、実現、成果の訳語
 を挙げ、次いで『所有・実現の』喜びを記す。後者が90問でのfruitionの意味するところである。
  長きにわたり地上で待ち焦がれていたものを遂に手に入れたとの躍り上がるような喜
 びが自分のものとなり、心は満たされる。
  86問 死の直後に、この上もなく高い天で神を見る
  90問 審判の日に、至高の天において父・子・聖霊なる神をいついつまでも直接に見
   て、飽き足りるまでに喜ぶ。・・・これ以上のことはない。
 福音の約束は、ここに何一つ欠けることなく成就された。地上から贖われた十四万四千人の者たちは、玉座の前で新しい歌をうたう(黙示録14:3)。とこしえまでも。

 90問では、実はfruitionに先だって、キリストの右に置かれた者が「考えも及ばない喜び
に満たされる」ことが明記されているーーwhere they shall be・・・filled with inconceivable joys,・・・ここで言う喜び(joys)の究極の姿が、joyを遙かに超えた満ち
足れる喜び(fruition)そのものである。fruitionが現代の英語話者になじみの無いことから、
これをenjoymentと言い換えた現代語訳があるが、それでは、joyとの違いがおぼろになる。
 繰り返すが、fruitionは無上の満足感を抱いて喜ぶこと、すなわち「満悦」そのものである。宮﨑訳「満ち足りて喜ぶこと」ー満悦。これこそ最高度の充実感。

 天国を目指す旅人であるわたしたちは、天国を憧れる。しかし、天国での祝福を待ち焦がれると言う方が、信仰の事態に即していると思う。キリストへと接ぎ木されて神の子とされた者は、地上でたどる旅路において、苦難に耐え、誘惑と闘う。その中で、天国でいただくこの上ない祝福を瞑想し、そのことによって、今、この地上で神の国の祝福を確かに
受け取っていることを確信する。 その確信は、天国でいただく計り知れない祝福を熱望
することへと連なる。

 「沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ」とダビデは訴えた(詩編37:7)。「沈黙して」は、信仰に基づく静けさと安らぎを言い表している。「待ち焦がれる」の語の原意は
「ねじる」で、身もだえするさま、もだえ苦しむ様子描写している。英語では`twist'。
日本語で「ツイスト」と言うとおり。信仰者の旅路には苦悶があり、極度の緊張がある。
自分の内なる罪、特に貪りの罪との闘いのただ中で神の手にすがって助けを祈る。ほえたける獅子のように向かってくる悪魔に抵抗し、信仰に踏みとどまるために、主キリストにはすがりついて力を祈り求める(Ⅰペテロ5:4ー11)。
 ひるむことなく、レスリングの激しさをもって神と取り組むばかりの燃える思いが「待ち焦がれ」の語の示すところである。終わりの日をひたすら待ち望むとは、このように闘い、このように励むことに尽きる。感傷的な憧れとは異なる。

(2)聖さと結ばれた喜び
  90問では、父・子・聖霊の神を直接に見て、満悦することにおいて、体と魂の両面で、完全にきよく幸せな者とされることが確信されている。…made perfectly holy
and happy…。
 イエスは言われたー「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」(マタイ5:8)この箇所での清さ・幸い・神を見るのトリオを大教理90でそのままに見る思いがする。
 英語でのここの`happy`を日本語で「ハッピー」と書けば、 途端に価値が下がる。
聖書の告げる happy, happiness は神との関係、人との関係、世界との関係における十全
かつ円満なあり方を指している。
 名詞 聖さと幸いの複合は、天使に対する神の摂理についても見ることができるー大教理 19答・・・神は、また、残りの天使たちを聖さと幸福のうちに揺るぎないものとし、
御心のままに、彼らすべてを、神の力と憐れみと正義の行使のために用いられます。(宮﨑訳)
 形容詞 happy が単独で用いられるのは、告白4:2である。……善悪を知る木から食べるな、という命令を受けたが、これを守っている間は、神との交わりにおいて幸せであり、…。(改革派委員会訳)
 神の恵みによって贖われた者は、地上にある限り、残る罪との闘いに従事し、聖化の道
を歩むが、時に罪に陥り、誘惑に打ち負かされる。しかし、神の不変の愛とキリストとの結合、さらにキリストの絶えざる執り成しによって、堅忍を与えられ、救いに至るまで固く守られる(大教理79問)。
   哀歌3:25-26は告げるーー
     主に望みをおき尋ね求める魂に
       主は幸いをお与えになる。
     主の救いを黙して待てば幸いを得る。

   大教理86問 見えない教会の会員のは、死の時 全く
      ↓  聖くされる。    ↓
      90問 審判の日に、義人は体と魂の両面で、完全に聖く幸せな者とされる。


 おわりに

  地上を旅するわたしたちは、自分の死を厳かに思い、終末の完成を心を躍らせて
 瞑想したい。満悦(fruition)を目指して地上の生を全うしたい。死後と終末を巡って、
 ウエストミンスター大教理問答 86問および 90問に勝る告白は他に無かったし、これからもおそらく無いであろう。この両問に深く心を沈めたい。
 地上の命を許される限り、声高らかに歌いたい。

       したしくわが主に まみえて喜ぶ
           ときはちかし。
       みもとにかえらば、つきせぬ命(いのち)を
           代々(よよ)たのしまん。
             (1954年版現行讃美歌165番4節)

                      (石丸 新)












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2018年1月18日木曜日

「熊本伝道所の40年を振り返って」(2017.8.26)

熊本伝道所の40年を振り返って
2017826()
宮﨑彌男      
(東部中会引退教師) 
序 私の自己紹介
・①19781月~19963(18年間)、熊本伝道所宣教教師、②20124月~20146(23ヶ月)、同定住代理宣教教師。計20年と3ヶ月(熊本伝道所40年の歴史のちょうど半分を小生が牧師として担わせていただいた。本当に光栄なことであった、と主と皆様方に感謝している。特に70才を越えてから,再び呼んでいただいて、引退教師として奉仕させていただいた②は、私と家内にとっては、幸いな時であった。と感謝している。
Ⅰ.熊本伝道の出発点(原点)
・日本キリスト改革派教会による熊本伝道は、日本キリスト改革派長丘教会(伝道所)の熊本集会から始まる。19741213日~197743日、毎月1回、常葉謙二長老ご夫妻宅で家庭集会。長丘教会の岩崎洋司牧師が出張奉仕。これが契機となって,日本キリスト改革派教会による熊本伝道が197811日の主の日に,正式に始められ、私が宣教教師として遣わされた。
・岩崎洋司先生の九州伝道のヴィジョン…有神的人生観世界観の確立と改革派教会の形成。これが改革派教会による九州伝道/熊本伝道の出発点/原点である。Cf. 岩崎洋司「九州の開拓伝道に寄せて」(中央宣教研究所『紀要』第8号、10,28-29)、「創立二十周年記念宣言」「回顧」の項。(資料1)
・聖書における有神的世界観と教会の使命…詩編24編に学ぶ。
1節]私たちが住んでいるこの「世界」とはどんな所か。主が「ご自身のもの」として、ご支配なさっている所なのだ。
2節]…基礎工事は、主がなさった。それ故に,堅固な土台は据えられている。「潮の流れ」もこの土台を壊すことはない。
3-6節]…しかし、その上に築かれる人間の歴史/文化/生活はアダムにおける罪の故に、揺らいだり壊されたりすることがある。それ故に十字架の死と復活によって罪と死の力に打ち勝たれたキリストによる救いが必要である(創世記3:15)。キリストは贖いを成し遂げ、これを土台として教会を建てられた(マタイ16:18)。
7-10節]…教会の形成と完成のために主は力強く働き給う。
この詩編24編が証しているように、有神的人生観世界観の確立とそのための教会の樹立を、私たちは二つの別個の使命としてではなく、一つの目的として、その実現のために祈り励む。
.教会形成の課題
・教会役員の育成と伝道の課題…伝道の進展と教会形成において一番重要なことは、教会役員(教師/長老/執事)の育成である(使徒20:,31,32、『熊本伝道所十五年の歩み(19781993)』25(資料2。熊本伝道所40年の歴史の中で、未だに教師と2名以上の長老から成る小会(長老会)を設置できないでいることは、私自身の率直な反省事項であると共に、地方伝道の難しさでもある。
・教師と教会役員
 教師…自ら伝道すると共に,役員を育成しなければならない(二重の使命、Ⅰテモテ517)。
教会役員(長老、執事)…「世の働き」(職業)に従事しつつ、教会で牧会/奉仕する(二重の使命、教会員の祈りによって支えられなければならない)。
・使徒20:32に学ぶ。
御言葉には,教会を建てあげ、教会員に嗣業(クレイロノミア)を受け継がせる力がある。「教会は、壊さない限り、建つ」(榊原康夫)。Cf. 長田秀夫「地方伝道で学んだこと」(『成長する教会』1989年度東北中会修養会記録)(資料3
.熊本大地震と執事的愛の奉仕
・「ゆるっとセンター」、asobeba、「あみあみの会」等、新しいプログラムが始められたことの意義…地域のニードに応えるキリストの教会。
・ルカ10:2537(「善いサマリア人」のたとえ)に学ぶ。
「隣人を自分のように愛せよ」についてのイエスの教え…イエスの目線はもっぱら「追い剥ぎに襲われた人」に注がれている。主エスにとっての一番の関心は、この人が何を必要としていたか、にあった。サマリア人(当時のユダヤ人にとっては異端者)は、この人を見て「憐れに思い」彼を「助けた」。イエスは、私たちに対して言われる。「行って、あなたも同じようにしなさい」と。これが、隣人愛であり、永遠のいのちである。Cf.吉田隆「“執事的宣教”とは何か―その重要性と課題」(『紀要:ミッション』第10号、2015331)(資料4
結び 
・「主を愛し、教会を愛しなさい」…この「愛の律法」は、私たちに対する十字架の主の「命令」であると同時に、また「賜物」(Ⅰコリント12:31)であることを覚えよう。

(資料14

(資料1)  岩崎洋司「九州の開拓伝道に寄せて」(中央宣教研究所『紀要』第8号、10,28-29)
(開拓の理念) 九州開拓伝道の開始は689月でしたが、その精神的基点は664月の二十周年記念大会にあったと言えます。この大会では、記念宣言と共に説教と三つの記念講演がありました。あの二十周年宣言は創立宣言をふまえ更にこれを教会論として徹底した改革派の教会理念の白眉また結晶と言うべき歴史的宣言でありましたし、また説教と三つの講演もそれぞれ、改革派教会の現状と将来を踏まえて躍進する教会の原理とそのヴィジョンとをうたった素晴らしいものでした。これらを含めて、二十周年記念大会の理念こそ、九州開拓の基本理念であったと言うことができます。…ここに示されている二点は、余りにも有名な創立宣言で示された改革派教会の主張の二点です。即ち,第一点は、有神的人生観乃至世界観の確立と第二点は聖書的使徒的教会の樹立,以上の二点です。さて,私は最初、この創立宣言を読みこの二点を知ったとき、余りの素晴らしさに目を見張ったことを想い出します。特に第一点は,戦前の教会では、全く聞かれなかったことです。九州伝道においても,この二点を生かそうと思ったことは当然です。それで、看板にも改革派の時を大きく書きました」。
「創立二十周年記念宣言」「回顧」の項
「思えば、昭和21428日、荒廃焦土の祖国に、神のみ旨にかなう国家と教会の建設を願うわが日本基督改革派教会が創立されたことは、神の深きみ旨によるところである。まことに、キリスト教有神論こそ新日本建設の唯一の基礎であるとして、信条的にも教会政治的にも宗教改革の正統を継ぐ教会を樹立しようとする改革派教会が日本人のみの手によって誕生したことは、わが国キリスト教史を飾る画期的事件であった」。

(資料2) 熊本伝道所十五年の歩み(19781993)』(別途配布済み)。

(資料3) 長田秀夫「地方伝道で学んだこと」(『成長する教会』1989年度東北中会修養会記録)(別途配布済み)

(資料4)  吉田隆「“執事的宣教”とは何か―その重要性と課題」(『紀要:ミッション』第10号、2015331)

[そして、この度の震災を通して、私が何べんも何べんも思い巡らされました御言葉が、あの『善きサマリア人』の譬えであります。あの『善きサマリア人』の譬えというのは、サマリア人というユダヤ人が毛嫌いしておりました異端者でありますね。その異端者が親切にしてあげた、隣人になったという物語として痛烈なユダヤ人批判と言いましょうか、非常に衝撃的な教えになっているわけであります。今回この御言葉を、様々巡らせる中で、一つたいへん深く教えられましたのは、あの譬え話の中でですね、イエス様の視点がどこにあるかということです。イエス様の視点が、実は倒れている人のところにあるのではないかというふうに気付かされました。倒れている人にとってですね、そこに祭司が通ろうが、レビ人が通ろうが、関係ないんです。タイトルは関係ないんです。倒れている人にとっては、助けてくれる人が全てなんです。助けてくれる人が善い人なんです。その倒れている人の視線にイエス様が寄りそっておられる。その人が何を信じていようが、どういう宗教であろうが、どういう社会的な地位を持っていようが関係ない。倒れている人にとっては、助けてくれる人が善い人である。その倒れている人の視点でイエス様が見ておられる。正に、イエス様が倒れてらっしゃる。そのことを改めて教えられました。私たちの神さまはこういう方です。決して天高くから見ているわけではない。神さまの視点はそういう所にはありません。倒れている人から見ています。お腹を空かせている人から見ています。抑圧されている人から神様は見ていらっしゃる。この世界を。そして私たちキリスト者を。そのことに気付かされました。」