2019年2月1日金曜日

「ICS軽井沢文庫だより」第21号

なぜ新年を祝う?

ー主の契約の恵みー

宮﨑彌男

 
 もう新年になって1ヶ月が過ぎましたが、今年の正月は、どのように過ごされましたか。私は、1月1日の朝、白味噌雑煮で新年を祝った後、午前11時から行われた、佐久会堂の元旦礼拝に家内と共に出席、新年の挨拶を交わして、昼過ぎに帰ってきました。
 帰ってきましたら、ネコちゃんが2匹迎えてくれましたので,思わず、「おめでとう」と言ってしまいました。我が家には、もうかれこれ3,4年の間、母親ネコのカナちゃんが、動物好きの家内から、朝夕の2回、ご飯(ペットフードと花鰹)を貰っていて、時間になったらやってくるのです。カナちゃんは,長年、軽井沢/追分に住み着いている、やさしい「野良さん」なのですが、2年程前に,子ネコを沢山生んだので、家内が浅間動物病院に持っていって、子ネコの貰い手を募集してもらい、避妊手術を施してもらったのです。それ以来、ウチが養っている、というのが、このカナちゃんのストーリーです。最近、もう1匹、クロも、時々寄ってくるようになり、最初は、「カナのご飯を奪うな!」と、追い返していたのですが、カナもやさしくて、何とか受け入れているようなので、今は、黙認状態といったところです。
 私どもが元旦礼拝から帰ってきたとき、この2匹のネコちゃんが,ニャーオ!と迎えてくれたので、私は、思わず、親しみを覚え、「おめでとう」と言ってしまったのです。でも、後からちょっと考えて見ると、「よくぞ言ったものだ」と思わざるを得ないのです。昨年、はす向かいの千葉さんちの柴犬ベルちゃんが亡くなったとき、おはぎを買ってきて「慰めた」(「ICS軽井沢文庫だより」19号参照)のと同じく、ノア契約の御言葉(創世記8:22)を思い起こしてのことでした。

 主は、宥(なだ)めの香りをかいで、御心に言われた。
 「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いとき
  から悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、
  二度とすまい。
   地の続く限り、種まきも刈り入れも、
   寒さも暑さも、夏も冬も、
   昼も夜も、やむことはない」、
   (創世記8:21~22)。
 
 人間の甚だしい罪(創世記6:5, 11-12)にも拘わらず、神は、すぐに地を滅ぼすことをなさらず、「種蒔きと刈り入れ」、「寒さと暑さ」、「夏と冬」、そして「昼と夜」を絶やすことをしないと決意し、「二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない」(同9:11)との契約を立てられました。その契約のしるしは、「雲の中に現れる虹」でした(同9:12~17)。神は、ただただ御自身の造られた被造物へのあわれみの故に、「地の続く限り」滅ぼすことはすまい、と厳かに契約されたのです。これがノア契約と呼ばれるものです。
 実は、このノア契約こそ、全人類が、来る年ごとに、畏れかしこみつつ覚えて、感謝し、祝うべき神の「永遠の契約」(同9:16)なのです(注1)。この恵みを寿(ことほ)ぎ、私たちは、新年を祝うのです。お互いに、また、動植物とも喜びを分かち合いながら、祝うのです。そんなわけで、私は、今年の年賀状に創世記8:22の聖句と金斗絃作の絵画「箱舟に乗り込む」を掲げて送りましたところ、「昨年は災害の多かった年だったから、ぴったりの聖句で、良い年賀状ができたわね」と家内に言われ、なるほどと思いました。それも確かなのですが、「正月には、ノア契約の恵みを覚えよう」という、契約論的な意味合いが込められていることも確かなのです。
 「ICS軽井沢文庫だより」19号でご紹介しましたように、神学者アブラハム・カイパーは、ノア契約の意義の基本的重要性を強調していますが(注2)、そのとおりです。ノア契約は、創世記1,2章の創造契約の更新(再宣布)であり(注3)、後のアブラハム契約(創世記15:18)、シナイ契約(出エジプト記24:1-8)、ダビデ契約(サムエル記下7章23:1-5)、さらには、イエス・キリストによる「新しい契約」(ルカ22:20)の土台となるものです(注4)。それゆえに、正月を迎えるたびにこの契約を畏れかしこみつつ覚えて、感謝し、祝うことは,実に私たち(キリスト者も含めて)全人類にとって大切なことなのです。
 あらためて、(遅ればせながら)新年おめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

(注1) 今日の日本においては、前年,身内に死去した者があったりして,喪に服している者が新年を祝うことを慎むべきとの考え方が根強くある。これは、必ずしも、聖書のキリスト教有神的契約思想から出てきたものではない。ノア契約は、上記のごとく、ただただ神のあわれみによる恵みの契約である。それは、人の死をも命に変える神の慈しみに基礎づけられている。イエスは,一人息子を亡くしたナインのやもめを「憐れに思い」、「もう泣かなくともよい」と言って一人息子を起き上がらせ、母親にお返しになった(ルカによる福音書7:11~17)。主の「憐れみ」は,人の死をも命に変える力を持つ。ノア契約は、そのような主の憐れみによる契約である。イエス・キリストを信じるならば、たとえ喪に服している時であっても、主の憐れみの故に、新年を祝うことができるのだ。
(注2)「希望に生きる私たちー動物たちと共に―」注1参照。(A.カイパー『共通恩恵論』Ⅰ、p.11)
(注3) 例えば、創世記1:28における命令が、ノア契約(同9:1-2)において更新(再宣布)されていることに注意。。
(注4) Dumbrell, William J., Covenant and Creation--An Old Testament Covenant Theology--(Exeter, Paternoster Press, 2013). p.6以下参照。

【12月,1月の活動報告】


12月9日(日) 長野佐久教会(佐久会堂)にて説教奉仕(ヘブライ11:29~31)。午後、男子会。『信徒の手引き』第1章「神の民として教会に生きる」を学ぶ(助言教師として指導)。

12月23日(日) クリスマス礼拝。濱民雄引退教師が説教奉仕された。牧野牧師は、長野会堂。礼拝後、愛餐会・祝会。1年間の恵みを回顧して、私は、「ICS軽井沢文庫だより」を、2018年度も、14~20号まで出すことのできたことを報告した。教会でも、だんだんと認知されてきたようだ。長野佐久教会のホームページでも見ることが出来る(佐久市「地域と交流」欄)。<rcjnaganosaku.jimdo.com>
 
12月24日(月、休) 午後5時から、クリスマス・キャンドル・サービス。牧野信成牧師は、マタイ2:1-12により、
聖書神学に裏付けられた、豊かなクリスマス・メッセージを取り次いでくださった。近隣の方も、ご婦人が2名ばかり、案内チラシを見て参加された。御言葉が実を結びますように。帰省中の宮崎契一先生も出席。

12月30日(日) 長野佐久教会(長野会堂)にて、礼拝説教奉仕。創世記8:20~22、9:8~17より、年末礼拝の御言葉を取り次いだ。。説教題:「ノア契約と私たち」。

1月27日(日)長野佐久教会(長野会堂)にて、礼拝説教奉仕(ヘブライ11:23~27)。
大雪の予報が出たため、前日の土曜午後に,急遽旅装を整え、御代田より、しなの鉄道の快速電車で長野へ。駅近くのビジネスホテルに一泊、主の日の礼拝奉仕に備えた。当日は、大雪ではなかったが、それでも、道路はかなりの積雪、滑らぬように気をつけながらの移動であった。長田喜樹兄が柳原駅まで迎えに出てくれたので、余裕を持って礼拝に臨むことができた。やはり,思い立ったらすぐに出るのがよいようだ。主が助けてくださる。礼拝後は、同じく喜樹兄の車で、山室委員も同乗、佐久会堂まで移動、なんとか、午後2時開会の会員総会に間に合った。大雪予報のため、乗り物に乗りっぱなしの大変な伝道旅行となった。感謝! 



※本「ICS軽井沢文庫だより」第21号は、筆者の日程上の都合等により、1ヶ月遅れとなりました。お詫びします。おゆるしください。―宮﨑彌男―

「ICS軽井沢文庫だより」の印刷のために

「ICS軽井沢文庫」<ics41.blogspot.jp>を開き、ラベル「ICS軽井沢文庫だより」第21号を選択します。次にパソコン右上のオプション設定のマーク(縦3つ)をクリック、印刷を選択する。左欄のオプションを両面印刷にし、詳細設定の中の倍率を150背景のグラフィックもオンにしてください。印刷ボタンを押すと OKです。同様に、他のすべてのラベルも、選択して、印刷することができます。

【「ICS軽井沢文庫」】

「ICS軽井沢文庫」は、日本におけるキリスト教有神的世界観人生観の研鑽と普及のために、2016年6月14日に、軽井沢町追分36-23に設置された文庫です。“ICSInstitute for Christian Studies)は、この文庫が、日本における (改革主義)キリスト教学術研修所(大学院)の設置を目指していることを告白するものです。文庫設置の経緯については、「ICS軽井沢文庫だより」第1号(2016.6.14)をごらん下さい(ラベル「ICS軽井沢文庫だより」第1号をクリック)。


【連絡先】

389-0115長野県北佐久郡軽井沢町追分36-23 宮﨑彌男・淳子

TelFax 0267-31-6303(携帯) 080-3608-3769

Eメールmmiyazk41@gmail.com   

ブログアドレス 「ICS軽井沢文庫」<ics41.blogspot.jp>