2018年11月30日金曜日

「ICS軽井沢文庫だより」第20号

「“小さい秋”にも神の恵み」

宮﨑彌男



 紅葉の秋、落ち葉つもる秋、そして、干し柿。秋にも色々あるのですね。今年の発見です。それも、同じ秋の風情が、軽井沢だけではない、信州だけではない、海を越えた米国でも…。
 先日、かれこれ、60年も前に在学した米国のカレッジからグリーティング・カードが舞い込みました。それには、こう書いてありました。「次から次へと落葉し、寒さも日増しに加わる中、心からの挨拶をおくります」と。 
 この間の日曜午後、私たちの教会では、一ヶ月後のクリスマスに備えて、会堂内外の大掃除をしました。部屋の掃除やガラスふきに始まって、会堂外の落ち葉掻きまで。落ち葉は、風が強くて、掻いても掻いても、舞い上がるので、こんなことでは、明日の朝には、また元通りになってしまうね、などと言い交わしながらの作業でした。でも、「クリスマスの準備をする心が大切なのではないか…」と言い聞かせながら、どんどんと落ち葉を袋に詰め込むうちに、教会の庭は、結構きれいになっていました。
 
 12月2日~24日は、教会暦では、アドベント(待降節)です。クリスマスに向けて準備をする季節です。アドベントとは、ラテン語で、「来臨」を意味します。クリスマスの準備をしながら、同時に、キリストの二度目の来臨(「再臨」と言います)に備える祈りと修練の時なのです。
 
 母校からのグリーティング・カードに促されて、「ちいさい秋みつけた♪」を、スマホで検索し、YouTubeで、視聴してみました。この歌は、サトウハチロー作詞、中田喜直作曲の日本の童謡なのですが、関心を引かれたのは、ドイツのテルツ少年合唱隊の、美しい日本語による合唱でした。24件のコメントが寄せられていましたが、その中の一つ:「日本の秋の物悲しさを、ひとつひとつ言葉を大切にしながら歌ってくれていて嬉しい。改めていい歌だなと思えます。とても素敵でした!心に染み渡る」。他にも、「感動で涙が出ました」等、寄せられていました。
 確かに、童謡としては、よく聞いてみると、ちょっともの悲しいところのある歌ですね。でも、それは、間違いなく、秋という季節の深みから来る「物悲しさ」でもあるのでしょう。秋には、紅葉の季節が過ぎると、やがて、暗く、厳しい冬がやってくるという「物悲しさ」がつきものです。秋になると、「ちいさい秋みつけた♪」を歌いたくなるのは、そのためでしょう。そして、この“小さい秋”は、ドイツも米国も日本も、文化を越えて、私たちの感じる「秋の物悲しさ」なのかも知れません。
 
 しかし、私たちは、「地の続く限り、種蒔きも刈り入れも、寒さも暑さも、夏も冬も、昼も夜も、やむことはない」と仰せになった「ノア契約」(創世記8:22、「ICS軽井沢文庫だより」19号参照) を思い起こすとき、“小さい秋”にも、神の恵みの落ち着いた輝きを見ることができるのではないでしょうか。なぜなら、秋の終わりと共に、アドベント(待降節)が始まるからです。待降節の御言葉は告げます。
  
     「(生まれ出る幼子は)主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである
   。これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所から
   あけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、
   我らの歩みを平和の道に導く」 (ルカによる福音書1:78,79)。


 
夜の後に、必ず朝が来るように、秋の終わりと共に、必ず、アドベントの季節がやってきます。クリスマスは間近なのです。主を待ち望め!諸国の民よ!ハレルヤ!

【バルソロミュー & ゴヒーン著

『ドラマとして読む聖書物語』について】

 
 今年の4月に教文館より出版しましたウォルタース著(拙訳)『キリスト者の世界観―創造の回復』(増補改訂版)は、売れ行きもよく、各方面で用いていただいています。現在、私の手元に、まだ40冊ばかり、在庫がありますので、ご希望の方は、ご一報ください)。この本の「増補改訂版への序文」(P. 8)に、著者ウォルタースが、「この改訂版は、クレイグ・G・バルソロミュー&マイケル・W・ゴヒーン著『ドラマとしての聖書―聖書物語における私たちの役割』(The Drama of Scripture:Finding Our Place in the Biblical Story [Grand Rapids:Baker, 2004])と併せて読んでくださると良いでしょう」と言っています。『キリスト者の世界観』の言わば、姉妹編(companion volume)として読むと良い、と推奨しておられる本です。以前に、原著を取り寄せて読んだとき、1,2の方と手分けして翻訳を考えたこともあったのですが、その後、頓挫していたのです。今回、読み直してみると、実に良い本で、今の日本の教会にとって必要な書物であると思うようになりました。それで、先ずは、毎月のこの「ICS軽井沢文庫だより」で、部分的に翻訳、紹介しながら、どういう形で出版ができるのか、考えて行きたいと思っています。
 今回は、終わりの方に出てくる(第5幕「王の福音を広めるー教会の宣教使命ー」の締めくくりの部分)「希望に生きる」を以下に訳出、掲載します。アドベントの季節にふさわしいと思ったからです。

「希望に生きる」―前にあるものに向かって全身を―

 聖書によって私たちは、「すべての者がひざをかがめ、…すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえる」日が来ることを知らされています(フィリピ2:10-11)。私たちは、また、被造世界の全体が回復する日が来ることも知らされています。それで、私たちは、希望を持ってその日を待ち望むのです。私たちの人生を福音の土台の上に深く据え、今日の時代においても、自分たちの置かれている場所で神のご支配を証しようと努めるのです。私たちは、前にあるものに向かって全身を伸ばすのです(3:13-14)。
 希望はなくてならないものです。それは、今日における私たちの宣教的使命を形成すべき信仰の生命的部分です。「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る」(Ⅰコリント13:13)とパウロは言っています。信仰とは、イエス・キリストによって成し遂げられた救いを、自分自身のものとする手段です。は、その信仰を外に向かって表現します。愛は、信仰共同体の生命そのものです。そして、希望は、神の国が将来必ず実現する、との確かな期待です。それは、将来への揺るぐことのない確信であって、今の生活に意味と形を与えるものです。私たちは、このことを日常生活の多くのことにおいても知ることができます。例えば、将来医師になりたいとの希望を持って大学に入ったならば、その希望は、あなたの生き方を決めることとなります。コースの選択だけではなく、学びに必要な時間と努力(とお金)を決定づけることともなります。このように、将来に対する希望の故に、あなたの生き方の全体が新しい形を帯び、新しい焦点を持つようになるのです。
 神の御国の現れについてのキリスト者の究極の希望についても、スケールははるかに大きいのですが、同じことが言えます。レスリー・ニュービギンの言葉で言えば、「歴史的に意味のある行動は、将来の目標について何らかのヴィジョンがある時にのみ可能なのです」(『多元社会における福音』114頁)。歴史はどこに向かっているのか、についてあなたと私がどう信じているのか、それが今日の私たちの生活に特別な意義と形を与えるのです。もし私たちが、来たるべき神の国がどのようなものか、今の世に証しすべく召されているのであれば、そのような御国の到来についての希望は、私たちが今ここで言うこと、なすことの一切を決めることとなります。もし私たちが、自分たちの宣教の働きの中で、イエスの伝道生涯に学び、その御言葉といつも前向きのそのお働きによって刺激を受け、前に向かって押し出されるのであれば、同時に、私たちは、やがて来たるべき御国がイエス再臨時に現実となる!大いなる望みへと、前に向かって引かれるのです。
 このように考えると、私たちが、特に何を待ち望んでいるのかは非常に重要なことがわかります。にもかかわらず、私たちはしばしば、キリスト者として持っている希望の内容、すなわち、歴史はどこに向かっているのかについて、はっきりとした関心を示そうとしないところがあります。私たちの希望がどのようなものか、について常に注意深く吟味することがないので、その内容が必ずしも聖書的とは言えないものとなってしまうことにもなりかねません。―これは、重大な影響を及ぼします。なぜなら、(これまで見たように)私たちが将来に何を望むかは、今日における私たちの宣教に形を与えるからです。聖書は、歴史の終り、すなわち、宇宙的ドラマの結末についてどう教えているのでしょうか。このような問題について、私たちは、続く最終幕において、見ることにしましょう。

(コメント)

「希望の内容」については、「ウェストミンスター大教理問答」90は次のように言っています。
 問90 審判の日に、義人には何がなされますか。
 答 審判の日に、義人は雲に包まれてキリストのもとに引き上げられ、その
  右に置かれ、そこで公に受け入れられ、無罪を宣言され、捨てられた御使い
  と人間をキリストと共に裁き、天に受け入れられ、そこで彼らは全面的に、
  また、とこしえに罪と悲惨そのものから解放されます。そして、考えも及ば
  ない喜びに満たされ、無数の聖徒や聖なる天使たちの集まりの中で、しかし、
  特に父なる神と私たちの主イエス・キリストと聖霊とをいついつまでも直接
  に見て、満ち足りて喜ぶことにおいて、体と魂の両面で、完全にきよく幸せな
  者とされます。これこそが、復活と審判の日に、見えない教会の会員が栄光に
  おいて享受する、キリストとの完全で満ち足りた交わりです(宮﨑彌男訳)。
 
 この「ウェストミンスター大教理問答」90について、石丸新先生は次のように言っておられます。
 「(ウェストミンスター大教理問答)信仰編の最後を飾る問90の答えから、どれほど大きな慰めを受けてきたことでしょうか。最後の審判の日になされることが余すところなく列挙されているばかりでなく、贖いの御業の完成が幾つもの要素をシンクロナイズさせる形で生き生きと描き出されています。最終的には、希望と喜びへと信徒を励ますものとなっています。本問にまさる告白は他になかったし、これからもおそらく無いでしょう」。(「ウェストミンスター大教理問答から受けてきた恵み」『ヴェリタス』2012.5.20、p.2、下線ー宮崎)
 

【11月の活動報告】

11月11日(日) 長野佐久教会(佐久会堂)にて説教奉仕(ヘブライ11:23~28)。

11月12日(月)「うぐいすの森」に佐々木弘幸牧師ご夫妻を訪ねる。埼玉、山梨で伝道・牧会されたが、事故にあって大けがをされ、今は「うぐいすの森」の山荘「慰留恵」(イルエ「備えあり」、創世記22:14) に住んでおられる。いろいろお話を聞かせていただき、主にある交わりを深めることができた。

11月16日(金) 銀座で、日本聖書協会の島先克臣師と会い、夕食を共にする。「聖書協会共同訳」の仕事を終えられたばかりであったが、救いを創造の回復/完成として、社会・文化的広がりの中で捉える改革主義的な福音理解が N・T ・ライトの著作等を通して福音派の中にも浸透しつつあること等、色々と情報交換することができた。『ドラマとして読む聖書物語』の翻訳出版の可能性についても話し合ったが、同師は、すでに、別途、同種の手引き書を作成中とのこと。いずれにしても、改革主義的な視点に立つ文書の出版/普及のため互いに協力し合いたい。


11月30日(金) 第3回信州神学研究会、 於・佐久会堂。発題:「ユダヤ教とカルヴィニズム」(牧野信成牧師)。6名出席。大変興味深く重要な発題講演で、ミシュナー、タルムードが読みたくなった。



「ICS軽井沢文庫だより」の印刷のために

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【「ICS軽井沢文庫」】

「ICS軽井沢文庫」は、日本におけるキリスト教有神的世界観人生観の研鑽と普及のために、2016年6月14日に、軽井沢町追分36-23に設置された文庫です。“ICSInstitute for Christian Studies)は、この文庫が、日本における (改革主義)キリスト教学術研修所(大学院)の設置を目指していることを告白するものです。文庫設置の経緯については、「ICS軽井沢文庫だより」第1号(2016.6.14)をごらん下さい(ラベル「ICS軽井沢文庫だより」第1号をクリック)。


【連絡先】

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2018年11月27日火曜日

「希望に生きる」

「希望に生きる」―前にあるものに向かって全身を―

C・バーソロミュー & M・ゴヒーン、宮﨑彌男訳『ドラマとして読む聖書物語』p.206

 聖書によって私たちは、「すべての者がひざをかがめ、…すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえる」日が来ることを知らされています(フィリピ2:10-11)。私たちは、また、被造世界の全体が回復する日が来ることも知らされています。それで、私たちは希望を持ってその日を待ち望むのです。私たちの人生を福音の土台の上に深く据え、今日の時代においても、自分たちの置かれている場所で神のご支配を証しようと努めるのです。私たちは、前にあるものに向かって全身を伸ばすのです(3:13-14)。
 希望はなくてならないものです。それは、今日における私たちの宣教的使命を形成すべき信仰の生命的部分です。「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る」(Ⅰコリント13:13)とパウロは言っています。信仰とは、イエス・キリストによって成し遂げられた救いを、自分自身のものとする手段です。は、その信仰を外に向かって表現します。愛は、信仰共同体の生命そのものです。そして、希望は、神の国が将来必ず実現する、との確かな期待です。それは、将来への揺るぐことのない確信であって、今の生活に意味と形を与えるものです(注70)。私たちは、このことを日常生活の多くのことにおいても知ることができます。例えば、将来医師になりたいとの希望を持って大学に入ったならば、その希望は、あなたの生き方を決めることとなります。コースの選択だけではなく、学びに必要な時間と努力(とお金)を決定づけることともなります。このように、将来に対する希望の故に、あなたの生き方の全体が新しい形を帯び、、新しい焦点を持つようになるのです。
 神の御国の現れについてのキリスト者の究極の希望についても、スケールははるかに大きいのですが、同じことが言えます。レスリー・ニュービギンの言葉で言えば、「歴史的に意味のある行動は、将来の目標について何らかのヴィジョンがある時にのみ可能なのです」(注71)。歴史はどこに向かっているのか、についてあなたと私がどう信じているのか、それが今日の私たちの生活に特別な意義と形を与えるのです。もし私たちが、来たるべき神の国がどのようなものであるかを今の世に証しするように召されていると知るのであれば、そのような御国の到来についての希望は、私たちが今ここで言うことなすことの一切を決めることとなります。もし私たちが、自分たちの宣教の働きの中で、イエスの伝道生涯の言葉と働きに見る刺激と前身運動によって、前に向かって押し出されるのであれば、私たちは、また、やがて来たるべき御国がイエス再臨時に現される!その望みに満ちた期待へと、前に向かって引っ張られるのです。
このように、私たちが、特に何を待ち望んでいるのかは非常に重要なことなのです。にもかかわらず、私たちはしばしば、キリスト者として持っている希望の内容、すなわち、歴史はどこに向かっているということについて、はっきりとした関心を示そうとしないところがあります。私たちの希望がどのようなものか、について常に注意深く吟味することがないので、その内容は常に全く聖書的とは言えないこととなってしまうのです。―これは、重大な影響を及ぼします。なぜなら、(これまで見たように)私たちが将来に何を望むかは、今日における宣教に形を与えるからです。聖書は、歴史の終り、すなわち、宇宙的ドラマの結末についてどう教えているのでしょうか(72)。このような問題について、私たちは、続く最終章において、検討を加えることにします。

2018年11月1日木曜日

「ICS軽井沢文庫だより」第19号

希望に生きる私たち

―動物たちと共にー

宮﨑彌男


16才頃のモモ
私どものモモちゃん(雌の柴犬)が、昨年のお正月に17才でなくなったことは、「ICS軽井沢文庫だより」No.6で報告しました。あれから1年と9ヶ月が経ちました。モモちゃんの死後は、わが家のはす向かいに住む千葉さんちの柴犬ベルちゃんがずっと頑張って,私たちが出て行くときには見送り、帰ってくると出迎えてくれていたのですが、だんだんと弱り、2,3日前から、鳴き声がばったりと聞こえなくなったので、訪ねてみるとやはり20年ばかりの生涯を閉じたとのこと。亡くなってからの数日は、仕事も手に付かず、フード皿もそのままにしていたと、千葉さん、淋しそうに話しておられました。追分も、また一つ淋しくなりました。
 今の時代、私たちの多くにとって、ペットはなくてはならない存在になりつつあるようです。犬や猫も、今は長生きするようになっていて、15年も20年も一緒に過ごしていると、家族の一員のようになると言っても過言ではありません。
 
 これは、犬や猫だけの話ではありませんが、エデンの園の昔から、動物たちは、私たち人間のコンパニオンでした(旧約聖書・創世記2:18-20)。しかし、初めの人アダムにとっては、「ふさわしい助け手」(新改訳聖書、創世記2:18)とはならなかったので、主は、エバをお与えになったとのことです。
 以上は、創世記1,2章の教える動物の創造物語ですが、その後、3章まで読み進みますと、アダムとエバ夫妻が蛇(サタン)の唆しに負けて罪を犯したため、その結果が動植物を含む被造物の全体に及んだことが記されています。アダムの罪のために「土はのろわれたものとなった」(3:17)のです。この場合の「土」は、直接的には、人の食べ物となる「野の草」を生じさせる土壌を指している(13節参照)のでしょうけれども、さらに広く、被造物の全体が、アダムの罪の故に「のろわれたものとなった」と読むことができるのではないか。使徒パウロの言葉を用いて言えば、アダムの罪の結果、「被造物は虚無に服し」、「うめき苦しむ」ようになったのです(新約聖書・ローマの信徒への手紙8:20,22)。しかし、このことは、「自分の意志によるものではなく」、人の罪によるものでありますので、被造物には、「いつか滅びへの隷属から解放されて,神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれる」との「希望」がある、とも同じ所でパウロは言っています(20,21)。

 この「希望」の実現する終わりの日の情景について、イザヤ書11章(クリスマス前のアドベントの季節に教会でよく読まれる旧約聖書の預言)では、次のように描写しています。
 「狼は小羊と共に共に宿り、
  豹は子山羊と共に伏す。
  子牛は若獅子と共に育ち、
  小さい子どもがそれらを導く。
  牛も熊も共に草をはみ
  その子等は共に伏し、
  獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
  乳飲み子は毒蛇の幼子は穴に戯れ、
  幼子は蝮の巣に手を入れる。
  わたしの聖なる山においては、
  何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。
  水が海を覆っているように、
  大地は主を知る知識で満たされる」。
何と平和な情景でしょうか。人と動物は主の恵みの内に,共に仲良く生きているのです。

「箱舟に乗り込む」(金斗絃作)

 このような、人と動物との間の平和な関係は、聖書によれば、大洪水の後、主がノアと結ばれた契約(「ノア契約」)に基づいているのです。このノア契約については、創世記6~9章を参照。人が余りにも悪くなってしまったので、主は地上に人を造ったことを悔い、全地を覆う大洪水を起こして、地とその中にあるすべてのものを滅ぼそうとされます。しかし、義人ノアとその家族だけは救われました。大きな箱舟を造らせ、その中に入らせて、お救いになります。また。そこには、雌雄一つがいずつの動物も入らせて、絶滅を逃れさせられます。
 
 ノアとその家族、並びに箱舟に入って救われた動物たちを除くすべての生き物は、この洪水によって滅びたのですが、箱舟から出たノアが神を礼拝し、「焼き尽くす献げ物」を献げたとき、その香ばしい香りをかいでこう言われた、と聖書は記しています。
  「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いとき
   から悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、
   二度とすまい。
    地の続く限り、種まきも刈り入れも、
    寒さも暑さも,夏も冬も,
    昼も夜も、やむことはない」(創世記8:21~22)
 このように、神は「二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない」(同9:11)と誓われ、そのしるしとして「雲の中にわたしの虹を置かれた」(同9:12~17)とのことです。(注1)
 
 この「ノア契約」は、今日に到るまで有効な神の「永遠の契約」です。このことについて、私たちの先輩・改革派神学者、A・ カイパーの次の言葉に耳を傾け、しっかりと心に留めたい。「神がノアおよびその子孫等に対して立てられた契約は,あなたと私に対しても立てられており、さらには、今いのちの息を持つすべてのものに対してもうち立てられているということ、そして、それゆえに、ノアの時代に現実となった状況は、今の私たちの生活においても現実を支配しているということである」(注2)
 このように思いを馳せるとき、ノア契約は、最初に述べたモモちゃんやベルちゃんの生死と決して無関係ではなく、私たちに深い慰めを与える神の永遠の契約であることを知るのです。彼らの生涯と死は,私たちに喜びと悲しみ/暖かさと淋しさを与えるものですが、そのすべては、神の恵みのご支配の下に置かれていたことを覚えたいです。
 
 動物たちは、人間の罪故に、今も確かにうめき苦しんでいます。私たちは、災害時に置き去りにされる家畜やペット、さまざまな形で行われている虐待の現実など、見聞きする度に心を痛めます(注3)。そのような中で、私たちは、始祖アダムにおいて犯した人類の罪を取り除くために十字架にかかられたキリストのあがないの御血潮を思わざるを得ないのです。彼ら、動物たちもこのキリストの故に「希望」を持っているのです。私たちも日々この希望に生きる者となりたい。ハレルヤ!

(注1)私たちの先輩・オランダの神学者、アブラハム・カイパーは、その『共通恩恵論~堕落した世界への神の贈り物~』(1902年、『一般恩恵論』と訳されることもある)をノア契約の解説から始めていますが、その冒頭において,次のように述べています。
 「敬虔な神の子等も含め、多くの人は虹を見ても,感嘆はしても、そこに表されている神の契約を知ることがない。しかし、実は、この契約にこそ彼らは聞くべきなのである。だから、私たちはもう一度、ノア契約の大きな意義をもっと明確に理解することから始めなければならない。この契約は,今一度私たちのために息を吹き返して、語りかけ、私たちを支える神の恵みの重要な構成要素とならねばならない。
 その場合に、先ず第一に知らなければならないことは、神がノアと立てられたこの契約は、聖書において、決して補助的な事柄として扱われてはおらず、また、単に二次的な重要性を持つものでもない、ということである。むしろ、ノア契約の締結は,楽園での契約やアブラハム契約の締結と比べ、より厳粛、より包括的、より詳細に陳べられている。この契約の締結については、間接的に陳べられているのではなく、契約の締結そのものが歴史的な出来事として、物語の中に含まれているのである。主なる神が語り、誓われたことが詳細に語られている。そして、雲の中に現れるしるしをもって締めくくられるのであるが、この聖なる契約のしるしこそ、世々に亘って、ノア契約の信頼性と真実性を証することになる。
 このように、主なる神が聖書を教会にお与えになったとき、このノア契約を覚えることをすべての時代の教会に求められたことは明らかである。神はご自身の教会のためにこの出来事を細部に至るまで厳かに認知された。また、同時に、世々の教会がこの契約の重要で豊かな内容をしっかりと心に留めるよう求められた。われらの『ハイデルベルグ信仰問答も』もこのことをよく理解しており、神の摂理について「木の葉も草も、雨もひでりも…すべてが偶然によることなく、父親らしい御手によってわたしたちにもたらされるのです」(27問の答)と語るとき、おそらく、この言い回しは「地の続く限り、種まきも刈り入れも、寒さも暑さも、夏も冬も、昼も夜も、やむことはない」との創世記8:22の御言葉から採られたのであろう」。(『共通恩恵論』Ⅰ、p.11、宮崎訳)
(注2)『共通恩恵論』Ⅰ、p.39。
(注3)『週刊金曜日』2018年8月24日、1197号、特集「動物愛護管理法を考える」等、参照。


【9,10月の活動報告】


9月9日(日) 長野佐久教会(佐久会堂)にて説教奉仕(ヘブライ11:20~22)。

9月26日(水) 信州神学研究会、 於・ICS軽井沢文庫・会議室。上田市在住の引退教師、長田秀夫先生が「異教徒の中でのキリスト教葬儀」と題して発表された。これからの日本伝道において、キリスト教葬儀の持つ重要性について認識させられた。次回のテーマは、「カルヴィニズムとユダヤ教」(発表:牧野信成師)で、11月30日(金)午前10時~12時、開催、於・佐久会堂。

10月2-4日(火-木) 「恵みシャレー軽井沢」で行われた JCC (現TCU)の同期会(家内が世話役)に、1日だけ出席、良い交わりをいただいた。特に、旧知の高山清彦師(片倉キリスト教会)と同部屋で、夜遅くまで語り合った。この方は、JCC在学中に,渡辺公平先生から弁証学やキリスト教哲学を学ばれたとのこと。また、団らん時には、ウォルタースの『キリスト者の世界観』(増補改訂版)の意義について話すことができた。

10月8-10日(月-水) 横浜関内で開催された日本キリスト改革派教会定期大会に一部出席、会議を傍聴した。『キリスト者の世界観』(増補改訂版)の販売が一つの目的であったが、今回は、14冊が売れただけだった。しかし、二日間、議事の合間に多くの若い先生方や長老方と再会を喜び、交わりを深めることができた。新議長には、草加松原の川杉安美先生が選ばれた。

10月14日(日) 上諏訪湖畔教会にて説教奉仕(ヘブライ11:8-12)。篠ノ井で特急しなのに乗り換え、中央線で上諏訪へ。初めての礼拝奉仕である。翌週の10月21日には創立70周年記念礼拝を守られるとのことだったので、70年に亘る伝道の労苦を感謝の内に覚えつつ、アブラハムの信仰に学んだ。

10月23日(日) 甲信地区教師会、於・佐久会堂。昨年から、甲信地区の引退教師も,この教師会に参加させていただいている。今回は,わたしが「“生涯現役”~教師・長老・信徒として~」と題して、発題した。名著『政治規準の学び』 p.65において、宮田計先生は,「教師終身制」について論じ、ヨハネ21:15~17、Ⅰコリント9:16,17、使徒15:26等々を引きながら、それが聖書的な教えであるとしておられる。

※本「ICS軽井沢文庫だより」第19号は、筆者の日程上の都合等により、1ヶ月遅れとなりました。お詫びします。おゆるしください。―宮﨑彌男―

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2018年9月1日土曜日

「ICS軽井沢文庫だより」第18号

「“徴税人”の平和―今年の8・15―」

宮﨑彌男


「…徴税人(ちょうぜいにん)は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人(つみびと)のわたしを憐れんでください。言っておくが、義(ぎ)とされて家に帰ったのは、この人…」(ルカによる福音書 18:13,14)。

 今年の8月15日(73回目の敗戦記念日)、皆様方は、どのように、平和への誓いを新たにされたでしょうか。わたしは、日本同盟基督教団東御キリスト教会で行われた「東信平和祈祷会」に出席し、集まった近隣諸教会の方々と、祈りを共にしました。祈りに先だっ
て、長野佐久伝道所の牧野信成牧師が説教されました。今年の「8・15」にふさわしい平和のメッセージを聖書から取り次いでくださいましたので、この「たより」の読者にもお分かちしたいと思い、全文、ラベル「2018年 8・15 平和祈祷会説教」に掲載させていただきました。ぜひお読みください。
 私が特に教えられたこと。

平和のメッセージ?!
1)神がキリストにあってお与えくださる「平和」こそが、すべての平和の原点であること。

「このイエスの譬えは、人間による人間の評価ではなく、神がどのような評価を人間に与えるかを教えています。この譬えの驚きは、徴税人がファリサイ派に勝るとして、社会通念を転覆させたところにあります。ファリサイ派に対する「当てつけ」ですけれども、そこにこそ人が気づかなければならない事があるわけです。徴税人は、もちろん常日頃の振る舞いが評価されたわけではありません。彼は自他共に認める通りの罪人です。けれども、彼は正しく自分を知っています。自分のありのままを見つめて、自分は救い難い罪人だということに心を痛めています。この徴税人のへりくだる様子が丁寧に描かれているのは、それを私たちがじっくりとなぞるようにして心に留めるために違いありません。彼は「遠くに立って、目を天にあげようともせず、胸を打ちながら」こう言いました。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」。自分が救い難い罪人であると知っているとは、こういうことだと描いて見せています。「僕は罪人、あなたも罪人、人間は皆罪人」という罪についての表面的な知識ではないわけです。そこには自分が罪人であることの恥と痛みと恐れが息づいていて、それでも神に向かわざるを得ないから、「憐れんでください」との最小限の言葉が絞り出されます」

 ここに言われています「徴税人」(注1)の平和は、私たちが誰であっても、神からいただくことのできる「神からの平和」です。神は「罪人」に対する「憐れみ」の御心ゆえに、信じる者すべてにお与えくださるのです(ローマ3:21)。神からいただく平和、これこそがすべての「平和」の原点です。人間の罪が引き起こすあらゆる悲惨(戦争、飢餓、病苦、自然災害、虐待等々)の中でも、揺るぐことのないものです。神の与える平和だからです。
 
 もう一つ、この直後の聖書の箇所に出てくる「子供たち」への祝福と平和が語られます。「子供たち」について、牧野先生は、「子どもは案外エゴイストですけれども、イエスに触っていただくことを特別に嫌がる理由も持ちません。親に連れてこられるがまま、イエスを通して神に祝福されるがままです。うぬぼれるでもなく、他人を見下すでもなく、神に受け入れていただくままに、自分を明け渡す人が、神の国の住人です」と言っておられます。ここで子供たちがイエスから受けた祝福と平和も、「徴税人」の場合と同じ、神から与えられた平和です。これこそがすべての「平和をつくり出す」(マタイ5:9) 原点です。 

ヨハネ、ペトロ、ヤコブ
by M.Cupido

2)それでは、今の政治の現実の中で、私たちはどのように「平和をつくり出す」ことができるのか。 

「…政治はいつも現実的な方向へ流れていきます。けれども、神が御言葉を通して私たちに新しい命をくださったことが真実であり、キリストが世の終わりまで歴史を導いて行かれることが本当であるならば、私たちは「現実的」という言葉に惑わされないで、キリストが実現する平和のために働くより他はありません歴史家たちが、キリスト教会は必ずしも戦争に反対してこなかった、と書物に記します。それは事実だとしても、それはキリストが戦争に反対しなかったこととは違います。すでに軍隊が力をもってしまってい国々にあって、現実的なこととして戦争を論じざるを得なかった。そして、教会も戦争に加担してきた。だから、我々もそうするということにはなりません。なぜなら、私たちは歴史に従うのではなく、歴史に学びながら聖書に従うからです。聖書から語りかける、生けるキリストに従うのが教会だからです」。

確かに、先の戦争の最中、日本のキリスト教会は「必ずしも戦争に反対してこなかった」という「歴史の現実」があります(注2)。しかし、それは、「事実だとしても、それはキリストが戦争に反対しなかったこととは違います」。私たちは歴史に従うのではなく、歴史に学びながら聖書に従うものなのです。
 いかにキリストの教会と言えども、歴史の流れを変えることは容易なことではありません。しかし、それでも、キリストの御言葉を,平和の福音として宣べ伝えることは教会に託された使命なのです。

 わたしは、この平和祈祷会に先立つ8月6日に東京恩寵教会で行われた「思想とキリスト教研究会」主催の講演会に出席する機会を得ました。牧師で大学の先生でもあられる黒川知文氏が「戦争の時代における無教会運動―塚本虎二・金沢常雄・矢内原忠雄・石原兵衛―」と題して、講演をされました。この講演のテーマ(問題提起)は「アジア・太平洋戦争の中で無教会運動はどのように対応したのか」というもので、そのために講師は、戦時中に出された無教会(注3)伝道者の信仰雑誌(1931-1945)を同時代史料として調べ、B4・12頁から成る資料にまとめてくださいました。
 無教会の伝道者は、戦時下、どのように平和の福音を説き、また実践したのか。私ども、今日の時代に生きるキリスト者としても、興味ある主題です。例えば、矢内原忠雄は、1937年7月の盧溝橋事件によって始まった日中戦争の最中、東京帝国大学で植民政策等を教えていましたが、『中央公論』に発表した「国家の理想」が政治当局によって問題とされ、退職を余儀なくされます(いわゆる「矢内原事件」)。退職した矢内原は、敗戦までの8年間職を失いましたが、信仰雑誌『嘉信』を発行して福音を説き、土曜学校を開いて、聖書と学問を教え、戦時中もキリスト教伝道者として活動しました。
 矢内原は、戦争が開始されるまでは、「絶対的非戦論」を展開しましたが、1941年に太平洋戦争が起きた後は、反戦の旗を振るよりも、むしろ、十字架の旗をもって「戦う者双方のあいだ」に立ち、キリストによる平和を説き教えることに専心したようです。黒川教授は、矢内原忠雄の生き方から学ぶべきこととして、第一に、平和時においては、徹底して戦争に反対すること、そして、第二に、戦争が起きた場合には、さらに積極的に福音宣教に従事すること、を上げておられます(注4)ここに、教会として「歴史に学ぶ」道があるのかも知れません。
 いずれにせよ、私たちは、神が、へりくだる徴税人”と“神の国の子供たち”にお与えくださった大いなる平和を喜び噛みしめ、「時がよくても悪くても、御言葉を宣べ伝える」(Ⅱテモテ4:1,2)ことに励みたい。

(注1)「徴税人(ちょうぜいにん)」:当時、ユダヤは、ローマ帝国の支配下にありましたが、そのローマ政府から税金の取り立てを委託されたのが「徴税人」でした。割り当てられた額以上に取り立てて私腹を肥やす場合も多く、ユダヤ人から憎まれ、彼らは、教会や社会で、「罪人(つみびと)」と呼ばれ、蔑まれていましたが、イエスは彼らをも神の国の住民として受け入れられました。

(注2) 現に、私たちの教会は、「創立30周年記念宣言」(1976年)の序文において、「戦時下に私たち日本の教会は、…聖戦の名のもとに遂行された戦争の不当性とりわけ隣人諸国とその兄弟教会への不当な侵害に警告する見張りの勤めを果たし得ず、かえって戦争に協力する罪を犯しました」と告白しています(『宣言集』26頁)。 

(注3)「無教会」…内村鑑三(1861-1930)によって創始され、日本の教会に大きな影響を与えた、聖書主義・福音主義のグループ。西欧のキリスト教が教会の制度面(職制、礼典、組織等)を重んじる余り、教会に固有の霊性が阻害されることを批判、日本の土壌に合った「無教会主義」を主張した。内村以後、藤井武、塚本虎二、矢内原忠雄、南原繁、政池仁、関根正雄、高橋三郎等によって受け継がれた。

(注4) 黒川知文「矢内原忠雄と戦争」(『幸いな人』2018年8月号、pp.10-11)による。



【8月の活動報告】


8月5日(日) 佐々木弘幸引退牧師ご夫妻来訪。大学で森林学専攻後牧師となられた自然愛好派。「ICS軽井沢文庫だより」第12号掲載の拙訳詩「木」(F・W・タミンガ作)を介して意気投合、楽しい語らいの3時間であった。 
8月6日(月) 思想とキリスト教研究会、於・東京恩寵教会。講師:黒川知文教授(中央学院大学教養学部)「戦争の時代における無教会運動―塚本虎二・金沢常雄・矢内原忠雄・石原兵衛―」。猛暑、汗だくだく。
8月12日(日) 長野佐久教会(佐久会堂)にて説教奉仕(ヘブライ11:17~19)。鵜殿博喜兄(元明治学院大学長)・慶子姉ご出席。慶子姉が難病治療中にもかかわらず、お元気で主の恵みの証をしてくださったので、一同大感激。
8月15日(水)  8・15 平和祈祷会。於・日本同盟基督教団東御キリスト教会。牧野信成牧師説教(「神の国の子供たち」ルカ18:9-17)。
樋口兄
新潟/新会堂建設現場
8月19日(日) 新潟伝道所にて説教奉仕(ヘブライ11:29-31)。4/29以来の新潟出張奉仕。会堂建設用地も案内して貰った。現在、基礎工事中。新潟では、長谷川はるひ神学生が夏期伝道中であったが、この日は、坂戸教会での奉仕ということで、お会いできなかった。同姉は、以前『キリスト者の世界観』(初版)を読んで、大いに益を受けたということで、今回、新版も注文してくださった。この本の愛読者は世代を超えている。
8月21日(火) ロゴス会(キリスト教世界観のための親交会)代表、山川暁兄が来訪。会誌は発行しているものの、集まることが少なくなっている現状を憂い、会の活性化のためにいろいろ話し合った。有意義な語らいの時。
なお、長野佐久伝道所の祈祷会(佐久:水曜朝、長野:木曜夜)では、牧野牧師の解説(説教)により、「ウォルタース『キリスト者の世界観』を学んできたが、「あとがき」部分(pp.177-211、物語と宣教を媒介する世界観)を残すのみとなっている。同師によるレジメ希望者は、宮崎まで。牧野先生の後任として最近赴任された弓矢健児先生の西神教会でも、祈祷会で同書を学ばれるとのこと、10冊注文をいただいた。感謝。

【ウエストミンスター大教理問答の研究】

 石丸新先生の「ウエストミンスター大教理問答におけるサタン」の打ち込み作業をほぼ終え、掲載の予定を立てていましたが、パソコンの不具合が生じ、残念ながら、見合わさざるを得なくなりました。今少しお待ちください。

【レスポンス/コメント、感謝!】

 前号は,創刊2周年ということで、励ましのお手紙やお葉書をいただき、「役立ててください」と,切手同封のものもあり、嬉しく励まされました。ありがとうございました。追々紹介もさせていただきます。


「ICS軽井沢文庫だより」の印刷のために「ICS軽井沢文庫」を開き、ラベル「ICS軽井沢文庫だより」第18号を選択します。次にパソコン右上のオプション設定のマーク(縦3つ)をクリック、印刷を選択する。左欄のオプションを両面印刷にし、詳細設定の中の倍率を150背景のグラフィックもオンにしてください。印刷ボタンを押すと OKです。同様に、他のすべてのラベルも、選択して、印刷することができます。


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2018年8月31日金曜日

2018年「8・15平和祈祷会説教」

2018年 8・15 平和祈祷会説教 

「神の国の子どもたち」

牧野信成牧師(長野佐久教会)


ルカによる福音書18章9~17節
神の国の子どもたち

 今、私たちが直面している破れ口は、旧約聖書のモーセや預言者エゼキエルが立たされたイスラエル社会の破れ目と少しも変わらないものではないかと思われます。法があっても尊ばれず、貧しい者が見捨てられ、力ある者が富と権力をほしいままにして、社会が破滅に向かう状況です。神に召された僕たちはその破れ口に立ち、人々の立ち返りを求めて神の裁きを告げて、神と人との間を執り成そうとしました。
 私たちの時代を広く覆っている一つの価値観は「新自由主義」と呼ばれます。そこでは努力した者だけが報われるべきだとし、競争を肯定的に捉えて、個人の能力による公平で自由な評価を基準に分配を行います。人間観もそこでは市場原理に侵食されます。つまり、役に立たない人間には価値がないわけです。文系科目は価値のないものとされて、学校でも会社でもいかに役に立つ人間になるかが目標になる。
 そういうところで、一昨年、相模原市で障害者施設でのテロ事件が起こったのは実に象徴的です。これが単に一人の狂人による偶然の出来事として捨て置けないのは、犯人を英雄視する声がネットやツイッターに寄せられたことです。自分にもそういう思いが僅かながらあるのに気づいた、という一般の反応もありました。役に立たない者は抹殺すべきであるとの信念に基づいてこれを実行したのは、第二次大戦中のナチス・ドイツによる「T4計画」でした。新自由主義による伝統や共同体の解体は全体主義に近づく、と論じる方がありますが、それが今、私たちの時代にもたらされた「破れ口」ではないかと思わされます。聖書の教えに照らして言うならば、私たちは「この世の栄光」を目指す世界に今閉じ込められようとしています。そうして神の言葉を締め出すことで、罪の裁きを招こうとしている。
イエスのたとえ
 主イエスは、「自分は正しい人間だと自惚れて、他人を見下している人々に対して」語ります。格差のあるところで教えておられます。「格差」の問題は単に収入にばらつきがあることではなくて、まさにここで描かれるような心の問題ではないかと思われます。一人は豊かで潤っている。一人は貧しくて生活に苦しんでいる。一人は誇りをもって社会に立場を得ている。一人は誇りも持てずに人前に出ることも憚られる。ここに格差があって、驕りと卑屈と差別とを生じさせています。
 譬えに登場するのはファリサイ派と徴税人です。この両者の間を隔てているのは経済的な差ではなくて、宗教的なそれです。ファリサイ派には自分が正統的な信仰の継承者だとの自負があります。加えて、その伝統に則って自分は正しくふるまっているとの誇りと自覚があります。具体的には「自分は奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではない」こと、つまり十戒をもれなく守っているということ、さらに、「週に二度断食し、全収入の十分の一をささげている」という積極的な礼拝の実践が伴っています。あなたの信仰は立派だと、あなたこそ価値のある人だと、皆が認めてくれます。
 他方は徴税人です。皆がそうだと認めていた罪人です。「奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者」たちの仲間です。まともに礼拝に出ることもできず、皆からいなくなってくれた方がありがたいと思われているような価値のない人間です。そこで、ファリサイ派の立派な人は、彼を見て、自分と比べて、こう祈っています。「自分はこのような者たちでないことを感謝します」。これが「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人」の例だとイエスは言います。
 「ヘイト・スピーチ」が未だに燻っています。目に見える場所で事が起こっていなくても、在特会の前会長である櫻井誠氏が東京都知事選挙に立候補すれば10万票を超える票を得たりします。「ヘイト」の特徴は、偏見や誤った知識に基づく正義感をその感情の根にもっていることです。まさにそれは「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」の実例です。若者がこういう運動の中心にいると考えるのは誤りで、中には若い人もいるとは思いますが、多くは40代以上の立派な社会人だと言われます。古い生活規範などは失われつつある今日ですから、この人たちの「正しさ」が一体どこに基盤を持つのか不思議ですけれども、おそらく会社で言われた事はちゃんとやっている。世の中で人から後ろ指をさされるようなことはしていない、というような「感覚」なのでしょう。本当に自己が確立していて豊かな人生を送っている人は、他人を見下したりはしないはずです。けれども、その正しさを確保するためにしのぎを削るような生活をしている人は、上司や親や友人からかつて責められて傷ついた劣等感が常に疼いて、隣人に対する厳しい言葉を抑えきれないのでしょう。譬えが描く「ファリサイ派」の姿勢は、ローマの支配の下で傷ついた民族意識をかかえて伝統遵守に汲汲としていたユダヤ人の様子を戯画的に暴露したものです。戦後、アメリカの支配から片時も逃れる事が出来ずに歪んだ自尊心を育んできた日本人と相通じるものがあるように思います。
 このイエスの譬えは、人間による人間の評価ではなく、神がどのような評価を人間に与えるかを教えています。この譬えの驚きは、徴税人がファリサイ派に勝るとして、社会通念を転覆させたところにあります。ファリサイ派に対する「当てつけ」ですけれども、そこにこそ人が気づかなければならない事があるわけです。徴税人は、もちろん常日頃の振る舞いが評価されたわけではありません。彼は自他共に認める通りの罪人です。けれども、彼は正しく自分を知っています。自分のありのままを見つめて、自分は救い難い罪人だということに心を痛めています。この徴税人のへりくだる様子が丁寧に描かれているのは、それを私たちがじっくりとなぞるようにして心に留めるために違いありません。彼は「遠くに立って、目を天にあげようともせず、胸を打ちながら」こう言いました。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」。自分が救い難い罪人であると知っているとは、こういうことだと描いて見せています。「僕は罪人、あなたも罪人、人間は皆罪人」という罪についての表面的な知識ではないわけです。そこには自分が罪人であることの恥と痛みと恐れが息づいていて、それでも神に向かわざるを得ないから、「憐れんでください」との最小限の言葉が絞り出されます。
 ここから、人の死も生も司っておられる真の神に対して、真実なささげものをしているのはどちらか、ということが明らかです。譬えが描くのは、一方ではファリサイ派のささげものの偽りです。彼が気にしているのは神ではなく他人の目です。そして、自分を見つめる自分の目をも欺いています。彼は生きておられる神を知りません。彼はこの世の栄光の中に自分の居場所を定めています。方や徴税人は、ひたすら神に赦しを乞います。そうするしか生きて行くすべがないからです。そして、真実なささげものをしているのはこの徴税人の方です。なぜなら、彼はありのままの自分を知って、神に心を明け渡しているからです。心の伴わない形ばかりの知識や礼拝は神に向かうどころか、そこで対面しておられる神を愚弄しています。
 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。(14節)。
神が人に求めているのは真実に悔い改める心です。だから、むしろ「罪人」であることを知っている徴税人が神に評価されて、価値ある人間だと言われます。
  だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
子どもたちの国
 神を見失った世界が押し付けてくる虚しい価値観に対抗して、キリストがおられる神の国の価値観を私たちは聖書から学びます。罪人こそが神に報いていただけるとはどういうことか。罪人だから憐れんでもらえる、ということです。神は人間が罪に汚れているのをご覧になって憐れんでおられる、ということです。そこで、自分は大丈夫だ、正しく生きているんだ、と勝手に自覚している立派な人には、その憐れみが届きません。神に憐れんでもらう必要なんかない、と思っているからです。私も何度も知人からそう言われた経験があります。「憐れむ」なんて勘弁してくれ、と。日本語のニュアンスがいけないのかも知れませんね。「愛する」の方がよく伝わるかも知れません。けれども、「罪」のことを考えるときに、やはり「憐れむ」でないと正確ではありません。神は私たちが罪によって滅びてしまうのを忍びなく思って、私たちの罪を赦して受け入れ、新しい命に生かしてくださるお方です。
 その事を明らかにするために、先の譬えには一つの小さなエピソードが続きます。イエスのもとに親たちが幼子たちを連れてきた。ちょっとでも良いからイエスに触れて欲しい。素朴で健気な信仰です。ローマ法王がやってくるとどの町もそんな風景になりますが。もちろん法王はキリストではありませんけれども。そういう親たちの素朴で健気な信仰をイエスは決して退けませんでした。そして、ここにも立派な大人が介入してきます。今度はイエスの弟子たちです。「赤ん坊はうるさいからあっちへ行きなさい」とでも言ったのでしょう。イエスの説教を聞く資格など子どもたちにはない、との誤った見積もりがそこにあります。あるいは大人の驕りです。けれどもイエスははっきりこう仰いました。
 子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。(16、17節)
神の国は子どもたちのものである。子どものように、まっすぐ神の国を受け入れなければ、人はそこに入ることができない。「徴税人」と「子ども」では種類が違うように思われるかも知れません。けれども、どちらも世の中では価値がなかったり、未熟だったり、と見做される小さな人であることには変わりがありません。子どもは案外エゴイストですけれども、イエスに触っていただくことを特別に嫌がる理由ももちません。親に連れてこられるがまま、イエスを通して神に祝福されるがままです。うぬぼれるでもなく、他人を見下すでもなく、神に受け入れていただくままに、自分を明け渡す人が、神の国の住人です。
 教会に集う私たちは、そうやって受け入れていただいたはずです。キリストが私の立派さに目を留めて、真の神に引きあわせてくださったのではありません。神は自由に、御子キリストのもとに人を集めて教会をお建てになります。ここに集う人は皆が徴税人であり幼子です。ですから、教会にはいろいろな人生経験をして来た人が集います。教会は直接的に神の国ではありませんが、終末の神の国へ至る道筋がここに備えられています。教会にはおかしな人ばかりが集まる、との愚痴を何度か聞いたことがあります。そこには、もっと立派な人が加わって教会を立派に建て上げたいという人の思いも見受けられます。けれども、そこには大きな罠があります。もしも教会が立派な人ばかりの集まりでしたら、かつてはそのように側から見られていたようですけれども、それはキリストの教会では無くなっているかも知れません。フリーメーソンのような結社であったり、会員制のクラブであったりして、何にせよそれはこの世の栄光を求める場所です。教会はそうではなくて、神に憐れんでいただいた人が、この世に対する神の国の証としてここに集められているわけです。人の目からすると価値のない命の集いになってしまうかも知れません。しかし、神の目からしてそこには尊い命だけが集まっています。そういう証をキリスト教会は世に対してなすために存在する、とも言えましょう。
平和の基である教会
 どんな平和を私たちは願うでしょうか。戦争が無いこと-それは確かに喫緊の課題です。今、日本は戦争をしようと準備しているからです。国際情勢がそれを要請している、と言いますが、簡単に乗るわけには行きません。情報統制が進んでいて報道では実情が分かりづらくなっています。ナショナリズムの復興は政治から見れば都合のいい道具立に過ぎません。憲法を改正して戦争のできる国にしたい人々の理由は、国際情勢を利用して収益を上げる仕組みの中へ積極的に参与したいだけのことです。日本も世界も、イエス・キリストを信じて政治を行っているわけではありません。ですから、教会がいくら信仰に基づいて発言してもそれが具体的な影響を及ぼす見込みはありません。政治はいつも現実的な方向へ流れていきます。けれども、神が御言葉を通して私たちに新しい命をくださったことが真実であり、キリストが世の終わりまで歴史を導いて行かれることが本当であるならば、私たちは「現実的」という言葉に惑わされないで、キリストが実現する平和のために働くより他はありません。歴史家たちが、キリスト教会は必ずしも戦争に反対してこなかった、と書物に記します。それは事実だとしても、それはキリストが戦争に反対しなかったこととは違います。すでに軍隊が力をもってしまっている国々にあって、現実的なこととして戦争を論じざるを得なかった。そして、教会も戦争に加担してきた。だから、我々もそうするということにはなりません。なぜなら、私たちは歴史に従うのではなく、歴史に学びながら聖書に従うからです。聖書から語りかける、生けるキリストに従うのが教会だからです。
 戦争に向かう時代の流れの中では、弱者の切り捨てが顕著になります。役に立たない者は戦場に送り込め。戦争の役にも立たない者は処分してしまえ、と人々が皮膚感覚で感じるようになる前に、私たちにはまだできることがあるのではないでしょうか。個人の自由を最大限に拡大すれば人間の生活はより豊かになり発展する、と信じた新自由主義の時代は、自分の価値を自分で謳歌する人々の競技場へと世界を変えました。キリスト教会もまたその波に飲まれて、心砕かれた人の祈りの家から、スピリチャルな市場へと変わってしまう危険があります。けれども、私たちは時代を越えて、神の恵みに生かされているキリストの体です。神がキリストの十字架と復活によって打ち立てた、平和の証と礎がここにあります。私たちは内に対しても外に対しても、また、個人においても教会にあっても、神の国の子どもたちとして、平和の使者であることへと召されています。命の価値は神がキリストにあって定めておられます。障害があっても、辛い過去があっても、今逃れられないしがらみがあって自分で自分を評価できなくても、神の憐れみはそうした皆を神の国に受け入れてくれます。そこで生きる真実の命があります。世界のキリスト教会が祈りを合わせ、力を合わせて平和に向かうならば、主がそれを成し遂げてくださることを信じたいと願います。また、教会は破れ口に立って執り成す務めをもいただいています。世の終わりには裁きが待っていることは知らされています。けれども、私たちは神の怒りが解かれるように心を合わせて祈ります。政治においても、社会においても、教育においても、芸術文化においても、あらゆる分野で私たちはキリストの平和を求めます。けれども、何より私たちに求められているのは執り成しの祈りでしょう。悔い改める人の心を聖霊が導いてくださるように。この日本でも福音の力がもっと輝きを増してゆくように、各々の献身の思いに合わせて共に祈りましょう。
祈り
御子キリストの十字架と復活によって、世界と和解してくださった天の父なる御神、人間があなたの主権を顧みずに自由を謳歌して、どこまでも思い上がった結果、この世界は弱い者が軽んじられるばかりか、人間の命に価値があることさえ忘れつつあります。私たちはただ、徴税人のようにあなたの憐れみにすがります。幼子のように神の国を受け入れ、主の祝福に与ります。どうか、私たちだけでなく、私たちを通して、人が生きる希望であるキリストの福音を伝えさせてください。そして、主にある罪の赦しをさらに実現させてください。人々の心にある平和への願いをあなたが支えてくださって、人の命が尊ばれる社会を、世界に、また日本にもつくることができるよう導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

2018年8月25日土曜日

ウェストミンスター大教理問答研究(石丸新)

ウェストミンスター大教理問答におけるサタン

石丸 新

 私が初めてサタンに出会ったのは、物心ついて聖書カルタを手にしたときだった。取り札に描かれたサタンは全身が骸骨で、眼だけが異様に大きく、鎌と刀を手にして、敵を足で踏みにじっていた。地面に血が流れていた。幼い私にとっては、この取り札自体がサタンそのものだった。読み札は記憶に無い。サタンの実在を信じたのはそのときだった。今も変わることがない。サタンに人格のあることを強調して、「ミスター・サタン」と
呼んだ人がある。ある人は言ったー「サタンには手も足もある」。

●大教理問答での用例は次のとおり。
  21 サタンの誘惑による始祖の違反
  27 人類の悲惨の様相
  48 キリストの謙卑のさま
 121 安息日を毀(こぼ)たんとするたくらみ
 191(x2)主の祈りの第二祷
   195(x3)主の祈りの第六祷

●小教理問答での用例は1回のみ:102 主の祈りの第二祷

●信仰告白での用例は7回:1:1、5:6、6:1、17:3、20:1、21:1、25:5、

1.大教理21
 答 私たちの始祖は、自分自身の意志の自由に任されていたところ、サタンの誘惑によ
   、禁じられていた木の実を食べて神の戒めに違反しました。そのことによって
   彼らは、創造された時の無罪状態から堕落しました。(宮﨑訳)
 証拠聖句のうち、Ⅱコリント11:3が告げるところに注目したい。「エバが蛇の悪だくみで欺かれたように・・・・。」サタンは巧妙な手口を駆使して神に背かせる。人を神から引き離す力をサタンは行使する。
 創世記3章の堕落物語には「力」の語こそ用いられないが、蛇に宿るサタンの力は際限なく強い。

2.大教理27
 答 堕落は、人類に神との交わりの喪失、および神の不興と呪いをもたらしました。
   そのため、私たちは生まれながらにして怒りの子、サタンの奴隷であり、この世に
   おいても、来たるべき世においても、あらゆる刑罰を受けて当然の者です。(宮崎訳)
 下線部の証拠聖句Ⅱテモテ2:26は極めて絵画的である。新共同訳では「こうして彼らは
悪魔に生け捕りにされてその意のままになっていても、・・・・。」
 下線部の原文 eis to ekeinou thelema の eis は、悪魔の意志のただ中へと丸め込まれているさまを描き出す。この意をくんで、岩隈は「その意志に屈服させられている」と訳した。  
 アダムにおいて堕落した私たちは、神の目からすれば怒りの子であり、実態はと言え ばサタンの奴隷である。サタンの意志に屈服させられ、サタンに隷属している存在であ
る。
 パウロはⅠテモテ3:7で「悪魔の罠」と言っている。同6:9では「誘惑、罠」とも。
 隷属は、家来となって主君の支配力の下に身を置くさまを言う。サタンへの隷属は
サタンのとりことされ、その力の下でがんじがらめにされているさまを指す。

 クリスマスの讃美歌《もろびとこぞりて》の2節は、現行112番では〈悪魔のひと
やをうちくだきて、捕虜(とりこ)をはなつと主はきませり〉であるが、讃美歌21
の261番では〈悪魔の力をうちくだきて〉となった。
 ハイデルベルク信仰問答問1の答に次のとおり言われる。「この方[イエス・キリスト]は御自分の尊い血をもってわたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました。」(吉田訳)
 登家訳では「・・・・まったく悪魔の権力のもとにあったわたしを解放してください ました。」

3.大教理48
 本問の答では、サタンの誘惑と戦うことにおいてキリストが自らを低くされたことが
言われている。戦いの相手は他にも挙げられている。
 48問の趣旨は、46問で明白に述べられていた。キリストがご自分の栄光を空しくし、
自らにしもべのかたちをとられたことの目に見えるさまの一つがサタンの誘惑との戦い
であった。

4.大教理 121
 第四の戒めの冒頭に「心に留めよ」との言葉がおかれているのはなぜか、と本問は
問う。
 答を大別すれば、①安息日を覚えることは大きな益だから。
 ②私たちが安息日をすぐに忘れがちだから。
 ②に三つの細目がある。その第三は「サタンがその手下どもを用いて、安息日の栄光、
そしてその記憶をすら消し去って,不信仰と不敬虔が全面的に支配する世の中にしようと
大いに骨折っているからです。」(宮﨑訳)
 下線部は、原文では Satan with his instruments much labour である。主語が三人称
単数で現在のことを言うのに、なぜ labours としないのか、ネイティブでない身には分からない。ここは、Ward の現代英語版では、Satan with his agents seeks by all means
となっている。

 ここでの instruments を「手先」とする訳本もあるが、鈴木訳の「さまざまな手練
手管」には、思わず目を見張った。人をだましたり操ったりする腕前のこと。なお、
much labour も、鈴木訳では「躍起になる」で、翻訳の極意を垣間見る思いがした。
 サタンは狡猾で、あらゆる手を用いる。先ずは人を迷わせ、その隙をついて自分の言う
ことを信じさせる。そうして神から引き離そうとする。常に虎視眈々とうかがっている。
複数形の agents は、ありとあらゆる手段、やり口を言い表している。証拠聖句の
ネヘミヤ13:15-23は、安息の戒めをおろそかにさせようとするサタンの手口が、あらゆる
商品の売買に及んでいるさまを描き出しているーー穀物、ぶどう酒、ぶどうの実、いちじく、食品、魚。
 サタンは安息日遵守をおろそかにさせるという蟻の穴を手始めとして、信仰者の週日、
そして全生涯を破滅に陥れようとして、日夜働いている。今、この時もうごめいている。
サタンは細部に宿る。

5.大教理 191
 (1)主の祈りの第二の祈願をささげるにあたり認めることとして、「自分自身、さら
  には全人類が生まれながら罪とサタンの支配下にあること」が挙げられている
  (宮﨑訳)。
   原文の under the dominion of を「支配下」と訳した。罪が力を振るい、サタン
  が力を総動員する、そのような状況下に全人類は置かれている。ここでの支配下は、
  罪とサタンの権力下にほかならない。

 (2)第二祷で祈るべきことの冒頭に置かれるのが、「罪とサタンの支配が打ち滅ぼさ
  れ」である(宮﨑訳)。原文では、the Kingdom of sin and Satan may be
      destroyedであるので、「罪とサタンの王国」とする訳本もある。

 (3)第二祷で祈るべきことの最後に置かれるのが、「キリストが全世界において御力
  の支配を行き届かせることを喜んでしてくださるように、とのこと」である(宮﨑
  訳)。原文では、that he would be pleased so to exercise the kingdom of his
      power in all the world である。
   古語 kingdom は王位、王権の意で用いられるので、ここを「王権」とする訳も
  ある(松谷訳)。一方、一般の辞書でも説明されているとおり、kingdom は神
  [キリスト]の霊的支配を意味する。私は、「支配」に傾く。 改革派委員会訳では支
  配、鈴木訳では支配力。
   罪とサタンとが実効支配している現実にキリストが主権をもって斬り込んで、ご自
  身の力の支配を世界の隅々にまで打ち立ててくださる。その意味で、「支配力」の
  訳語は意を伝えている。
   直ぐに頭に浮かぶのがパウロの言明であるー「御父は、わたしたちを闇の力か
  から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました」(コロサイ
  1:13)。下線部を保坂は「御子の王国的支配の下へと」と訳した。ここでは、
  「○○から」と「△△への」の対比が著しい。絵画的でもある。
   罪とサタンは常に変わることなく、聖なる神への抵抗勢力である。
   告白20:1では、キリスト者が、今のこの悪しきと、サタンへの隷属と、
  支配とから救い出されていることが明言されている。この箇所の証拠聖句の一つが
  コロサイ1:13である。

   大教理191と並行する小教理102には、次のトリオが整然と現れる。
    that Satan's kingdom may be destroyed
            that the kingdom of grace may be advanced
            that the kingdom of glory may be hastened
   明治13年(1880)発行『新約全書』馬太(マタイ)伝第六章の「主の祈り」を、
  日本の教会は140年近くの長きにわたって用いてきた。表記に多少の変更が加えられ
  てはきたが。明治13年版では、thy Kingdom に爾国(みくに)の訳語が当てられて
  いた。爾は汝(なんじ)のこと。後に御国(みくに)となる。
   ウエストミンスター小教理問答の日本語訳を一覧すれば、明治9年以来、表記の
  異同はあるものの、ほぼ、サタンの国、恵みの国、栄光の国と訳されてきた。
   これを、サタンの王国、恵の王国、栄光の王国としたのは、1978年の榊原訳が
  最初である。1963年改革派委員会訳大教理191「罪とサタンの王国」に倣ってか。
   1997年の鈴木訳は、サタンの支配、恵みの支配、栄光の国とした。
   2002年松谷訳、2009年春名訳、2015年袴田訳はいずれも、サタンの王国、恵み
  の王国、栄光の王国。
   王国とは、王が自らの権力で支配する国であることから、そこで自明なのは、
  他の原理をくまなく排除する支配力そのものである。

6.大教理195
 (1)主の祈りの第六祷をなすにあたり認めるべきことが三つ挙げられるが、その
       第二点は次のとおりーーー「サタンと世と肉とが,強引に自分の方へと私たちを
   引き寄せて、罠にかけようと身構えていること」(宮﨑訳)。
    サタン・世・肉のトリオに注目したい。告白1:1に早くも姿を現す-「肉の
   腐敗とサタンとこの世の敵意」。
    同じく告白5:6では「肉」の語こそ用いられないものの「自分自身の欲望と
   世の誘惑とサタンの力に引き渡される」。
    同17:3では「サタンとこの世との誘惑や、自らの内に残っている腐敗」。
    上に見るとおり、肉は罪の腐敗面を言い表している。神に対しては背反、自分
   に対しては腐敗。

    大教理191ではサタンの支配力が前面に出ていた。195でも変わることがないが、
   195では、このサタンに肉の欲、肉の腐れが直結されていることを注視しなければ
   ならない。世も同様に,自分の欲の欲するままに行動する姿を映し出している。心に
   入り込んでいる欲望が問題なのだ。証拠聖句のルカ21:34とマルコ4:19の
   告げるとおりである。

    サタンと世と肉とが、強引に自分の方へと私たちを引き寄せようと身構えてい
   る。下線部の動詞 drawが大教理155に用いられているのに気付いた。神の御霊が、
   御言葉の朗読、特に御言葉の説教を有効な手段としてお用いになる目的の一つと
   して挙げられているのが、「罪人を自分自身から引き離してキリストへと引き寄せ
   る」ことである。エチオピアの高官の例を証拠聖句として挙げるとおり、罪人で
   ある自分は、先ずは自分本位の勝手気ままな聖書の読み方、また聖書解釈をしよう
   とする、そのような自分から解放されなければならない。その解放は御霊の業に
   ほかならない。それが、罪人を「自分自身から引き離し」との句で明らかにされて
   いる。下線部の動詞はdrive。
    原文では、driving them out of themselvesと
         drawing them unto Christ の対比が著しい。
    「罪人を自分自身から引き離し」を「罪人を自分自身からひき剥がし」とすれ
   ば、実感がこもる。

    サタンは常に、世と肉とを仲間に引き込み、手を組んで巧妙に動き回る。

   (2)主の祈りの第六祷で祈るべきことの前段に、「神が…、肉を従わせ、
     サタンを抑制し」とある。(1)のサタン・世・肉が(2)では肉・サタン
     となった。
     「肉」は神に背いて堕落した人間の罪の姿、特に汚れを言い表す。罪に
     汚れた人間の腐敗そのものが肉である。サタンはこの肉を狙って攻撃を
     仕掛けてくる。よって、神が肉を従わせてくださるように、と祈り求める。
      証拠聖句の詩編119:133「どのような悪もわたしを支配しませんように」
     を唱えて、神の聖なる支配を願い求める。
      次いで、神がサタンを抑制してくださるように、と祈る。サタンは肉と
     世とを家来にして働くが、それはすべて神の許しの範囲内でのことである。
     したがって、神がサタンの活動を抑制して、サタンの目的のすべてを達成
     させないでください、と祈るのである。
      神が肉を従わせ、サタンを抑制してくださるようにとの祈りの直前に
     置かれるのが、神が世界とその中にあるすべてのものを支配してくださるよう
     にとの祈りである。直後に置かれるのは、万事を統御してくださるようにとの
     祈りである。神の主権を告白する祈りといえる。

      神の全能の働きに信頼を傾けてなす祈りは、神が備えてくださっている恵み
     の手段を目を覚まして用いることに直結されている。大教理154問では恵み
     の外的手段は何かが示された。195問のこの箇所では,この手段を最大限の
     注意を払って自覚的に用いることが求められている.牧会的な勧めといえる。
    
    (3)主の祈りの第六祷で祈るべきことの後段に、「サタンが私たちの足の下に
      踏みにじられ」が挙げられる。この後段は終末の完成を確かに見通しての
      祈りである。
      (2)では「サタンを抑制し」と言われたが、(3)では「サタンが踏みに
      じられ」となった。終末における決定的壊滅を指してのことである。
      証拠聖句ローマ16:30「……神は間もなく、サタンをあなたがたの足の
      下で打ち砕かれるでしょう。」
      下線部は諸訳での「速やかに」に傾く.遅れることなくの意。

       大教理89問に目を配れば、審判の日に、悪しき者は「……地獄に投げ
      入れられ、悪魔とその使いたちと共に、体と魂の両面にわたり、言い尽くす
      ことのできない苦悶をもって、永遠に罰せられます。」この箇所の証拠聖句
      Ⅱテサロニケ1:8,9に見える「神を認めない者や、わたしたちの主イエス
      の福音に聞き従わない者」が、本問での「悪しき者」の定義だと思う。
       終わりの日に,悪しき者は悪魔と共に,永遠に罰せられる。
      悪魔の決定的な敗北は、義人すなわち聖徒たちの不動の勝利と対比されて
                  いる。

       大教理195答「サタンが踏みにじられ」の別の証拠聖句ゼカリヤ3:2に
      注目したい。「主の御使いはサタンに言った。『サタンよ、主はおまえを
      責められる。……』」なお続く3:3は「また、御使いはヨシュアに言った。
      『わたしはお前の罪を取り去った。晴れ着を着せて貰いなさい。』」
      何たる対比であろうか。

       悪魔/サタンの客観的実在と人格性とを信じる者にして初めて,霊の戦い
      に勝利することができる。この勝利は活けるキリストの力による。

     【付】ウエストミンスター信条での悪魔
       ウエストミンスター信条で devil が用いられるのは、3例のみ。
      いずれの例でも「悪魔」と訳される。
      ●大教理89 審判の日に悪魔は永遠に罰せられる。上記6.(3)で触れた
       とおり。
      ●大教理105 第一戒で禁じられていることの一つとして「すべて悪魔と
       同盟したり、相談したり、その提言に耳を貸したりすること」が挙げられ
       る。(宮﨑訳)「耳を貸したり」の証拠聖句 使徒5:3では、「サタン
       に心を奪われ」。
      ●大教理192 主の祈りの第三祷にあたり認めるべきことの一つに挙げられ
       るのが「肉の欲すること,悪魔の意図することを行う方向性に完全に
       染まっている者であること」(宮﨑訳)である。
        悪魔の意図することは、すなわち私たちを神から引き剥がし,完全に
       引き離して自分の支配下に引きずり込もうとするたくらみにほかならない
       い。
        ここでも、「肉の欲すること」と「悪魔の意図すること」が単なる
       並列の域を超えて,合体していることに注目したい。
        大教理195では、サタンと世と肉の一体を見た。同じ195で、肉と
       サタンが一息で言われていることを目にした。
        192と195を併せて読めば、サタンと悪魔が瓦換可能であることが
       見えてくる。ちなみに、告白1:1で諸訳が「肉の腐敗とサタンとこの世
       の敵意」とするところを、改革派委員会訳は「肉の腐敗と悪魔や世の
       敵意」と言い表している。「悪魔」とする訳本は他にもある。

        1954年版『讃美歌』を一覧すれば、驚くことに「サタン」の用例
       は無かった。頻出するのは「悪魔」「あくま」である。
         27, 112, 150, 158, 198, 255, 267, 281, 382, 387, 397,
                           408, 528
                        日曜学校で歌ったものに「わたしはちいさいひ」がある。
        (1965年初版『ふくいん子どもさんびか』86番)その3節は、
          あくまがふいても ひかりましょう
          あくまがふいても ひかりましょう
          ひかれ ひかれ ひかれ
        日本の教会は、新約聖書で一貫して用いられている「悪魔」を、
       讃美歌でももっぱら使ったようだ。もっとも、明治21年の
       『新撰讃美歌』では、全274曲中、70, 79, 133の3曲に「サタン」の
       用例が見られる。



       

       
             




   

   

   
   





  

  



2018年7月30日月曜日

「ICS軽井沢文庫だより」第17号

『ICS軽井沢文庫だより』創刊2周年

宮﨑彌男

 

近くで咲いたあじさい
先日(7月8日)、長野佐久教会(佐久会堂)で、説教奉仕を依頼され、「信仰によるアブラハムの生涯」と題して、新約聖書のヘブライ人への手紙11:8~12からお話をしました。その時に教えられたことなのですが、アブラハムは75才の時に,「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて,私が示す地に行きなさい」という神の(召しの)声を聞き、「主の御言葉に従って」カナンの地へと「行き先も知らずに出て行きました」(創世記12:1~4、ヘブライ人への手紙11:8)。これが信仰によるアブラハムの生涯の出発点となりました。75才の時です。このことを知ったとき、私は、「えっ!」と叫びそうになりました。私も、2年前の6月14日、75才の時に「ICS軽井沢文庫だより」第1号を出し、当日付で「ICS軽井沢文庫」をオープンさせたからです。このことにつきましては、ぜひこのブログのラベル欄「ICS軽井沢文庫だより」第一号をクリックして、ごらん下さい。そこに、この文庫の開設に到る経緯と、この文庫の趣旨等が記されています。
ICS軽井沢文庫
「信仰者の父」と呼ばれるアブラハムと、一介の小さなキリストの僕にしか過ぎない私とを比べるのは、おこがましいことかも知れませんが、私も、2年前、75才の時に、「行き先も知らずに」信仰によって文庫を始めたことは確かなのです。ハレルヤ!
 この第1号で私は、「この『たより』はこれからも、当面月1回を目処に出したいと願っています」と記しています。2年ばかり経った今、17号まで出すことができたのですから、まあまあの実績ではないでしょうか。皆様方の祈りとご協力のおかげと感謝しています。
 しかし、そうは言うものの、今年に入ってからは、1/22(14号)、3/9(15号)、5/24(16号)、8/1(17号)の4号のみで、ほぼ2か月に1度のペースになってしまっています。「文庫だより」にしては、いささか高度な?内容にこだわり過ぎたのかも知れません。そこで、今後は、初めに戻って、「『文庫』に関する情報のみならず、私や家内の身辺の出来事なども適宜報告させていただきますので、気軽にお読み下さい」(第1号)。神学的/哲学的エッセイ風のもの、翻訳、書評等を含めることを願っていますが、報告だけでも、月初めには、ブログ更新を行うようにしたいと思っています。
 それで、ちょっとしたルール作りなのですが、
 ①原則として、メールによる更新通知は行わず、毎月1日付けで更新します。
 ②お申し込み下さった方には、“メール会員”登録をし、メールによる更新通知をするか、(メールアドレスのない方には)「文庫だより」を毎月郵送します。
 ③私の一存で、メールによる更新通知を差し上げることがありますが、その場合は、“メール会員”登録はしません。(但し、不要の場合はお知らせ下さい)。
 ④郵送料等のため、有志による献金を受け付けます。
 以上。
 このような形で、文庫活動が一歩前進することを願っています。Soli Deo Gloria!

「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源ととなるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、わなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る』。アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった」(創世記12:1~4)。

【6~7月の活動報告】


マタイ6:29-30
6月6日(水) 信州神学研究会、於・ICS軽井沢文庫・会議室。出席者:長田秀夫、牧野信成、中山仰、宮﨑彌男。昼食後、宮﨑が「共通恩恵の実践的意義」と題して、発題。
6月10日(日) 長野佐久教会(佐久会堂)にて説教奉仕(ヘブライ11:4~7)。
6月12日(火)~13日(水)  日本キリスト改革派教会大会役員修養会に部分出席。於・豊橋市・ホテルシーパレス。会場で『キリスト者の世界観』を販売。30冊完売。
6月17日(日) 山梨栄光教会にて説教奉仕(ヘブライ11:1~4)。
7月8日(日) 長野佐久教会(佐久会堂)にて説教奉仕(ヘブライ11:8~12)。
7月16日(月・祝) 日本カルヴィニスト協会年次総会/講演会にて講演奉仕。「ウォルタース『キリスト者の世界観』(増補改訂版)の魅力」。於・神戸市・神港教会。『キリスト者の世界観』(総計)33冊を販売。以下に、当日の講演レジメ(改訂版)を掲載します。



講演レジメ】「ウォルタース『キリスト者の世界観』の魅力」
(2018年7月16日、日本カルヴィニスト協会)
                            
本書の三つのキーワード(基本テーマ)を解説することを通して、この本の魅力を伝えたい。更に,今回の「増補改訂版」において、ウォルタース&ゴヒーンの共著として付け加えられた「あとがき」によって、世界観と伝道の関係を探りたい。

Ⅰ創造の回復としてのあがない。
・本書の構成との関連で。一般の読者には、4章「あがない」から読むことを勧めている。しかし、この本の真の価値は、創造論から説き起こし、創造の回復として救い(あがない)を語っている点にある。「救い、あるいは贖いを創造論的に理解している」(『カルヴァンとカルヴィニズム』p.111)。
・「恩寵は自然を廃棄せず、完成する」(トマス)→「恩寵は自然を回復する」(H.バフィンク)。これこそが改革主義的思想の真骨頂。Cf. G.スパイクマン『改革主義神学―教義学のための新しいパラダイム』「プロレゴメナ(最初に言われるべきこと)は創造と共に与えられた神の世界に向けての“原初の言葉”に根ざすものでなければならない。…このような神の創造の定め(creation order)についての聖書の教えを土台とするのでなければ,改革派神学はその根元から崩れてしまう」(p.40)。それほどに、改革派神学/哲学において創造論は重要だとの主張。
・ウォルタースは、この“創造の回復としての救い”を終末論的にも展開し、今の時代の文化的業績/遺産をも視野におく積極的な終末論を志向する(『キリスト者の世界観』pp.79-81Cf. RCJ「終末の希望についての信仰の宣言」四の())。この点は、本日のメインテーマ「現代と終末論」との関わりにおいても重要と思われる。

Ⅱ構造性と方向性 
・構造性と方向性は、カルヴァンの言う二つの秩序(「創造の秩序」と「罪とあがないの秩序」)に対応している。
・構造性(structure)とは、…「すべての事物の創造に基づく恒常的な構成、あるいは、あるものを本当にそのものたらしめる本性」で、「創造の法、すなわち、多種多様な被造物の性質を成り立たせる神の創造の定めに根ざすものである」(p.95)
・方向性(direction)とは…「神に従うか、神に逆らうか,の二つの傾向性」であって、「一方では、堕落による被造世界のゆがみやひずみ、他方では、キリストにある被造物のあがないと回復を指している」(同頁)
・ウォルタースは、第五章「構造性と方向性をわきまえる」において、改革、社会的更新、攻撃性、霊の賜物、性、ダンス等、今日のキリスト者が直面する具体的な問題を取り上げ、構造性と方向性の両面から考えることによって、聖書的・世界観的に健全な取り組みが可能になることを例証している。例えば、攻撃性(aggression)は、構造的には、「神の創造による人間性の一部」であって、「良いディスカッション、健全な競り合いやゲーム、積極的なリーダーシップの発揮、恋人の追求、さらには、愛の交わりにおいてすら攻撃性の要素は本来的に必要なものだ」が、方向性において、「憎しみを伴う攻撃性は、創造者によって与えられた良い賜物の歪曲」となる、とのクリスチャン心理学者(H.ヴァン・ベルレ)の所説を紹介している」(pp.155-156)。

Ⅲ聖俗二元論の克服
・聖俗二元論…聖書における「世」=「まだあがなわれていない生の全体のことであって、それはキリストの外にあって,罪に支配されている」(リダボス)。Cf.ヤコブ4:4。多くのキリスト者が、「世」を被造世界のある限定された領域のみを指すものと理解してきた。すなわち、通常「世俗的」「セキュラー」と呼ばれる領域―芸術、政治、学問(但し,神学は除く)、ジャーナリズム、スポーツ、ビジネス等の分野。これに対して「聖」なる領域…基本的には、教会と、個人的な信仰生活、「聖神学」より成る領域(p.103)
・ウォルタースは、キリスト者の陥りやすい聖俗二元論を、古代教会のグノーシス主義と同根の「非常に大きな間違い」と述べている(同頁)。
・図A-Cpp.125-126私たちが生かされている世界を領域的に図示。
B…聖俗二元論的な世界観。聖と俗を上下の縦方向に区別する。聖…上から教会、聖神学etc.。その下に分岐線が入る。線の下が俗…世界、社会、哲学etc.
C…改革主義的キリスト者の世界観。横方向に聖と俗を位置づける。間に亀裂のギザギザ線。左側のすべてが主のもの。主の世界。ここにおいても、先導的機能(leading function)と基礎的機能(foundational function)の順位的区別はある。上にあるものを求めると同時に、地にあるものへの責任(down-to-earth responsibility)も求められる。

Ⅳ世界観と伝道
・世界観の役割…「福音の力を今日における教会の生活に媒介する働き」。自動車のギア装置(エンジンの回転力→ギア→車を動かす)、あるいは、水道管(水源地→水道→各家庭の生活用水)のようなもの(p.209)。
・聖書物語(福音)→世界観→伝道…「教会が宣教の使命を果たすために、福音についての思索が必要なことは常に自覚されてきました。福音に対して忠実であることは,単に聖書の言葉を繰り返し唱えることに尽きるものではありません…このように、現代という時代の要請に応えるために、創造・堕落・あがないの基本的カテゴリにおいて福音を考えることは、教会の恒常的な使命に属することなのです」(pp.208-209

結語


  私たちは,聖書と伝道(教会形成)を媒介するものとして、信条とカテキズムの重要性を認識してきた。このことに変わりはないが、今後は,これに加え、現代という時代の要請に応えるために,“世界観教育”(ワールドビュウ・カテキズム) が必要である。本書の注意深い学びは、間違いなくそのための第一歩となり、聖霊の主権的なお働きと相俟って、今日の教会に霊的更新をもたらす。

※なお、東京キリスト教学園理事長、廣瀬薫氏による本書の書評が『本のひろば』2018年8月号に掲載されました。好意的かつ適切な書評を公にしてくださり、感謝しています。ぜひご参照ください。



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