「“小さい秋”にも神の恵み」
宮﨑彌男
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紅葉の秋、落ち葉つもる秋、そして、干し柿。秋にも色々あるのですね。今年の発見です。それも、同じ秋の風情が、軽井沢だけではない、信州だけではない、海を越えた米国でも…。
先日、かれこれ、60年も前に在学した米国のカレッジからグリーティング・カードが舞い込みました。それには、こう書いてありました。「次から次へと落葉し、寒さも日増しに加わる中、心からの挨拶をおくります」と。
この間の日曜午後、私たちの教会では、一ヶ月後のクリスマスに備えて、会堂内外の大掃除をしました。部屋の掃除やガラスふきに始まって、会堂外の落ち葉掻きまで。落ち葉は、風が強くて、掻いても掻いても、舞い上がるので、こんなことでは、明日の朝には、また元通りになってしまうね、などと言い交わしながらの作業でした。でも、「クリスマスの準備をする心が大切なのではないか…」と言い聞かせながら、どんどんと落ち葉を袋に詰め込むうちに、教会の庭は、結構きれいになっていました。
12月2日~24日は、教会暦では、アドベント(待降節)です。クリスマスに向けて準備をする季節です。アドベントとは、ラテン語で、「来臨」を意味します。クリスマスの準備をしながら、同時に、キリストの二度目の来臨(「再臨」と言います)に備える祈りと修練の時なのです。
母校からのグリーティング・カードに促されて、「ちいさい秋みつけた♪」を、スマホで検索し、YouTubeで、視聴してみました。この歌は、サトウハチロー作詞、中田喜直作曲の日本の童謡なのですが、関心を引かれたのは、ドイツのテルツ少年合唱隊の、美しい日本語による合唱でした。24件のコメントが寄せられていましたが、その中の一つ:「日本の秋の物悲しさを、ひとつひとつ言葉を大切にしながら歌ってくれていて嬉しい。改めていい歌だなと思えます。とても素敵でした!心に染み渡る」。他にも、「感動で涙が出ました」等、寄せられていました。
確かに、童謡としては、よく聞いてみると、ちょっともの悲しいところのある歌ですね。でも、それは、間違いなく、秋という季節の深みから来る「物悲しさ」でもあるのでしょう。秋には、紅葉の季節が過ぎると、やがて、暗く、厳しい冬がやってくるという「物悲しさ」がつきものです。秋になると、「ちいさい秋みつけた♪」を歌いたくなるのは、そのためでしょう。そして、この“小さい秋”は、ドイツも米国も日本も、文化を越えて、私たちの感じる「秋の物悲しさ」なのかも知れません。
しかし、私たちは、「地の続く限り、種蒔きも刈り入れも、寒さも暑さも、夏も冬も、昼も夜も、やむことはない」と仰せになった「ノア契約」(創世記8:22、「ICS軽井沢文庫だより」19号参照) を思い起こすとき、“小さい秋”にも、神の恵みの落ち着いた輝きを見ることができるのではないでしょうか。なぜなら、秋の終わりと共に、アドベント(待降節)が始まるからです。待降節の御言葉は告げます。
先日、かれこれ、60年も前に在学した米国のカレッジからグリーティング・カードが舞い込みました。それには、こう書いてありました。「次から次へと落葉し、寒さも日増しに加わる中、心からの挨拶をおくります」と。
この間の日曜午後、私たちの教会では、一ヶ月後のクリスマスに備えて、会堂内外の大掃除をしました。部屋の掃除やガラスふきに始まって、会堂外の落ち葉掻きまで。落ち葉は、風が強くて、掻いても掻いても、舞い上がるので、こんなことでは、明日の朝には、また元通りになってしまうね、などと言い交わしながらの作業でした。でも、「クリスマスの準備をする心が大切なのではないか…」と言い聞かせながら、どんどんと落ち葉を袋に詰め込むうちに、教会の庭は、結構きれいになっていました。
12月2日~24日は、教会暦では、アドベント(待降節)です。クリスマスに向けて準備をする季節です。アドベントとは、ラテン語で、「来臨」を意味します。クリスマスの準備をしながら、同時に、キリストの二度目の来臨(「再臨」と言います)に備える祈りと修練の時なのです。
母校からのグリーティング・カードに促されて、「ちいさい秋みつけた♪」を、スマホで検索し、YouTubeで、視聴してみました。この歌は、サトウハチロー作詞、中田喜直作曲の日本の童謡なのですが、関心を引かれたのは、ドイツのテルツ少年合唱隊の、美しい日本語による合唱でした。24件のコメントが寄せられていましたが、その中の一つ:「日本の秋の物悲しさを、ひとつひとつ言葉を大切にしながら歌ってくれていて嬉しい。改めていい歌だなと思えます。とても素敵でした!心に染み渡る」。他にも、「感動で涙が出ました」等、寄せられていました。
確かに、童謡としては、よく聞いてみると、ちょっともの悲しいところのある歌ですね。でも、それは、間違いなく、秋という季節の深みから来る「物悲しさ」でもあるのでしょう。秋には、紅葉の季節が過ぎると、やがて、暗く、厳しい冬がやってくるという「物悲しさ」がつきものです。秋になると、「ちいさい秋みつけた♪」を歌いたくなるのは、そのためでしょう。そして、この“小さい秋”は、ドイツも米国も日本も、文化を越えて、私たちの感じる「秋の物悲しさ」なのかも知れません。
しかし、私たちは、「地の続く限り、種蒔きも刈り入れも、寒さも暑さも、夏も冬も、昼も夜も、やむことはない」と仰せになった「ノア契約」(創世記8:22、「ICS軽井沢文庫だより」19号参照) を思い起こすとき、“小さい秋”にも、神の恵みの落ち着いた輝きを見ることができるのではないでしょうか。なぜなら、秋の終わりと共に、アドベント(待降節)が始まるからです。待降節の御言葉は告げます。
「(生まれ出る幼子は)主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである
。これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所から
あけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、
我らの歩みを平和の道に導く」 (ルカによる福音書1:78,79)。
【バルソロミュー & ゴヒーン著
『ドラマとして読む聖書物語』について】
今年の4月に教文館より出版しましたウォルタース著(拙訳)『キリスト者の世界観―創造の回復』(増補改訂版)は、売れ行きもよく、各方面で用いていただいています。現在、私の手元に、まだ40冊ばかり、在庫がありますので、ご希望の方は、ご一報ください)。この本の「増補改訂版への序文」(P. 8)に、著者ウォルタースが、「この改訂版は、クレイグ・G・バルソロミュー&マイケル・W・ゴヒーン著『ドラマとしての聖書―聖書物語における私たちの役割』(The Drama of Scripture:Finding Our Place in the Biblical Story [Grand Rapids:Baker, 2004])と併せて読んでくださると良いでしょう」と言っています。『キリスト者の世界観』の言わば、姉妹編(companion volume)として読むと良い、と推奨しておられる本です。以前に、原著を取り寄せて読んだとき、1,2の方と手分けして翻訳を考えたこともあったのですが、その後、頓挫していたのです。今回、読み直してみると、実に良い本で、今の日本の教会にとって必要な書物であると思うようになりました。それで、先ずは、毎月のこの「ICS軽井沢文庫だより」で、部分的に翻訳、紹介しながら、どういう形で出版ができるのか、考えて行きたいと思っています。
今回は、終わりの方に出てくる(第5幕「王の福音を広めるー教会の宣教使命ー」の締めくくりの部分)「希望に生きる」を以下に訳出、掲載します。アドベントの季節にふさわしいと思ったからです。
「希望に生きる」―前にあるものに向かって全身を―
聖書によって私たちは、「すべての者がひざをかがめ、…すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえる」日が来ることを知らされています(フィリピ2:10-11)。私たちは、また、被造世界の全体が回復する日が来ることも知らされています。それで、私たちは、希望を持ってその日を待ち望むのです。私たちの人生を福音の土台の上に深く据え、今日の時代においても、自分たちの置かれている場所で神のご支配を証しようと努めるのです。私たちは、前にあるものに向かって全身を伸ばすのです(3:13-14)。希望はなくてならないものです。それは、今日における私たちの宣教的使命を形成すべき信仰の生命的部分です。「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る」(Ⅰコリント13:13)とパウロは言っています。信仰とは、イエス・キリストによって成し遂げられた救いを、自分自身のものとする手段です。愛は、その信仰を外に向かって表現します。愛は、信仰共同体の生命そのものです。そして、希望は、神の国が将来必ず実現する、との確かな期待です。それは、将来への揺るぐことのない確信であって、今の生活に意味と形を与えるものです。私たちは、このことを日常生活の多くのことにおいても知ることができます。例えば、将来医師になりたいとの希望を持って大学に入ったならば、その希望は、あなたの生き方を決めることとなります。コースの選択だけではなく、学びに必要な時間と努力(とお金)を決定づけることともなります。このように、将来に対する希望の故に、あなたの生き方の全体が新しい形を帯び、新しい焦点を持つようになるのです。
神の御国の現れについてのキリスト者の究極の希望についても、スケールははるかに大きいのですが、同じことが言えます。レスリー・ニュービギンの言葉で言えば、「歴史的に意味のある行動は、将来の目標について何らかのヴィジョンがある時にのみ可能なのです」(『多元社会における福音』114頁)。歴史はどこに向かっているのか、についてあなたと私がどう信じているのか、それが今日の私たちの生活に特別な意義と形を与えるのです。もし私たちが、来たるべき神の国がどのようなものか、今の世に証しすべく召されているのであれば、そのような御国の到来についての希望は、私たちが今ここで言うこと、なすことの一切を決めることとなります。もし私たちが、自分たちの宣教の働きの中で、イエスの伝道生涯に学び、その御言葉といつも前向きのそのお働きによって刺激を受け、前に向かって押し出されるのであれば、同時に、私たちは、やがて来たるべき御国がイエス再臨時に現実となる!大いなる望みへと、前に向かって引かれるのです。
このように考えると、私たちが、特に何を待ち望んでいるのかは非常に重要なことがわかります。にもかかわらず、私たちはしばしば、キリスト者として持っている希望の内容、すなわち、歴史はどこに向かっているのかについて、はっきりとした関心を示そうとしないところがあります。私たちの希望がどのようなものか、について常に注意深く吟味することがないので、その内容が必ずしも聖書的とは言えないものとなってしまうことにもなりかねません。―これは、重大な影響を及ぼします。なぜなら、(これまで見たように)私たちが将来に何を望むかは、今日における私たちの宣教に形を与えるからです。聖書は、歴史の終り、すなわち、宇宙的ドラマの結末についてどう教えているのでしょうか。このような問題について、私たちは、続く最終幕において、見ることにしましょう。(コメント)
「希望の内容」については、「ウェストミンスター大教理問答」90は次のように言っています。問90 審判の日に、義人には何がなされますか。
答 審判の日に、義人は雲に包まれてキリストのもとに引き上げられ、その
右に置かれ、そこで公に受け入れられ、無罪を宣言され、捨てられた御使い
と人間をキリストと共に裁き、天に受け入れられ、そこで彼らは全面的に、
また、とこしえに罪と悲惨そのものから解放されます。そして、考えも及ば
ない喜びに満たされ、無数の聖徒や聖なる天使たちの集まりの中で、しかし、
特に父なる神と私たちの主イエス・キリストと聖霊とをいついつまでも直接
に見て、満ち足りて喜ぶことにおいて、体と魂の両面で、完全にきよく幸せな
者とされます。これこそが、復活と審判の日に、見えない教会の会員が栄光に
おいて享受する、キリストとの完全で満ち足りた交わりです(宮﨑彌男訳)。
この「ウェストミンスター大教理問答」90について、石丸新先生は次のように言っておられます。
「(ウェストミンスター大教理問答)信仰編の最後を飾る問90の答えから、どれほど大きな慰めを受けてきたことでしょうか。最後の審判の日になされることが余すところなく列挙されているばかりでなく、贖いの御業の完成が幾つもの要素をシンクロナイズさせる形で生き生きと描き出されています。最終的には、希望と喜びへと信徒を励ますものとなっています。本問にまさる告白は他になかったし、これからもおそらく無いでしょう」。(「ウェストミンスター大教理問答から受けてきた恵み」『ヴェリタス』2012.5.20、p.2、下線ー宮崎)
【11月の活動報告】
11月11日(日) 長野佐久教会(佐久会堂)にて説教奉仕(ヘブライ11:23~28)。
11月12日(月)「うぐいすの森」に佐々木弘幸牧師ご夫妻を訪ねる。埼玉、山梨で伝道・牧会されたが、事故にあって大けがをされ、今は「うぐいすの森」の山荘「慰留恵」(イルエ「備えあり」、創世記22:14) に住んでおられる。いろいろお話を聞かせていただき、主にある交わりを深めることができた。
11月16日(金) 銀座で、日本聖書協会の島先克臣師と会い、夕食を共にする。「聖書協会共同訳」の仕事を終えられたばかりであったが、救いを創造の回復/完成として、社会・文化的広がりの中で捉える改革主義的な福音理解が N・T ・ライトの著作等を通して福音派の中にも浸透しつつあること等、色々と情報交換することができた。『ドラマとして読む聖書物語』の翻訳出版の可能性についても話し合ったが、同師は、すでに、別途、同種の手引き書を作成中とのこと。いずれにしても、改革主義的な視点に立つ文書の出版/普及のため互いに協力し合いたい。
【連絡先】
11月12日(月)「うぐいすの森」に佐々木弘幸牧師ご夫妻を訪ねる。埼玉、山梨で伝道・牧会されたが、事故にあって大けがをされ、今は「うぐいすの森」の山荘「慰留恵」(イルエ「備えあり」、創世記22:14) に住んでおられる。いろいろお話を聞かせていただき、主にある交わりを深めることができた。
11月16日(金) 銀座で、日本聖書協会の島先克臣師と会い、夕食を共にする。「聖書協会共同訳」の仕事を終えられたばかりであったが、救いを創造の回復/完成として、社会・文化的広がりの中で捉える改革主義的な福音理解が N・T ・ライトの著作等を通して福音派の中にも浸透しつつあること等、色々と情報交換することができた。『ドラマとして読む聖書物語』の翻訳出版の可能性についても話し合ったが、同師は、すでに、別途、同種の手引き書を作成中とのこと。いずれにしても、改革主義的な視点に立つ文書の出版/普及のため互いに協力し合いたい。
11月30日(金) 第3回信州神学研究会、 於・佐久会堂。発題:「ユダヤ教とカルヴィニズム」(牧野信成牧師)。6名出席。大変興味深く重要な発題講演で、ミシュナー、タルムードが読みたくなった。