2019年7月30日火曜日

「ICS軽井沢文庫だより」第24号

 ~巻頭言~  キリスト教政党への道

宮﨑彌男

  

      呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、私たちの神のために、

  荒れ地に広い道を神のために通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低

  くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現

  れるのを、肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。

(イザヤ書40章1~5節)


 参議院議員選挙が終わりました。皆さんは、どの候補者、どの政党に投票されました
7月23日 毎日新聞
か。今回の選挙は,国政選挙であったにも拘わらず、投票率の低さが顕著であったようです。争点がもうひとつもうひとつはっきりしなかったこと、各政党が声高に訴えた割には、これからの日本をこのような方向に導いて行くという、長期展望を示さなかったと言うことがあったようです。
 それでも、私たち、大部分の国民は投票所に行って、投票したのですが、この候補者、この政党に投票すれば、日本は良くなる、と確信して投票したのか、と問われたならば、どう答えたでしょうか。私たちの多くは、「棄権するよりは良い」と思って投票所に行ったのではないでしょうか。
 
 しかし、「キリストを王とする」信仰(ウェストミンスター小教理26,102、同大教理45,191)に生きる私たちキリスト者がいつまでも、このような消極的な投票行為/政治との関わりで満足していて良いのか、自問自答せざるを得ません。
 私は、先日、7月15日(月/休)に神港教会で開催された日本カルビニスト協会の定例会に出席するため、神戸に行きました。「ICS軽井沢文庫だより」第23号を20部ばかり持参し、プラームスマ著『キリストを王とせよ―アブラハム・カイパーとその時代―』の翻訳・連載の予定を告げましたところ、期待する声がことのほか多くありました。アブラハム・カイパーに対する関心の強さを知りました。カイパーがカルビニズムの有神的世界観を教会の中に閉じ込めないで、学術、芸術、政治、労働等の諸分野にまで積極的に広め、深め、20世紀初頭のオランダにおいて、「反革命党」を率いて、首相まで務めた、神学者/活動家であったからです。上掲書翻訳・連載の目的の一つは、私の思いの中では、日本におけるカルヴァン主義的なキリスト教政党の可能性を探ることです。
 この書の翻訳・連載に思い至った経緯については、前号に記しました。それを読まれた,牧野牧師曰く、「あの本は良い本です。われわれも,昔、神戸改革派神学校の「カルヴィニズム」のクラス(市川康則先生担当)で読みました。翻訳する価値のある本です」と。市川先生に確かめたところ、その通りとのことでした。驚き、励まされました。
 以下に,この書の目次を掲げておいます。連載をご期待下さい。

『キリストを王とせよ―アブラハム・カイパーとその時代―』【目次】
  1.19世紀の精神
  2.試行錯誤:時代の神学
  3.オランダの状況
  4.若き日のカイパー
  5.教区教会での回心
  6.平和を乱す者
  7.覚え書き
  8.大いなる企て
  9.教会の改革者
  10. 地の塩―カイパーと社会問題
  11. カイパー教授
  12. 新世界にて
  13.  二つの恩寵
  14. 我らの王なるキリスト
  15. 側線
  16.   仕上げ
  
 L. プラームスマ著

『キリストを王とせよ―アブラハム・カイパーとその時代―』

 宮﨑彌男訳

ー第23号より続くー

第1章 19世紀の精神 

フランス革命への反動として

イ. 王政復古と保守主義
 大革命とその後のナポレオンによる施政は全ヨーロッパを席捲し、従来の制度や習慣や思考を完全に破壊するような結果となっていましたが、しばらくの時が経つと、多くの人々は、ヨーロッパの以前の状態を取り戻したいと思うようになりました。1815年以降の数年間は、復古期で、それは、ロシア皇帝アレクサンドル一世の神聖同盟によって体現されているかのように思われました。また、それは、毫も変わらぬ現状維持を求めたと言われるオーストリアの外相メッテルニヒにおいても受肉されており、ナポレオン失脚後は、「メッテルニヒの時代」とも呼ばれたほどです。
 しかしながら、神聖同盟は、前の時代の絶対主義や貴族的特権への単なる復帰ではありませんでした。それは、宗教的な霊感を受けたものでした。なぜならば、アレクサンドル皇帝は、敬虔主義的な男爵夫人フォン・クリュデネルの深い影響下にあったからです。神聖同盟の基礎と意図についての皇帝の宣言文は、まるで信仰告白のようです。
   オーストリア皇帝、プロイセン国王、並びにロシア皇帝は、これら三国の、
   相互関係における正しい政策が、あがない主なる神の永遠の宗教において教え
   られている至高の真理に基づくものでなければならない、との心からなる確
   信に導かれ、厳かに宣言する。世に対して布告するこの勅令の唯一の目的は
   どこにあるのか。それは、聖なる宗教の規定、正義と愛と平和の命令(これ
   らは、人間の制度を保持し、その組織を正常化する、古くからの手段である
   がゆえに、私的生活においてのみならず、諸侯の決定にも影響を及ぼし、そ
   の活動を導くべきである)にしたがって、彼らが、それぞれの国の政府にお
   いて、また、他のいかなる政府との公的関係においても、行動すべきである
   ということにこそある。
 これに、神聖同盟の三つの原理が続く。次のとおりである。
   三国の王侯は、お互いを、同じ家族の3つの枝、すなわち、オーストリア、プ
   ロイセン、ロシアを治める神の代表と考え、告白する。三侯とその臣民の所
   属するキリスト教的国家は、すべての権能を持つお方以外の何者をも、真の主
   権者として仰ぐことをしない。なぜならば、このお方、すなわち、我らの神、
   あがない主イエス・キリスト、至高の御言葉、いのちの言葉、このお方の内に
   のみ、愛、知識、無限の知恵の宝の一切が見出されるからである(注3)。
 実に崇高な響きを持つ原理の表明です。これを採択した人々の誠実さを疑うことはできないでしょう。しかし、このような原理を、どのように実行に移すことができたのでしょうか。一国のための神の御心はどこで、どのようにして見出すことができたのでしょうか。その国の現実の必要を知り、そのために必要な法律を制定することができたのは王侯たちだけだったのでしょうか。
 革命前の時代の絶対主義に替わるものとして、神聖同盟の諸侯は、paternalism(家父長制)とlegitimism(王統主義)の原理を確立しました。家父長制の意図するところは、最善の場合、王侯が臣民に対して、父親となることでしたが、それは、また、臣民が統治のあり方について発言をする可能性を排除するものでもあったのです。王統主義は、現実の歴史的状況が神の御心によるものであり、それゆえに変更されてはならないことを意味するものでした。
 このような土壌の中で、19世紀の保守主義が根を下ろすこととなります。シャトーブリアンが、重要な記事を書いた、フランスの有力な月刊誌 "Le Conservateur"(保守主義者)は、ブルボン王家を擁護し、自由主義者を攻撃しました。1830年以降、英国のトーリー党は保守党と呼ばれるようになりました。ドイツにおいては、ビスマルクを支持したジェントリーや上流/中流階級の人々の中に保守主義者が目立つ様になっていました。
 19世紀のオランダでは、1880年頃までは、多くのキリスト者は、保守派の政党を支持していました。この党は、キリスト教的な原理よりも、現状維持を旨とする傾向が強く、しばしば、日和見主義に陥る危険性がありました。
 カイパーは、歴史を重んじる見地から、この保守主義に賛意を表したのですが、同時に、そのような雰囲気の中で息つくことができないという理由で、自分とその支持者たちが保守派となることは不可能と宣言しました。それだけではなく、カイパーは、聖なる神の栄誉よりも、政治的な勝利を優先させようとする、保守派の功利主義にも与し得ませんでした。

ロ. 浪漫主義と歴史主義
 浪漫主義は、フランス革命の合理主義的要素への反動であると同時に、その非合理主義的要素の片割れでもある、と言われてきました〈注5〉。いずれにしても、19世紀前半のヨーロッパにおける文学、芸術、哲学、神学における大きな潮流であったことは確かです。理性よりも情緒を、知性よりも直感を、固定化された思惟よりも想像力を強調した潮流でありました。
 1802年にフランスの浪漫主義作家、ド・シャトーブリアンは、"Genie du Christianisme, ou beautes de la religion Chretienne" (「キリスト教の精髄、キリスト教宗教の美しさ」)を出版しましたが、その中で、彼は「私の確信は心から発するものだ。私は泣いた、そして信じた」と書きました。また、この本の中で、彼は、キリスト教信仰がヨーロッパにおける芸術と文明の主要な源泉であることは歴史が証明している、と論じました。このような浪漫主義の霊感の下、多くの歴史的な研究、伝記、思索、小説が世に出ました。そして、このような思潮と歴史主義を隔てる距離はほんのわずかにしか過ぎませんでした。
 今日、歴史主義と言えば、歴史的現象のすべては時間的な関係性の中で起こること、―恒常的な変化、可変性、相対性を意味するものとして考えることができるのかも知れません(注6)。歴史哲学を意味する用語として用いられる場合もあるでしょう(注7)。私はここでは、19世紀前半に、浪漫主義の影響の下、にわかに芽を吹き出した、歴史に対する多大の関心という意味においてのみ、この言葉を用いています。このような歴史に対する関心のよって来る源泉、またその結果として、多くの古典が再出版されたことを挙げることが出来ます。
 カイパーは、浪漫主義、歴史主義の影響を受けました。一方では、厳格で一貫性のある論理を求める論客でしたが、もう一方では、特に晩年において、情緒に駆られて活動を展開する傾向が顕著となり、誹謗する人たちは、何度も彼のことをドラマ主義者だと言って非難したほどです。想像力豊かなカイパーの講演は生き生きとした実例に満ちていました。彼の想像力は、時には、慎重な歴史的判断の境界線を踏み越える結果を生みました※。オランダ王室のオランニェ・ナサウ家に関することになれば、熱い愛国心に駆られることもまれではありませんでした。
 もし、教会の改革と国家を神への奉仕奉仕に導くという召しのために献身しなかったとすれば、カイパーは19世紀最大の歴史家の一人となっていたかも知れません。ポーランドの宗教改革者、ア・ラスコの著作や、ユニウス、およびボエチウスの選集等の出版は、この分野における彼の能力を示すものです。

(注3) E. Gewin,"Juliana von Krudener," in Pietistische Portretten (1922), pp.50-53.
(注4) A. Kuyper, Ons Program (1880 edition), pp.402, 403.
(注5) H. G. Schenk, De geest van de Romantiek (1966, p. 13) を見よ。
(注6) E. Troeltsch, Der Historismus und seine Problem (1922) を見よ。
(注7) M. C. d'Arcy, The Meaning and Matter of History (1959), p. 9 を見よ。

※英国出身のオランダ人神学者、アレクサンダー・コムリーについての小伝は、小説風に書かれたものであるが、カイパーは、所々、自らの想像力に任せて書いている。The Catholic Presbyterian(1882年1,3,4月号)を見よ。A.G.Honig, Alexander Comrie. 1892, pp.19ffも参照。


【6-7月の活動報告】


6月9日 (日)長野佐久教会(長野会堂)にてペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝説教奉仕。(創世記11:1~9、使徒言行録2:1~13)。聖霊のいます所には、一致がある。聖霊は一致の霊であることを説く。

6月15日(土) 6月12日に召天された長田礼子姉(長田秀夫牧師夫人)の葬儀(午後2時、
於長野佐久教会・長野会堂、司式:牧野信成牧師)に出席。同姉は、日本キリスト改革派教会創立者の一人でカルビニズムの熱心な信奉者でもあられた松尾武牧師の長女で、その信仰を受け継ぎ、ご主人の長田牧師を終生支えられた。私どもも、近くに住む者として、親しい交わりをいただいた。三男の喜樹さんに「独り住まいとなったお父さん淋しくなられたね,大丈夫かな」と訊ねたところ、「お母さんは、体が不自由になってから、充分に家事ができないので、親父に家事全般を伝授しておいたので、親父は、それほど困ってないようだ。…さすがは、母さんですよ」と言っておられた。先日、佐久会堂の夕拝に出席された当の秀夫先生も,ご挨拶の中で、「私は何も困っていないし、皆が心配してくださるほどには、淋しい思いもしておりません」と。→やはり、礼子さんの死は、突然のようであったけれども、配慮の行き届いた、完璧に近い召天だったのだ、と納得したことでした。主を讃えよ!ただ、牧野牧師曰く、「それでも、79才で独り住まいの長田先生のために祈りましょう。

6月22日(土) 宮﨑契一牧師と川田あかり姉の婚約式(於・川越バプテスト教会)に、家内と共に出席。ご両親と初めてお会いしたが、お父上の川田道行師も、東京キリスト神学校を出られた牧師である。あかり姉とは、東京基督教大学で知り合ったとのこと。司式をしてくださったのは、日本バプテスト教会連合南桜井教会の丸山光師であったが、ウォルタースの『キリスト者の世界観』も読んでおられ、良い交わりをいただいた。

7月1日(月)“うぐいすの森”の住人、佐々木弘幸先生ご夫妻を、山荘「慰留恵」に再度訪問。先生は,以前,山梨県の南部町で牧会伝道されたことがあるが、この町で、明治の初期に、志ある若者を集め、漢学・英学・数学を教授した近藤喜則の「蒙軒学舎」とそこに招かれたカナダ・メソジストのC.S.イビー宣教師について興味深いお話を伺う。「ICS軽井
沢文庫」も有神的人生観世界観の研究・教育のため、このような学校ができないものか、
と夢を描く。上記、松尾武先生も、1953年に、「双恵学園」を埼玉県浦和市に開校、キリスト教有神的世界観に基ずく一貫教育を目指されたが、10年後の1963年には、残念ながら閉校となった経緯がある。なお、「蒙軒学舎」については、渡邊修孝著『蒙軒学舎物語』(南部中学校発行)、「双恵学園」については、『日本基督改革派教会史―途上にある教会―』pp.168~172を参照。

7月14日(日) 長野佐久教会(長野会堂)にて礼拝説教奉仕。(ヘブライ12:12~17)。

7月15日(月/休) 日本カルヴィニスト協会定例講演会・総会(於・日本キリスト改革派神港教会)に出席。講演は、「カルヴィニズムと芸術」(吉田実先生)先生、「春名純人『キリスト教哲学序論―超越論的理性批判―』刊行の意義」(市川康則先生)、「文楽とキリスト教」(森田美芽先生)の三つであったが、いずれも、内容の濃いものであった。本号・巻頭言も参照。

7月28日(日) 長野佐久教会(佐久会堂)にて礼拝説教奉仕。(ヘブライ12:12~17)。木村庸五長老(湖北台教会)と青年時代からの友人、明石實次さんも出席された。


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【「ICS軽井沢文庫」】

「ICS軽井沢文庫」は、日本におけるキリスト教有神的世界観人生観の研鑽と普及のために、2016年6月14日に、軽井沢町追分36-23に設置された文庫です。“ICSInstitute for Christian Studies)は、この文庫が、日本における (改革主義)キリスト教学術研修所(大学院)の設置を目指していることを告白するものです。文庫設置の経緯については、「ICS軽井沢文庫だより」第1号(2016.6.14)をごらん下さい(ラベル「ICS軽井沢文庫だより」第1号をクリック)。


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